2009年12月13日日曜日

俳句九十九折(61) 七曜俳句クロニクル ⅩⅣ・・・冨田拓也

俳句九十九折(61)
七曜俳句クロニクル ⅩⅣ

                       ・・・冨田拓也

12月6日 日曜日

昨日(12月5日)「邑書林」より『新撰21』が到着。

本日、一応全ての作品に一旦は目を通し終えたのであるが、どうもなかなか気持ちが落ち着かないためか、現時点ではあまりその内容というものがいまひとつ頭に入ってこないところがあり、その全体の内容について「よく理解できない」状態にあるようである。

というわけで、とりあえず、自らのことについて少し書いておくことにしたい。

「座談会」の自分への評の半分くらいが「自己模倣」という内容で占められていて、軽く落ち込む。評の内容についてはけっしてわからないというわけではなく、素直に傾聴すべきなのであろうが、実際のところ、どのような作者であれ(三橋敏雄、鈴木六林男、飯田龍太、田中裕明等々)似たような内容の作品の存在というものは、けっして少なくはないのである。また、永田耕衣の「道」「白桃」「揚羽」シリーズ、森澄雄の「年の瀬」俳句などといった同じモチーフを扱った作品の存在もある。

というわけで、正直なところ、今回の作品についてはもうすこし大目に見ていただきたいという思いもしないではないのであるが、ここには、やはり作者にとって「自己変革」というものが如何に重要であるかという問題も含まれているため、やはり一概に否定できない側面もあるということになろうか。

ともあれ、あとは、とりあえずそれぞれの作者の作品から1句づつ引用しておくことにしたい。


紅葉かつ散るひらがなは漢字から  越智友亮

鍵束の冷えてをりけり萩の雨  藤田哲史

口とがらす牛乳パック冬ぬくし  山口優夢

雪の日のやうな朝日が紫陽花(あじさい)に  佐藤文香

新豆腐黙るといふは火のごとし  谷雄介

ひとの世のカンナの裏をとほりけり  外山一機

夏は来ぬパジャマの柄の月と星  神野紗希

上簇の零れ落ちしは壁を這ふ  中本真人

諸鳥を落さぬ空や大旦  高柳克弘

真清水にたくさんの手の記憶あり  村上鞆彦

病院に臓器の届く夕立中  北大路翼

青蛙ニライカナイの地図をとぶ  豊里友行

一滴の我一瀑を落ちにけり 相子智恵

碑の一文字持ちて神の旅  五十嵐義知

ぎちぎちと革手袋の祈りかな  矢野玲奈

妻の日や楽器の裏が燃えてゐる  中村安伸

アルコール・ランプ白鳥貫けり  田中亜美

天蓋は遥か竜の落し子を掬す  九堂夜想

グローバリズムなるゴーレムも春の土  関悦史

ひだまりを手袋がすり抜けてゆく  鴇田智哉


12月8日 火曜日

豊里友行句集『バーコードの森』(天荒俳句会 2002年)を読む。

この句集については、すでに高山れおな、関悦史、両氏の文章があり、このあとに果して一体何か書くことが残されているのかという気もするところがあるが、せっかく著者から句集をお送りいただいたということもあり、一応少しばかり私見を述べさせていただくことにしたい。

まず、この句集において自分が注目したのは、表紙のデザインである。「貼り絵」による写真が使用されているのであるが、これが非常に独特のもので、まるでピザやお好み焼きなどの形状に近い円形に、金や黒、黄、青、茶、緑、紫、黄、橙、赤、などといった様々な紙片がこまごまと中央へ渦を描くようにして貼り付けられている。

沖縄や東北には、日本の古層ともいうべき縄文的なものがいまだにその文化の内に残存し息衝いているといわれるが、この「貼り絵」の形状は、まさにそういった原初的な文化(縄文土器の形状など)をそのまま想起させるかのようなデザインであるということができるであろう。

そして、それは、沖縄(のみというわけではないが)における台風や入道雲の形状、海の波、貝の渦、蛇のとぐろ、といった自然の実相を思わせ、また、それだけにとどまらず人間のDNAの二重螺旋の形状や、さらには地球の自転や宇宙空間におけるブラックホールや星雲の形状といったものまでへも連想が広がるものであるといえよう。

