・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
家を出て夜寒の医師となりゆくも
『山国』所収
仲:自分を規定するのに「夜寒の医師」とは実に思い切った表現です。前田普羅の「夜長人耶蘇をけなして帰りけり」に登場する「夜長人」にも匹敵する造語(?)と思いました。「家を出て」とありますから恐らく往診にでも出かける時の句でしょう。普通の外出なら「夜寒の人」であって「医師」とする必然性がありませんから、この時の彼は医師として外へ出たのだと思います。
これまで遷子の晩年の句を多く鑑賞してきた目からすればやや甘さが感じられます。どこか自分を遠くから見ているような切迫感のなさ。俳句の諧謔の底には己れをとことん客観視して笑いのめす態度があると思っている私としては、そのこと自体は悪いことだとは思いません。ただ後の彼の句境を見てしまうとどこか物足りないのです。「なりゆくも」などと万葉調にしたのも、縦令馬酔木の流行だとしても物語の中に自分を置いて満足しているような「ポーズとしての医師」を感じないではいられません。
中西:この句の万葉調は、馬酔木らしい調べとなっています。遷子の師秋桜子や、兄事していた波郷はこの同じ形でどんなものを作っていたのかと調べてみますと、
アカシヤ咲けり高原の風袖吹くも 水原秋桜子『残鐘』昭和27年刊
「家を出て」という上五に注目しました。診療が終って自宅に戻り寛いでいたものを、往診に呼び出されたのだろうと思います。家庭人の顔から、また医師の顔になるという、どこか意識的に顔を使い分けていた、つまりは緩めた気持ちをまた引き締めていく、職業に対する自負のようなものを感じたのですが、仲さんはそこに甘さを見ていらっしゃるようです。「ポーズとしての医師」を見るようだと手厳しいご指摘ですが、
原:「ポーズとしての医師」といってしまうと、遷子に少々気の毒かもしれません。一句の語調からは、日々のなりわいとして医業を果たしている医師の姿を思います。夜の往診も日常のことだったのでしょうね。
仲さんの言われる「切迫感のなさ」は、まさにこのときの状況がそういうものだったのでしょう。患者の状態も、急を聞いて駆けつけるような差し迫ったものではなかったとすれば、往診の道すがら、ふとこのような感慨が兆すこともあっただろうという気がしました。
深谷:昭和28年の作。馬酔木の万葉調を踏まえた、あるいは誤解を怖れずに言えばそうした表現形式に依存したような趣のある作品だと思います。万葉調の中でも、句の終尾を「も」で止めるスタイルを気に入ったのか、遷子は同じ句集の少し前にも「送らるる山羊に白樺の花散るも」「農婦病むまはり夏蠶が桑はむも」などの作品を収めています。どちらも同じ年の作品です。こうした万葉調は、作品にある種の「格の高さ」めいたもの、あるいは「らしさ」を与えてくれますが、一方でそれに依存した分だけ何処かしら甘さを残してしまう危険性があるような気がします。掲出句に関する仲さんの指摘も同様の問題点を踏まえたものだと思います。
そして、まもなく遷子の脱皮が始まります。句の対象やその内容が社会性を帯びたもの、厳しいものに変遷していくのにつれて、こうした万葉調も影を潜めてきます。秋桜子が理想とした「美しい構図」を表すのに万葉調という表現スタイルは適していたのかも知れませんが、後に遷子が採り上げたような厳しい現実を前に己の抜き差しならない憤怒あるいは哀しみを詠む場合万葉調ではやはり間延びした感が否めず、表現形式として相応しくないと判断したのではないでしょうか。遷子という作家が幾度か作風の変遷を遂げるに際し、その内容と表現に関する興味ある関連性を示してくれた作品のように思われます。
筑紫:遷子の往診の俳句と思われるものには次のような句があります。
星たちの深夜のうたげ道凍り
汗の往診幾千なさば業果てむ
ちかぢかと命を燃やす寒の星
自転車に夜の雪冒す誰がため
往診の夜となり戻る野火の中
凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ
穂絮とび教師としての我いつまで 能村登四郎『咀嚼音』
燃ゆるなき身を置く卒業写真の中
教師は我一代かぎり露走れ
東をどりに家庭教師として招ばれ
こうした相対論から私たちの俳句を反省すると、私たちが時代の好尚にあわせて必死になってうまい俳句を作っていることも、30年後には誰も理解できない俳句となっている可能性だってあるのです。不易流行といいますが、不易は時代の子である我々には本当は見えず、永遠に流行を追い求めているのではないでしょうか。
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