2009年12月26日土曜日

「遷子を読む」を読んで(中)

遷子を読む(40)-2 特別編3

「遷子を読む」を読んで(中)


・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井


25回/山深く花野はありて人はゐず

吟:山深く花野はありて人はゐず 『雪嶺』 

薫風や人死す忘れらるるため 『山河』

こういう風景がわたしは好きです。

筑紫さんのいわれるように、たしかに、心理や理念の投影、も感じますが、実際にこういう場所はあるのだと思います。

「人がゐず」という「場所」そのものにゆきあって感動しているのでしょう。そこは人が来るのを待っているよう場所、自分のさがしていた場所だと感じるわけですから、見えぬ人影はうじゃうじゃしていますが。

でも、人間が居ない場所に感動すること、こういうのがナチュラリストの面目、と言ったような気がします。

筑紫:俳句のような極めて短い詩形の下で書くと、ナチュラリストの思想がペシミストの思想に変わってしまうことがありそうです。

吟:そうですね。でも、この「人はゐず」「人死す」は親しい人が死んではじめて湧いてくる感動ですから、読まれる時には皆さんのように心理詠として読みますよね。「ナチュラリストの思想がペシミストの思想に変わってしまうことがありそうです。」、と言う磐井さんのいい方をひっくりかえして、「ナチュラリストの思想もペシミストの思想に入れ替わって」、とも言えそうです。自然観照と、「自然」へ投入する感傷が密接だと言うことでしょうね。どちらに傾くのか心理的には濃淡があるようですけれが。

このごろは、皆さんの読み方にだいたいしたがっています。それでじゅうぶん面白いから。でもこのナチュラリズムとペシミズムが入れ替わる、というのは、「磐井&吟」のなかで浮上した新しい読みの視点かもしれません。

私は、俳句の中で、風景がどういう通路で心理に入り込むのか前からか関心があります。

筑紫:ナチュラリストとは関係ないのですが

南国に死して御恩のみなみかぜ

って、オプティミストに見えますか、ペシミストに見えますか?「死して」と文語を使っているところが味噌ですよね。

吟:攝津さんのこの有名句ですか?

南国に死して御恩のみなみかぜ  攝津幸彦

うーん、全体の文脈からが跳びましたね。そう決めつけられると俄にはこたえにくいものがあります。では、この話題にすこし入り込ませて下さい。

なぜ、この句が攝津俳句の原点のように言われるのかと言えば、社会的な関心の出し方が従来の社会性俳句のようにナチュラルではなく、技法的だ、と言うことにあると思うのです。むしろ、御恩という一言で、「死して」の主人公が南方の戦地で死んだ「戦死」した、日本軍の兵士だと、悟らしめる言葉遣いの鮮やかさ、にある、という点からでしょう。

たいして、相馬遷子の「社会性」は、その時代の生活や風土からでてきて、しかも山間の農村地帯のインテリの視線です。この特異性が活かされている個人的な意識の内の社会性です。

攝津幸彦には、風土からくる具体的なに社会的な関心を呼ぶ俳句が少ない、と言うか、全くないと言えるので、すが、初期に多いのは時代が個人に呼び込んでくる社会性です。

彼が、大学封鎖の時代に生きた浮動層身分の学生であったと言うことがかなり影響している、それと俳句史上影響を受けたのが「前衛俳句」の末裔としてその方法を享受かつ摂取したことによります。

この句は、徹頭徹尾ナチュラルではないのです。それ故、ペシミズムという感情移入が出来にくい意味世界です。しかし・・(という、幅が生じています)。

まず、「死して」と言うネガティブな事態を文語で表現すること自体が死の直接的な悲しみにすこしフィルターをかけてくること。

それが「御恩」という、個人の死とははなれた(ポジティブなむしろありがたい公の感情としての)言い方にまとめられていること。

いわばこの用語の逆接性がテーマを間接的に表現することとなり、作品の雰囲気を、ひとごとのようなオプティミズムに仕上げていると思います。

そして、この句の作者はペシミストだなあ、と感じさせるのは、戦前戦中の国家と個人を結びつける心理的な紐帯をしめす特異な散文的な用語、(磐井さんの別の関心である標語にかかわってきますけど)、その用語(標語)がその意図どおりに「句」になっているからです。

