・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ
『山河』所収
仲:昭和49年、遷子晩年の句。この少し前に〈万愚節おろそかならず入院す〉とあり、胃癌の手術、術後の肝炎(?)と死に至るまでの闘病が始まります。直前にはすでに読んだ〈わが山河まだ見尽さず花辛夷〉があり自分の病気は癌である、もう駄目かもしれないという覚悟は相当感じられます。
ちょっとこの句から逸れてしまいますが一言。不思議なのはこの句の少し後に出てくる〈梅に問ふ癌ならずとふ医師の言〉です。遷子には所謂癌の告知がなされていなかったのでしょうか? この句の意味は、一般論として自分も含めて患者に「癌ならずとふ医師の言」を吐いているがそれは如何なものか、と自省しているのか、それとも本当に遷子自身が「癌ならずとふ医師の言」を受けていたのか、どちらなのでしょう? 遷子は医師として自分は癌であるとの覚悟を決めています。今さら医師でもある彼に「癌ならずとふ医師の言」が、それも手術直前になされていたとはとても思われませんから、縦令現在ほど癌の告知が普通に行われていなかった時代だと割引いてみても、矢張ここは前者ではなかろうかと考えていますが如何。
さてこの句に戻ります。「癌病めばもの見ゆる筈」とは彼のこれまでの臨床経験に基く言と思われます。自分のこれまで診てきた患者さん達の例からすれば、癌という死病を病んだ人は物が見えるようになる筈だが私はまだその境地には達していない、夕霞がかかっているようだ、とおどけているのでしょう。癌と言っても手術で治る可能性もあるのですし、この時点ではまだこのように冗談めかして言える余裕があったのでしょう。
尤も先の「梅に問ふ」の句の意味が後者だとすれば少し意味が変ってきます。もし私の病気が癌だとすれば物が見える筈なのだが実際にはそうではない、ということは私は癌ではないのかな、と。しかし矢張この解釈には無理があるようです。この後に「死なばいづこへ」とか「遺書書けば」と書かれていることを思えば遷子は自分の病気が胃癌であり、手術してよくなるかもしれないが駄目かもしれない、と考えていたのでしょう。
中西:寒蝉さんのお医者様としての見方で、この句の味わいが深まりました。〈梅に問ふ癌ならずとふ医師の言〉も遷子が、自分を含め当時の医師達が癌患者に「癌ではない」と言うのが果たしていいことなのかという自省に取られたことで、後の句の解釈も変わってくるものと思われます。
萬愚節おろそかならず入院す
という2句まえにある句から死を覚悟した入院の句となります。心の底から搾り出したような自問の句と、闘病の苦しみを綴った句が始まります。遷子は苦しみを苦しみとして、実寸大でわれわれに伝える句を作っています。
しかし、今までは医師がどの程度自分の病を認識しているものなのかが、いまひとつわかりませんでした。肝炎再発と書かれている前書きの句〈夏蜜柑肝臓燃ゆる口に合ふ〉が後に出てきますが、これがどういう解釈をするべきか考えさせられます。〈梅雨深し余命は医書にあきらかに〉とこの句の2句あとにあり、肝臓への癌の転移かと本人も思われるものをこのような前書きにしたのは何故なのか疑問が残ります。
掲出句の夕霞は遷子の気持ちを端的にあらわしています。入院したばかりという予測のつかない状態を描いているものかと思いますが、「もの見える筈」というどこか決め付けたような言い方に、少々違和感がありました。
原:文中に引用されていた〈梅に問ふ癌ならずとふ医師の言〉について先に申しますと、癌告知の是非についての自省の句ではないかという仲さんの解釈に驚かされました。そういう観点があるとは見ていませんでしたので。これは仲さんが職業柄このことに関心が深い為もあるのでしょうね。考えてみたいと思います。
さて掲出句ですが「もの見ゆる」の部分にまずこだわります。「ものが見える」とは何なのか。
古来、「もの」の語が表す意味内容はかなり曖昧、かつ広く複雑で、使い方によって、つまり前後の脈絡によって微妙に意味合いが異なったりするようです。時代による変化も勿論ですが。ざっと思いつくままに上げてみても、「もののあはれ」「もののゆゑ」「もの哀しい」などをはじめ、たとえば「もののけ」などは折口信夫によれば「霊(もの)の疾(ケ)」の意味であり、この場合の「もの」は「霊」である、と言っています。このような「もの」という言葉の意味する伝統は、現在でも幅を狭めながらも続いているのでしょう。
