2009年10月31日土曜日

遷子を読む(32)

遷子を読む(32)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


ストーヴや革命を怖れ保守を憎み

     『雪嶺』所収

原:昭和36年作。句集での並び順から推察して、1、2月頃の作品。この前年に起きた社会的事件を列挙すると、

日米新安保条約調印(1月)

安保反対運動広がる

三池争議激化

岸内閣退陣(7月)

浅沼社会党委員長刺殺(10月)

以上の出来事のあった昭和35年に、遷子は次のような2句を詠んでいます。

誰がための権力政治黒南風す

夏痩の身に怒り溜め怒り溜め

まさに世情騒然たる有様で、当時何の社会的関心もない中学生だった筆者でさえ、これらのニュースはありありと記憶していますし、樺美智子、岸信介、浅沼稲次郎の名はたちどころに口を衝いて出て来ます。

掲出句は、このような世相、事件のただなかにあった大方の良識的知識層の偽らぬ感慨ともいえるものではないでしょうか。「革命を怖れ保守を憎み」との心情を、どちらに与することも出来ない自嘲と片付けてしまってはいけないような気がします。ジレンマにはちがいないけれど、赤々と燃えるストーヴの炎を見つめながら、じっと思念に耽っている男の姿が思われます。

中西遷子は社会的な事柄を自分にひきつけて描いています。今までの『草枕』や『山国』の作品とは趣を異にしています。高原俳句といわれた美しい風景詠などと比べますと、言葉の熟れていない恨みがあるように思いますが、内容的には新しい展開を見せています。社会性俳句を取り入れながら、それとは少し違うようです。自分の考えを述べているという点が、今までの遷子俳句にもなかったところです。

革命を怖れ」されど「保守を憎み」なのでしょう。1949年中華人民共和国の成立や、1961年キューバ革命を見ている世代です。戦争の恐ろしさは実感のあるものです。しかし、今の保守政権には憎しみさえ持っているというのです。岸政権の弱腰な新安保条約は多くの国民を失望させました。

原さんが、「良識的知識層の偽らぬ感慨ともいえるもの」とこの句を評しておられるのに賛同します。それにしても「憎み」というのは強い表現です。

着膨れて金貯めて欲つきざるや

「ストーヴの句」の4句先にある句です。資本主義のゆがみを詠っています。経済の変革期に当たる時代の人の思いが伝わってきます。この句には怒りも少しこめられているように思います。

不信とか、怒り、憤りを顕に描いています。

遷子の中にこんな激しい部分があったことに驚かされます。

深谷遷子は、この時期(昭和34~36年)に政治的事項をテーマとする作品を多く残しています。掲句もその一つですが、当時の政治情勢や社会世相抜きには理解しがたい句でしょう。先日、20代の若者達と句会を行った折、「ゲバ棒」という言葉を知らないと言われ、絶句したことを思い出しました。彼らからすれば、掲句の「革命」を怖れる心情はまだしも、憎むべき「保守」という構図は理解しがたいと思います。何しろ、つい最近、二大政党の間で政権交代が実現したといっても、系譜面でもイデオロギー(現時点では「政治信条」と言った方が適切かもしれません)面でも、両党とも「保守」主義に属する政党であるわけですから、保守主義の政党を認めないと、現実的には政権選択自身が非常に困難になってしまいます。ですから、あくまで句作当時の「保守勢力」を想起しなければならない作品でしょう。換言すれば、こうした(広い意味での)時事俳句は、時間の経過とともに、その作品価値の「劣化」を免れ難い宿命にあります。しかし遷子は、そんなことは百も承知だったような気がします。もとより、社会的名声や俳壇的地位を求めようとすれば、こんな作品は発表しないでしょう。それを承知で、敢えてこの句を世に出したところ、率直な心情吐露を行ったところに、遷子の句作信条が見受けられるように思います。

窪田日本人の曖昧な態度と指弾されかねない下十二音。若い人だったらこうは詠まなかったであろうし、詠んでも表には出さなかったであろうと思います。分別ある中年の句とでもいうのでしょうか。ストレートに自分の思いを句にするので大変分かり易い。遷子の正直な性格が伺える句だと思います。同じ昭和36年の作に、

虫の闇核爆発の灰が降る

人類明日滅ぶか知らず虫を詠む

などがあって、これらも当時の大人達のごくありふれた思いのような気がします。日記の余白にメモされたような句であるように思いました。

筑紫:今回から新しいメンバーに入っていてだきました。仲寒蝉さんです。角川俳句賞を受賞してらっしゃいますし、遷子ミステリーツアーでお世話になった島田牙城氏が宗匠をしている「里」の編集長をされている方ですからご存知の方も多いでしょう。医師であり、佐久に住まわれているということで参加をお願いしたものです。

寒蝉です。櫂未知子さんに憧れてこの道(俳句)に入り『港』という結社に所属しています。もともとは大阪出身ですが、信州大学医学部を出てそのまま地元の佐久市立国保浅間総合病院というところに就職しました。そんな訳で相馬遷子と同じ佐久の地に住んでいます。ここには同じ関西から来た、しかも同じ昭和32年生まれの島田牙城という変な男が邑書林という出版社をやっていて、数年前から一緒に『里』という同人誌を立ち上げ今はそこの編集長ということになっております。遷子という人については馬酔木の高原派というくらいの知識しかなかったのでこの機会に郷土の先輩(俳人としても医師としても)のことをもっと勉強したいと思い参加させていただきます。よろしくお願いします。

