2010年2月13日土曜日

俳句九十九折(70) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅢ・・・冨田拓也

俳句九十九折(70)
七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅢ

                       ・・・冨田拓也

2月7日 日曜日

以前、自由律俳句の作者である住宅顕信についてすこしふれたが、その時、1987年(昭和62年)に住宅顕信が亡くなってから現在(2010年)に到るまでの約23年もの間、顕信のような自由律俳人の存在が確認できない、といったような内容を記した。

確かに現在に至るまでの23年もの間、住宅顕信のような自由律の作者が現れていない事実というものもなかなかの驚きであったが、それのみならず、よく考えてみると、山頭火(1882~1940)、放哉(1885~1926)の没後、顕信が登場するまでの間、即ちおおよそ40年近くの長い期間にわたって、これといった優れた自由律俳人の存在というものがまったくの不在であったという事実についても、なんというか相当にすごい話であるように思われる。(ただ、自分が知らないだけで、この途中にも優れた自由律俳人の存在といったものが絶無ではない可能性もあるが。)

しかしながら、このように見てみると、現在に至るまで、自由律俳句におけるポピュラリティのある作者といえば、それこそ、種田山頭火、尾崎放哉、住宅顕信のたった3人(!)しか存在していない、といっていいような観さえある。自由律俳句にはなかなか優れた後継者もしくは作者というものが容易には登場しないようである。

やはり自由律俳句というものは、ある一定以上の高い水準を以て成し得るのは、大変難しい側面があるということになるのだろうか。



2月8日 月曜日

昨日、「円虹」の主宰の山田弘子さんが亡くなられたそうである。享年75歳であったとのこと。

意外に思われるかもしれないが、山田弘子さんは、前述の通り俳誌「円虹」の主宰という立場にありながら、自分のような得体の知れない男にも、これまですこしばかり目を配って下さっていたのである。

山田さんとは今から大体5年ほど前、伊丹の柿衛文庫で1度お会いしたのみである。自分の作品の批評会と出版記念の集まりが行われた時のことであった。山田さんは、そこへわざわざ出席して下さったのである。

2次会も終り、駅の構内での別れ際、自分が山田さんに「今日は本当にありがとうございました。」とお礼を述べた時、明るい表情を以て応えて下さったことが忘れられない。そして、それが最後の別れとなった。

俳句を続けていると、自分の力量の問題や、他の人々の様々な俳句に対する見解への疑念や反撥、惑乱などといったものから、どうしても心がやや荒んだ状態となってしまうことが少なくないのだが、この時の山田さんの表情を思い出すと、それは1人で俳句を書き続けてきた自分にとっての数少ない、それこそ軽い「救い」にも似た思い出である、といっていいような気もする。

山田さん、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。


2月9日 火曜日

先週から引き続き『桂信子全句集』(ふらんす堂 2007)を読み継いでいる。

今回は第3句集である『晩春』についてであるが、この句集は昭和30年(1955)の夏から昭和42年(1967)の夏までの440句が収録されている。

はじめの数年間の作については、どちらかというとこれまでの作風の延長線上といった感じの作品が並んでいるのだが、昭和31年(1956)に師の草城が亡くなり、そして昭和33年(1958)あたりとなってくるとすこしづつではあるが破調の句が散見されはじめるようになる。この時期における作風の微妙な変化については、当時関西において隆盛であった「前衛俳句運動」からの影響といったものが、桂信子という作者にもけっして無関係なものではなかった、ということになるのではないかと推察されるところがある。

硝子器売場光攻めあふ中とほる

ヘッドライトの圏内過ぐる蛾の歓喜

硝子運ぶと泳ぐ自転車ぬくき冬

月見団子へ老斑の手が絶えず伸び

弱る視力へさくらを降らすオートバイ


そして、昭和38年(1963)からは「分ち書き」の表記を採用することとなり、他にも新仮名の使用や口語による表現も見られ、その作品内容についても前衛的な傾向が、以前よりさらに顕著に作品の上に見られるようになってくる。

前衛花展の水 入れ替えて寒い老人

喪服で抜ける緑濃き森 風のハイヤー

男の旅 岬の端に佇つために

砂にみじめなくらげで 海鳴りも昏れる

皿割つて日をこなごなにした立冬

この時期の作品のいくつかについては「桂信子の作品」といっても俄かには信じられない思いをするような句というものが少なくない。この第3句集である『晩春』は、まさに桂信子の全句業の中でも相当異色の句集といっていいはずである。無季句の数を数えてみても総計で28句と多い。

桂信子といえば、すぐに連想されるのは「平明な作風」というイメージということになろうが、この句集を読んでみればわかるように、桂信子という作者はけっして一貫して平明な作品のみを書き継いできたというわけではなく、このような実験的ともいえるような試行錯誤の過程を経てきたという事実があるということについては、今回のひとつの発見であった。こういった点は、代表句の抄出や選句集などからは、なかなかわかりづらいところがあるように思われる。



2月10日 水曜日

昨日に引き続き『桂信子全句集』の第4句集『新緑』を読むことにしたい。

この第4句集である『新緑』は、昭和49年(1974)の刊で、昭和42年(1967)の夏から昭和48年(1973)の初秋までの485句が収録されてある。そして、この間の昭和45年(1970)には自身の主宰誌である「草苑」を創刊することになった。

