・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
燕来て八ヶ岳(やつ)北壁も斑雪なす
『山国』所収
仲:長野県には「信濃の國」という県歌があり長野県で生まれた人は幼い頃からこれを歌って育ちます。歌えるかどうかが信州人(長野県人)を見分ける鍵になるとも言われています。所謂国褒めの歌で信州人でなくとも覚えておくと長野県のことがよく分かって便利です。1番の歌詞に「四つの平は肥沃の地」とある、この四つの平は北から善光寺平、佐久平、松本平、伊那平のこと。地理の教科書ではそれぞれ長野盆地、佐久盆地、松本盆地、伊那谷と載っていたように思うのですが。いずれの平も四方を山に囲まれ、その特徴ある山の景色が平の風景を個性的、魅力的にするのに一役買っています。
佐久平の場合、北には浅間山から菅平、南には八ヶ岳連峰、東には間近に平尾山とその奥に妙義・荒船の連山、天気がよければ西には遥かに北アルプスを一望することができます。八ヶ岳は北の浅間山と同じく火山らしいなだらかな曲線を描いており、山好きの人からは「やつ」という略称で呼ばれています。佐久平から望まれるのは当然その北壁、つまり日が当たりにくくいつまでも雪の残る側です。東の山々は低い上に関東平野から早々に春がやってくるので燕の来る頃には雪は残っていません。北アルプスはこの時期には霞んで見えません。標高からすれば浅間山が2568m、八ヶ岳の主峰赤岳が2899m、北には位置するものの浅間山の方が雪解けは早い(佐久から見えるのは南斜面だし)。従ってこの句の「も」は、四方の山の雪解けがかなり進んで残る八ヶ岳の北壁でさえ「も」という意味でしょう。佐久に燕がやって来るのは4月も半ば過ぎですから流石に残雪の多い八ヶ岳でも「斑雪」の状態になっている、というのでしょう。
この地に長く住んでいる者が毎年その自然の移り変わりに接してのみ気付く燕と斑雪の関係を詠んでいる点、馬酔木の高原派と言われた遷子の面目躍如と言った所でしょうか。寒かった冬もようやく遠ざかり佐久の地にいい季節がやってきたとの心躍る感じも読み取れます。同じ佐久に住む者としてすんなりと共感できる佳句だと思いました。
中西:高原派と言われた頃の作品ですね。清々しい調べの句です。景色の刻々と変化する春の歓びを伝えています。
仲さんの解説で、佐久の人が毎年味わう春の訪れの様子を知りました。また「長く住んでいるものが毎年その自然の移り変わりに接してのみ気付く斑雪と燕の関係を詠んでいる点、馬酔木の高原派と言われた遷子の面目躍如がある」という仲さんのご発言は、外から来て佐久に移り住んでいる、遷子と半ば同じ状態の方の言葉として説得力があります。
つまり、この句が馬酔木の高原派の長にして、星眠や民郎と違っている点、つまり生活体験が基盤にあるということを示していることなのですが、人間を描いているときより愛情に溢れているように感じられます。人間には時に嫌悪の情が出てしまう遷子ですが、山河を描いて成功している遷子には悠々としたものがあります。人は遷子を悩ませるものですが、山河は癒してくれるものだからではないでしょうか。
この句と同じ昭和27年の作で、
午後あをき雪の白根をなほ見守る
貧しくて照る雪嶺を窓にせり
という人と雪嶺を描いた句がありますが、掲出句に比べますと、人が介在した分句は小さくなっているようです。気持ちを詠うのが遷子の句の大きな特徴の一つなのですが、この時期、景色だけを詠った高原派といわれたものは、大景を詠い、美しさの際立っているものと言えるのではないでしょうか。
原:この季節、佐久平を四方から囲繞する山々の気象や地形について、仲さんが詳しく解説して下さったので、作品の風景が奥行きをもって感じられました。遷子の「佐久雑記」には、
この平のどこに立っても一番近い端山から1里以上はなれることは至難です
と記され、八ヶ岳もまた、その端山の延長上に聳え立って、光と影を構成していることをあらためて実感します。
句集『山国』ではこの句を含めて、
春の雪降りつつすでに野は眩し
