・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
薫風に人死す忘れらるるため
『山河』所収
筑紫:遷子は、何よりも人の死を詠むことによって高い倫理性と緊張感、若干の社会性を生むことに成功しているようです。個人的には、遷子の自らの闘病も切実ですが、健康な医師である遷子が、病者、死に行く者を見る目の方が興味があります。それは、この「遷子を読む」研究のメンバーにも、死と高齢化は身近な問題となりつつあるからかもしれません。たとえばこの句の前書きに、ある俳人の名を入れるとかなり強烈な連想が働くと思います。申し訳ありませんが、「藤田湘子を悼む」「上田五千石逝く」と前書きをつけて詠むと元の俳句とはまったく違うインパクトが生まれるように思います。それは、遷子が意図した内容とはまったく違う解釈となりますが、どちらが文学的かは分かりません。
なぜこのようなへんなことを言うのかというと、この句の解釈自身がいろいろな可能性を持っているように思うからです。特に「薫風」というとりわけ明るい季語が死と対照になっていることは解釈自身がかなり奔放なものを許しそうに思うのです。
①常識的には、たったいま、元気溌剌とし、世俗的にも十分成功していた人も、突然訪れる死の前では、忘れられる者(平等な存在)となってしまうという若干皮肉な見方もありえます。
②いや、ありとあらゆる人が死んでゆくことを考えると、永遠の自然に対して、人間の営み(たとえば俳句の主宰者)のなんて小さなものかという感慨があるのではないかという見方もあります。
③厳粛に考えれば、人はすべて死ぬために生きているのであり、そうした有限の命を飾るものとして美しい季語の「薫風」もあるのではないか、宮沢賢治が深く信じた妙法蓮華経の世界と見ることも可能です。
私の解釈は、③に近いのですが、それは仏の見る視線というより、開業医の見る視線と考えてみたらどうかと思っています。死者を見る視線は、死者を貫いて自分自身に立ち返ってくるような気がするのです。この連載の冒頭に見た、
冬麗の微塵となりて去らんとす
の去り行くものが、自分と他人で入れ替わっているだけだと見るとき、根源にかかわる深い思想をさまざまに表現する、宗教的(私から見ると仏陀的)世界観が出現しているように思えるのです。
中西:1句前に
桐の花人死す前もその後も
という句があります。同じ人の死を描いているもののようです。この句は桐の花は人の死の前も後も変わりなく、美しく咲いているというものですが、それと同時に遷子の気持ちの変化も然程ないように窺えます。もっと大きな観点で捉えますと、人間の一生は、自然の営みに比べてなんて小さなものかという、磐井さんの薫風の句に対する解釈の②にあたるものかと思います。薫風の句は、この句と「人死す」という言葉がまるきり同じですが、もっと衝撃的なことを述べています。
観念的にも見える句ですが、「人死す」と「忘れらるるため」の間に、「繋がりのあった全ての人」に、また、「わたし(遷子)に」という言葉が隠されていると思われます。「忘れられるのが救い(仏教的な)」とも思える内容です。この「わたし(遷子)に忘れられるため」という、遷子の思いが感じられることで観念から抜けているように思いました。
人の死に心動かず秋風に
という句が同じ年の作品のなかにあり、遷子の死に対するこの期間の心の有様が見られるようです。
同年始めの父の死、また前年の11月の石田波郷の死が深く影を落としていないともかぎりません。喪失感から、死そのものに無感動に陥っているとみるのは穿った見方でしょうか。
ちょっと突き放したような、諦念とも思われるところもある句ですが、季語の「薫風」の優しさがこの厳しい内容を救っているようです。
「死者を貫いて自分自身に立ち返ってくるような気がする」という磐井さんのご指摘にも納得します。
原:難しい句でした。「人」をどう解釈するかが読み手に委ねられていることも一つですが、さらに、死が「忘れらるるため」にあるというのは、遷子の死生観に重なるでしょうがその解釈もまた揺れます。