話が逸れましたが、「ものが見える」とは、物象や事象の奥に秘められた真理(といってよければですが)のようなものの感受かと思います。この句の場合、「末期の眼」という言葉もふと連想しました。ここから、無常を知る心まではほんの一歩でしょうが、でも、現在を生きている人間の心理はそのときどきに揺れ動くのが当たり前でしょう。諦観や悟りと、不安や執着と言った対極的な心情がかわるがわる押し寄せて、自問自答の日々だったかと想像しますが、何よりも、自分は本当に癌なのか、間違いではないのかという疑問が湧いては消えていたように感じられます。たとえ告知されたにしても、事実を受け入れるには長い時間がかかるものではないのでしょうか。
この句を含め、『山河』の作品には、それまでどちらかと言えば客観的な作風だった遷子の、生身の人間としての声が聞こえてくるようです。
[追記]「遷子には所謂癌の告知がなされていなかったのでしょうか」の疑問に関してたった今見つけましたが、昭和51年1月号の「馬酔木」(遷子の葛飾賞受賞の特集)に「流霜」と題する遷子の作品があり、その前書きに〈四十九年胃癌の疑にて胃切除を受く。幸ひ癌ならざりしも肝炎を続発、五十年初夏急に悪化して肝硬変に移行〉とありました。これによると、直接癌とは言われていなかったようですね。
深谷:なかなか解釈が難しい作品です。
まず、仲さんが引用された「癌ならずとふ医師の言」は、「遷子を読む(12)」の筑紫さんのコメントにある横浜の友人医師の言葉をさすものと思います。だとすれば、「癌の疑いのある胃潰瘍」という診断結果が伝えられ、遷子もその言葉に疑念を抱きつつも、それに従って手術に臨んだというところではないでしょうか。
一方、掲出句の作成時点では、その直後に相当な覚悟をもって遺書まで書いた(〈遺書書けば遠ざかる死や朝がすみ〉)わけですから、病状への認識はもっとシリアスだったような気がします。そして、どう解すべきか悩ましいのは「もの見ゆる筈」です。この「もの見ゆる」が、単なる視覚的な意味だけなのか、あるいは心象的な意味(=事物の真理も見えてくる)を含むものなのか、判然としません。「深読み」は節度をもって行わなければならず、例によって個人的想いが先行し過ぎているきらいはありますが、敢えて申し上げれば後者であるような気がしてなりません。この前後の句を見れば、遷子はあきらかに死を覚悟していると思われます。そのような心境の中でこそ「真理が見えてくる」という、ある種の期待が遷子の心の中に潜んでいたのではないでしょうか。
筑紫:仲さんが参加されなかった頃のこの連載の12回(深谷さんに引用していただいたものです)で取り上げた書簡や資料から遷子への癌告知について再度整理して上げておきましょう。いずれもなくなる前の年、最後の入院前後のものです。
〈肝臓が今頃悪くなるとは思っていなかったので少々がっかりしています。まあ、しかし出来るだけがんばって何とか長持ちさせたいと存じます〉(8月5日 古賀まり子宛書簡)
〈小生の病気は肝炎といっても、性質が悪く、急速に肝硬変に移行して了いましたので参りました。あとは何とか出来るだけ長く持たせるしか方法がありません。何年持ちますか。色々、これからと思っていたのに残念です。〉(8月18日 古賀まり子宛書簡)
〈昨年までは80数歳まで長生きする積りでした。血圧も低く、動脈硬化が眼底検査で〇度ですので、癌にさへならなければといふ訳です。ところが思ひがけない肝炎から肝硬変になってしまひました。自分には全く縁のないと思ってゐた病気です。肝硬変も徐々に来たのは10年以上も生きる人もありますが、私のは全く急速になったので、性質が悪いのです。どうもかういふ時に医者はいけません。余命の統計もちゃんと出てゐますので覚悟だけはしてゐる積りです。やりたいこと沢山あり、旅行など、長男が帰って来ましたので、これから出来る筈だったのに甚だ残念です。・・・・水原先生には肝硬変と申し上げておりません。慢性肝炎といふことにしてあります。〉(日付不明 渡辺千枝子宛書簡)
〈「大失敗をしました」「この前胃癌の疑いで手術をしたが、その疑いが晴れて、絶対に長生きできると信じていたのですよ。僕は血圧も心臓も全く異常がないから安心していて手当てが遅れてしまいました。大失敗をしてしまいました」〉(12月3日 福永耕二、黒坂紫陽子、市村究一郎と面談時の回想記録)
明らかに遷子は肝硬変と理解していたようです。この前回の手術と告知の関係については「俳句」15年4月号の〈相馬遷子追悼〉で、「『山河』五十句抄」の付記として矢島渚男氏が次のように書いています。
