2010年1月2日土曜日

俳句九十九折(64) 七曜俳句クロニクル ⅩⅦ・・・冨田拓也

俳句九十九折(64)
七曜俳句クロニクル ⅩⅦ

                       ・・・冨田拓也

12月29日 火曜日

自分も我流ながら、ある程度の年月にわたって俳句を続けてきたのであるが、それゆえであるのか、時折自分のような愚かな者のところにも、勿体なくも句集やら俳句誌をお送り下さる方がある。

そういった御厚意というものにはなるべくお応えする必要があるとは思いつつも、生来の怠惰な性分は容易には改め難く、不本意ながらもなかなかその責を果たせない場合がほとんどを占めるという結果となっている。

今回は、そういった罪悪感のようなものを多少なりとも払拭できないものだろうかとの思いから、いくつかの俳誌について、簡単ながらすこしばかり記させていただくことにしたい。

まず、俳誌『秋草』の創刊号。この『秋草』は、波多野爽波、田中裕明の弟子であった山口昭男氏が主宰を務める俳誌で、2010年1月1日が発行日ということになる。編集として、鬼野海渡氏がその任にあたっている。内容については、個人的には「ホトトギス雑詠選集」を読むコーナーが興味深かった。

黄落よ立方体のクルトンよ  山口昭男

書くほどもなき日でありぬ獺祭忌  橋本石火

ここらまで昔海なり松手入  大西美帆


続いて俳誌『刈安』。大木孝子氏が代表で、12名の作者による俳誌ということになるようである。今回のものは第2号で平成21年12月号。大木孝子氏といえばこれまでにすでに『藻臥束鮒』、『柞繭』、『あやめ占』といった3冊もの句集を自らのものとしている実力派であり、系譜としては佐藤鬼房に連なる作者ということになる。

ナナフシのホキホキノ身ヲ抓ミケリ  大木孝子

足早に過ぎる夜店のなほ続き  田中由つこ

黄落を浴びて蹄を得たりけり  正木美和


『星の木』は、大木あまり、石田郷子、藺草慶子、山西雅子といった、名の知れた実力作家4人による俳誌である。今回の2009年12月15日発行の号で、第4号となる。基本的には作品が中心の俳誌で、どの作者の作にも、どちらかというと現実の形象そのものが前面に迫り出してくるような作風への志向といったものが共通して感じられるところがあるようである。

茶の花や別るるための集ひあり  大木あまり

猪が吾を嗅ぎゐる闇夜かな  石田郷子

霜解や田をわたりゆく蜘蛛のあし  藺草慶子

霜籠めにして極月の空蟬よ  山西雅子

『LOTUS』は、全体的にやや文芸色が強いというか、安井浩司という作者の精神及び作風を受け継ごうとする意思を強く感じさせる俳句同人誌であり、今回の2009年12月に発行された号によって15号を数える。今号の特集は「阿部完市の軌跡」。掲載されている作品については、どの作者の作品からも「異界」の雰囲気が混入してくるような気配というか、そういった雰囲気そのものが言葉と言葉の間隙から濃密に立ちこめてくる色合いのものが少なくない。

遠声は石(いわ)の中なる忘れ水  九堂夜想

木の実落ち夜の長きに為り変わる  志賀康

道切りの赤き実こぼれたるところ  豊口陽子


12月30日 水曜日

大型書店をふらふらと回遊。

例によって『俳句』や『俳句界』などの俳句総合誌の最新号を立ち読み。

俳句の棚を見ると、早速『新撰21』が置いてあって、すこし喜ぶ。

他に俳句関係の新刊は、長谷川櫂『決定版 一億人の俳句入門』(講談社新書)、正木ゆう子『一句悠々』(春秋社)が出ていた。正木ゆう子さんの2009年に出版した著書は、これで計4冊ということになるようである。1年で4冊といえば多いといえば多いということになるのかもしれないが、むしろいままでに出版された著作の数から考えると、これまでの文章がこの年になってようやく纏められて刊行される運びとなった、と見るべきであるのかもしれない。

