・・・仲寒蝉
遷子が故郷に戻って開業した時の心のうちが知りたくて少し調べたり考えたりしてみました。まずは私が医師になった頃、医師として大学に残るのと開業するのとどう違うかをものすごく乱暴に分類してみます。
・・・・・・・・大 学 開 業
経済的・・・・・・ 貧乏 裕福
地域への貢献・・・・ 小 大
地域での尊敬・・・・ 中 大
全国的な尊敬・・・・ 大 小
主な興味の対象・・ 研究 臨床
上記を踏まえ医師免許を持つ者が大学を辞めて開業を考える理由を以下に列挙して見ます。最近の医師不足や勤務医の疲弊が問題になってからはかなり様相が異なってきていることを付け加えておきます。
1)親の店(医院、クリニック)を継ぐため。元手がかかっていますし社会的な期待もありますから。
2)経済的に裕福になりたいから。
3)大学にポストがないから。これにも政治的なこと、研究が好きかどうか、後進に道を譲るなど色々あります。
4)自分の故郷や開業する地域のために貢献したいから。
5)4)に近いですが純粋に患者さんを診るのが好きだから。
昔は博士号を餌に大学が若い医師を繋ぎ止めていた時代がありました。大学を出てすぐに開業するのではなく、少し医局に残って研究をして博士号(ティーテルとドイツ語で呼んでいました)を取って箔をつけてから開業する。医学博士というのは不思議に猫も杓子も持っているので持っていないと何か問題があるのでは?と勘ぐられてしまいます。だからお礼奉公の意味も含めて出身大学の医局のために労働力を提供する、その見返りとして博士号を貰う、という過程が当然のように行われていました。私の頃までは「博士号とかけて足の裏のご飯粒ととく、その心は取らなくてもいいが取ると気持ちがいい」などと揶揄されていたものです。
でも今は違います。今の研修医に聞くと博士号を取りたいなどと答える奴は余程の変わり者で数%しかいません。彼らのうち研究好きの少数派を除けば、臨床を志す大多数はとっとと大学を出て大きな研修病院で修行して学会の認定する「専門医」を目指すのです。
話が逸れました。遷子がなぜ大学を辞めて田舎で開業したのか。遷子の孫に当たる、つい最近東京の大学から家業を継ぐため佐久に戻って来られた若先生に尋ねてみたところ、遷子の頃の相馬家は医業とは関係なかったようです。(「本家」は現在佐久地方でソーマ薬局を手広く経営しています。)つまり遷子は家業を継ぐために故郷へ戻ったのではなくゼロから医院を立ち上げたと言うことです。これについて先ごろ第一級の資料を手に入れました。遷子の弟、故相馬愛次郎氏が卒寿を記念して書かれた『九十年之自分史』という本をお借りできたのです。今では遷子の相馬医院と愛次郎氏の相馬北医院とは場所も経営も全く別になっていますがもともと最初に遷子が医院を開業し愛次郎氏を呼び寄せて兄弟で相馬医院を経営したのでした。そのあたりの事情をこの本から拾うと、
兄相馬富雄(遷子)が、それまで勤めていた函館病院の内科医長を辞して郷里の野沢に帰り、昭和二十二年早春、相馬医院を開設した。
次いで私の妻子が加わり、少し遅れて私は勤めていた東京の病院を退職して加わった。
その翌年の昭和二十三年二月三日、私は「海軍将校の故を以て公職追放」の身となったのである。当時、結核は国民病であり、戦時中は最も蔓延した。
兄も私も従軍して、そのため健康を損なった身であるので、二人で協力して生きようと思ったのである。幸いなことに父がかつて人助けに所有した土地があり、その土地と交換に街の中心部にあった空き旅館を入手することができた。
遷子が内科、愛次郎氏が外科担当ということで切り盛りしたようです。これによると遷子の開業は昨今のような華々しいものでも、また大学か開業か、とか勤務医か開業医かといった類の選択ではなかったようです。兄弟ともに従軍し、体調を崩し、おまけに戦後の大変な時期に家族を食べさせていくということをよく考えた末の結論がこの兄弟協力しての開業であったと言えましょう。
そもそも家業が医療と無縁であった兄弟揃って東京帝国大学医学部に入学したというのもすごい。当時は戦前ですから有為の青年は「国のために」何程のことが出来るかを考えて進路を決めた面もあったでしょう。帝大であれば医学部=開業ではなかった筈です。愛次郎氏は帝大のバスケットボール部の主将を務めたくらいのスポーツマンで海軍軍医を志望されました。遷子の従軍も本人の希望だったのでしょうか? 少なくとも医局の方針などということはなかったと思われます。この頃の事情が判る部分を引用します。
大学の他科では三年の過程を終え卒業すると、概ねすぐ就職して給料をもらった。しかし医科は四年と長い上、多くは大学の医局で無給助手として数年は勉強しなければならなかった。昔は医者になるには経済上は苦しくて、世上でも儲かるなどという話はなかった。兄も同様東大島園内科に無給で勤めていたので、私まで家計に負担をかけることは無理だと思った。
ここにもある通り、当時の医院開業は決して楽ではなかったようで、その後の相馬医院経営もしばらくは大変だったようです。先日誌上で問題になった開業当初の遷子の郷里に対する鬱屈した気分を、同じような境遇の愛次郎氏が語った部分がありますので引用してこの稿を終えたいと思います。
終戦後の焦土から立ち上がった東京は、騒然としていたが活気があった。久しぶりに見る郷里は、平穏で淋しさがただよっていた。この地からは悲運にも沖縄へ出征した為、多くの戦死者があった。軍医だったご主人を亡くされた女医も居られた。それで三十年振りに医師二人揃って帰郷した私たちを、当初周囲は必ずしも温かくは迎えてくれなかった。
兄は元来、蒲柳の質ながらも中国に従軍し、私は歴戦し別述の如く戦病を負ったこと等は人の知るところではなかった。
当時は戦後の物資・食糧が欠乏し、庶民は概ね貧乏で気持ちがすさび、一番苦しい時期でもあった。(中略)
そして医療保険もないので、人々は病んでもよほど重くならないと、医者にかかることはなかった。近年、患者の中で最も多い高血圧症などでかかることはなく、脳卒中をおこして初めて往診をたのまれたものである。
さらに少し付け加えておくと、この後愛次郎氏は結核が重くなり昭和28年12月から31年春まで清瀬の東京療養所に入所します。波郷が入所する10年位前ということになりましょうか。
(筑紫:仲さんから非常に興味深いお話を送っていただきました。私がよく分からないといって問題提起していた、なぜ遷子は佐久で開業医になったのか、特に不満や鬱々たる心情を持ちながら開業医を続けた理由が分からないという質問に対する答えになっているようです。)
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