一般的な感情移入がしやすい「戦死」に結びつけられるので、機知のものとしてオプティミスティックに読めるのだけれど、内容はここにかかわることだからもちろん重い・・この両義的な意味世界によって、この句は忘れがたい何かを心理の内に残してきます。

「みなみかぜ」は、南のほうから日本に吹いてくる風のことだから、戦死の報のことを書いているのでしょうが、南国に死して、という現在完了形(主体性)とはどっかそぐわない。

そう言う読み方のもとでは、この句には大きなアンバランスがありますが、この自己矛盾がそのまま、表現されきっている、と言う意味で、従来の俳諧趣味と社会性俳句の接ぎ木というような戦争俳句を一歩越えた問題作です。

だから、あらためて、この句の面白さを読みなおしたのは、そのものの雰囲気はオプティミスティック、書く立場(攝津の作句姿勢)を推測すればペシミスティック、ということになります。

筑紫:まず、「南国」というのは、雲重く垂れ込む南仏地方から見たイタリアのイメージで、ジャワ、スマトラなどの南方戦線からずれています。「南方」といわないと通じないでしょう。しかし、あえて「南国」ということにより攝津のオプティミズムが見えてくるようです。まして「死して」です。この文語は、妙に芝居じみています。適切な例を思い出さないので頭の中にあるおもちゃ箱をぶち開けると、「死して屍拾う者なし」とかナレータが語っていたテレビ番組の『隠密同心』のようなイメージですね。だから「南国に死して」までは後ろにどんな舞台が登場するかは分からないわけです。キーワードは「御恩」で、ものがなしい言葉です。日本で最初期の標語に「貯金は誰も出来る御奉公」があります(拙著『標語誕生!』)。奉公と御恩、今では使わなくなっているこの二つの言葉は裏表になっているはずです。国やお上、天皇陛下に対する御奉公としての従軍、戦死があるわけで、このキーワードによって、「南国に死して」が急にペシミスティックになるのではないでしょうか。しかしそれだけでは、一般的な新興俳句にとどまるように思います。最後が南風、ではなくて「みなみかぜ」です、御恩として吹く「みなみかぜ」は急にオプティミスティックに転じます。何の憂いもはらいさった、パラダイスのように明るく静かな南の岸辺を思い起こします。

攝津の俳句自体、この句とか、「幾千代も散るは美し明日は三越」とか、甘美さを常にたたえています。オプティミズムとペシミズムを行き来しているところに摂津の重層性があるのでしょう。もちろんこれは相馬遷子とは関係ありません。むしろ遷子のオプティミズムとペシミズムは、ナチュラリズムと社会性の行き来に現れているのではないでしょうか。

吟:磐井さんは、フランス人のトマの歌劇『ミニヨン』の挿入歌アリア「君よ知るや 南の国」のことを言っておられるのですか?(トマは、サーカスの少女ミニヨンに彼女の故郷イタリアを偲んでこれをうたわせています。

この歌詞は、堀内敬三の名訳があるそうです。

私が原典をあたったのではありませんが、ブログには、堀内敬三訳として、記録している人がいました。検索してみてください。

もともとは、ゲーテの『ウイルヘルム・マイステルの修業時代』のなかの詩なのですが、多くの音楽家が曲をつけています。このゲーテの詩も、邦訳されて親しまれています。

たとえば、ネットでこういうのを見つけました。

君よ知るや南の国

歌:天地真理 作詞:ゲーテ・訳詞:安井かずみ 作曲:トーマ

君よ知るや南の国

香る風に オレンジの花

夢に描く 南の国

みどり木陰 よりそうふたり

わたしはそこで 倖せに出会う

自由に飛ぶ小鳥のように

愛が呼びあう 南の国

君よ知るや南の国

青い空よ 光あふれて

いつか行ける 南の国

白い雲に 手をふりながら

わたしはきっと 倖せみつける

あなたを待つ 愛の窓辺に

花を飾り 南の国

※わたしはうたう 倖せを胸に

時は流れ ふたりの愛

いついつまでも 南の国※

(※くり返し)