前回の第3句集『晩春』において採用された「分ち書き」の表記は、今回の句集の作品では撤廃されることになり、作品に安定感といったものをある程度取り戻す結果となったが、前句集の『晩春』の作品における実験的、もしくは前衛的な傾向については、今回の句集の作品の上においても相当に色濃く揺曳しているのが確認できる。

少年来て脚ねばりだす水すまし

はばたく蛾の銀粉を紗に微光の町

緑陰に風反転し豹の息

罠もろとも獣がうごく霧の底

山中の霧が緋鯉の緋をあやつる


また、今回の句集には、事物の存在そのものが持つ非常に強い実在感といったものが、読み手の側にまざまざと迫ってくるように感じさせる作品というものが、いくつか見られる。それらは、正直なところ、時としてその現実の形象そのものの在り方というものが、やや過剰なまでに現前に顕れ、迫り出してくるように感じられてしまうような圧迫感さえ伴っているところがある。

石仏に梅雨の山坂うねりあう

まじまじと子が見てひらく水中花

僧消えてのこる晩夏の石畳

絶えず動き枯野にぬくい牛の舌

飯櫃の芯まで乾き寒雀

喪の家に墨磨る手見え実南天

若葉光虫はもとより鋼色

火に仕え母黒豆を黒く煮る

初雪の下にはげしく下水音

樹々密に陽を梳り春疾風

滝おちる身のうちのもの鳴りひびき

また、その一方で、この句集には、先程の実験的な作品とも通底するものであると思われるが、やや現実離れした「虚」の要素ともいうべきものをその内側に多分に抱え込んでいる作品といったものもいくつか確認することができる。それこそ、作品の内から「異界」ともいうべき風景が覗いているようなやや尋常でない雰囲気を宿した作というものの存在が少なくない。

水をみちびく竹林の精春の暮

蔵の戸を開け夏足袋の亡父来る

山荘の門出てすぐに霧女郎

虻つれて水辺をまわる老婆の午後

海わたる魂ひとつ夜の秋

初御空より一本の鞭の影

橙のころがるを待つ青畳

微光曳くもの生きていて冬の霧

風の夜半燠掻き立てて亡夫去る

春眠の底に刃物を逆立てる

花冷えの夜は眼をひらく陶器の魚

人容れて緑陰さわぐひとところ

神の山に悪食みられ夏鴉

切株の耐えられぬとき粉雪よぶ

雛の灯を消して仏間と闇かよう

そして、この句集の中における、もっとも圧巻ともいうべき部分は、句集の終りのあたりにおさめられている母親の死の前後における20句ほどの作品ということになるはずである。その20句ほどの中の作品のいくつかについて、ここに抄出してみたい。

母の魂梅に遊んで夜は還る

母細眼薄明界の野に遊び

梅が香や母の常着は闇に垂れ

白湯たぎるなか幻の蝶の昼

明暗の際とぶ蝶を見失う

花冷えの壺が吸い込む母の息

薄紙につつむ花びら最晩年

花種を蒔いてみつめるただの土

新緑のなかまつすぐな幹ならぶ

雁帰る酒瓶に映る夜の顔

貌映し泉をくらくする午前

先に見たこの句集における特徴を成す「虚」と「実」の双方の要素が、ここでは混在し綯い交ぜとなって展開されていることが見て取れるであろう。

春の夜における「母の魂」という虚の世界、そしてその闇に掛っている「母の常着」という現実の事物。この一連における「蝶」については、当然「母の魂」の喩ということになろう。「花びら」については母の骨を表象しているということになり、「ただの土」もまた亡き母の存在と遠く関連性を持つものであろう。そして、「酒瓶」「泉」にうつる自分の顔というものは、自らの母の顔というものにその血脈を以て繋がっており、そこに運命の不可思議について沈思している作者の姿が浮かんでくる。これらの一連の作からは、まさに「幽明」という言葉がそのまま思い浮かんでくるような印象があろう。

この句集の作品を見ると、第1句集、第2句集における自らと自らの周辺の現実の世界そのものを手掴みで把握し描写するとでもいったどちらかというと直載さを感じさせる作風から、その後の第3句集における実験的な作風による様々な試行錯誤を経、今回の句集に至って、「実」による迫真力のみならず、「虚」ともいうべきフィクショナルな要素をも獲得し、その作品の内側において自在に駆使し得るまでの境地に達することとなったといえるように思われる。

というわけで、この句集の作品というものは、第3句集と同じく従来通りのわかりやすい「平明な作風」といった桂信子像だけでは把握しきれない主観の強さや不分明ともいうべきカオスの要素などといったものをも相当にその内側に抱え込んでいる傾向があるように感じられた。

そしてこの『新緑』は、それゆえに気魄に充ちた多くの作品で占められている句集であるということができそうである。



2月11日 木曜日

大型書店をうろうろ。

俳句のコーナーを見ると、『新撰21』(邑書林)が2冊置いてあった。現在までにこの書店で何度か自分の確認した『新撰21』の冊数の変化というものについてはじめから記すと、その経過は、3冊→1冊→4冊→2冊、というものであった。これを見ると、少しは購入して下さっている方もいるようである。

新刊としては、小西昭夫さんの『虚子百句』(創風社出版)が出ていた。

一応、新刊の北村薫『自分だけの一冊 北村薫のアンソロジー教室』(新潮新書)を購入。山口青邨の句に対する名鑑賞も載っていて、こういったものを読むと、是非とも、いつか北村薫選の「百人一句」などを鑑賞文付きで読んで見たいという思いがする。

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