2009年8月23日日曜日

佐藤清美句集

夢の光
佐藤清美句集『月磨きの少年』を読む

                       ・・・高山れおな


誰にも好きな季語、嫌いな季語があるのは当然だが、好き嫌い以前にそのような季語が存在すること自体に疑問を覚える場合もある。筆者には原爆忌がその最たるもので、いかなる意味でもこの言葉を風雅の文脈に回収することはできまい。それでもまだ、原爆忌そのものを詠むのであればやむをえないとしても、単なる取り合わせの季語にして済ませているに至っては、ほとんどその作者の正体の程を見届けた気分になる。同様の批判をしている例は管見に入っただけでも二、三にとどまらないから、これは別に筆者ひとりの偏見ではないはずで、現に原爆忌の句など詠まない人は詠まないのである。それらの俳句作者たちは、原爆忌という言葉に季語の機能が欠けているから句にしないわけではあるまい。機能の点ではこの言葉はむしろ雪月花にも匹敵する、強力なコノテーションの磁力を帯びていると言うべきで(つまりわりあい佳句が得やすいということだ)、なればこそその使用に慎重になるのは当たり前の節度だと思う。ところで、佐藤清美の第二句集『月磨きの少年』(*1)には、

降るは光八月六日九日と

の句があってとても感心した。何にと言えば、その距離感に、である。上五を字余りにし、と止めで余韻をもって終わる韻律ひとつとっても、原爆忌を平然と取り合わせの季語扱いする類の鈍感さとは無縁の濃やかさ繊細さを感じさせるが、なまなかな作品化が不遜であるような対象を、しかも詠まずにはいられない作者の慄きがそこにはあるだろう。あきらかに原爆を主題にしていながら、それがそのまま晩夏初秋の太陽の光を詠んだものとも受け取れる両義的な表現になっているのは、他者の悲劇との安易な一体化を避けるためであり、これはもちろん冷淡さゆえではなくて、尊重のゆえなのに違いない。そしてまた、公的歴史的な事件を、私的に受け止めようとする態度、個人の思いを個人の思いのうちにとどまらせようとする抑制をも、そこに見て取ってよいのかもしれない。いずれにせよこの場合、距離を見失わないことが思いの深さなのである。ところで、この句は「時をこぼれ落ちるもの」と題された十三句からなる章の冒頭に置かれており、二句目には、

空耳であるかな祖父の風車

三句目には、

詠むは光遠い東の茶房にて

が続いている。一句目の公的な過去はここではっきりと血族の私的な過去へと受け渡され、心理的経験的な距離は、広島・長崎に対する「遠い東」(作者は群馬の在)という物理的な距離へと置き換えられている。そして、「降るは光」が「詠むは光」に変じることで、自句の中に座を占めていた作者はそこから静かに身をひいてゆくらしい。

この句集は、発行日が八月十五日になっている。わざわざこの日付を選んでいるところにも佐藤の意識のありようはうかがえるが、実際は戦争に直接絡む句は幾らもあるわけではない。むしろ巻末に付せられた林桂による解説に、

佐藤清美の俳句世界を形作る基本語が、光、月、星、虹、海、風、匂い、夢、水、闇、夜などであることは、一読すぐに判る。

と指摘されている通りである。しかし、逆に言えば、あえて八月十五日を句集刊行日とするような意識と、どうかすると星菫派的に見えかねないこれらの語彙の偏愛との間を繋ぐファクターにこの作者を読み解く鍵があるのではないか、という漠たる予感もする。そんな思いつきを念頭にこれらの“基本語”を見直す時、筆者が最も気になったのは「夢」という言葉の頻出ぶりであった。なにしろ三百五十句が収められているうち、じつに一割近く、三十二句にこの単語が現われるのである。

海に墜ちる虹なら夢の中で見た
夢の中へ白く冷たい花を見に
雪中の夢先案内美術館
人の形に水が見る夢ありにけり
鳴石に夢の源教わりぬ
長安的電飾夢で明滅す
げんげ摘み死は夢を見る形して
夢は時に植物園に棲んでいる
れんげ編む夢に帰ってくる人に
海へ海へ盥の夢に運ばれる
夏過ぎる夢の別れの明るくて

