・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
卒中死田植の手足冷えしまま
『雪嶺』所収
深谷:昭和41年の作。何の技巧もない、鉈彫りのような句です。まず上五に「卒中死」という措辞が、一切の感情を拒むように置かれています。まるでカルテあるいは死亡診断書から抜け出てきたような印象さえ受けます。そして中七以下も、死の直前までも農作業に追われていた一人の農夫の死に様あるいは生き様を、余すところなく表しています。私事になりますが、私も北関東の出身で、塩分過多の食生活、(信州や東北ほどではないにしろ)寒さの厳しい住環境といった中で育ちました。子供の頃の記憶では、その頃(昭和40年前後)周囲の老人たちの死因は群を抜いて脳卒中が多かったような気がします。正確な統計にはあたっていませんが、現在死因トップを占める癌を遥かに上回っていた筈です(この辺りに関しては、専門家の仲さんの適切な(?)フォローを、勝手に期待しています)。すなわち脳卒中は長野を含む寒冷地に住む農民たちの、謂わば「職業病」であったと言えるのではないでしょうか。さらに言えば、掲出句の農夫の死は一種の「戦死」といった趣すら漂っています。だとすれば、その死を看取る遷子の姿は、友の無念を弔う戦友のそれであったように思えてなりません。そしてそうした現実は、佐久の風土と切り離すことのできないものでした。句作当時、遷子は佐久に居を構え、既に20年が経過した頃です。その歳月は、佐久の風土への愛着を育む一方で、こうした哀しみにも直面せざるを得ないという事実の積み重ねだったのでしょう。そして、それらのなかから遷子の風土詠、ヒューマニズム、社会性に対する志向などが生れたのだと感じます。その意味で、遷子作品の特質の一端をあらわしている作品だと思います。
中西:素気ない表現の句です。死が突然にきた農民の状態を表わしているようです。よく季語が入ったと感心してしまう内容なのですが、この句は一応田植の句なのです。
句作の動機はたぶん往診に行って診た患者の死です。医師として地元と深く係わっているわけですが、医師の目から見た農民は、かなり厳しい生活をしているのが描かれています。卒中が農民の「職業病」で、この句の農夫の死を「戦死」という深谷さんのご意見に、減塩の食事、たんぱく質の摂取の必要を説かれる以前は、成程そうだったのだろうと思いました。
深谷さんの哀しみに直面していった中から遷子の風土詠、ヒューマニズム、社会性に対する志向がうまれたとしていることに同感します。
その上で言えることは、この句が何かを訴える力を感じさせていることです。決して見下しているわけではないのですが、浮き上がってくる農夫の姿はあまりにも惨めに感じられます。この惨めな農夫の死を、遷子は社会に訴えかけるように俳句にしています。
ちょっと余談になりますが、この句もそうなのですが、遷子にとって、柔らかい言葉とゆったりとした表現は性格的にも、風土的に言っても受け入れられなかったのかもしれませんね。どちらかと言いますと、その対極の、単刀直入に詠い、無骨な表現です。
障子貼るかたへ瀕死の癌患者
初蝶に農夫家出づ鍬かつぎ
この無骨な味わいが山国の生活者の、そして山国生まれの気質なのではないかとつくづく思うのですが。
原:深谷さんが「鉈彫りのような」と仰った通りの直截な句です。事実の持つ厳しさ・重さがこういう形をとらせるのでしょう。
遷子は平畑静塔への私信の中で「あなたのように精神医学の勉強をしたかった」(「詩人の生涯覚書」昭和51年「俳句」4月号)と言ったことがあるそうですが、これが研究者の道を指していたかどうかは判然としませんが、結果的に一村医としての境涯を選びとったことで、この句をはじめ、人間生活に深く関わった作品を残しました。もし研究者の道に進んでいたら「馬酔木」流の美を抜け出すことが出来ただろうか、仮定の話は虚しいことですが、そんなことをふと思います。
仲:卒中は広辞苑によると「脳溢血(脳出血)または脳血栓・脳塞栓発作など脳の循環障害により、突然意識を失って倒れ、深い昏睡状態に陥る症状」ということになります。脳卒中はStroke かApoplexyの訳語で、より広い範囲の「脳血管疾患CVD=Cerebrovascular Disease」に含まれます。脳血管疾患には脳出血、脳梗塞(脳血栓、脳塞栓)、くも膜下出血がありこのうち動脈硬化によるものは脳出血と脳血栓…などと市民向けの医療フォーラムの講演みたいになってしまいました。言いたかったのは医療関係者の間では現在「脳卒中」というターム(専門用語)はあまり使われなくなり、もっぱらCVDと呼んでいるのだということです。遷子の当時はもちろんまだ「卒中」という言葉が一般用語としても専門用語としても普通だったのだなという点に隔世の感を抱いたのです。今同じ内容を詠むとすれば、カルテには「CVD」と書きながら(勿論「脳卒中」という語を使うこともありますが)俳句ではやはり「脳卒中」と詠むのだろうな、と考えていたのです。そう言えばいつの間にか「心臓まひ」という独特の味わいのある語はほとんど死語になってしまいました。
ちなみに深谷さんの「勝手な期待」にお答えしますと、おっしゃる通り昭和40年代までは日本人の死因のトップは脳血管疾患でした。昭和50年代には癌に、その後心疾患に抜かれて現在では第3位となりました(図1)。
・図1.
