広渡敬雄句集『ライカ』を読む
・・・山口優夢
1
ゆく夏の錨のごとき寝覚かな
深い水に投げ込まれ、がっしりと水底の土に噛みついている錨のように、体全体が重くて床から離れられないような寝ざめがある。この、身体の奥底にどんよりと淀んでゆくような憂いは、春や秋のものではないだろう。滅びゆく夏の、ゆっくりとすべてが死に向かって傾斜してゆくようなひとときこそ、このような憂いにふさわしい。
「ゆく夏」は、水のイメージをも思い起こさせる。そのやわらかな語感も、水へ通じる一因だろう。もっと強い原因としては、真夏にはその中で水浴びして肌に感じた水が、秋のおとずれとともに、流れゆくものとしての本質を取り戻す、ということがあるのではないか。涼を求めて得られる、人間に利用される水は、夏の終わりとともに、元々の名もない水の流れに姿を変える。夏の終わりに、誰も泳いでいない海に訪れると、海本来のしずけさや大きさに触れる、そういったことと似ているだろうか。
「ゆく夏」によって生み出された、たゆたう水のイメージが、夢とうつつの間を行き来する寝ざめの様子につながる。やがて夢からうつつへ戻ってきた彼は、肉体というおもしにとらわれざるを得ない自分を、いやでも意識しなければならなくなるのだ。自分の体をひきずりながら生きていかなければならないという、人間の生理的感覚に密着した句だ。
寝ざめの体を錨とするならば、完全に目を覚ました時、我々の体は「意志」という名の船に引きずられ、世界へ向けて出航してゆくのだろうか。からだがあることのさびしさ、それは重い錨を引き上げるときにこそ、ひしひしと身にしみてくる。
2
彼の句には、このような身体感覚に訴えてくるものが多く見受けられる。
菰すこしかをりてゐたり寒牡丹
ががんぼの踏ん張つてゐて震へだす
息吸うて息ととのへて初桜
青葉冷ぶつかりあうて鯉のかほ
これらの句は、身体感覚(それは、必ずしも人間のものとは限らない)を打ち出しつつ、平易な言葉で現象をとらえており、そのぶん、実際に我々が生きている世界とやすやすとつながることのできる強みを持っている。
寒牡丹に鼻を近づけたとき、確かに寒牡丹そのものよりも、それに巻かれている菰の方が鮮やかに匂いを発している。「踏ん張つてゐて震へだす」という措辞からは肉体の緊張感がありありと伝わってくる。「息ととのへ」るときには、確かに吐く息よりも吸う息の方に意識が向くだろう。そして、一句になってみなければ意識もしなかったようなことだが、餌に群れるときなどには確かに「鯉のかほ」はぶつかりあいそうになっている。なめらかに滑るようにぶつかりあう鯉の顔を思い浮かべていると、まるで自分がそうした鯉のうちの一匹になってしまい、ぬめぬめとした鯉の顔の感触を感じているような錯覚を覚えるほどだ。
こうした句群の中でも特に注目したのが、この句だ。
霧走る疾さを頬のとらへけり
山登りの最中なのであろう。少し見晴らしの良い高原あたりに出たとき、流れゆく霧が高原のある部分を覆ってしまい、また違う部分をうすうすとあらわにしているのを見る。その、霧の疎密は、風に流されることでどんどん位置を変えてゆく。
頬に実際感じているのは、湿った空気の中を流れる風であるのに、それを「霧走る疾さ」と言ってみせたことで、まるで自分が高原にたたずんで霧に覆われた景色を目の当たりにし、その霧を体で感じているかのような気分にさせられてしまう。表現の巧妙さがそれだけ際立っているのだ。
3
まるでその場にいるような気分、というのは、何も身体感覚のみによって表出されるわけではない。
ネクタイを肩に撥ねあげ泥鰌鍋
筍飯すこし風出て来たりけり
猪肉やまつかな炭の運ばるる
無花果食ふ少し眼鏡のずれた人
何かを食べている場面が描かれた句をいくつか挙げてみた。これらの句は、たとえば先ほどの霧の句がリアルに霧を頬に感じさせていたのとは違って、食べているものそのものが持っている匂いや味が表出されることでリアルさが浮かび出ている、という類のものではない。もちろん、「泥鰌鍋」を出す店の、ややごみごみしていて匂いのきつい感じや、「猪肉」の持つ、牛・豚・鶏のような普段食べる肉とは違った、身が硬くワイルドな味わいなどは、句の雰囲気を決定づける一つの要因となっていることは間違いないのだが、これらの句でむしろ中心としてリアルに描かれているのは、食べるという動作の行われているときの周りの状況である。
ネクタイを肩に撥ねあげているのは、少し頭の禿げかけた中年の、気のいいおじさんに違いない。すこし風が出てきた、ということは、この人は筍飯を屋外で気持ちよく食べているに違いない。真っ赤な炭が運ばれてくるようなところで猪を食べているということは、どこかひなびた場所で、しかも何人かで連れ立ってそこに旅しに来ているに違いない。少し眼鏡がずれながらも無花果を食べているということは、よほど夢中になってそれにむしゃぶりついているに違いない…。
食べているときの周りの状況のうち特徴的なある一つの事柄を選んで句に仕立て上げているため、どんな様子で食べているのかをかなり具体的に思い描くことができる。おそらく、彼にとって「食べる」という行為は誰かほかの人を呼び込み、一緒に笑ったり話したりする場を共有するということではないか。だからこそ、読者も一緒に泥鰌鍋や筍飯などを味わうことができるように、どんな場面で何を食べているのかを教えてくれる。
別姓の夫婦来てゐる芋煮会