集中には、作者による次のような句の存在も確認できる。

水紋の土器抱くカオス月の道歩く

この「水紋の土器」はやはり「縄文土器」のことであると解して間違いないであろう。

そもそも「沖縄」という言葉自体が「沖」の「縄」ということで、「海のうねり」や「渦」がそのまま表象されているものであるという風に考えてもおかしくはないところがあるのかもしれない。また、この「沖縄」の「縄」という語については「蛇」や「竜神」を表す言葉でもあるという説もあるようである。

それでは、とりあえず句集の中の作品について、いくつか見てみることにしたい。

青バナナむけば炎の鮫になる

這い上がる蜥蜴の瞳は空の深み

湾の灯で月の木琴打ち鳴らす

星の生まれる処より蟋蟀のシャワー

轟音の鼠となり空齧るフェンス

鬼餅(ム―チー)食む筋肉質の銀河ふくらむ

原発の家電の鮫が泳いでら

青田に抱かれ涙線となる列車

雲一つ持って記号のミジンコでいい

インターネットの地球回す水澄まし

魂(マブイ)の迷宮蝸牛のカフカ

踊れ踊れ(モーレモーレ)死者燈す月の抜け道


この作者のこれら作品を、オーソドックスな有季定型の作品に対する読み方で読もうとすると、その作品の内実を理解することについてはやや難しいところがあるかもしれない。あらかじめそういった俳句の書き方とは異なるところのある作風であるといった事実をまず念頭に置いた上で、この作者の句に接するならば、まだその作品の世界についても入り込みやすくなるところがあるのではないかと思われる。

また、いまここに挙げた作品を見ても分るように、その作品にはそれこそ「カオス」というか、全体的に自然のみならず宇宙空間を詠み込んだコズミックな作から、さらには社会現象を取り扱った作品まで幅が広く、やや「ごった煮」的なところがあり、その表現についても少々乱雑な印象を受けるところもあろう。そして、この句集の作品全体にはそういったやや荒っぽい表現ゆえによる魅力と、またそのような表現ゆえによる難解性を伴った作品といったものが共に混在して収録されているわけであるが、よくよくその作品の全体について目を凝らしてみるならば、この「カオス」ともいうべき作品世界の中にも、そういった単なる荒削りな側面のみならず、ある種の「秩序」めいたものを見出すことが可能であることに気が付くであろう。

百合揺れてトランペットの吐く銀河

竜の如く単車流れる天の河

月は孵化して蛾の舞う人の木立

炎天の守宮の腹に月がいて

雨音の蚕のつもりミイラだね

蛇穴の電車乗り継ぐポテトチップス

雨音の木立さみしい瞼に生え

一投のごと寝る蛹の天の川

流星の滴曳くキャベツの自転

太陽をもぐ神の拳のアダン

フリーターの蓑虫ゆれる月のピアス

神の槍か海蛇(イラプー)の笛か滑走路

もどれないクローンおむすびの蛇穴

空蝉の洞窟(ガマ)月の谺燈す

棺か蛹か蝶の鍵穴のテロ

見逃し三振トカゲの目は流星

グラウンドが向日葵になる逆転劇

コツンと残る珈琲カップの朝月


既に野ざらし延男氏や高山れおな氏が指摘しているように、これらの作品を注意深く読めばわかるであろうが、ここで作者が意図的に駆使している手法は、「比喩」の手法ということになる。いくつかの類縁性のある名詞を作品の内側に重ね合わせて使用することにより、イメージを重層化させようという意図が込められているわけである。それにより、その作品はありきたりな俳句作品と比べて、一風変わった効果を挙げることに成功しているといえよう。

これらの作品のうち、まだ理解しやすいと思われる例としては、いま挙げた作品の中の〈炎天の守宮の腹に月がいて〉〈蛇穴の電車乗り継ぐポテトチップス〉〈流星の滴曳くキャベツの自転〉〈太陽をもぐ神の拳のアダン〉〈フリーターの蓑虫ゆれる月のピアス〉〈グラウンドが向日葵になる逆転劇〉〈コツンと残る珈琲カップの朝月〉などといった作品を挙げることができようか。

順に簡単に説明をすると、「守宮の腹」と「月」、「蛇」と「電車」(「穴」でもあるから「地下鉄」か「トンネル」であろうか)、「キャベツ」と「自転」から「地球」、「太陽」と「神の拳」と「アダン」の実、「蓑虫」と「ピアス」、「グラウンド」と「向日葵」、「珈琲カップ」と「朝月」、といった名詞による「比喩」もしくは「アナロジー(類縁)」の関係性が見出せるということになり、こういった作品を見れば、この手法は作者の意図的な選択に基づく作句方法のひとつであるということが感取できるはずである。

