2010年4月10日土曜日

遷子を読む(54)

遷子を読む(54)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


忽ちに雑言飛ぶや冷奴
   『草枕』所収

中西:「送迎桂郎四句」という前書きがあります。これは「蝦夷」の項にある句です。大陸から帰ってきて、3年間函館の病院勤めをします。そして、この間斉藤玄と出会い、句会を共にして大きな影響を受けるのです。今までの純馬酔木調の俳句から、「鶴」の気持ちを詠みこむ俳句へ変わります。昭和18年から19年、遷子の句作りはまだまだ吸収期に当たります。句会仲間はエリートの医局員だった遷子ですが、ここで無頼の俳句仲間に出会うわけです。そしてこんな句を詠みます。

夏衣不敵さつつみあへずけり
忽ちに雑言飛ぶや冷奴

桂郎とは石川桂郎のことです。彼は遷子より1歳年下で、こんな句があります。

巻き舌のつひ出て青し蓬餅  桂郎
ゆめにみる女はひとり星祭  〃

こんな桂郎は、遷子に不敵とか、雑言を飛ばすとか言われても仕方ない口の悪さだったようですし、年齢も近いですから、2人には遠慮がなかったのかも知れません。

今まで、まさに馬酔木の貴公子と言われていたとおりの、きれいな句の仕立て方をしていた遷子でしたが、ここでは鎧っていたものをかなぐり捨てて、かなりはっきりと遠慮なく表現しています。

優等生の端正な遷子が、函館という係わりのなかった土地で無頼の人達に出会い、今まで表には出さなかった直截さで表現して、それを痛快に思ったのではないでしょうか。そう考えますと、これ以後の遷子のストレートな物言いの萌芽はここにあるとも見ることができるのではないかと思います。遷子の中の無頼の萌芽と考えますと、だんだん遷子の作る俳句が素顔に近くなっていく様子が窺えるかと思います。

原:遷子の句の中で「夏衣」「忽ちに」の2句は、際立って異質に感じられます。来道した石川桂郎を相手にした遷子の興がこういう句を生んだのでしょう。桂郎は当時「鶴」の同人。昭和18年に「壷」の同人になっています。「壷」主宰斎藤玄とは「鶴」の兄弟弟子。

遷子に親炙した矢島渚男氏の文章中に「鶴」俳句の性格をうかがわせる、次のような一節があります。

初対面の先生(=石田波郷……管理人註)は「鶴はサラリーマン生活や下町の人情のような句が多いですよ。君に合うかな。それでもよいのかな」といった意味のことをにこやかにいわれた。

桂郎の作品にも、市井の哀歓や無頼の果ての洒脱がのぞくものが多くあります。こういう相手と句座を共にしたわけです。

遷子の函館時代の句は、おおむね異郷にある淋しさを感じさせるものが多いのですが、この時ばかりは、手放しに一座の歓を尽くし、打ち興じたのではなかったでしょうか。

句座の顔ぶれの影響をモロに被った(それを楽しんだ)句のように思うのです。

深谷:掲出句について、清水哲男氏はウェブ「増殖する俳句歳時記」のなかで、次のように語っています。

(前略)この句は、いろいろな歳時記に登場してくる。目にするたびに、内心、どこがよいのかと目をこすってきた。ささやかな「冷奴」ごときに、なぜこんなにも男たちの座が盛り上がったのか。謎だった。ところが最近、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川ソフィア文庫)を読んでいて、謎ははらりと解けることになった。句が作られたのは、戦後も一年目の夏。場所は函館。詞書に「送迎桂郎」とあり、座には戦災で家を失った石川桂郎がいた。「べらんめえ」の主は、おそらく桂郎だろう。すなわち、ひどい食料難の時代で、豆腐はとんでもない「貴重品」だったのである。それが、夢のように目の前に出てきた。愉快にならずにいられようか。各歳時記の編纂者や編集者たちは桂郎や遷子らと同世代か少し上の世代だったので、句はハラワタにしみとおるように理解できたことだろう。だから、かの時代の記念碑的な作品として、誰もが自分の歳時記にそっと残しておきたかったのである。「冷奴」よ、もって瞑すべし。

確かに、そのような時代背景を抜きにしては味わえない句なのかもしれません。この席には、当然、先輩格の鶴同人斉藤玄もいたことでしょう。当時、こうした鶴の連衆との交わりが遷子の句業の主体となっていた筈です。戦後の騒然とした、しかし俳句に情熱を注ぐ男たちの熱い息吹きがそのまま伝わってきそうな作品です。

そして、中西さんが指摘されるとおり、遷子の俳句は馬酔木調の耽美的傾向から鶴の境涯性に満ちたものへと変わっていきます。まさに石田波郷が『山国』の跋で、「北海道での著者の句は著しく境涯的である」と述べたうえ、「著者の鶴同調は形式の上で急であった。本質的には自らの実質を活かし得ているとはいえない」と断じているところです(但し波郷は、続いて「この時代の習作」は無駄ではなく後に遷子俳句の骨格として結実していった、としています)。その意味で、遷子の当時の俳句活動の実態やその後の句風の変遷を読み解く上で、エポックメーキング的な作品といえるでしょう。

さらに、そうした遷子の作風の急変をもたらした要因の一つは、函館時代に先行する従軍経験だったのではないかと考えます。遷子は、戦争現場の厳しい現実を目の当たりにすると、馬酔木調の耽美主義に飽き足らなくなってしまったのではないでしょうか。そうした地合ができていたところに、前述したような函館時代の交友が加わり、一種の“化学変化”を遂げたのではないかと考えます。