氏の死因は肝硬変と発表されたが、癌が真因であった。一昨年(49年)三月、胃の異常を自覚、横浜の友人医師による診断を受けたとき、既に悪性の癌は第四期にまで進行しており、不治なのであった。本人には癌の疑いのある潰瘍と説明され手術、カルテ・写真等を要求された氏に書き改めたカルテなどが示されたため、癌の疑いを捨て回生に希望を持たれた。縫合の失敗などから退院が長引いたが秋には体力もやや回復、最後の吟行にも出られるまでになった。しかし昨夏、癌は肝臓に移転し、本人には輸血による肝炎とその悪化との診断が伝えられた。その頃から極度に食欲が衰え、味覚に変調が生じてきた。すぐれた専門医として自己の病状に不審を抱かれながらも、栄養さえ摂ることができれば、肝硬変は治癒しないまでも、悪化は食い止めることができると氏は説明されていた。そして十一月十七日、佐久総合病院七階の個室に再入院されたが、入院と童子に病状は急激に悪化し、近い死を自覚されるに至った。
これで見る限り、遷子は肝硬変と信じていたようです。「栄養さえ摂ることができれば」については、遷子の無くなる数週間前の句に食思が多く詠まれていることからも納得されます(「わが生死」の句は『山河』の巻末最後の句です)。
空腹感戻らば奇蹟色鳥よ
食思無き食事地獄や冬の鳶
わが生死食思にかかる十二月
そして、矢島氏は次のように結んでいます。
氏が自己の病気をはっきり癌であると知っておられたとすれば、最後の作品群はかなり違ったものとなったにちがいない。〈死病とは思ひ思はず〉という心境が最後まで病との闘いをあきらめさせなかったことは、身辺のものにとってせめてもの慰めであった。
しかし、よしんば癌ではなかったとしても、肝硬変で死を迎える状態が近いという認識はありえたと思います。夏の段階で、
来年は遠しと思ふいなびかり
で余命1年以内、
病急激に悪化、近き死を覚悟す
死の床に死病を学ぶ師走かな
では〈「この間の状態では、今年までは、もつまいと思ったのですが、輸血などをしてもらって、楽になりました」「これ(「冬麗の微塵となりて去らんとす」11月26日の作品)は僕の辞世の句です。もうこの時は本当にダメだと思っていました」〉(1月2日 堀口星眠、福永耕二と面談)という認識ですから、癌であろうとなかろうともう死のふちにある認識の中での作品であったと思います。
今回のテーマは重い問題です。そして、インフォームドコンセントが日本に医療現場で定着して行く途上にあって行われた虚偽(しかし善意)の説明であり、現在とは全く異なる環境であったと考えなければならないでしょう。そしてそれに伴って遷子の句の解釈も変わらざるをえないように思います。一方こうした医療現場の環境が、次回原さんが触れる予定の遷子の句、〈行秋やなさねばならぬ悪ひとつ〉と重なっているようにも思われます。遷子自身も虚偽の告知を行っていたのかも知れません。
それにしても、遷子は本当のところすこしの疑惑も感じなかったのでしょうか。素人には分からない難しい問題です。
今回は新しい話題は何も提供せず、申し訳ありませんでしたが、話題にぴったりの資料だったのでこうした扱いをさせていただきました。
仲:追加発言 磐井さんはじめ皆さんのコメントから遷子には所謂「癌告知」が正確にはなされていなかったことがよく分かりました。当時の日本の医療情勢を考えればこのときの遷子の主治医を責めることは出来ません。当時は、否私が医者になりたての昭和60年前後でも患者に直接「胃癌」とは言わず「胃潰瘍」とごまかしていた覚えがあります。今でこそ胃癌も早期ならほぼ治る病気ですが、当時の医療水準では内視鏡すらまだ発展途上で早期発見自体が困難でしたし、手術成績もお粗末、ましてや抗癌剤を組み合わせたアジュバント療法など思いもよらぬ時代ですから。そのような治療成績も反映して「癌」という言葉の印象は当時と今では相当異なります。
それに医師だからと言って病気への覚悟ができているとは限りません。「俺なら大丈夫だから本当のことを話してくれ」と言われた同僚が癌であることを告げたところその人は自殺してしまった、という事例もあります。
