■「セレクション俳人」を読む2 『小澤實集』
青年は何処へ向かう
・・・外山一機
詩を書くこととは、同時に、詩によって自らを、そして自らの詩を問い続ける行為であろう。小澤實はこうした行為に自覚的な俳人の一人である。
小澤の俳句的出立を大づかみに示すと、一九七七年に「鷹」に入会、八〇年に「鷹」新人賞を受賞、八六年には第一句集『砧』を刊行、同年、『現代俳句の精鋭Ⅰ』(共著)や『俳壇』八月号の「二十代三十代作家八十人集」にも参加している。すなわち、他の多くの戦後生まれ世代の俳人と同様に、小澤もまた八〇年代の新鋭アンソロジーや新鋭シリーズの参加者の一人として登場したのであった。
『砧』は小澤の二〇代の句を収めた句集であるが、句集全体から漂ってくるのは、小澤の俳句表現者としての天才である。
春深し机の下に犬のゐて
鰹節削る音して春の家
ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな
鷺草や引手のまはりよごれをり
こうしたさりげないモノゴトを一句に結実させることは、あるいは小澤にとってすでにたやすいことだったのかもしれない。実際、『砧』以降の小澤の作品にも、あたかも呼吸をするようなリズムで作られたかのような顔をしている名句が少なくない。
ほたるぶくろほといふときの口の形 『立像』
夏帯や噛めば音あるもの食うべ 『立像』
紅梅や渡れば橋のよろこべる 『瞬間』
脱衣籠十重ねあり春の暮 『瞬間』
一方で、小澤の三つの句集を通じて気がつくのは、エロティシズムを含む作品群の存在である。
かげろふやバターの匂ひして唇 『砧』
明易し汝が眉ぼくろ愛しめば 『立像』
無花果割る親指根元まで入れて 『立像』
人妻ぞいそぎんちやくに指入れて 『瞬間』
好色や牡丹の芯に雨たまる 『瞬間』
前席のうなじ見てをる夜学かな 『瞬間』
とりわけ「無花果割る」、「人妻ぞ」、「好色や」の句に見られるような、体内の深部とあるいはそれへの侵入とは、小澤の作品における重要なモチーフである。この三句に類似する作品としては、たとえば「親指を入れて海鼠の内洗ふ」などもあるが、思えばずいぶんグロテスクでもある。そう思って句集をひもとけば、小澤の句にはグロテスクなものもずいぶんあることに気づかされる。
腹剖かるる青鮫の笑ふなり 『瞬間』
穴子の眼澄めるに錐を打ちにけり 『瞬間』
あるいは、本論の最初に掲げたような端正な句と、こうした残虐性を孕んだ句とが同居する世界こそが、実は「小澤實」の作品世界なのではないか。
ここであえて個人的な事情を挟めば、僕が初めて『砧』を読んだのは、すでに小澤實が『砧』以後の句業を成して以後のことであった。だからこそ、『砧』には衝撃を受けたのだった。それまでの僕にとって、「小澤實」とは、端正な俳人としてのそれであり、「俳句は謙虚な詩である」と述べてしまうような俳人としてのそれであった。ところが、『砧』において僕が出会ったのは、たとえば次のような句であった。
透谷の死に方はうれん草ゆでる
妹をすこしいぢめる烏麦
なめくぢに塩かける子のうしろにゐ
中庭に馬冷えてをり娶りたし
胴ながきわれあり桜ふりつづく
『砧』にはまぎれもない「青年」がいた。鬱屈し、過剰な自意識にまみれた、繊細な「青年」がいたのだった。そしてそれはまさに僕自身であり、だからこそ、僕はたしかに衝撃を受けたのだった。『小澤實集』の「あとがき」で小澤は『砧』『立像』について「このたび再読して、その作品の幼さ、生硬さに驚いた。ただ、これも僕の俳句の展開における一過程である」と述べている。小澤にとってこの二つの句集は若書きとしてのそれなのであろう。けれど、若書きゆえの熱度は何ものにも代えがたいものだ。
翻って、小澤の作品に見え隠れする残虐性について考えてみると、それは、青年らしいねじくれた羨望と愛情の表象なのではないかと思う。「澄」んだ「穴子の眼」に「錐を打ち」こむのは、そうでもしなければ「澄」んだ「眼」の美しさに耐えられないからである。また「無花果割る親指根元まで入れて」からは、退廃的な愛情や、それゆえの虚無的な暴力の赤裸々な吐露がうかがえる。
ところで、この「加害者」は同時に、卑怯であり、また臆病でもあるのだった。「妹をすこしいぢめる烏麦」ならば、「いぢめる」のは弱者としての「妹」であり、「なめくぢに塩かける子のうしろにゐ」ならば、戯れになめくじを殺そうとする「子」の「うしろ」にいて傍観するのみで、決して当事者として立ち会うことはないのである。それはちょうど、後ろの席から「前席のうなじ」を覗き込む行為とも似ていよう。
むろん、この「加害者」にはそんな自身の卑怯さや臆病さを知っている。「腹」を「剖か」れる「青鮫」とは、自身の象徴にほかならない。「腹」を「剖か」れながらも「笑」うのは、だから、自らの弱さを自嘲気味に示しているのである。
ところで、富沢赤黄男の句に「大露に 腹割つ切りしをとこかな」がある。赤黄男は「青鮫」の句を書くことはできなかっただろうし、小澤の句業からは赤黄男の「をとこ」は登場しない。それは究極的には時代との対峙のしかたの相違という問題につながってこよう。赤黄男の「をとこ」は時代を背負い、時代と生真面目に向き合ったために自決してしまう。一方で、小澤や、あるいはそれ以後の僕らは、時代と真面目に対峙することにしらけてしまったところから出立したのではなかったか。とすれば、「腹」を「剖か」れながら自嘲気味に「笑」うだけの「青鮫」とは、読み手自身の姿でもあるはずだ。
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