結論からいえば、作句動機として個人の死があったにせよ、その延長上に自分を含めての人間の死というものがあり、死は忘却イコール無にほかならないけれど、忘れられることが安息でもありえるのだと言ってみたい気がしています。この「無」は虚無というより空無といった方が近い感じがしますが、その「無」を安らかに宥めているのが薫風なのでしょう。
「無」という言葉を出したのは実は歌人上田三四二が念頭にあったせいです。彼は1923年生まれ。短詩型についての深い洞察を示した文章などで俳人にもよく知られていますが、彼も医師でした。41歳で癌を病み、幸い回復しましたが65歳で亡くなっています。生死について考察した文章も多く、その中で死を「無」とする認識に衝撃を受けたことがあります。粗雑な要約で恐縮です。実際は、身体と心・時間性など、もっと膨らんだ内容なのですが。そして「無」の認識を慰撫するように、季節の花の美しさが語られています。
深谷:筑紫さんのご指摘のように、句意明瞭な遷子の作品の中で、様々な解釈ができる掲題句は珍しい部類に入るでしょう。
この句を解釈するとき、「人」が誰か、あるいはどんな対象を指すのかが、読み手によって大きく分かれそうです。筑紫さんのコメントに即して言えば、①は「功成り名を遂げた著名人」、②なら「それぞれの成功を目指した人たち」、③なら「この世に生を享けた、あらゆる人間たち」というところでしょうか。私の解釈は、②と③の中間と言ったところですが、微妙に異なるようです。
私はこの「人」について、遷子が看取った一人の市井の患者を思い浮かべました。懸命に己が人生を生きてきたが、風薫る季節に逝かざるを得なかった患者。あるいは貧しい農民だったかもしれません。その死者へ、遷子が捧げた鎮魂歌であるような気がするのです。
それぞれの死者たちは無名であったかもしれません。いや、貧しい農民や市井の人々であれば、おそらく世俗的な高名さなどは縁のない生涯だった筈ですから、逝去後、世俗的な意味ではすぐに忘れられてしまうということにならざるを得ないでしょう。それでも彼ら、彼女らにはそれぞれの人生があった訳で、彼ら、彼女らが「忘れらるる」のは遷子にとっては看過できない、哀しい事象だった筈です。だから、逆説的に「忘れらるるため」と言い切って、その現実を浮かび上がらせ、死にゆく者達の魂を沈めようとした気がするのです。「薫風」の明るさは、その哀しみを浮かび上がらせる舞台装置の役目を果たしていると思います。
かなり支離滅裂な論旨になりましたが、現時点では、③のような死生観を素直に受け入れられませんでした。確かに、私も結局は③と同様のことを述べているだけではないかという指摘もありうるところだと思います。要すれば、それは私自身がまだ達観には程遠いからであり、いずれ③説を支持するようになるかもしれません。
窪田:少し哲学的なというか宗教的な感じのする句ですね。一読そう思ったのですが、まず、使われていることばに注目しようと考えました。すると、「薫風に」という上五がいかにも美しく置かれていることに気付きます。死を美化して詠んだのではと思いました。
この句は、現実の死を上の句に、その死を目の前にしてふっと湧いた感慨を下の句に据えた破調が生きています。現実の景と感慨の間の空間が、単なる美化から宗教的、哲学的世界へと読者を誘います。人が死を怖れるのは、忘れられてしまうことを怖れるからです。しかし、忘れられることは当然だと達観した時、死は恐怖ではなくある種の宗教的な救いを得るのではないか。遷子は、微塵のように光りながら宇宙の一分子に帰っていくという考えに至り、安らぎのようなものを感じたのではないでしょうか。そう思わせるのは、上五に置かれた「薫風に」の措辞だったのです。遷子は、当時貧しい農民の医療を担い、行政との交渉に悩み、自分の健康問題を抱えながら、人の死と真剣に向き合っていた医者であったのでしょう。
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