磐井さんの質問への答えは遷子本人でなければ分らないでしょうが、私に即して申せば医師とて人間ですので自分に都合のよい方へ解釈するだろうと思います。科学者としての自分が「こんな不自然な胃潰瘍があるはずはない、まして肝炎の併発なんて、素直に考えれば自分の病気は胃癌であり肝臓に起こっていることは癌の肝転移に違いなかろう」と考えたとしても別の自分が「いやいやあの主治医が癌ではないと言うのだからそれを信じよう、ちょっと潰瘍の経過が悪くて、おまけに出血に対して行った輸血から肝炎を併発したのだろう」と考え後者が前者を圧倒していくのです。遷子の一連の闘病句を癌告知のなされていない宙ぶらりんの、しかも自分で癌の疑いを捨てきれない状態で作られたと思って読み直すと彼の揺れ動く心の中がよく分ります。
それにしても「四十九年胃癌の疑いにて胃切除を受く。幸ひ癌ならざりしも肝炎を続発、五十年初夏急に悪化して肝硬変に移行」なんていう説明を本当に信じていたのでしょうか。彼のカルテを見たわけではないので決めつけることはできませんが普通に考えれば癌の肝転移から衰弱死という経過だったと思われます。「肝炎」が実際に輸血後に起こっていたとしても、少なくとも肝硬変がこんなに早く進行することはあり得ません。当時はまだC型肝炎の存在は知られていなかったので上記のような記述も通っていたのでしょうが。
筑紫:追加発言 仲さんありがとうございます。拝見するにつれて、遷子の自分に対する声(私への声)と秋桜子や俳句の同僚、家族に対する声(半ば公の声)とがゆれながら交わっている感じを受けます。ごく普通に我々は建前と本音を使い分けていますが、病気のような私的な事件であっても、激励してくれる仲間や家族に対して彼らの善意を無にしないために建前から頑張る必要があり、本来私的な発声であるべき俳句においてもそれがにじみ出てくるような気がするのです。社会性の次には、遷子はこうした述志の文学としての俳句に立ち向かう事態となっていったように思うのです。うがち過ぎかもしれませんが、我々はまれにしか見ることのできない事態に立ち会っているような気がします。もちろん、特殊な事態ではありますが、いずれ誰もが死すべき宿命の中では普遍的な命題です。それを俳句という形式で語っているところが、特殊なのです。
今回の「遷子を読む」を続けているうちに、遷子という人物が、不安で苦しくてしょうがなくても、こと自分の死に関しては本音を詠めなかったひとなのではないかという気もしてきました。家長であり、馬酔木の幹部・同人会長であり、愛すべき人々に囲まれていると、そうした不安を思っていても詠めないのでしょう。立派に死ななければならない、つらいことだと思います。しかし、責任の方がもっと重要でした。昔の武士が意地になって切腹して果てるのと似ています。時代がちょっと変わったとたんに愚かしくもみえますが、それがまた一種の美学であったのでしょう。
だから、本当は死にたくない、とか、不安で不安でしょうがないとのたうちまって詠みたいところを
冬麗の微塵となりて去らんとす
と美しく詠んで果てるのが遷子の意志だったのです。醜くあっても人間の真相に迫るのをリアリズムとすれば、ここにはそうしたものはありません。なにしろ、絶句というべきこの句を遷子は推敲しているのですから(初案「に何も残さず」でした)。
そしてまた、そうしたあり方をたたえているのが我々なのです。どこか死病と戦った子規にも似た思いで遷子を読んでいる自分に気がつくのです。
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2 件のコメント:
癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ 『山河』所収」
新撰組のエネルギーに巻き込まれて年を越えてきた時期からやっと落ち着きました。それぞれ、新たに自分たちのステップを踏み出し始めているようですね。れおなさんの仕掛けた新鶏頭論争にたいして山口優夢さんの噛みつきかたも又、面白いものです、この遷子コーナーは、徹底して、句と人生を一体としてみるスタンスです。磐井さんがそういう境地へのシンパシィ(同情と共鳴)を示しておられるのが、あら?とおもいつつ、その展開ぶりに興味を持ちました。
特に、最後のまとめのところ、磐井さんの発言をふわけしてみました。
a.b.c.d.e.f.という分け方をしたのですが、
aで遷子の意識の分裂をいい、最後d.e.fで、磐井自身が病気の子規のきもちで、遷子の死へのかかわりかたを重ねて読んでいる、という結びです。主客の内的な共通性の取り出し方への論理的な回路がなかなかかわってます。ほんとにこういってもいいのかどうか。「遷子」が特殊かのか、「磐井」の読み方が特異なのか?