雪の山翳失ふは霞立つ
の3句が並んでいて、佐久の地理的条件なればこその変化に富んだ早春の景を描いていますが、この中では掲出句が、その具象性において際立っています。「いい季節がやってきたとの心躍る感じ」、そのものの景ですね。
深谷:俳句表現において、「も」はなかなか曲者です。短い詩型だけに、「Aに加えてB(さえ)も」というべきところを前段の「Aに加えて」が省略されていることが多いからです。その意味で、この省略された「Aに加えて」が読み解けた時、まるでパズルが解けたような快感を味わうことができます。掲出句の場合、仲さんの懇切丁寧な解説で、そのパズルが解けました。もちろん、そうした謎解きめいたプロセスを省略しても鑑賞は可能なのでしょうが、掲出句においては、直接詠われていない佐久平を囲む四方の山々の存在を読み手が意識することによって、情景がより一層明確に浮かんできます。そしてそのことによって佐久の自然環境、さらに言えば春を迎えた歓びが伝わってくると思います。
また、「燕来て」という措辞を上五に持ってきたことにより、小と大、動と静の対照構造ができあがり、句の印象を一層鮮明な仕立てにすることに成功したといえるでしょう。
筑紫:仲さんの的確な解説には間然とするところがありません。最近の連載で鬱屈した遷子の思いとは別天地、別人格のような作品です。馬酔木では石橋辰之助以来山岳俳句の伝統があり、単に山岳を好むというだけでなく、それを俳句に表現する技法が発達しました。用語でいえば八ヶ岳(やつ)もそうですが、火山灰(よな)、日照雨(そばえ)、溶岩(ラヴァ)などには馬酔木に入った当時とまどいました。しかし二文字三文字で簡潔に表現するためには不可欠な採用でした。助辞の類も簡潔単純なものが選ばれたようで、もともと助詞は数が少ないですが格助詞は省略されることが多く、助動詞はことのほか限定されていたようで簡潔な動詞の終了形が好まれていました。高原俳句もこの伝統を踏まえているようです。対象に没入するには最適の表現でしたが、この対象を前にして句を詠む主体の微妙な心は必ずしも掬い取れていませんでした。東京で暮らす医局員の堀口星眠やサラリーマン勤めの大島民郎には、塵埃に満ちた東京を振り捨てて自然に没入する彼らにとっては
山の日に焼けてつとめのあすがまた 民郎
で良かったかもしれませんが、ここで暮らす遷子とは微妙な乖離がありました。むしろ、遷子としては俳句表現の水準を同じくした若い同志に刺激を受けたというところが大きいかもしれません。多忙な開業医の生活の中で、遷子の表現水準が維持することはなかなか難しいことであったろうと思われますから。
繰り返しになりますが、語調の厳しさ、登場する人間の違いが、似たような環境にあると思われる龍太とはっきり違うことは面白いことです。俳句を学ぶということは、自然を眺める枠組みを形成するということです。結社を選ぶということは、自然観を選択するということですから恐ろしいことです。単に表現技法を習得するだけではすみません。どこかで読みましたが、日本はサル学(サルの生態を研究する学問)が盛んで世界でもトップレベルですが、このサル研究には日本にたくさんあるサル山を長期間にわたって観察しなければならないそうです。この結果、科学的、客観的、冷静であるべきサル研究者のサルの見方(サル観とでもいいましょうか)は、観察したサル山によって形成されてしまうらしいです。甲のサル山を観察対象にした研究者と、乙のサル山を観察対象にした研究者とは異なるサルの見方をするようになるのだそうです(人生観ならぬサル生観が変わってくるそうです)。結社をサル山にたとえるのは悪趣味ですが、ある結社に入ってことのほかよく見えてくる世界と見えなくなる世界があることを示します。あとは自力でその枠組みを壊して行く精神力があるかどうかということだと思います。遷子は壊すことに成功しました。壊さざるを得なくなったのです。
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