そして、これらの作品よりもさらに入り組んだやや複雑な内容を持つ作品が、次の〈百合揺れてトランペットの吐く銀河〉〈竜の如く単車流れる天の河〉〈月は孵化して蛾の舞う人の木立〉〈雨音の蚕のつもりミイラだね〉〈雨音の木立さみしい瞼に生え〉〈一投のごと寝る蛹の天の川〉〈神の槍か海蛇(イラプー)の笛か滑走路〉〈もどれないクローンおむすびの蛇穴〉〈空蝉の洞窟(ガマ)月の谺燈す〉〈棺か蛹か蝶の鍵穴のテロ〉〈見逃し三振トカゲの目は流星〉といった作品ということになる。

これらの句について、1句づつ見てゆくことにしたい。

百合揺れてトランペットの吐く銀河

まず、この句は初めに「百合」が登場する。そのあとに「トランペットの吐く銀河」という表現がくるわけであるから、この「トランペットの吐く銀河」から想起されるのは、やはり「百合」の形状ということになろう。即ち「百合」から突き出した「蘂」のかたちと「トランペットの吐く銀河」というイメージとのアナロジーということになり、この句はそれぞれのイメージがはなやかに混在する作品ということになろう。

竜の如く単車流れる天の河

この句は「竜」と「単車」、そしてその関係性から「道路」の存在が想起され、そこに壮大な「天の河」の形状が加わるということになる。「天の河」であるから時間帯は「夜」であり、「竜」、「道路」、「単車」のライト、「天の河」のそれぞれのイメージが錯綜し、照応することによって強い「うねり」を伴った作品となっている。

月は孵化して蛾の舞う人の木立

「月」と「孵化」そして「蛾」という語から、まず「蛾の卵」と「月」の形状による類縁性が感じられるということとなり、そこに「人」と「木立」のアナロジーのイメージが加わるということになる。「月は孵化して」という表現から、非常に巨大な蛾が月の下で舞っているような迫力あるイメージが喚起され、まるでそこに配されている「人」と「木立」までもが小さく見えてくるように感じられるところがある。

雨音の蚕のつもりミイラだね

「雨」と「蚕」から連想されるのは「糸」ということになろう。そして「ミイラ」から連想されるものは「包帯」ということになる。またこの「蚕」と「ミイラ」の関係から連想されるのは「繭」のイメージということになろうか。というわけで、ここには「雨」に包まれた青年のやや鬱屈した心情といったものが感じられるであろう。

雨音の木立さみしい瞼に生え

まず「雨音」と「木立」の直線の形状によるアナロジーが見出せ、そこに「瞼」の語が加わる。その「雨音」と「木立」、そして「瞼」の言葉から連想されるのは「睫毛」の存在であろう。「雨」と「木立」、「睫毛」のイメージによる錯綜と、そこに「さみしい」という言葉が加わることによって、この句からは「涙」が連想されるということになる。というわけで、この句には「雨」と「涙」によるアナロジーが沈潜されているということになる。

一投のごと寝る蛹の天の川

通常の散文的なコードでこの句を読むのならば「一投」が何を意味するものであるのか理解できないということになろうが、この作者の手法から考えてみれば「一投」と「蛹」によるアナロジーの関係から、「壜」の存在がすぐさま喚起されてくるということになろう。そして、「寝る」という言葉からこの句は自らの存在自体を「壜」や「蛹」に擬している句であるということになるはずである。雄大な「天の川」の存在により、この句からは、入れ子構造のような世界が浮かび上ってくるところがある。

神の槍か海蛇(イラプー)の笛か滑走路

「滑走路」ゆえ当然「飛行機」の存在が想起される。その「飛行機」に「神の槍」と「海蛇(イラプー)の笛」のイメージが重ねられ、さらには「槍」を投げる「神」の姿や「海蛇」そのもののイメージまでもが混入してくることによって、まるで、現在の「文明の世界」とかつての「神話の世界」とが融合しているような作品世界が展開されている。そしてこの作品の裏側には、沖縄における米軍基地の問題というものが、大きく横たわっているということになるのであろう。

