2010年4月9日金曜日

野村麻実「女帝たちの万葉集」を読む

草壁皇子の血統を守るために
『女帝たちの万葉集』(筑紫磐井著)を読んで


                       ・・・野村麻実

『万葉集』は現存する日本最古の和歌集です。よく高校の教科書として使用される山川出版社の『詳説 日本史研究』によれば「759(天平宝字3)年までのそうした歌約4500首を収録した歌集である。宮廷の有名歌人のものだけではなく、東国の農民たちの心を伝える東歌や防人歌なども採録され、心情を素直に歌いあげて心に強く訴えかける歌が多くみられる。」とあり、多くの日本人には、のびのびとした民衆的な和歌集との印象が普及しています。

歴史ファンの私など『万葉集』と聞いて一番におもい浮かべるのは、白村江の戦いのための九州遠征に向かう兵士たちを鼓舞する勇壮な、

熟田津(にきたつ)に船乗せむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻1・8・額田王)

ですし、同様に天智天皇と天武天皇(当時は大海人皇子)が額田王を取りあう中で詠まれたという伝説の、

茜指す紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

また、高市皇子の妃である但馬皇女と穂積皇子の密会が露見した際、皇女が詠んだという

人言(ひとごと)を繁み言痛(こちた)み己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る(巻2・116・但馬皇女)

など、歴史上名を残した人々が、現代と同じように人間として落ち込んだり、恋をしたり、時に心の高揚を感じたりしていたことが嬉しくて、「どんな気持ちだったのだろう?」と勝手な想像をしては少女の頃からドキドキと胸を躍らせていたものです。

そして退屈な授業中、教科書をぱらぱらとめくってみれば、

石走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも(巻8・1418・志貴皇子)

や、

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手(た)折らめど 見すべき君がありといはなくに(巻2・116・大伯皇女)
多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき (巻14・3373 東歌)
韓衣(からころも)裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや母なしにして(巻20・4401・防人歌)

などの名歌が載っていて、ぽかぽかと日差しのいい午後の教室において異次元の世界へ飛び去ることは睡魔と闘うよりもよほど容易で、ますらを調のなんたるかはまったくわからなかったものの、源実朝ならぬ一介の高校生にとっても『万葉集』は限りない愛情と癒しとロマンと現実からの逃避行の対象だったのです。

しかし。このように民衆のためと受取られてきた『万葉集』に対し、筑紫磐井は言うのです。「持統天皇の編纂させた正式な歌集であり」「『万葉集』巻一雑歌二八から五三までの作品群(万葉集で最初にできたと考えられる部分、筑紫の用語では藤原宮歌集……引用者注)が有機的統一性をもっていることは、その首尾の作品が政治的にきわめて重要な作品であることからも分かります」と。

たしかに巻1から順次補足されていった『万葉集』の性格を考えてみると、当時の日本の政治的状況がみえてきます。天武天皇は、兄・天智天皇の没後、天智の息子である大友皇子から壬申の乱によって政権を略奪しました。その過程からどうしても政権運営の正統性を誇張する必要がありましたし、その後に続く妻・持統天皇は天智天皇の娘ではあったものの、やはり後述するように正統性を演出すべきどうしても避けられない理由がありました。それを「天皇の神格化」によって補おうと考えたのです。後に行われた『日本書紀』『古事記』といった国史編纂の始まっていない時代、どんな手段を必要としたか? たまたま目に留まったのが柿本人麻呂の作った小さな歌集だったという訳なのです。

その証拠に、筑紫磐井は〈藤原宮役民(えきみん)の歌〉と題された歌に着目しています。これまで作者名が明示されていなかったため、この長歌は民衆の読んだ歌と解されてきましたが、「藤原宮歌集にはすべて作者名が明示されているにもかかわらず、ことさら作者名を入れない」ことに疑問を呈し、「編集者は新しい都をことほいだのは民衆であり、その増築にも民衆が協力したと述べたい」「とはいえ民衆がこのような技巧的な長歌を詠めるわけもなく」といった為政者の意図を説明した上で、「長大でかつ整然とした長歌を詠み得るのは柿本人麻呂以外にありません。(藤原宮歌集二十六首の内、藤原宮にかかわらない長歌四首はすべて人麻呂の制作)。したがってこの歌の作者は柿本人麻呂と断言できます。」と述べています。

筑紫磐井は、他にも多くの人麻呂作と思われる作者不詳歌の数々を示しつつ、初期万葉集における民衆の歌の多くは政略的やらせ歌集であり、またテクストの中身を変えていなかったとしても、順序の変更などによって意図的に政治的編集を行っていると断じているのです。