筑紫それでは早速コメントをお願いします。

仲:こんな激しい句が遷子にあったとは驚きです。遷子の政治的立場や拠って立つ思想などは不勉強にして知りませんが、ここには右とか左とかを越えた、原さんの言う「良識的知識層」としての思いが籠められているのでしょう。

佐久は新幹線の通った現在は勿論ですが、昔から東京志向の強い土地だったようです。医療関係でも有名な佐久総合病院を一代で築き上げた若槻俊一もわが浅間総合病院初代院長吉澤國雄もともに東大出身で東大の医局から派遣されて赴任しました。ただ若槻は共産党に入党しそうになったり労働組合を結成したりと筋金入りの共産主義者であった一方で、吉澤は戦後の中国で中国共産党に捕えられ共産主義の洗脳を受けたものの最後はそれを断固拒絶して帰国したという違いはあります。

佐久の人達は議論好きですから寒い冬(当時は屋外で氷点下15度にもなったでしょう)にストーブを囲みながらやれ保守だやれ革命だと口角泡を飛ばしていたことでしょう。そうした中、革命の側にも保守の側にも与せず、良識ある一知識人、医療という職に就く者として世の中の動きを見ているという立場に私は共感します。それは旗色不鮮明とか況して日和見とかいうものでは断じてなく、積極的中立とでもいうべき姿勢ではなかったでしょうか。この句の語調の激しさにそのような思いを感じ取ることができます。

今回の衆議院選挙と重ね合わせてはいけませんが、政権がどう変わろうと自分の行おうとしている医療にとって不利益でなく、患者すなわち地域住民に益する方向であればよいというのが一般的な医療人の姿勢のように思います。

筑紫:遷子が社会的関心をあらわにした『雪嶺』時代の俳句です。

隙間風殺さぬのみの老婆あり 36年

農婦病む背戸叫喚の行々子

このように、もともと遷子の社会的関心は、佐久の農民たちと、自らの医業を素材に詠まれたのですが、ここに至って社会全体への思いが俳句として詠まれています。果たして、俳句として成功しているかどうかは別にして、遷子を語る際に避けて通れない傾向だと思います。なぜなら、農民の暮らしや医師の生活について考えていったとき、抽象化された社会とか国家にたどり着かざるを得ないからです。

確かに、ストーヴからは安易にロシア(旧ソ連)を連想しますし、それはロシア革命につながります。その意味では熟成した表現とはいえないと思います。しかし、この句を読むとき、これを遷子が残した傑作とすべきかどうか議論することは誰もしようとしないと思います。それよりは、戦前の甘美な馬酔木俳句を詠み、戦後は高原派として知られた遷子がなぜ、常識ある俳人からは退歩と思われる俳句を詠んだのか、こそを知りたいと思うのではないでしょうか。

高原派といえば、堀口星眠氏は、佐久ほどではないにしても東京のような都会から比べれば辺鄙な安中で開業医をしていますが、遷子のような俳句の道をたどりませんでした。むしろそれが普通でしょう。遷子の道は独自の道であったといえるかもしれません。

特に考えなければいけないのは、革命も戦争も、その意味では個人個人の体験によって得られる共感も変わってくるはずです。この句に「戦争」という言葉は出てきませんが、背景にはやはり戦争が控えているに違いないと思います。この句の1年後には、キューバ危機が起きています。昭和37年1015日から28日までの13日間は人類が核戦争で滅亡する危機をさまよった頂点の時期でありました(窪田さんが引用した句は一種の予言のようにも受け取れます)。革命と保守の対立は、結局ここに流れ込んで行くのです。

こうした文脈から考えると、こんな時代によく、むしろ逆に花鳥諷詠と高原俳句に専念できた人々がいたことに感心してしまいます。たとえてみると、どんなに国際社会が激変しようが、日本で革命が起きようが、そうした政治情勢とは別に、村役場は開いて、村民の日々の生活のために住民登録や埋葬許可書は発行しなければなりません。個々人は何を考えようとかまいませんが、村役場の機能とはそうしたものなのでしょう。いやであれば、村役場に務めている職員は、時間外であるか、休職して、新しい社会を作る運動を起こすしかありません。遷子を含めて社会の動きに敏感に反応した作家たちは、俳句に関して、そうしたことを視野においていたように思うのです。それは作家的良心に照らして決して間違っていたわけではありません。ただ、それが現代俳句にうまくつながっていないという、ただそれだけのことなのです。

話は変わりますが、堀口星眠氏の回想に、軍隊時代を語った遷子の言葉があります。「遷子は従軍時代を多くは語らなかったし、私もくわしく聞くこともなかったが、1つだけ、何かの話で戦争のことにふれたとき、『馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともう真先に下りているのですよ』という意味の思い出を語って笑っていたことがある」。医者だけに命をいとおしんだ遷子であったのでしょう。遷子はその意味で戦争に対する嫌悪ではなく、恐怖こそが強かったように思います。前回、中西さんがあげた、

麦照るや弾が掠めし耳いたき

が、先ほど「個人個人の体験によって得られる共感も変わってくる」と述べた遷子の戦争体験につながるように思うのです。

【追加】昨年末、復刻された『川口重美句集』という句集があり今、読みなおしています。東大工学部に在籍していた「風」の同人で、昭和24年、25歳で女性と心中してなくなった俳人です。昭和38年に仲間と親戚たちによって句集が上梓されました。この中の作品を読むと、昭和20年代から30年代に生きた人たちの俳句に対する考え方は、今日とおどろくほど違ったものであることが分かります。むしろ当時と驚くほど違ってしまった私たちが恐ろしくすらなるのです。

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