勇気ある逃走の「質」
・・・外山一機
今日において俳句を選ぶということは、それが自覚的なものであるならば、悲劇(あるいはその反転としての喜劇)を伴わざるをえない。ならば、たとえば俳句・短歌・詩といった形式を飛び越えて活動する佐々木六戈の場合はどうか。
俳句用語の一つである「二物衝撃」とは、異なるイメージをもつ具体的な二者を対峙させることによって一句を成立させる方法のことである。いまでは俳句入門書の類でも紹介されているくらいだから、仮に「二物衝撃」という言葉自体は知られていなくても作り手にとってはごく一般的な方法として認知されていると言ってよいだろう。
「二物衝撃」の切り札は、作り手にとっても読み手にとっても思わぬイメージを引っ張り出してくるところにある。六戈はしかし、このような誘導の仕方がすでに機能不全に陥っていることを指摘する。
ところで、この「二物衝撃」という詩法は、もはや、わたしを驚かせない。ロートレアモンの『マルドロールの歌』の一節である「手術台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのようにうつくしい」がシュルレアリストたちに与えたような衝撃をわたしに与えない。偶然の言葉の組み合わせが開拓した無意識の沃野はすでに日常の風景に化してしまっている。(「草木の弟子―わたしの自然詠入門」『俳誌童子』二〇〇〇・七)
ここで六戈が「無意識」という言葉を用いていることは重要である。六戈は「二物衝撃」を、人間の無意識のレベルにおいて何がしかを表出・受信するための方法としてとらえている。そもそも「二物衝撃」には、戦後、俳壇で「社会性」が叫ばれるとともに俳句表現の抽象化していったことへの反措定としての意味があった。いわば「意識」上から発信される表現に生じた抽象化・観念化を打開するべく、俳人たち(たとえば山口誓子)は、知覚できる事物に即して表現する方法を模索したのであった。
ところが、具象か抽象かに関わらず、そもそも俳句は、七七以下を切り捨てたときから―この意味において「個室」の文芸となったときから―自己表現の形式としての色合いを強めてきたのではなかったか。今日、俳句表現に行き詰まり感があるとしたら、それは、そもそも俳句形式で自己表現するという袋小路を多くの俳人が問い直すことなくきてしまったことの方にこそ根本の原因があるだろう。
六戈はこうした問題に対して、「自然詠」の方法を提示する。
わたしが提出(再提出)しようとする「自然詠」の方法とは次のようなものである。
「近くにありすぎる物と物の関係を無関係なものに返してやる。」
たとえば、「花」とは、根と茎と花びらと蕊とを人間的に統一し、表象した「ことば」にすぎない。なぜなら、ある虫にとって茎だけが「花」であるやも知れないし、葉だけが「花」であるやも知れない。(略)
わたしは「わたし」の死後においてその花を見るのである。あるいはわたしの未生において憧れとしてのその花を見るのである。その中間は存在しない。(略)
わたしの「自然詠」。これは無知無能の詩法であり、書き手が持ち合わせているものの一切が役に立たない詩法である。(「草木の弟子―わたしの自然詠入門」)
六戈が唱えるのは、花鳥諷詠とも飯田蛇笏ら『雲母』の方法とも異なる「自然詠」である。
寒の枝たがひちがひにあはざりき
仄暗くして白梅のひらきかけ
ひるがほのはなひるがほのはなにふれ
川蜘蛛の押さふる水の流れゆく
一匹が出てしばらくを蟻の穴
冬の皺眞白き紙にありにけり
秋水や石を鳴らして石の閒
六戈は事物を微細に観察して、そこから発見したことを詠む。自己表現のための具象化ではなく、具象それ自体を言祝ぐための具象化―もっとも、六戈ははじめからこのような場所にいたわけではなかった。『佐々木六戈集』収録の作品から初期のものを引いてみよう。
連凧の先頭寂しからざるや
辨当をひろげてをれば馬糞風
蓮喰うて先づ寂しさよ涼しさよ
少年少女童話全集蛇苺
「寂しからざるや」、「寂しさよ」のように、饒舌な文体がまず目につく。加えて、「辨当を」の句のようにユーモアを押し出した句。あるいは着地点が明確に過ぎるという点で「辨当を」の句の他に「少年少女」の句を挙げてもいいだろう。「少年少女」の句は「二物衝撃」を用いた句といってもいいのかもしれないが、対比された二つの物(「少年少女童話全集」と「蛇苺」)のイメージの飛躍が大きいものではないために、わかりやすいが俳句の「切れ」を活かしきれていないうらみがある。六戈の作品全体にいえることだが、詩的イメージの大きな飛躍は避けて着地点をはっきりさせるように文体や内容をあえて饒舌にしている句が少なくない。「自然詠」は六戈がこうした予定調和的な地点から抜け出す方法としても有効であったようにみえる。
だが、六戈の「自然詠」に、どこか「以前」の感があるのは否めない。誤解を恐れずに言えば、その方法論の違いにもかかわらず、六戈の「自然詠」の実践によって結実した句は高野素十などのいわゆる草の芽俳句に似ている。このような事態がありうるのは、句作における言葉のとらえかたに理由があるのだろう。先に引いた文章を再び引いてみる。
たとえば、「花」とは、根と茎と花びらと蕊とを人間的に統一し、表象した「ことば」にすぎない。
六戈の「自然詠」とは、「ことば」からの勇気ある逃走である。いま、「勇気ある」と書いたのは、鷲巣繁男について「この人がいなかったらわたしは俳句も短歌も書いていなかった」と述べるほどの六戈が、富澤赤黄男の「蝶はまさに〈蝶〉であるが〈その蝶〉ではない」という言葉を知らないはずがないからだ。六戈はあえてそこに疑問を呈してみせたのである。このような態度は俳句表現史に連なろうとする自覚なしにはあり得ない。そしてこれは無論、「赤黄男以前」の俳人とは似て非なる態度である。
しかし、「ことば」から逃走することは、作家としての敗北ではないのか。このように考えたとき、六戈の次の言葉が重く響いてくる。
そしてまた、ほんとうのことを言えば句が出来なくてもいいと感じ入る。ただ草木の弟子として、草花を見ているだけでもいいと思っている。何か日常を人間的な幸福で包み込んでお茶を濁す体の俳句に飽きてしまったのである。
俳句よりも草がいい。(「草木の弟子―わたしの自然詠入門」)
「句が出来なくてもいい」という六戈を俳人として批評するのは間違っているのかもしれない(実際六戈の俳句が、少なくとも六戈にとって「俳句」であるか否かについては疑わしい)。それでもあえて言うならば、「何か日常を人間的な幸福で包み込んでお茶を濁す体の俳句に飽きてしまった」ときに六戈が自らに問うべきだったのは、「俳句よりも草がいい」か否かではなく「なぜ自分は俳句を選んだのか」ということではなかったろうか。
俳句は(主としてその短さゆえに)新しい表現を開拓することがきわめて困難な詩型である。六戈の「飽きてしまった」という言葉は、だからその意味でごく自然な感慨であろう。だが、ここで僕が疑問に思うのは、その程度の「飽き」など、多少とも自覚的に俳句に携わる者にとっては折り込み済みのものではないのかということだ。
すでに袋小路に入っているかに見えるこの詩形式を、それでも選択することが、俳句に携わるということではなかったか。すなわち、「俳句より草がいい」と、あえて言わないことこそが俳句に携わるということではなかったか。
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