2010年4月10日土曜日

セレクション俳人を読む6 仁平勝集

「セレクション俳人」を読む 6 『仁平勝集』
チキンレースに参加せよ


                       ・・・外山一機

仁平勝にとって、俳句を書くことは俳句をいたぶる行為と似ている。いわば仁平は俳句を書きつつ俳句なるものを相対化しようと試みる書き手であって、だから仁平の俳句の前に立つとき僕らはいつも「俳句とは何か」「俳句をするとは何か」という問いと向き合わざるをえない。

仁平勝といえば、俳句作品よりも『詩的ナショナリズム』や『虚子の近代』、『俳句が文学になるとき』などの俳句評論の書き手としての知名度の方が高いかもしれない。仁平の俳句の特徴はまず、標語やことわざや俳句など先行するテキストに当て込んだ表現にある。

探偵の一寸先は闇の梅

梅と坊主匂うべからず警視庁

いざさらば花吹雪まで凍死行

こうした詠み方をする俳人はどれくらいいるのだろう。いま、こうしたあからさまな引用を自らの方法論に持ち込むのを俳人が躊躇するのは、いつのまにか一句におけるオリジナリティこそが重要視されるようになった俳句表現の史的背景と無関係ではない。すなわち近年の俳人はいつも新しい俳句表現を求めるものであり、一方で、先行する表現を引きあいに出すこうした方法にはどうしても限界が見えてしまうから、多くの俳人はあえてマンネリズムへと落ちこみに行くかのようなこの方法を避けるのである。しかし、その袋小路へあえて飛び込むのが仁平であり、そうであればこそ、仁平の句作は批評たりうるのである。

童貞や根岸の里のゆびずもう

たとえばこの句の批評性について、「根岸の里」という表現に着目しながら考えてみたい。仁平は「秋の暮論」のなかで次のように述べている。

ちなみに「根岸の里の侘住居」という言葉があって、これを俳句の中七下五に使うと、素人でもそれなりの句ができる。あとは上五に季語でも持ってくれば、「初雪や根岸の里の侘住居」「菜の花や根岸の里の侘住居」「名月や根岸の里の侘住居」といった具合で一応の俳句になる。根岸といえば子規が住んでいた場所だから、おおかた当時の誰かが考えついたのだろう。なかなか気の利いた言葉遊びで、ちゃんと月並俳句への皮肉になっている。(仁平勝「秋の暮論」『秋の暮』 沖積社 一九九一)

上掲の一句とは、およそこのような認識のもとに成立した作品であろう。「素人でもそれなりの句ができる」言い回しとしての「根岸の里の侘住居」を好んで使う俳人はほとんどいないのではないか。仁平においても、この表現に触れずに句作を済ませることは十分に可能であったはずだ。しかし、オリジナリティとは対極にあるようなこの表現にあえて対峙し、これを反転させるのが仁平である。すなわちこの句では「侘住居」こそが似合うような世の中の喧騒から離れた場所としての「根岸の里」を、「童貞」の男が「ゆびずもう」という幼稚な遊びをする場所として再提示しているのである。その生涯を語るとき、妹や母親以外の女性の姿を傍らにイメージしにくい子規を暗示させる言い方でもある。この句が批評でありうるのは、俳句表現史がその過程において産み落とした、いわば俳句表現の真空地帯に取り組んだ表現であるゆえである。

仁平の俳句は、先行する表現あるいは文体などの引用やパロディで成り立っているものが少なくない。メタ俳句と言ってもいいのかもしれないが、入れ子構造のようになっている仁平の作品を読むときに肝心なのは、俳句表現そのものを吟味するのではなく、マトリョーシカを延々と開け続けるような行為を体感することそれ自体に意味を見出すことなのかもしれないと思われてくる。

仁平による俳句嬲りは、このようなパロディや言葉あそびによるものばかりではない。仁平がその少年時代を過ごしたであろう昭和三〇年代を想起させる「家族の肖像」は、家族詠の典型ともいえる連作である。

火鉢抱く祖父の怒りは無尽蔵

夕暮はラジオを叩く父となる

長兄の手品はいつも薔薇が出る

おとうとの吃音つづく遠花火

いじめると陽炎になる妹よ

いくつかの句を引いてみた。たとえば「いじめると」の句における「妹」からは、仁平にやや先行する世代や、同じ世代の作家の句を想起できよう。

いもうとを蟹座の星の下に撲つ  寺山修司

いもうとの平凡赦す謝肉祭  林桂

妹をすこしいぢめる烏麦  小澤實

仁平の「妹」は、いわば彼らの世代にとっての典型的な表現である。このような同期が意図的なものなのか否かについてはここでは問わない。僕の関心はむしろ、このような典型を形式の力を借りながら書き連ねる手つきの方にある。

連作や、あるいは同じ語を用いた句を意図的に連続させる仁平の編集方法は、ときに俳句形式とのおかしくも空恐ろしいチキンレースの様相を呈する。連作「都会の憂欝」から数句を引いてみよう。

手がつきて泣きのねえやは鏡里

ふるさとの鉄砲水を信夫山

相四ッもほとけの仲は陸奥嵐

かばい手におくれの髪や房錦

船を待つ身空に靴が鳴門海

昭和三〇年代に活躍した力士の名前をもじりながら次々と句を綴っていくこの一編は愉快でもあるが、読み進めていくうち次第におそろしくなってくるのを否めない。俳句表現についてそう感じるのではない。このような句を、おそらく仁平は延々と作ることができるだろうと想像してしまうと、ぞっとするのだ。

あるいはこれを俳句形式との癒着によるマンネリズムと言ってもいいかもしれない。けれど、仁平におけるこの種の連作においては俳句表現それ自体のマンネリズムなど折り込み済みのことである。だからこうした連作のすさまじさは、方法論のあまりにも類似した俳句表現を並べたてることによって、俳句表現よりも、その俳句表現を書きつける手の存在を読者に明示すること――いわば俳句を詠むという行為それ自体のはてしなさを浮き彫りにすることにある。このはてしない表現行為を目の当たりにしたとき、俳句形式のもたらす地獄のようなものの存在に背筋が寒くなるのだ。そのうえで、しかし僕らは自らに問わねばならない。すなわち、「それでも俳句を続けるのか」。

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