2010年2月6日土曜日

遷子を読む(45)

遷子を読む(45)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


秋風よ人に媚びたるわが言よ

 『雪嶺』所収

原:昭和37年の作。この人にして、このような忸怩たる思いに沈むこともあったのか、と思わせる句です。遷子の函館時代、来道した石川桂郎が酒席で遷子が来ると座があたたかくなるねと洩らしたというエピソードがありますが、紳士・貴公子という印象を周囲に与えていた人の、或る日或る時の胸の内を垣間見せられたかのようです。

内省的な句はほかにもありますし、高い精神性を山河に託すかたちのものは散見しますけれど、この句のように直接的な真情の吐露は見当たらないのではないでしょうか。『雪嶺』には「行秋やなさねばならぬ悪ひとつ」の句も見えますが、内容の質が違います。「悪」の重さより「媚び」たという後悔はチクチクといつまでも棘のように残るものです。自分の卑しさをわれとわが身に恥じる語調が「・・・よ・・・よ」の重なりにあらわれているようです。

とりたてて難しい句ではありませんが、遷子の人物像に肉付けをする意味で興味深かった句です。

中西:遷子も媚びることがあるのだと驚きます。句の中では随分物事をはっきり言っているように思いますが、実生活ではきっとそうではなかったのでしょうね。俳句は遷子にとって、自問自答の場所であり、社会批判の場所、自己反省の場所でもあったのでしょう。

百合の香と小過失吾を眠らせず

という句が3年後の昭和40年にあります。胸中を吐露している句です。きっと悩む人なのですね。胃病もストレスからかなと思ってしまいます。どちらかと言いますと、遷子は思いをストレートに述べる人のように思います。そういう時、季語はその気持ちを反映したものであるようです。百合の香が強くてその匂いで寝られない、でも本当の理由は自身の過失が気に掛かっているのです。

掲出句の場合は秋風ですが、〈秋風よ〉と〈わが言よ〉と〈よ〉を反復して使っています。〈秋風よ〉が呼びかけなら、自分の嘆きを秋風に聴いて貰っているようにも取れますし、秋風と遷子の嘆きが同列と考えるなら、秋風はやるせない気持ちを強める役目を担った言葉ということになるかと思います。

遷子の場合、気持ちを述べる句は『山河』にもっとも多いのですが、たとえば、

雪嶺よ日をもて測るわが生よ

この句などは、〈よ〉のくり返しが掲出句と同じではあるのですが、この二句の季語の重量感の差は歴然としたものがあります。雪嶺は遷子の山河であり、友であり、心の拠り所でもあるわけです。〈わが生よ〉は〈わが言よ〉と言ったことの地平の先にあったものかもしれませんね。秋風の句はそういう点で、自問の形の通過点の句かとも思いますが、雪嶺の句が死病の句であることを知らないと難解であるのに対して、わかりやすい句でもあると思います。

深谷:“媚び”は、遷子にとって最も忌むところだったように思います。なのに、なぜ他者に媚びを売るような言葉を、遷子は発せざるをえなくなったのでしょうか。もちろん遷子といえど一人の生活者ですし、ましてや病院の経営者なのですから、様々な世事にも当たらねばならず、その過程で諸々の事情からそうした言辞を発せざるをえなくなることがあったとしても不思議はないかもしれません。また公職めいたものも引き受けざるを得ず、やむを得ず、そのような状況に立たされたのかもしれません。後者について思い当たるのは、もう少し後の時代の作品になりますが、昭和42年の作の、

会議陳情酒席いくたび二月過ぐ 『雪嶺』

です。詳しい事情はわかりませんが、こうした陳情や酒席の場で、下げたくない頭を下げたり、相手の機嫌を忖度したり、そんな機会が何度もあったのだと思います。あるいは、こうした遷子の「努力」が実を結び、所期の成果を収めたこともあったでしょう。けれども、その後に遷子を襲ったのは、拭いがたい虚脱感・嫌悪感だったことだと思います。原さんが指摘されたとおり、掲出句はそうした感慨を率直に吐露した作品でしょう。上五に置いた「秋風よ」が、遷子が味わった寂しさを象徴しているように感じられます。