もどれないクローンおむすびの蛇穴

「羊のクローン」が人の手によって生み出されたのは1996年のことである。得るものがあればその一方で必ず失うものがあるというのがこの世界における動かし難い律側であり、様々な発明によって数多くの恩恵に浴したとしても必ずしも人は幸せになれるとは限らないという厳然たる事実がある。この句は「クローン」というある意味「神の領域」にまで踏み入ってしまった科学技術に対する恐怖感が表明されているということになろう。見境なく進歩を続ける科学技術による「クローン」の誕生と、昔話を髣髴とさせる「蛇」のいる「穴」へと落してしまった「おむすび」が戻ってこないという「手遅れ」の状況を表出したイメージとが重なり合うことによって、「取り返しのつかない」状況における索莫とした心象が表現されているということになろう。

空蝉の洞窟(ガマ)月の谺燈す

「空蝉」は当然ながら夏の季語であり、その「空蝉」と「洞窟(がま)」から連想されるのは、やはりかつての「戦争」ということになろう。そしてこの「空蝉」の語には、爆撃を眼前にした「人間」の「生命」そのものの持つ脆さというものがそのまま仮象されていよう。そして、そう考えた場合、「谺」の語というものは「人」の「叫び声」を表出したものということになるのかもしれない。

棺か蛹か蝶の鍵穴のテロ

2001年の作であるから、おそらく「9・11事件」に関連した句であろう。まず「棺」と「蛹」の語が意味するものは、「飛行機」が突入した「ビル」の形象そのものということになろうか。またそれだけでなく、「棺」の語には「テロ」による「死」などといったマイナス面が象徴されており、「蛹」については「テロ」による「秩序の再編」即ち「甦り」への「可能性」といったものが仮象されているのではないかとも思われる。

そして「蝶の鍵穴」という字句から連想されるのは、やはり「飛行機」が「ビル」へ追突したあと(もしくは瞬間)の様子が表されているということになろうか。また、それだけでなくこの「蝶の鍵穴」という言葉から連想されるのは、先程と同じく「蛹」が「蝶」という成虫へと化す「未来」への「可能性」であり、その「未来」へと「扉」が開かれるといったイメージもが込められている、という風に解釈することも可能であるように思われる。

というわけで、この句に表現されているのは、「テロ」という行為そのものが宿命的に抱え込んでいる「危険性」や「可能性」などといった正と負の両面を見据えようとした作品である、ということができるのかもしれない。

見逃し三振トカゲの目は流星

「野球」をモチーフにした連作ともいうべき6句の中の1句。「見逃し三振」という言葉からは、当然野球の「ボール」が連想される。そして「トカゲの目」による野生と、「流星」による疾走感といったものが、白い野球の「ボール」へと重なってゆき、まるで「魔球」のようなスピード感を詠み手の側に実感させるところがある。

結局のところ、これらの作品に見られる手法については「イメージの重ね合わせ」ということになろう。個人的には「神の槍」、「テロ」、「トカゲの目」などの句に随分と驚かされるところがあった。

このようないくつもイメージを重ね合わせる手法というものが、この句集の最後を飾るやや異色の作品群である「ひたひたぐいぐい」という、特殊な表記の作品が生み出される契機へと繋がっているところもあるのではないかという気もする。


飽食
    の児歪む地球パズル
飢餓


流れ星
    馬のたてがみのオモロ
火の粉

「ひたひたぐいぐい」の全6句の中から2句を抄出した。まず、はじめに注意しておく必要があるが、ブログの表記ではこれらの作品については正確に表記することができず、句集の上における実際のこれらの作品表記は「縦書き」となっており、「飽食」と「飢餓」、「流れ星」と「火の粉」はそれぞれ縦書きで表示され、それらが並列するかたちで配置されており、それぞれの言葉が中央の語句である「の児歪む地球パズル」、「馬のたてがみのオモロ」へと収斂されてゆくように表記されてある。

というわけで、これらの作品については、1句目は「飽食の児歪む地球パズル」と「飢餓の児歪む地球パズル」という二つの言葉のイメージにより形成されているものということになり、その二重のイメージによって現在の矛盾にみちた地球の現状を正と負の両面から描き出しているということになろう。