あと、新刊に村上護さんの編である『反骨無頼の俳人たち』(春陽堂書店)が置いてあった。内容は、藤木清子、片山桃史、栗林一石路、三橋鷹女、西東三鬼、富澤赤黄男、橋本夢道、細谷源二、鈴木しづ子、渡邊白泉といった作者によるアンソロジーということになっている。内容的にはやや異色ともいうべき内容なのであろうが、どの作者も現在の自分にとっては、もはや未知の作者というわけでもなく、資料としてはすでに手にしているものが多く、さほど自分にとって必要な書籍というわけでもないという気もするところがあり、それでも全く興味がない本であるかというとけっしてそういうわけでもなく、手元に置いて時に応じて繰り返し参照していれば何かしら得る部分も少なくなかろうという気もするところがあり、暫らく買おうか買うまいかと逡巡していたのであるが、結局今回のところはとりあえず見送ることにした。

しかしながら、「俳句のアンソロジー」というと、自分はどうも内心穏やかではなくなってきてしまうようなところがある。

これまでに出版された主な現代俳句のアンソロジーとしては、飯田龍太編『昭和文学全集 35 昭和詩歌集 昭和俳句集』(小学館 1990)、平井照敏編『現代の俳句』(講談社学術文庫 1993)、長谷川櫂編『現代俳句の鑑賞101』(新書館 2001)、金子兜太編『現代の俳人101』(新書館 2004)といったものがある。

これらにはいずれも問題なしとしない部分があり、これらの中でも飯田龍太、長谷川櫂の両者のアンソロジーはともに、これまでの俳句の歴史を省みた場合、やや人選におけるバランス感覚を欠いているところがあり、平井照敏の『現代の俳句』については、全体的なバランス感覚において一見したところさほど偏りは認められないように見えるが、よくよく見てみると自身と同世代の作者についてはその大半を欠落させてしまっており、それゆえの裁量さといったものを否定できない側面があろう。また、金子兜太編『現代の俳人101』については、その人選のバランス感覚はさほど悪いものではないと思われるが、その順当さゆえの意外性の乏しさ、物足りなさといったものが、ある程度感じられてしまう憾みが少なからず残る。

今後、「俳句年鑑」くらいの分厚さで、明治から平成の現在までの主要な作者を網羅し、その作品をある程度抄出したもの(100句くらい)を編集すれば、資料的にも、俳句というジャンルそのものにとっても、重要な価値を持った一書が誕生することになるのではないか、という思いがするところが少なからずある。


12月31日 木曜日

大晦日。2009年も今日でおしまい。

今年も、いつも通りこの世界の片隅で、俳句やら短歌やら詩やらの言葉の切れ端を、漫然と1人でもそもそとしがんでいるだけの1年だったな、と思い、やや遣る瀬ない気持になる。


1月1日 金曜日

お正月。今日から2010年。

この連載も、気が付けば今回で「64回目」ということになり、割合長い間にわたって文章を書き継ぎ続けている事実そのものに、少し驚いているところがある。

というわけで、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。


1月2日 土曜日

『新撰21』の作者の1人1人の作品について、何か感想めいたものでも書いて見ようかという気もしないでもないのだが、いざ書こうとするとなんだかこわくなってしまうようなところがあり、いまだに書き出せないでいる。

とりあえず、この間、訳者である湊圭史さんご本人からいただいた、デイヴィット・G・ラヌー(湊圭史訳)『ハイク・ガイ』(三和書籍 2009)を読了。

なかなか面白い俳句小説。内容としては、一応イッサの弟子「デッパ」のビルドゥングスロマンであり、また、書き手である「私」による現代小説であり、俳句の入門書でもある、といえようか。