筑紫:この函館時代の遷子は不可解至極なのです。人間として不可解なのではなく、遷子という人間の理解に当たって不可解だということです。「草枕」の初学時代、遷子はただ1人自然に埋もれながら俳句を詠んでいました。もちろん、医局の句会、山谷春潮などの先達の指導を受ける吟行に参加したりはしていましたが、基本はひたすら自然にうずもれて出来た作品を秋桜子に見てもらうという時代が続いたのです。

やがて応召を受けると、今まではがらりと変わった戦陣俳句となりましたが、その本質はやはり孤独な述懐でした。病気となり、函館の病院に勤務する時代が、中西さんの掲げた句の時代となりますが、しばらくここを飛ばしてその後の遷子の軌跡をたどると、故郷佐久へもどり開業する頃には、自ら沈滞したといっているように俳句にもあまり熱意がなくなっていた時代でした。詠まれた作品も、生活周辺の述懐が多いようです。やがて華やかな、馬酔木高原派の時代が到来しますが、高原派をリードしたというより、堀口星眠や大島民郎の熱意に引かれて参加したところがあります。高原派から脱却した後はご承知のとおり、ひたすら孤独な句業を続けているように思われます。

誤解のないように言えば、別に遷子が狷介だというわけではなく、おそらく家ではよき父・夫・子であり、馬酔木ではよき弟子・先輩であったはずで、地元でも相馬先生として親しまれていたはずだと思われます。しかし、そのどこをとっても函館時代のような羽目をはずしたり、市井の悲しみにべったりとした遷子を見ることはありません。

函館時代は遷子にとってもっとも幸せな時代であったのか、一時の気の迷いであったのか。遷子が尊敬し兄事する波郷には、紅灯の巷をさすらった時代があったといいますが、古典と競い立つと宣言した波郷に意外な一面があった気がするのではないでしょうか。そして、こうした時代が遷子にもあったのでしょうか。ついでながらここに登場する石川桂郎は、数ある波郷の弟子の中でもこうした面をもっとも強く受け継いだ弟子であったと思われます。

仲:遷子の句業を見渡した視点からは、中西さんの「遷子のストレートな物言いの萌芽」というご指摘に頷き、原さんと磐井さんの感じておられる「際立って異質」な印象に納得し、深谷さんの時代背景を鑑みた読みに教えられました。と書くと私自身の意見は何もないようですが、ここではこの一句に即して自分なりに鑑賞します。

雑言…。罵詈雑言、悪口雑言、いずれにせよあまりいい意味ではない、悪口に近い言葉です。石川桂郎といえば東京下町の出身、恐らくはべらんめえ口調でしょうから、その桂郎を函館に迎えてさぞ賑やかな案会(当然その前後には句会もあったに違いありません)となり雑言も飛びまくったことでしょう。いくら戦後の窮乏の時代とは言え冷奴があれば酒もあったはず、俳句に関する侃侃諤諤の議論なども闘わせ、時には政治や世間に対する不平不満もぶちまけられたでしょう。冷奴がいいですねえ、まさに庶民の味です。

この時期の遷子は桂郎や「壷」の人達からどの程度の感化を受けたのでしょうか。どんなに自分をしっかりと持っている人でも周囲に影響されない人などありません。俳人であれば句会という共同作業を通して所属するグループの色に多かれ少なかれ染まるのは致し方のないことで、それがまた俳人を育てていくのです。磐井さんの疑問を解明することは困難ですが、遷子にとって函館での斉藤玄のグループとの交わり、石川桂郎との出会いなどが彼の俳人としての成長(変化?)に少なからぬ影響を及ぼしたことは想像に難くありません。

筑紫:原さんから、前回の句の成立時期について、山本健吉の『新版現代俳句 下』によると、おそらく昭和21年とあるが、21年3月には函館を去って佐久に戻っているはずと疑義が呈されました。『草枕』の配列から、昭和18年が正しくはないかという意見です。

『草枕』では、

  送迎桂郎四句
夏衣不敵さつつみあへずけり
忽ちに雑言飛ぶや冷奴
見送るや七月すでに鰯雲
すでにして都塵の君か立葵

となっておりますが正確な制作が何月かは分かりません、「壷」のバックナンバーで分かるかも知れません。しかし、手っ取り早いところでは、遷子の追悼号の「俳句」昭和51年4月号で斎藤玄「清明への回想――函館時代の相馬遷子――」に次のような記述があります。

○昭和18年浅春、遷子の札幌移住の報が、石田波郷、石川桂郎より斎藤玄にもたらされ、玄は市立函館病院医長室で遷子と会見。
○3月25日、函館鶴の会を結成し第1回句会を菓子屋松柏堂の2階で開催した。〈雪の上蝦夷の春雨降りにけり〉遷子。
○5月、会員の召集壮行会があり杯盤狼藉放歌乱舞。その連絡に驚いた波郷が「壷の蛮風で遷子を驚かすな」と指示。
○7月に桂郎が初めて北海道へ渡り、7月14日料亭「しまや」(5月と同じ会場)で桂郎歓迎句会を催す。例により杯盤狼藉放歌乱舞。その時の句が次の句。
  迎桂郎
たちまちに雑言飛ぶや冷奴  遷子
  玄住庵に朝を迎えて
水無月や鴉ばかりの嗽  桂郎

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