・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井
大雪のわが掻きし道人通る
『山河』所収
深谷:昭和45年の作。雪国にあって、雪掻きほど難儀な作業はないでしょう。相当な重労働です。でも、それを怠れば、たちまちに生活に支障を生じます。そして、それは個人や家庭の範囲を超えて、地域全体の問題にもなっていきます。還暦を過ぎた遷子も、この作業に邁進せざるを得なかったのでしょう。そして遷子が雪を掻いた、その道を人が歩いていく。その姿を見る遷子には、満足感があったような気がします。そして、それは単なる自己満足の類ではなく、もっと深遠な、人生観めいたものが含まれていたような気がします。この直前に、遷子は父を亡くしています。一方で、初孫も生れています。人が生きていくこと、それはたとえ意識をしなくても、他人との関わり抜きにしてはありえない営みなのだという、遷子の主張が、この句のバックボーンとなっていると感じざるを得ません。
中西:「人通る」は他人が通るということですよね。人が生きていくこと、それはたとえ意識をしなくても、他人との関わりぬきにはありえない営みと見た深谷さんのご意見の通りだと思います。
その一方で、こんなことも考えました。自分の作った道は父が作ってくれた道でもあります。その同じ道に父を見送り、次世代の赤子を迎えたのです。日々の生活のために今日も雪掻きをしている自分がいます。子の為、孫のため、その行く手には、世のためにという思いがあったとするのは穿った見方でしょうか。
この句は遷子の真面目な面が非常によく出たものと思われます。「人通す」ではなく、「人通る」ですから、淡々とした表現なのですが、現実的には、雪掻きという労々とした作業は、利己主義では出来ない仕事ですよね。根気よく、分け隔てなく人のためと考えるなら医業という仕事も、雪掻きの作業に似たところがあるかも知れないと思ったのですが如何でしょうか。
原:或る日の出来事。出来事ともいえないくらいの些細なことです。こういう句は、単に状況を述べているだけ、といって見過ごされやすいのではないでしょうか。
雪掻きをすませた道を人が通っていく。見るともなしに見えたそのことが醸し出す一種の気分、というか、かすかな情調のようなものを言い表す言葉を持ちません。言葉にすれば過剰になる、もしくは取りこぼす。難しいものですね。ここでは遷子の静かな視線を感じるだけで、私には充分です。敢えて付け加えれば、ここに雪の匂い(そんなものがあるとして)をそこはかとなく感じたい。
窪田:私の子供の頃は今よりはるかに多く雪が降り積りました。早朝、板木が鳴らされ、子供達が通学する前にと、村中一斉に雪掻きをします。雪掻きをする範囲が組毎に決められていて、それはかなりの距離でした。村境までだったような気もします。大人達は自分たち子供の為に雪掻きをしてくれているのだ、という思いがした記憶があります。遷子にも、雪掻きの後の充実感のようなものがあったのでしょう。
この「道」と言う語は「人の道」「人生」などのイメージを呼び起こしやすいですね。掲句を読んで、すぐ高村光太郎の詩「道程」を思いました。しかし、私もこの句に関しては、なるべく深読みにならないようにと、ある意味で警戒しました。景だけを思い浮かべようとしました。それでも深読みしたくなってしまうのは、私が庶民のためか。
余談ですが、斉藤美規氏が信州に来て選句か何かされた時のことです。句の中に「雪掃き」といのがあって、新潟ではこういうことはないと面白がっていました。新潟の海沿いでは湿り気の強い雪なのでとても箒で掃く事など出来ないというのです。信州の佐久や小諸ではさらさらとした雪なので、少しぐらいの雪なら竹箒で掃けるのです。同じ信州でも新潟県境では、雪掻きも出来ないくらい降りますから、雪踏みをして道を確保したようです。
