2009年11月15日日曜日

遷子を読む(34)

遷子を読む(34

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


幾度ぞ君に清瀬の椿どき

     『山河』所収

中西「清瀬に波郷氏を訪ふ 二句」という前書きのある昭和44年の作品です。この句の前に、

春光に君見る医師の眼もて

という句があります。

その頃の波郷の様子を『酒中花以後』の石田あき子の後書で見ますと、23日に脳症を起こし悪化したので、2度目の気管切開。34日、大変悪化して安静、あき子は帰宅後自宅のテレビのニュースで『酒中花』の芸術選奨文部大臣賞受賞を知る。411日授賞式にあき子、波郷の代理で出席、病状は一喜一憂を続けている、とあります。そしてこの年の1121日に波郷は亡くなります。

遷子は度々お見舞いや林檎を送っていたようで、波郷からの御礼の手紙が何通か残っています。医師である遷子への波郷の手紙は病状の説明と、施された治療を詳しく伝えています。最後の波郷からの文は葉書で、亡くなる1ヶ月前の1013日、『雪嶺』と林檎を送ったことへの御礼です。

この句は波郷への遷子の優しい気持ちが籠められています。入退院を繰り返している波郷を案じているのです。見るからに痩せて、弱弱しくなってしまった波郷を目の当たりにして、穏やかな詠みぶりです。波郷の好きな椿の季節がまた巡ってきましたね、ということですが、もしかしたらお別れに行ったのかもしれませんね。遷子は波郷に対してどこまでも暖かく、優しく、慈愛がこもっていたように思います。『雪嶺』の終わりの方に、「波郷氏に『野分雲透きし虚空をわが窺きぬ』の句あり」の前書きの

野分雲透ける虚空を君よ見るな

という切実な句もあります。波郷を詠んだいずれの句も、兄事している波郷への愛情を感じずにはいられません。

:石田波郷が遷子の句の本質を深く理解していたことは『山国』の跋文によく現れています。遷子もまた自分より若手であった波郷を信頼し兄事していたそうですね。中西さんが挙げておられた2句を含め、波郷を詠んだ句は、『山国』に1句、『雪嶺』に3句、『山河』に7句ありました。ほかにもあるかもしれません。破格の数です。

掲出の句は、病篤き波郷、そして椿好きの波郷、双方に関わって、慰めているかのような遷子の心持が感じられます。波郷のことが大好きだったのでしょう。

じつは、遷子という人は本当は人嫌いだったのではないか、そんな気がうすうすしていました。『山国』には、

黒南風に嫌人癖の亢ずる日

という句もあります。

もちろん本人の言っていることなど当てにはなりませんし、誰だってたまにはそんな気分になったりするものです。だいいち、実生活の場で穏やかに人に接している様子を何人もが書いています。にもかかわらず、その印象が離れません。

前回、遷子が雪の山容に精神を重ね合わせていると書きましたが、それとも関係するかもしれません。彼の家族詠は無防備で心をひらいていると感じるのですが、それ以外はどうでしょうか。(句の良し悪しとは別の話です。)

作品中に登場する人物は農民、患者、老人がほとんどで、これは職業や役割であらわされた言葉ですが、切実な内容を詠んだ作品の場合でも、それはまず一つの光景として眺められます。客観的視点といったらいいでしょうか。言葉を代えますと、人物を詠んだものより、雪山や星空など自然現象に対する方がむしろ一体化しているように感じられるのです。これを欠点だといっている訳ではありません。私が感じている「人嫌い」という印象の一端がこんなところにもあるというにすぎません。

そんな中でほぼ唯一の例外が波郷に対するものでした。ひたすら相手を思うときは自分を忘れます。心情とはそういうものなのでしょうね。

深谷:遷子にとって俳句の師は秋桜子ただ一人だったと言えますが、兄事した波郷から受けた影響は秋桜子からのそれに勝るものがあった時期もあります。とりわけ戦時中から戦後にかけて、具体的には大陸の前線から国内に帰還し、函館の病院に勤務していた時代がそうでした。この時期、遷子は函館在住の鶴同人斎藤玄らと親しくしたこともあり、「鶴同調」に顕著なものがありました。そのあたりについては、波郷自身が遷子の句集『山國』の跋で、詳しく触れています。

その後遷子は、堀口星眠・大島民郎らとともに「高原俳句」に注力する時期を経て、遷子独自の作品世界を築き上げていきます。馬酔木流でもなく、鶴調でもない、独自の遷子ならではの作風です。その過程では、秋桜子や波郷に惹かれながらも、そこから脱皮していく葛藤があった筈です。

そうした遷子と波郷の長い交流を考えるとき、重篤な病に伏せる波郷の姿を見る遷子には、様々な想いが去来した筈です。青年期から肺を病み清瀬で長い療養生活を送った波郷が、また同じ清瀬で病床に伏せっているのです。とりわけ、医師でもある遷子は波郷の病状を的確に把握することも可能だった筈ですから、近付き来る波郷の死を予見していたかもしれません。長い冬を経てようやく咲いた赤い「椿」が、そのあでやかさゆえに、読む者に痛切な印象を与えます。