そう考えてみれば『万葉集』で最も有名な歌といって差し支えないでしょう巻1・1、巻頭の歌に雄略天皇の、

(こ)もよみ籠持(こも)ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
この岳
(をか)に菜摘(なつ)ます児 家聞かな名告(なの)らさね
そらみつ大和
(やまと)の国は おしなべてわれこそ居(を)
しきなべてわれこそ座
(ま)せ われこそは告(の)らめ家をも名をも

が配置された理由が納得できます。「そらみつ大和の国は おしなべてわれこそ居れしきなべてわれこそ座せ」(大和の国はすべて、僕が支配しているのだ。あまねく、僕が君臨しているのだ byウィキペディア訳)。大王の実力をおおらかに誇示するこの句こそが、本来ならば正統性をもっていた大友皇子(弘文天皇、ようやく明治3年に諡号を贈られ天皇として認められた)を倒し王権を略奪した天武・持統天皇には必要だったに違いないからです。壬申の乱への後ろめたさは、よほど天皇を中心とした歴史観にはそぐわなかったらしく、戦前の教科書にはのってさえいなかったことからも推測できます。(『異議あり日本史』 永井路子 p193)

さらにもうひとつの事件もありました。天武天皇と持統天皇の間には大事な皇太子・草壁皇子が、その一つ年下の弟に持統天皇の姉の子・大津皇子がいました。皇太子・草壁皇子が年長だったとはいえ、大津皇子の評判はかなり良かったようで、漢詩集の『懐風藻』にも、持統系の編纂による『日本書紀』にでさえ抜群の人物との讃辞がみられます。

しかし、この大津皇子を、天武帝崩御から1ヶ月以内に持統天皇は謀反の疑いをかけさっさと殺してしまいます。もちろん帝位争いの愚を再び犯さないためのやむをえない処置ではあり、辣腕の帝王らしい的確な政策ではあったのですが、皮肉なことにこの後2年のうちに、帝位を継ぐはずだった「草壁皇子」が亡くなってしまうのです。それでも数多いる天武帝皇子たちの中から持統天皇は後継者を選びません。あくまでも、帝位さえ継ぐにいたらなかった皇太子、正統性のとても薄い自分の産んだ草壁皇子の血統に帝位を引き継ぎたいと考えたのです。

この持統天皇の方針に基づいておよそ80年の間、草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)、孫の首皇子(聖武天皇)へ帝位継承させる努力が続きます。肝心の草壁系男性天皇が無能だったところなどは歴史の面白さでもあるのですが、とにかく彼らに帝位を継がせるために元明天皇(阿閇皇女、草壁皇子妻)、元正天皇(氷高皇女、文武天皇姉)が必死で帝位をつなぎます。女帝たちがたまたま、そして義務感から意識的に有能であったこと、『古事記』『日本書紀』等の編纂事業も積極的に推進し、力まなくても帝位の神話性がなじむにつれて『万葉集』は当初の役割を終え、伝説性・創造性の高い歌や機知にとんだ歌のやり取り、恋の相聞歌などが挿入されるようになったこと。そのおかげで『万葉集』そのものがおおきく豊かに育っていったこと、歴史背景とあわせて『万葉集』をこんなに楽しんだのは初めての体験でした。

本書が他の万葉本と決定的に異なり、興味深かったのは以下の点です。(細かいことを言えば、初期万葉集の編纂年代についての筑紫氏の記述は驚くべき説得性をもった新説なのですが、そのあたりの話を始めると多くの読者の方々が逃げ出してしまう恐れがあると感じたのか筑紫氏もさらっとしか触れておられませんし、ここでは述べないことにしましょう。)

まず、当時の歌が即興性の強いものであり、特に壬申の乱後、木簡等の消失・紛失によって編纂・収集がいかに大変だったかを指摘したこと。これは「豈」など俳句編集の場で、散逸していく句を集めるのに苦労してきた筑紫氏の実体験から出てきた視点なのだろうと微笑ましく推測しつつも、それ以上に、まだ記録というものを残す手段や材料の乏しく困難だった上代のすべての編纂作業(詩歌集以外の『日本書紀』『古事記』など歴史編纂書も含めて)の大変さに想いをはせられる新しい発見でした。

そして編集作業の持つ力。歌そのものが改変されたものであろうとなかろうと、順序を変えるだけで別の意味を持つものになる、また省かれるだけでなかったことになるという現実の指摘。これもまた、筑紫氏が編集に携わってきたという実体験から出たものだろうと推測されるだけに、説得性を増します。