もうひとつ。昭和17年に「南から南から」(作詞藤浦洸、作曲加賀谷信。唄 三原純子。コロンビアレコード)と言う歌謡曲がはやりました。聞かれたことがあると思います。

南から南から

作詩 藤浦 洸  作曲 加賀谷 伸

昭和17

1  南から 南から 

  飛んできたきた 渡り鳥

  嬉しそに 楽しそに

  富士のお山を 眺めてる

  あかねの空 晴れやかに

  昇る朝日 勇ましや

  その姿 見た心 

  ちょっと一言 聞かせてよ

2  南から 南から

  遠く海超え 来た人は

  村里に 街角に

  靡く日の丸 頼もしく

  じっと眺めて 涙ぐむ>

  強いお国 日本の

  その姿 見た心

  ちょっと一言 聞かせてよ

3  南から 南から

  遠く海越え 流れ雲

  青い空 ゆらゆらと

  夢見心地に 浮かんでる

  ちるよ枯葉 ひらひらと

  うつる思い ゆく人の

  その姿 みた心

  ちょっと一言 聞かせてよ

これは、当時、南方の戦地に送られた留守家族も多かったところから、たいへんはやった唄です。

攝津幸彦のこの句の背景に、映画が好きで、軍歌とかレトロな文化の関心を持っていた彼が、こういういまや懐メロになっている流行歌や、歌劇の曲を聴いたのかも知れず。下地にあったと考えるとちがう味わいがあります。戦争中の国民は出征した家族への心配をこのように逆転して、明るい唄に託してうたっているのかも知れません。そこがかえって流行った理由とも言えます。

この句が、「御恩」を入れることで「戦死」の句であることは間違いないとしても。戦争時代のモダンな文化の雰囲気を同時にあらわしていたことはいままであまりいわれていません(攝津幸彦は、こういう形で、銃後の日常の中に生まれる戦火想望の想像力を推し量って仮構したのでしょうか?・・と、つい深読みしたくなります?)。

また、これらの南国へのあこがれを強調すると考えたら、そこで死ぬことを「恩寵」と考える屈折した、戦争を詠んだ句だとしたら、「倒錯」した明るさというべきでしょう。攝津そのものの言葉の感覚は、一筋縄では行きません。

攝津幸彦がレトロ趣味の教養をどこから仕入れてきているのか、と言うことにはかねがね興味がありましたので、よい機会なので考えてみました。この着想はあんがいこの句の解釈を拡げるかも知れませんよ。

南国は、なるほど、このときには「戦地」ではなくて、「南の国」ですから、「みなみ」から来るにしろ、こちらにいて「みなみ」をしのぶにしろ、ともかく明るさのイメージが強調されますね。

攝津は風俗をたくみにいれて、この句がなりたった時代の全体を示唆しているのでしょうか? 言葉の内部で多義性をだしているだけのこととは思えません。「御恩」というところで、彼は件の唄などに象徴される西欧の明るさを求める風俗と、戦争という主題を直接盛り込んで、彼の世代から見た戦争の時代を詠んだわけです。戦後俳句の出発点にある「社会性俳句」という方法を受けながら。もういちど新たな「社会性俳句」を、俳句のテーマに取り込んだのではないでしょうか?

相馬遷子は、村の生活を視点に据えたことは、今回の読み方の中心テーマですが、このような都会への言及とか。想像井内でのあこがれのような句はないのですか?(そうそう、「畦塗りやどこかの町の昼花火」というのがありましたね。これも、強引に取れば、都会の明るさをいいとめているようですね。都会という遠い場所への遷子の感じ吾かたをかすかに暗示しているのかも?)

 

筑紫:天地真理が出てきて驚きましたが、原作はゲーテですよね。森鴎外の『於母影』中の「ミニヨンの歌」では「南の国」の語は出てきませんが、「ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く/くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ/君と共にゆかまし」(訳者不明)となっています。

そういえば藤浦洸(懐かしいですね、「私の秘密」の名回答者でした)つながりで戦前にはこんな曲もありましたね。掲げたのは一番ですが、二番には「椰子の葉陰に真っ赤な夕日」とありますから南国=南方の意識なのかもしれません。ちなみに、虚子の熱帯季題に「嫁選」というのがありました。

「南の花嫁さん」(昭和17年)[中国の歌曲「彩雲追月」の翻案]