窪田:一読、胸を締め付けられる思いがします。俳句を多少勉強した人ならば、前書きがなくとも清瀬とあれば波郷を思うでしょう。波郷は何度も清瀬の病院に入院し、幾たびの春を迎えたことでしょうか。この「幾度ぞ」という措辞に、遷子が波郷の闘病生活に思いをめぐらし労る思いが溢れています。医師の眼をもって見るとき、すでに波郷が次の春を待たずに逝くのではないかということが察せられたのでしょう。この年の1121日波郷は亡くなります。中西さんのコメントに「波郷から遷子への手紙」には病状の説明と、施された治療を詳しく伝えているとあります。これは、単に医師と言うだけではなく、人として遷子への信頼感が波郷にあったためだと思います。遷子もそういうことを感じとっていたのではないでしょうか。もともと兄事していた波郷に信頼されていることは、遷子にとってどんなに嬉しいことだったのか想像に難くありません。遷子は、人付き合いがあまり上手でなかったらしいので、なおさらのことでしたでしょう。ただ、遷子が人間嫌い(この言葉自体どう定義するか問題ではありますが)だったかは一概に言えるかどうか私にはまだ分かりません。原さんが言われた「人物を詠んだものより、雪山や星空など自然現象に対する方が一体化しているように感じられる」というのは、私もその通りだと思いますし、筑紫さんのご意見もこれに沿ったもので、「人間一般と対応するのが自然なので、遷子は自然の方へ傾いていた」と明解に言われるともう参ったと思います。が、この問題は遷子の死生観にも通じるような気もしていますので、もう少し考えたいと思います。

仲:遷子と波郷の関係については今回句集を読んで初めて知りました。これまでは馬酔木の同門くらいの認識しかなかったのですが、晩年の波郷に対する気遣いを見ると原さんのおっしゃる波郷への傾倒が底にあるのだなと感じます。一方で医師としての冷徹な目も忘れてはいません。抗生剤が発見されたとは言え結核は当時まだまだ「死に至る病い」でしたし、波郷の受けた手術など今ではまず行わない、というかあれでは完治しない。今の研修医に当時手術を受けた人のレントゲン写真を見せると一様に「そんな手術あったんですか?」と驚きます。清瀬の結核研究所と言えば当時は最先端の結核治療の場でした。そこで当時としては最善の治療をした結果が56歳での死であった訳です。

話が逸れました。私はこの句を読んで「i」音の響き、特に「キ」という音の響きの効果を考えざるを得ません。この音には張りつめた感じ、切羽詰った余裕のない感じが付きまとう気がします。清瀬にいてそう何度も春の訪れを享受できよう筈はないと医師である彼が一番知っていたでしょう。でありながら「椿」の花をあと幾つ見られるかではなく「椿どき」をあと幾度迎えられるかとの無茶な問を問うている。それは勿論答えを期待してのことではなく、波郷の死が近いというこのやりきれない現実に対する異議申し立て、心の奥からの叫びだったのではないでしょうか。その叫びを表現するのに甲高い「i」音、「キ」音の響きが必要だったと思うのです。

筑紫:原さんの、遷子は人間嫌い、という解釈は、私も納得させられます。逆に遷子から、人間関係が好きで好きでたまらないという証拠を見つけようとしてもほとんどそうした句は見つけられないように思います。遷子のもつ人嫌いの要素については、私も前回即自→対自の対立で感じたところです。同じことは繰り返さないようにしますが、遷子も人間に関心はあるでしょう、それから家族や身内、死者などに寄せる思いはあるようですが、人間一般に関してはあまりそうした愛情あふれる態度は見つけがたいようです。たぶん、「人間一般」と対応するのが「自然」だと思いますから、遷子は自然の方へ傾いていたことになります。

父母や妻や子へ寄せる思いが波郷にも重なるのですが、波郷には年上のものを信服させる魅力があったようです。遷子はもちろん、波郷より年上でしたが、能村登四郎も波郷に兄事したことを書いていますが、実は波郷より年上でした。

戦後の馬酔木は、波郷を抱え込むことによって、多様性を維持できたのだと思います。秋桜子という非常に純粋で理想主義的な指導者(戦後誰もやっていた闇物資を買う生活を許さなかったため家族は苦労したといいます)だけでは馬酔木はやせ細ってしまっていただろうと思いますが、波郷というもうひとつの軸が存在したことによって、さまざまな可能性が生まれ得たと思います。遷子の農民や患者を詠んだ句もそうですが、登四郎の社会性俳句も馬酔木の公然とした作風として認められるには波郷の存在が重要だったと思います。あるとき登四郎の話で、第1句集『咀嚼音』(波郷の影響を受けて一貫して教師に執した句を収めた句集)という句集を出すと秋桜子に言ったところ、「咀嚼音ってあのくちゃくちゃいう音、いやだねえ」と言われたといいます。そうした意味で救われた作家は馬酔木にはたくさんいたのではないかと思われます。

ただ、掲出の句は、遷子が、馬酔木の一途な耽美的俳句からの転機を決意した句とは違って、快気を祈るような句であると思います。それだけに美しく、調べが整い、波郷から連想される素材が多く使われています。しかし、医師である遷子にとって波郷の病状は分かっていたのではないかと思われますから、この端正な句の向こう側には容易ならざる覚悟があったはずです。

どうでしょうか、「幾度ぞ」には単純に何度もという意味だけでなく、幾度繰り返して最後になるのかという言外の意味もこめられているような気がします。以前、

汗の往診幾千なさば業果てむ

を取り上げましたが、反復の向こうにある宿命のようなものを人生の知恵として遷子はもっているのではないでしょうか。

万葉集の挽歌に次のような歌があります。

  天皇聖躬不予の時に、大后の奉る御歌i一

天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり147歌)

天武天皇が具合が悪くなったときに皇后(後の持統天皇)が詠んだ歌ですが、確かに、容態は悪化したにしても、まだ快気への期待を持ち、皇后は「御寿は長く」と朗らかに祈っていたわけです。こうした句を「挽歌」で見つけると不思議な気持ちになります。そんな違和感を遷子の掲出句に感じないでもないのです。

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