また歴代の万葉本では基本的に「詠まれたもの=本当にあった出来事」という読み解きでしたが、もともとの入集歌に恣意性が含まれている可能性についてこれほど考察されたことはありませんでした。これは後の元正天皇時代の歌に政策的な歌が少ないせいで見落とされてきた側面もありますが、その中にも俳句を含めた現代の詩歌と同様に、実際の出来事ではなく挨拶的な意味合いで詠まれた歌もあれば、女性誌・週刊誌等のスキャンダリズムにも似たまがい物の歌が紛れ込んでいる可能性もあることを指摘しているのです。

言われてみれば当たり前のように思われるのですが、筑紫氏はこれを、

1)横死の系譜
2)機知の系譜
3)悲歌の系譜

と三つのカテゴリーに分類しています。

2)の巧みな機知の発揮、笑い話の創作や、3)悲恋に終わった歌のやりとりはともかく、1)有馬皇子の歌が後の誰かの創作だったなら!!!私にはとても許せるものではありませんが(歴史マニアの方なら同意してくださいますよね?)、その可能性は悲しいかな否定できるものではありません。

そもそも古代史研究は壮大なフィクションと言っても過言でないほど、無茶な分野でしたが、奈良はさいきん平城京遷都1300年祭をむかえ、発掘が驚くほど活発に進んでいて、いままでのように文献上のみからの推測話だけではなくなり、史実と考古学的文物が実際に結びつき始めています。考古学的裏付けが出来るようになり始めているのです。今後の研究の結果がとても楽しみです。

読者のみなさまも、ぜひ一度、整備・復元された平城宮跡に足を運び、持統帝があれほど執着し継続させた草壁皇子の系統、聖武天皇の足跡や、私の大好きな元明・元正両女帝、そして史上唯一の完璧な中継ぎではない女帝・孝謙(称徳)天皇など女帝の時代に想いをはせる機会を作っていただけると筑紫氏も喜ばれるだろうと存じます。

私が最後に平城京跡を訪れたのはちょうど2008年の頃でしたが、すでに朱雀門は建ち、宮廷建築の柱の跡、発掘で出土したさまざまな遺物や、建物の復原模型、また1300年祭に備え改修中だった唐招提寺の講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものだと判明したという研究結果がでたころでした。現在ではもっと整備されているようですから、楽しい旅になることは間違いないでしょう。
 
なお、本書の特色として、現代の「歴史認識」をつかさどる政策的役目をしていらっしゃる(と考えられる)元文部科学省科学技術研究所長との対談もあります。為政者としての視点に重点をおいた一面が強調されていることも指摘しておきたいところです。長歌の読解きや、短歌・長歌の分類は門外漢にはすこしわかりにくいところも多かったのですが、面白い一冊でした。

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6 件のコメント:

さんのコメント...

野村麻実様へ
 いらっしゃい。ついに吾等の屯する檀にあがってこられましたね、いつかどの場面でか、こういうことが起きるような予感があたりました。
「女帝達の万葉集」をとりあげたところがまたいいじゃありませんか?わたしは、その大和三山を一〇年間さんざん眺めて暮らしたという、橿原市に棲んでいた経験があり、磐井さんが書かれているあたり、藤原宮跡、とか明日香村は散歩地でした。遷都1300年、平城宮址も整備され(あまり今風に変わるのも良し悪しですが)、綺麗になりました。ぜひぜひまほろば大和にお越し下さい。

 ところで、このサイトの「読者」が書き手になるというケースは素晴らしい、と思います。そう言う読者のキャラクターも素晴らしい。

 「新撰組」についても、その後、いろいろ発展的な交流ができているようで、しかも、これが、このサイトからはじまった、ということは何か暗示的です。
その交流の実質が、貴女のような純粋読者との直接交流の実現、ということではないでしょうか?