ナース帽ふたつ桜餅みつつ
食事に関係した場面になるほど、句の中にさまざまな人が登場し、句の世界は豊穣になる。彼は、よほど食べることと人間とが好きなのであろう。
4
黒々と鯉が沈めり大試験
薄氷の裂け目に水や形見分
雪渓やフルートをもつ青年と
句集全体の中で数は多くないものの、上に挙げたような思い切った取り合わせの句にも注目してみたいと思う。
これらは、偶然としか言いようのないこの世界の一諸相をはっしと掴んだという手ごたえがある。それは、たとえば同じ句集中にある次の句と比べてみると良く分かる。
笹鳴きや出店に繫ぐガスボンベ
この句も切れ字「や」によって二つの景物がとり合わされた作ではあるが、この句の場合、「笹鳴き」と「出店に繫ぐガスボンベ」の組み合わせは、決して予想外のものではない。だからと言って句会でよくつかわれる評言である「近い」「つき過ぎ」という批判があてはまるわけではない(とり合わせというと「近い」か「遠い」かという尺度でしか語れないというのは、鑑賞の方法論の貧しさを露呈していることになるであろう)。
「笹鳴き」という季語は、「出店に繫ぐガスボンベ」のリアリティーを確保する役割を担っている。確かにそんな場面がありそうだ、と読者に納得させ、その場面に立ちあっているかのような感覚を与える。そういう意味で、前章までで挙げた彼のほかの句に通じるところのある作り方と言えるだろう。
しかし、「黒々と鯉が沈めり」という様子と「大試験」という状況はただちに万人の頭の中で自然なつながりとして認識されるとは、ちょっと思えない。他の二句についても同様である。これらの取り合わせは、「笹鳴き」の句やその他の前掲の句群とは異なる方法論で選ばれた組み合わせのように僕には感じられる。その「異なる方法論」というのは、おそらく、一回性とか偶然性とかいう名を冠するにふさわしいものであるようだ。
黒々と沈む鯉と大試験、薄氷に乗る水と形見分、雪渓とフルートをもつ青年。確かにこれらがそれぞれ一つの情景に収まっている場面を想像しようとすればできないことはないが、それはあまり一般的に思い浮かべやすい状況ではなさそうだ。これら、交錯しそうにないもの同士、自然や動物などのある様相と、人間生活の中のとある一断面が、まるでスロットを回したように偶然重なりあって、そのとき一回きりしかない場面を生む。あるいは、「大試験」や「形見分」や「フルートをもつ青年」は、本当は彼の目の前にはなくて、頭の中にある出来事だったり、人物だったりするのかもしれない。どのような情景を思い描くかは読者にゆだねられているが、とにかく僕が面白いと思ったのは、これらの取り合わせが、どちらかが一方の象徴になっていたり、感覚的に通じあっていたりというようなことがなく、本当に偶然、自然と人間が交差した瞬間に産み落とされたもののように感じるところなのだ。前章までの句は、我々の感じたことや見たことを、句の中の世界で追体験しているようなところが魅力だったが、これら偶然性の句の魅力は、逆に句の中の世界を今後の我々が追体験する可能性があると感じさせるところではないだろうか。
父の日やライカに触れし冷たさも
句集の表題をとったこの句も、おそらくそのような偶然性を前提して読むことができるのではないか。このライカは父のものでもなければ、昔父がそのようなカメラを使っていたという思い出があるわけでもない。ただ、偶然、「父の日」と「ライカ」とが交差しただけなのだ。そのいかにも懐古的なたたずまいのライカの冷たさの中に、父という存在のかなしみが呼び出され、一句として定着しているのだ。
ライカと父との間に必然的な関係性を見出す(つまり、このライカは父の遺品である、といったような)解釈ももちろん出来るであろうが、「父の日」に父に関係したものから父のことを思う、というのでは、少々発想が安直に過ぎるように思う。そうではなくて、父の日に偶然目にとめたものが、なぜか父のことを思わせる、そうした読み方をしたいと思うし、事実、「ライカ」の持つ重厚さは、その読みに十分答えてくれるように思える。
5
寒流になじむ暖流石蕗の花
陸封の水硬からむ晩夏光
雲生まる雪渓よりもまだ淡く
これらの句は、どれも句集の後半からとってきたものだが、前半にはなかった傾向を感じさせる。身体感覚に訴えてくるという点では上記で挙げたものに共通しているのだが、感覚を持つ対象が、どれも大きなものになりつつあるのだ。
寒流と暖流がまじわったというだけなら、東北地方の太平洋側にある潮目のことを詠んでいるだけであり、さして注目もしないところなのだが、「なじむ」という一語に瞠目する。まるで、自分が潮目に入って行って、温度の違う二つの水の流れを肌に感じ取ってきたような物言いだ。二句目の「硬からむ」、三句目の「まだ淡く」も、同様で、実際には感じ取れるはずのない大きさのものをまるで手に触れているかのように一句に仕立て上げている。
これは、彼の詠もうとしている世界が、身近な世界から開放されて大きくなりつつあることの表れととることができよう。食事の場面に見られるような人事の句も素敵だけれども、このような広がりを持った句にまで句境が広がっているとも言えるのではないだろうか。
みづならは綿虫の来る淋しい木
作者は広渡敬雄(1951-)。
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