雪掻きは重労働ですが、私の住んでいるところは現在、大雪が降れば村で雇った業者がブルドーザーで雪掻きをしてくれます。ですから、村中の人が出て「えらい降りやしたなー」などと声を掛け合って雪掻きをした風景もなかなか良かったなー、などと暢気なことを言っていられるのです。
仲:非常に素直な何のレトリックも弄していない俳句です。深谷さんのように人生を重ね合わせて読む鑑賞もありと思いますが、この俳句の字面だけを見ているとただ自分の掻いた道を人が通って行くなあとの感慨があるばかりです。その時の作者の心中は?と言えば喜び、悲しみ、怒り(腹立ち)、驚き…やはり喜び~満足感でしょうね。雪掻きは大変な作業ですが自分の掻いた所を他人が通ったからと怒る人はいないでしょう(たぶん)。それよりも早起きして自分が掻いた道を通学の子供たちが通ってゆくのをにこにこしながら見ていた(当時遷子は61~62歳だった筈)と考えるのが普通です。
以前も書きましたが佐久の冬は気温は低いが雪はあまり降らない、雪掻きする機会は年に5~6回くらいでしょうか。1970年代の佐久の最低気温は氷点下12~18度なので、21世紀になってから氷点下10~15度と上昇していることを勘案すれば、当時は今よりもう少し積雪の機会は多かったかもしれません。それでも北海道のようにしょっちゅう雪掻きに悩まされるということはなかった筈です。
特徴的なのは「わが掻きし道」と「わが」で強調している点でしょう。雪掻きはどの家でも行っているでしょうから誰が掻いた道ということはないのですが「ここは私が掻いたんだ」と主張しているようで可笑しい。深読みすれば当時はもう相馬医院の院長先生として押しも押されもせぬ存在になっていたでしょうから、その院長自ら雪掻きするなんてことはめったに無かったのではないか。年もとって地位もある自分が久し振りに雪掻きという重労働をやり遂げたとの達成感がこのように言わしめた気もするのですが如何?
筑紫:「実るほど頭をたれる稲穂かな」「道の辺のむくげは馬に食はれけり」「玫瑰や今も沖には未来あり」のような人の道を説く「道歌」ともなりかねない危ういところだと思います。この句も、一人が掻いた雪道を、世間の人がたくさん利用して行く(大雪ですからましてですね)という、妙に納得される人の道の教えになってしまっているようにも読めます。
かって和歌について調べたことがありますが、芸術的な和歌・短歌に対比して、狂歌があり、さらに道歌が生まれています。しかし、現在(昔も同様ですが)の歌壇は狂歌・道歌の類を排除して同じジャンルに認めていません。狂歌は実は江戸時代にさまざまな文人たちが愛好し狂歌壇というべきグループを作っていました。江戸の粋というべき洒落本・黄表紙などの軽妙な文学が親しんだのは俳句や川柳ではなくて狂歌でした。大田蜀山人はもっとも有名な一人です。しかしこれは江戸の風流連が滅ぶとともに、狂歌も滅んでしまったようです。さすがに道歌はこうした広がりはありませんでしたが、狂歌と紙一重のところもあります。
これが五七五となると、俳句そのものの発生が「滑稽」といわれていますし、川柳という独立したジャンルがあり、特に明治以降は井上剣花坊らの努力により俳句に劣らぬ正式な文学として認知されています(まだ川柳を差別している俳人もいますが、世間一般では俳句と川柳の差がむしろ分からない人が多いのです)。こうした環境の中で、俳句自身、短いフレーズであることから滑稽や教訓が読み取れてしまうものが多くあります。実は俳句の庶民性はそんなところにもあるのですが。
その意味では極力深読みは避けたいというのが私の感情です。もちろん遷子の詠出の動機にそうしたものはあるはずがありません。しかし表現がすべてである以上、遷子が詠んだときの思いにのめりこむのは躊躇されるのです。そう、わたしはもっとどろどろした地獄のような句を遷子に期待しているのかもしれません。
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