2009年11月1日日曜日

俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也

俳句九十九折(55)
七曜俳句クロニクル Ⅷ

                       ・・・冨田拓也
10月25日 日曜日

「音響」という言葉が、ふとひらめく。

古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

閑かさや岩にしみ入る蝉の声  〃

我声の吹き飛び聞ゆ野分かな  高浜虚子『五百句』より

星の領海エコーの頭蓋母ははハハ  大原テルカズ『大原テルカズ集』より

疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ  葛原妙子『朱霊』より


10月26日 月曜日

なんとなく宮沢賢治の短歌作品を読んでみたいという気になった。これまでいつか読もうと思いながら、ぼんやりしているうちに気が付けば10年近くもの歳月が経過してしまった。

桃青の
夏草の碑はみな月の
青き反射のなかにねむりき

そら耳かいと爽やかに金鈴の
ひゞきを聞きぬ しぐれする山

あはれ見よ月光うつる山の雪は
若き貴人の死蠟に似ずや

肺病める邪教の家に夏は来ぬ
ガラスの盤に赤き魚居て

ひるもなほ星見るひとの眼にも似る
さびしきつかれ 早春のたび

わが爪に魔が入いりふりそそぎたる、月光むらさきにかゞやき出でぬ

きら星のまたゝきに降る霜のかけら、墓の石石は月光に照り

泣きながら北に馳せ行く塔などの
あるべきそらのけはひならずや

巨なる人のかばねを見んけはひ谷はまくろく刻まれにけり

星もなく
赤き弦月たゞひとり
窓を落ち行くはたゞごとにあらず

ちばしれる
ゆみはりの月
わが窓に
まよなかきたりて口をゆがむる

東には紫磨金色の薬師仏
そらのやまひにあらはれ給ふ

大ぞらは
あはあはふかく波羅蜜の
夕づつたちもやがて出なむ

つぶらなる白き夕日は喪神のかゞみのごとくかゝるなりけり

風は樹を
ゆすりて云ひぬ
「波羅羯諦」
あかきはみだれしけしのひとむら

そら青く
観音は織る
ひかりのあや
ひとには
ちさき
まひるのそねみ


以上は、ちくま文庫『宮沢賢治全集3』から引用した。

ここに引いたのは主に宮沢賢治(1896~1933)のおよそ15歳から19歳前後における作で、およそ100年近く前の作品ということになる。全体的には平凡な作も散見されるところもあるが、ここに取り上げた作品の内容を見ると、まさに「早熟の天才」という以外に形容の仕様がないというべきであろう。

このような異常ともいうべき才質のきらめきは、この後、詩作へと傾注されることになるためか、いくつかの例外的な作を除いて短歌作品の上においては、大正5年(1916)あたりでほとんど消え失せてしまうこととなる。宮沢賢治の才質が短歌作品の上で発揮されたのは、結局のところ、おおよそ明治44年(1911)から大正5年(1916)あたりまでの数年間ということになるようである。

宮沢賢治といえばどちらかというと聖人君子といったイメージが喧伝されているようなところがあるが、こういった短歌を見てみると、実際のところは、やはりなかなかそのように単純な性質の表現者というわけではないというべきであろうか。

これらの短歌作品については、ある種の宿命性を帯びた宮沢賢治という特異な表現者の、まだ主体性の明確でない時期における未分化な鬱勃たる表現意識が混沌と渦を巻いて蟠っている状態とでもいうべき性質のものであるように思われる。ともあれ、この10代の短歌表現の時点において既に賢治は、その表現者としての非凡さを遺憾なく発揮しているのが見て取れよう。

これらの短歌作品には、云うなればそれこそ斎藤茂吉、葛原妙子あたりといった並外れた表現者たちに共通する、やや常軌を逸した得体の知れない言語感覚といったものが濃厚に感じられるところがある。あらゆる表現というものがどこまでも洗練された現在、このようなカオスそのものを深く抱え込む特異な表現者というものは、やはりなかなか出現し難い状況にあるのであろうか。


10月29日 木曜日

先週、『坪内稔典句集』(芸林21世紀文庫 2003年)を取り上げたが、このところ、坪内稔典さんの俳句では、「甘納豆」や「河馬」といったメジャーなシリーズのみならず、裏のシリーズともいうべき「ちりめんじゃこ」の作品も、結構面白いのではないかという気がしている。

夢のあたりへ響くちりめんじゃこの咳

秋風へちりめんじゃこが泳ぎ着く

雪へ雪へちりめんじゃこが立ち泳ぐ

家出するちりめんじゃこも春風も

春うららちりめんじゃこが散り散りに

走り梅雨ちりめんじゃこがはねまわる

東風吹かばちりめんじゃこの別れかな


このように特定の題材に的を絞って、数多く作品内に詠み続けていると、おのずからその作者におけるひとつの特色として認知される結果となる、といったところがあるのかもしれない。似たような例としては、川端茅舎と「露」、橋本鶏二と「鷹」、阿部青鞋と「手」、などが挙げられよう。永田耕衣となると、「葱」、「珈琲」、「泥鰌」、「鯰」、「一休」など非常に多彩である。


10月30日 金曜日

「時間」というキーワードが思い浮かぶ。

時間といえば、突き詰めて考えた場合その正体について明確に捉えることが困難な部分があるが、単純に考えると、当然のことながら、過去、現在、未来といった時の流れということになる。俳句形式の内部においては、時間というものは、現実の世界における流れのみならず、実際の時間の概念の枠内にとらわれない伸縮自在ともいうべき自由な姿を見せる場合も少なからずあるようである。

梅白し昨日や鶴を盗まれし  芭蕉

我むかし踏みつぶしたる蝸牛かな  鬼貫

遅き日のつもりて遠きむかしかな  蕪村

地球一万余回転冬日にこにこ  高浜虚子

また眠りたれば朝焼すでになし  下村槐太『天涯』より

少年や六十年後の春の如し  永田耕衣『蘭位』より

万物は去りゆけどまた青物屋  安井浩司『句篇』より

百年もただのいちにち山椒魚  加藤かけい『山椒魚』より

夏柳旅の初めを終りとす  宮入聖『聖母帖』より

千年とひと春かけて鳥墜ちぬ  攝津幸彦『鹿々集』より

大学も葵祭のきのふけふ  田中裕明『山信』より

桜散るときメビウスの環のひかり  五島高資『海馬』より


10月31日 土曜日

今週は、いまひとつ気が乗らず残念ながら「七曜」というわけにはいかなかった。

来週以降は、再び気を取り直して取り組んでゆきたいところである。


というわけで、また来週にお会いいたしましょう。

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■関連記事

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俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

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俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

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