集中の夢の句のおよそ三分の一を引いた。ごく普通に人が眠っている際に見る夢もあれば、水や鳴石、盥など、人間以外の存在が見る(?)夢もある。また夢そのものが、まるで生き物のように実体化しているケースもあるし、世界観の比喩としての夢もある。おなじく夢と言っても、さまざまな詠み方がなされていることがわかるが、しかしもちろんそこには共通性もあって、それはこれらの夢の語が、うつつを拒むものとして、あるいはうつつ以上のうつつとして呼び出されることで、どこか失意の気配を帯びたひんやりとした否定性を一句に導き入れている点である。評者は三橋鷹女の有名な

みんな夢雪割草が咲いたのね

を思い出さないではなかったが、佐藤には鷹女のようなナルシシズムが稀薄な分、否定性についても一見すると鷹女ほどの加虐的な現われをしていないようである。そのかわり佐藤は、いわば淡々とした執拗さによって、背日性を帯びた夢の布地を織り上げ、句集全体を覆ってしまった。佐藤にそうさせたものが、どこかしらこの世界はほんとうではない、夢にすぎないとする意識だったとして、それが〈降るは光八月六日九日と〉のような作品に通底してゆくのであり、さらにこの句に感じられるつつましく距離を保とうとする節度を導いてもいるのだろう。

さて、この句集は、ⅠとⅡの二部構成を取っていて、Ⅱの方はそれぞれ章題を持つ、五、六句から十数句の連作二十四篇を集積したもの。一方、Ⅱの「旅する光」の章に含まれる、

梯子には月を磨きに行く少年

の句に詠まれた〈月磨きの少年を主人公にし、彼の住む小さな町の四季を創作〉したのがⅠで、従ってⅠは四季別に編まれている。この二部構成自体、独特で面白いが、句集の半ば(句数では三分の一弱だが)の主人公となりおおせた“月磨きの少年”がやはり気になるではないか。林桂は解説で、

月磨きの少年は、暗い内的世界を照らす言葉の少年である。少年が童話的な像を纏って見えるのは、内的な世界を照らす少年性のためである。

と述べているが、「内的な世界」を照らす存在が「少年性」として顕現するところがつまり佐藤の個性なのだろう。句集の中には恋愛を詠んだ句もそれなりにはあるのであるが、総じてそれらの句に現実感が稀薄なのも、佐藤のこの「少年性」の希求と裏腹なものと見えてくる。

夏の風少年一人図書館に  Ⅰ
少年の遥かなものに霧の村  Ⅰ
少年の海どの抜け道でもよくて  
羽化しつつ涯を見ており少年は  Ⅱ
少年期木犀眠りに紛れこむ  
少年の背骨を磨きからっ風  Ⅱ

「羽化しつつ涯を見」るとは、佐藤の自己像、少なくとも無意識に願われた自己像なのであろうが、それがあくまで少年に仮託されているところにナルシシズムからの距離が見切られているとしてよいか。そういえば、佐藤の第一句集『空の海』(*2)を代表する一句に、

何を見たって鳥の瞳は毀れない

があった。羽化する少年の瞳もやはり「何を見たって……毀れない」のだろう。しかし、この「鳥の瞳」がすなわち“作者の瞳”と了解されるのに対して、「羽化しつつ」の句における少年をイコール作者とするわけにはゆかないし、やはりこの三人称化には佐藤の成熟が賭けられてもいるはずだ。そのことは、第一句集から第二句集へと、「童話的な像」への傾きが強まりこそすれ弱まってはいないことと、別に矛盾はしないだろう。最後に好みのままに十句を引く。

人恋えば風は光って見えるのか
鱗雲空には空の漕ぎ手いて
春昼は犬の眠りの中にある
冬空の吸い込むものを数えている
丘を越え磨かれし朝の席に着く
返らずの声待ち千年杉育つ
カインらが空に書き継ぐ国家論
罪ありて翼のなきを種の起源
行く夏や列車の揺れを身に残し
幻想の奈良町界隈定休日

あらかじめの喪失感に深くひたされたこの短調の句集にあって、〈幻想の奈良町界隈定休日〉は珍しい諧謔の句ででもあろうか。「幻想の奈良町」といういささかナマに過ぎる危ういフレーズに対して、「定休日」がみごとな受けになっている。彼女の幻想にも定休日があるのだとしたら、もちろんそれは良いことに違いない。

佐藤清美句集『月磨きの少年』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)佐藤清美句集『月磨きの少年』 風の花冠文庫7 発行所=鬣の会 二〇〇九年八月十五日刊

(*2)佐藤清美句集『空の庭』 邑〈新世代句集叢書〉2 邑書林 一九九八年



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