同じくもうひとつの作も、やはり「流れ星馬のたてがみのオモロ」と「火の粉馬のたてがみのオモロ」といった二つのイメージから成る作品ということになる。「オモロ」とは、沖縄伝来の古代歌謡であるとのことである。そして、この「流れ星」と「火の粉」と「馬のたてがみ」といった言葉の関係からはどこかしら「神話的」な雰囲気が感じられるところがある。また、この「オモロ」と「火の粉」の関係から連想されるのは、おそらく沖縄における「祭礼」ということになろうか。そして、もう一つの言葉である「流れ星」から連想されるのは広大な「空」の空間であり、沖縄の自然の大きさそのものが感じられるところがあるように思われる。これらのことから、この句からはそれこそ「神話」の時代から現在まで、地上においてささやかながらも長い間繰り返されてきた人間の営みの力強さと、それらを取り巻く悠久なる自然の雄大さといったものが表現されているということになるのではないかと思われる。

さて、ここまでこの句集における特徴についてすこしふれてきたが、こういった特徴を踏まえた上で、この句集の作品を読んで見れば、一見複雑で難しい内容に見えるこの句集の作品についても、割合理解しやすくなるところがあるのではないかと思われる。

ここで冒頭にすこしふれたこの句集の表紙のデザインである「貼り絵」について話を戻したいのであるが、この表紙の「貼り絵」による「渦」の模様というものは、これまでに見てきたように、やはり、この句集の特徴である、沖縄の風土性やその社会への強い問題意識といったものを、言葉の「比喩」によって幾重にも巻き込んでゆくような手法を駆使するこの作者の作風そのものをそのまま象徴し、物語っているものなのではないかという気がする。(実際のところ、句集における作品にも「渦」に関連した内容のものが少なくない。)そして、この「渦」を成すような「表現意識」と「方法意識」こそが、この作者の根幹を成す実質そのものに他ならず、また、そこからその縄文土器の紋様を髣髴とさせるような力強い「うねり」を伴った言語世界が創出される結果となっている、ということも可能であるように思われる。

この作者の孕む、原初的なエネルギーを抱え込んだ「渦」の中から、今後、如何なる強い「うねり」を伴った言語作品が生み出される結果となるのか、注目されるところであろう。

以下、句集の上記以外の作品より感銘句をいくつか。

一点の蟻がたぐりよせる水平線

飛魚のごと甘蔗を行くティーンエイジ

シャワーになるネオンを弾くコザのビート

お玉杓子が跳ねる銀河の打楽器

夢のミミズ真っ直ぐ星雲を食らう

甘蔗(きび)畑は宇宙の旋毛夏至南風(カーチーペー)

風葬の腕に抱かれる地の熱り

島丸ごと戦果のような夕日の烙印

光年の星座織るコオロギの綾羽

ココナッツの歌声スラム街のドリブル

諸行無常の季語いかがビニールハウス



12月11日 金曜日

書店で角川書店の『俳句年鑑』を立ち読み。

「30代、20代、10代」の作者の作品欄を櫂未知子さんが担当されており、自分の句もその中に取り上げられていたので、すこし喜ぶ。しかしながら、この欄に挙げられている作者名を見ると、若い作者の存在というものも思った以上に少なくないように思われるところもあるようである。

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■関連記事

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俳句九十九折(60) 七曜俳句クロニクル ⅩⅢ・・・冨田拓也   →読む

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3 件のコメント:

豊里友行 さんのコメント...

冨田拓也さま

懇切丁寧な作品鑑賞ありがとうございます。
これからもお互い刺激し合えるよきライバル20人になりましょうね。

冨田拓也 さんのコメント...

豊里友行様

コメントありがとうございます。

新撰21の記念会では、多くの方が豊里さんの句集を手にとっておられましたよ。

というわけで、これからまた新しい読み手が出てくるかも知れませんね。

当日のシンポジウムでも、関悦史さんが豊里さんのことについてすこし話しておられました。たしか「主題」の問題に関する発言だったような。

あと、これは豊里さんの作品に関連した話題であったかどうかわからないのですが、関さんは、宮崎駿の映画について話題にしておられて、そういえば宮崎駿作品の、自然を含む神話的な空間とそれに対する文明の軋轢といったテーマというものは、豊里さんが作品で表現されていることと共通する面が少なくないかもしれないな、という気もしました。

豊里友行 さんのコメント...

冨田拓也さま

それはよかったです。
難解な俳句と犬猿されがちなので・・・。
新しい読み手が出てくるといいなぁ~。

いつか時間のある時に 冨田拓也俳句を鑑賞したいと思います。鑑賞文の練習中なので!

巨匠・宮崎駿の世界に連想されて光栄です。
文明批評も私のテーマのひとつです。

今後ともどうかよろしくお願い致します。
よいお年を===3