作曲:任光 作詞:藤浦洸 歌唱:高峰三枝子

合歓の並木を 仔馬のせなに

ゆらゆらゆらと

花なら赤い カンナの花か

散りそで散らぬ 花びら風情

隣の村へ お嫁入り

お土産はなあに

籠のオウム

言葉もたったひとつ

いついつまでも

吟:びっくりさせて済みません。私も、安井かずみが訳し天地真理がこれをうたっているので驚きました。?外が『於母影』にこれを引用翻訳していたとは・・。これも、想定外の知識になりました。

堀内敬三(1897?1983)は、ウイキペディアによれば、訳詩家。「遠き山に日は堕ちて」(ドヴォルザーク「新世界」より)、「アラビアの唄」、「アニーローリー」などがあります。NHKラジオの「音楽の泉」で愛好家に親しまれていました。

「南の花嫁さん」も藤浦洸作詞なのですね。南へ北へ大日本帝国が版図をひろげて行くにつれて、国内ではそこに触れるいろんな文化現象がおきていることがわかります、流行歌の情緒は甘く鋭く人心に食い込みまたその潜在する情感を反映するものです。昂揚と不安の両面の情感が日本人を揺り動かしていたのですね。

もちろん攝津幸彦のこの句は相馬遷子の句柄とは直接には関係はしませんが、同時代の全体性をみるときには、大いにかかわりあって来ます。

やまぐに居住の遷子にとっては、都会の風俗は「どこかの町の昼花火」だったのでしょう。と言うことで、遷子に戻ります。すこし逸れましたが、大事なバイパスになったような気がします。どうもありがとうございました。

筑紫:もどったところで一言。遷子はオプティミズムか、ペシミズムかから発した問題ですが、別のところで仲さんが遷子の当時の心境を推測する貴重な報告を行っていただいています。終戦前後の医学生の進路はどんな道があり、かつ社会の中で病気はどのように捉えられていたのかと言うことが是非必要な前提となります。こんなことすら75年前にどういう状況だったのか分からなくなろうとしています。40年前、「南国に死して御恩のみなみかぜ」と晴れ晴れしく詠んだ攝津幸彦が、ノイローゼのために毎夜、冷蔵庫の扉の開閉を繰り返していたという心情を理解できなくなっていることと重ね合わせると、自分自身の過去の行為すら十分な説明は出来なくなっているのではないかと空恐ろしく思います。オプティミズムとペシミズムの間には想像を絶する溝があるのではないでしょうか。

--------------------------------------------------

■関連記事

遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔25〕山深く花野はありて人はゐず ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔27〕畦塗りにどこかの町の昼花火・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。

1 件のコメント:

さんのコメント...

筑紫磐井様、東京の盛会おめでとうございます。披露困憊、とか。磐井さんにしてから、そうですか?疲れを休めてください。

楽しい、イベントを拝見して帰りまして

山深く花野はありて人はゐず 遷子『雪嶺』 

こういう静寂をあらためてかみしめています、もっとも自宅はそれほど山奥ではありませんが(笑)
中西夕紀さん、仲寒蟬さん、とお近づきになり親しみが湧きました。中西さんとは何年ぶりでしょう。

当日は、関西とか信州、松山、沖縄、などの地域性など、問題にもされませんでしたが、「自然:と言う問題は、もっと総合的に語られるべきでしょうね。(山川草木の状態のことだけではなく、都市民俗学や都会の中景観工学的人口自然もふくめて)。

有季か無季か等と云うより、こちらの方面へむかって、これから若い方々にこそ考えて欲しいモノです。

志がありさえすれば、俳句は、どの場所からでも、何歳からでも男女を問わず作り出すことができるのだ、と私は思っているので、あの若人達も、こんなに早く世間に曝されると先が長いから、いろんなことにであうはずです。じっくり自己発酵して、世界と関わる根本的な問題を提示して欲しいとおもいました。

遷子読みという趣旨とは少し離れて抽象的になりましたが、こういう過去のひっそりした場所に現代俳句のパラダイムをひっくりかえさぬまでも、見直すべき命題があるかもしれないわけで・・、私の終生のテーマである「書物の影」とも関わってきます。

爾後、ことに触れて具体的なコメントをしますから、磐井さん、寒蟬さん、またよろしく。調べたつもりでも校正漏れが幾つかありますので、適当にご判読下さい(吟)