また遷子のいた(つまり私のいる)佐久は今でこそ長寿日本一などと威張っておりますが、昭和40年代までは日本一脳卒中による死者の多い地域だったのです。それが今のように長寿の地となったのは、私の勤める佐久市立国保浅間総合病院初代院長吉沢国雄らが各戸にまで入って行って減塩運動のキャンペーンを張ったり、一部屋暖房運動を展開したり、健診を通じて疾患の予防に努めたたまものと理解しています。その証拠として佐久市の脳卒中の死亡率の急激な減少を図2に示します。遷子の行っていた医療もこの死亡率減少に貢献していたのだと思うと、私など医師の立場から彼への尊敬の念が芽生えてくるのです。
・図2.
それはさておき、この突き放したような詠みぶりにはちょっと驚かされます。対象を見る角度が冷徹(非情ということでなく抑も感情を交えずに対象を見る態度)で、詩人というより科学者の目なのでしょう。ひょっとしたらこの死人は彼の患者ではなく、警察から頼まれて検死に及んだということではないでしょうか。一句全体から来る機械的、事務的な印象がそう思わせるのです。下村槐太の「死にたれば人来て大根煮きはじむ」を初めて読んだ時もその冷淡な雰囲気にびっくりしたものですが、この遷子の句は死者に対する態度というより見る目そのものが違う、やはり科学者の、検死官のそれなのです。
ただこの句を検死報告でなく詩たらしめているのは「田植の手足冷えしまま」という表現に込められた「人の生活、日々の営みへの共感」ではないでしょうか。死に至るそのときにまで田植という生業をやめることのなかった、そのことへの憐れみと敬意が感じられる気がするのです。深谷さんのご指摘のように遷子もこの頃には佐久の地やそこに暮らす人達に対して仲間意識を覚えるようになっていたと思われます。
筑紫:「田植の手足冷えしまま」にリアリズムが漂っています。死んだときの手足が冷えているのが、田植えのさなかの手足が冷えていたのと連続して描かれているからです。
西洋的リアリズムというものには、倫理観が背景に存在しています。江戸文芸の「うがち」や国学の「まこと」と違う所以です。そしておそらくリアリズムの倫理観は人間の平等性と密接不可分な関係にあるように思います。
ではこの卒中死する農民は誰と対比して平等でないと思われているのでしょうか。田植えをしている農民と対比される生産に携わらない地主でしょうか、劣悪な環境の佐久と比較される肥沃で広大な農地を持ち機械化の進んだ南や北海道の農作地帯の農民でしょうか、あるいはそうした目で見ている医師遷子のような有閑階級の職業の人間でしょうか。このように順番を追って見て行くと、急にそうした階級意識は萎えてくるようです。遷子にあっては、厳しいリアリズムの向こう側にあるのは、日本的な宿命の観念のように見えてきます。例えば、
生きかはり死にかはりして打つ田かな 鬼城
の水準のように思えるのです。とすれば一見社会性俳句の仲間のように見えながら社会性俳句にくくられることのなかった遷子の理由も分かるような気もします。西洋的リアリズムに比べていきおい不徹底といわざるを得ないからです。
* *
とはいえ、根付くことのなかった社会性俳句に比べ、遷子の社会性俳句は「社会性俳句」という運動よりもはるかに長く、遷子のなかでつづいてゆきます。西洋的リアリズムと違った、遷子固有のリアリズムがこれらの俳句の動機となっていたからでしょう。遷子の俳句にこれらのリアリズムが肉化したためであろうと思います。
そういえば不思議なのは、社会性俳句的リアリズムの背後に「田植え」のような季語があることです。沢木欣一でさえ、そのピークの俳句は無季俳句となることがありました。社会性俳句のきわめてまれな成功には、無季俳句が控えていました。それはそうでしょう、リアリズムは約束を否定するものですから。にもかかわらず遷子が季語や季節を離れなかったのは、なぜでしょう。ふと私は、馬酔木俳句の中にリアリズムが存在していたせいかもしれないと思いはじめました。
一番いい例が飯田龍太で、龍太は生涯を境川村ですごし、その風景を詠み続けましたが、詠む対象や詠み方はきわめて禁欲的でした。職業は医師ではないのでもとより遷子との比較は無理ですが、それにしても村人たちの詠み方がまったく違うのです。遷子が境川村に生まれそこで医師として開業したら、きっと境川村の農民の悲惨な生活や、元凶となった(蛇笏や龍太らの)地主としての自省、農民たちに対する憤り、地域の医療に対する矛盾を詠んだに違いないと思います。
遷子にとって佐久は特別な佐久ではなく、日本全国にある佐久であったような気がします。そこに描かれる佐久は、実は現実の佐久以上に、遷子の心の投影された佐久であったように思えるのです。遷子を培ったものが馬酔木的リアリズムであったとすれば、それが投影された佐久、―――言っておきますが、馬酔木は単に耽美的な自然描写だけではありません、生活や境涯についても独自の枠組みを持っていました、そのぎりぎりを探索していたのが遷子であったのだと思います。
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