この読みかた、嫌いではありません。
でも。死に対して本音を詠めなかったというところ。俳句とか、辞世の句というのは、そういうものではないかとおもうのです。重複しますが、私流に腑分けしておきます。
*****************************
筑紫発言最後の部分)概要)
a
遷子の(私への声)と秋桜子や俳句の同僚、家族に対する声(半ば公の声)とがゆれながら交わっている。
b
病気ー建前から頑張る必要があり、本来私的な発声であるべき俳句においてもそれがにじみ出てくる。
c
社会性の次には、遷子はこうした述志の文学としての俳句に立ち向かう。
d
まれにしか見ることのできない事態。特殊な事態、だがいずれ誰もが死すべき宿命の中では普遍的な命題。それを俳句という形式で語っているところが、特殊なのです。
e
遷子という人物が、こと自分の死に関しては本音を詠めなかったひとなのではないか。
d
家長であり、馬酔木の幹部・同人会長であり、愛すべき人々に囲まれていると、そうした不安を思っていても詠めないのでしょう。立派に死ななければならない、つらくとも、責任の方がもっと重要。昔の武士が意地になって切腹ににている。時代がちょっと変わったとたんに愚かしくもみえますが、それがまた一種の美学であったのでしょう。
e
本当は死にたくない、とか、不安で不安でしょうがないとのたうちまって詠みたいところを
冬麗の微塵となりて去らんとす
と美しく詠んで果てるのが遷子の意志だったのです。醜くあっても人間の真相に迫るのをリアリズムとすれば、そうしたものはありません。絶句というべきこの句を遷子は推敲している(初案「に何も残さず」でした)。
f
そしてまた、そうしたあり方をたたえているのが我々なのです。どこか死病と戦った子規にも似た思いで遷子を読んでいる自分に気がつくのです。
***
いかつづく。別欄にて。 吟
途中記号がダブっているのでややこしいですが、このまま行きます。
b,とd(二カ所),は、遷子が社会的にエリート、リーダーの位置にいたことの強調です。
c,はそのことが、俳句の方法へ、どういう反映をしているのか・・にすこしふみこんでいます、地域社会のいわばセレブであるために、よけいつくられた人間像を崩せない。
●
その前の参加者の話題の中心は、遷子が癌の告知を受けていた様子がないことにありました。「胃ガンの疑いをもって手術したら、肝硬変だった」という自覚であった、ということから句の解釈をしていること。
磐井氏のまとめでは、インフォームドコンセントが普及していない時代に、自分の死についていろいろ疑いが起こる、その曖昧な位置の社会的性格が句を深くしている、と言う読み方です。医師である患者の心理にはある疑心暗鬼を生じたり死病に対するふあんや迷妄がおこる(はず)。そこに解読の視線が及んでいるので、今号の解読には迫力がありました。磐井氏は、遷子は結局武士道に似た美意識で、美しい辞世の句をつくり推敲までしている。という嘘っぽい述志の姿勢を指摘します。
癌と知らされなくとも、死の予感は生じていたということはテーマの例句や周辺の句から確かに伝わるもので、また、その曖昧さが、逆に深い思索を呼び出している、これはたしかです.
此処に感動した読者によって遷子像がつくられているようです。遷子自体も此処でしばしほっとしている時間・・でしょうか?
私は、こういうのも、人情の真実、一種の本音だとおもう者です、決定的なことを知らされていないという気安さのなかでそれでも自意識は見るべきことをみてしまいますから。
一方、こういう人生上の帰路「死の淵」に立つとき、形式をためされる「俳句」の評価はどうなるのか?は、興味を感じます。
●
一方、自分自身の死については、「述志」(人間の生き方ーこのように死のうーと言うような公共的名形を取って)的、存在論的にならざるを得ない。これ、みんな本音と言うべきではないでしょうか?。
●
磐井さんが
c-社会的な関心より述志の方向へむかう。
(普通なら、私性に向かう、と言うところです。)
e-武士道的な美意識。
(私的な感慨すらも、「公」へ向かうモラルや美意識がある。
という認識から、まとめづけて、
d- だれにでもおとすれるがゆえに「普遍的な命題」・・「死」が俳句に書かれているのは特殊なこと、といい止めました。
e.は、正岡子規もそうですが、摂津幸彦のことも考えました。理由の如何をとわず、死に直面した人の心は、どこかにかならず本音を出しているのではないか、と思います。吟
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