というのも、この小説の全体的なストーリー構成というか成りゆきに関しては、それこそ「スラップスティック」とでもいってもいいようなある意味で相当いい加減というか自由奔放な部分があり、その内容がいろいろと混在して展開してゆくような性格を持った小説ということになっている。しかしながら、一見その半分ふざけているような外貌を持つこの小説の裏側に割合強く底流し遍在しているのは、この世界に対する「虚無感」と「無常感」といった認識そのものであるということは、本書を繙読してみれば直ちに感取できよう。そして、この小説の作者がそういった認識そのものを、その精神の深部において確と自覚し認識しているがゆえに、時としてこの小説には、この世界そのものの本質及び正体の一端、もしくは深奥とでもいうべきものの持つ迫力を、まるでその文章によって直に突きつけられるように感じさせられる場面といったものも、少なからず存在する。そういったところから、この小説には、一茶の〈露の世は露の世ながらさりながら〉という句の存在が想起され、この小説全体の通低音として、一貫して響き渡っているように感じられるところもあった。

しかしながら「一茶」という存在は、日本だけでなく海外でも随分と人気があるのであろうか。そういえば、フランスの作家フィリップ・フォレストにも一茶を取り上げた『さりながら』(澤田直訳 白水社 2008)という本が訳されて出版されていたな、ということを思い出した。

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■関連記事

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4 件のコメント:

湊圭史 さんのコメント...

冨田拓也さま

 『ハイク・ガイ』についてコメントいただきありがとうございます。
 海外では芭蕉と一茶がずば抜けて人気があって、もしかすると好きな度合では一茶のほうが勝つのではないかと。蕪村はあまり好まれないようです。この辺り、研究する価値がありそうです。

湊圭史

PS 『現代俳句の異相』(冬青社刊)という本を見つけたので、発行人の宮入聖さんについての冨田さんの記事にもコメントさせていただきました。

冨田拓也 さんのコメント...

湊圭史様

コメントへのご返事が遅くなり申し訳ございません。

海外ではあまり蕪村は人気がないのですか。蕪村にはあまり「野趣」のようなものが感じられないためでしょうかね。単なるいい加減な思い付きですが。

『現代俳句の異相3』は私も所有しておりました。1、2の方もあります。
このシリーズに掲載されている作者や作品については、正直なところ面白いのかどうか、いろいろな意味でやや「微妙」な感じのするところがありますね。

宮入聖の作は「戦場へ走るスゝキのごときもの」「八方の枯木のなかのおとむらひ」にすこし惹かれるものがありました。

この「現代俳句の異相」については『現代俳句の精鋭』Ⅲ巻の後続シリーズというわけではなさそうですね。

他に私の手元にある冬青社のアンソロジーは、

・「現代俳句の眺望」1986

・「現代俳句の視線 第1集」1988

で、

これらの本に冬青社の広告が掲載されており以下のアンソロジーが存在するようです。

・「現代俳句の女性たち 1」

・「戦後世代の俳句 1」

・「現代俳句の精華 上」

・「現代俳句の精華 下」

Fay さんのコメント...

湊さま
「海外」在住で英語の俳句もやっている人間からの情報ですが、アメリカでは蕪村も不人気という訳ではないと思います。芭蕉がダントツであることは確かで、一茶は英語にするとわかりやすいせいか、好む人が多い。アメリカ人の多くが俳句を学ぶ上でまず手にするHendersonとBlythという二人の翻訳家の影響かもしれません。ちなみに子規は良く知っているが、虚子の存在は知らないという人が結構いるようにも思います。
      青柳 飛(ふぇい)from SFO

湊圭史 さんのコメント...

冨田拓也さま

やっぱりもう持ってましたか(笑)。
冬青社からはけっこう本が出ていたのですね。宮入聖さんは若手発掘というよりは、同世代を押しだすために積極的に活動されていたのでしょうね。なかなか手に入りそうにないのが残念ですが、私も目を配って探してみようと思います。

青柳飛さま

不人気というと言い過ぎになりそうですね。日本の俳句界での評価と比較して、ということです。
一茶と蕪村に関しては、日本でも一般読者のあいだでは一茶のほうが人気があるでしょうね。