もう一つ、この句で特徴的なのは、切れ字「よ」のリフレインでしょう。これも原さんが述べられたとおりだと思いますが、加えて伝統的な「や」ではなく口語的なニュアンスを持つ「よ」を選んだことで、遷子の感情がそのまま読む者に伝わって来るという効果をもたらしているのではないでしょうか。

仲:遷子ほどの人でもこういうことがあったのか、と原さん同様私も感じました。温厚でありながら自分の考えをはっきりと言う人だと思っていたからです。しかし人生には様々な局面があり、人間が社会的動物である以上このようなこともあるのが当然と考えるべきなのでしょう。内容について詮索しても始まらないものの「人に媚びたる」言とは医療に関してのものではなかったかと思っています。例えば彼が行おうとしている医療に関して公の認可か何かが必要であるとして、その許認可権を握っている役人か誰かに媚びるというような場面を想像するのです。横で聞いている人には諂いとは聞こえなくとも、実際にその言を発した遷子自身は明らかに自分の心の中は媚び諂っていると知っているために自己嫌悪に陥っているのでしょう。

ちなみに原さん、前回、磐井さんも取り上げておられる「なさねばならぬ悪」は所謂「必要悪」というやつでしょうか。患者への虚偽の告知はそれが患者本人のためと考えられるのならば「悪」との認識は薄いように思います。

秋風との取り合わせはその時の彼の心の中のうそ寒さを思えば納得できます。逆に分りすぎて即き過ぎという気もしますが。

筑紫:皆さんとは違っていかにも遷子らしい句ではないかと思いました。媚びていることが遷子らしいのではなく、「人に媚びたるわが言」と自省するところが遷子らしいのです。はたから見たら、遷子が媚びている風には見えなかったでしょう。しかし、それでも遷子自身が自らを媚びていたと見なすことはあるわけです。誰も気づいていないところで、遷子は自らの媚びに傷ついていたかもしれません。前回に出てきた「梅に問ふ癌ならずとふ医師の言」もそうですが、そこに書いてある事実よりは、ナイーブさのほうが遷子の俳句の解釈には重要であるような気がします。

写生の句というのはつぼにはまれば誠に読み応えがありますが、その分だけ定型に深く寄り添っており、何かを切り捨ているわけです。人生何事につけ、そう容易に何かを切り落とせるものでもありません。すばらしい写生ができないというのは、それだけその人が優しいということになるかもしれません。虚子のホトトギスから飛び出したものの写生を尊重した秋桜子ですが、彼ですら、

萩の風何か急かるる何ならむ

のような句を詠んだりしていた時期がありました。写生で切り落としてしまわねばならない何ものかにこだわるとこういう詠み方になるのでしょう。

そして、このあたりの句(秋桜子や遷子の句)になると、これくらいなら自分でもできるぞという気安さが生まれてきます。そう、技術的にはこれくらいの句なら簡単にできそうです。ただ、遷子のように、技術をさておいて自分の思いに忠実となる勇気が無いだけです。

原:追加発言 仲さんから文中で引用した「行秋やなさねばならぬ悪ひとつ」の「悪」をどう捉えるかという、お尋ねがありましたので一言。仲さんも仰言っている通り、「必要悪」というよりは、もっと人間性に根ざした「悪」の意識だったと思います。もっとも遷子個人が何を体験したかは別として、読み手は作品から普遍的意味を汲み取ります。人生のあらゆる局面でこのような感慨は起こり得ますから、医業に結びつけなくとも構わないことですが、作品からすこし逸脱して連想することがあります。

僻地の寒村などで、子供を育てられない環境に生まれたり、先天的不具であったりした赤ん坊が産婆さんによってひそかに処置されることがあったと聞いています。これはそう遠くない時代のことですし、現在も生命維持装置の操作など、安楽死の問題は続いています。この句の背景がそうだといっているわけではありません。つい話を広げすぎましたが、医師という職業は、人としての罪や悪と向き合う機会が多いかもしれません。他者の場合も自分の場合も。自分を照らしてみるというのは辛いことですね。そうそう以前の会で、遷子の「人嫌い」が話題になりましたが、人間が嫌いというよりは、人との付き合いの中で生まれる自己嫌悪が辛かったのかもしれませんね。

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