コーディネーターの一人筑紫磐井氏がこんどは、関西のアルカイックセレブレディの詩心(伝統詩)に関心を向けたのは、結果論ながら、いかにも磐井さんらしい、と思いました。
 筑紫磐井という俳句者は、従来の俳人とは、タイプがすこしちがっています。
 この方は、評論家としての思考原理が摑みにくい人なので、このような、一般読者にも資料が手にはいりやすいわかりやすい題材をもって、具体化していただくと助かります。
ごぞんじのように、超人的に多方向への関心を向けている由縁からか、かえって立ち位置があまりよく見えません。
 それと、この人の独自の衒学的なスタイルから、が彼の文学的な個性を衆に理解させることをさまたげている様にも思えます。(その知名度や一種の大衆的な人気はありながら)
 しかし、この人と高山れおなは、攝津幸彦時代のつぎの「豈」バージョン・・が生んだユニークなスターです。(この言い方は、豈というだだっ広い俳句空間が埋蔵する可能性がひとつ大きなかたちを持っている、ということです。)
 今回は、とくに万葉集、その政治的役割ということらしいですから、それだけ、私のような磐井ファンには、新発見もおおいのではないか、と期待しています。

 麻実さんの、文章から導かれて、私が感じている俳句の現状にもにたものが、古代文学の状況のうえにも生じていたのではないかとおもったりします。

●  
 野村麻実さんのこの間の、率直かつ真摯な読書ぶり、発言の姿勢。それから、若き俳人たちへのくもりないエールをホントにうれしくたのもしく拝見しています。私は貴女の感性の向く方向をいつの間にか追っております。
 ひたすら佳き言葉をもとめる「読む」という志向が、精神的な豊かな世界を拓いて行きます。私はあなたのくもりない知の要求には、おおいに同感し期待することがあるのです。


4月中に発行される蓮の詩誌「びーぐる・・詩の海へ」七号に。連載している俳句時評に、新撰21の紹介を書いたので(詩の雑誌ですから巻末4頁小さな文字ですが、当誌をお引き立ていただいたお礼と記念に一部進呈します。連絡を下さい、なお、本誌本号には、岡井隆氏がロングインタビューに登場されます。これも有形無形の関わりを持ってこのような現代詩歌への関心を高めるものと思われます。

このコメントは、2010年4月13日1:08お知らせ欄の誤植部分(クイズ、どこをどう間違えて、れおなさんをこ困らせたのでしょう)、を削除したもの要旨をこちらに掲載させていただきました。今後とも、彼らのきりひらいているインターネット俳句批評誌、この愛すべき俳句硬派の誌面を賑やかにして下さいますよう。(堀本吟)

野村麻実 さんのコメント...

吟さま

コメントありがとう存じます。そのようにお褒め戴きますととてもうれしゅうございます。

実は、私は医療の分野においてそれなりの有名人で、今週中に友人が、(アルファブロガーなる賞を戴いている医療ブログです)この稿について取り上げてくれるかもしれないということで、別の読者が広がることをも期待しています。
ぜひ様々な読者層が広がることを期待しています。
 
吟様にまたご連絡を差し上げます。
読んで下さってありがとうございました。

さんのコメント...

野村麻実さま。
他の分野で有名人でいらっしゃることは、どの程度か解りませんが、なんとなく・・。
是非、俳句分野でもいまのスタンスのままで有名人になって下さい。

それはともかく、麻実さんの視点は、当分野の関係性の陥穽におちいっていない無垢が魅力的でした。お医者様であるせいか、言い方が端的ではっきりしている、それから、お医者様らしからぬ、俳句の享受者(素人)であるところからくる率直な好奇心。物怖じしない読者としての発言力。ただなる俳句好きとかファン心理(もあるかも知れないが)、それをすこそ超えていて、いままでにでてこなかった、意識的な「読者キャラ」だとおもいました。

べつにお世辞じゃありませんし。冷やかしでもなくて、あなたを特別扱いする気もありません。
でも、このサイトの成熟と定着を願っている私からみれば、また豈の行方をいつも気づかっている同人からみれば、あなたのような関心の向け方、俳句に表現の野心や、ステイタスの上昇などが必要なく、好意的に公平に見てくれるこういう人物の登場にはひじょうに興味があります。

私が老いたあとも、磐井をよろしく、れおなをよろしく、富田拓也や関悦史よろしく、といいたいところがあります。
まあ、又、ゆっくり・・。吟

野村麻実 さんのコメント...

持統帝についての補強記事を書いてくれました(^^)ノ
もし宜しければ、どうぞ。
(医師にはこんな歴史好きが多くて)

ブログは春休みにします
新小児科医のつぶやき 2010-04-15
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20100415

豈weeklyの宣伝にならなかったので(ちょっとだけ)残念です。

筑紫磐井 さんのコメント...

野村様、吟様
別コーナーから飛び火して新しい場所で議論を進めていただいてありがとうございます。特に、話題が拡大して、持統天皇論まで発展すると、いかにも遷都1300年の年にふさわしい話題となったようで、仕掛け人としては本望です。額田王ファン、大津皇子・大伯皇子ファンは多いのは知られていますが、持統天皇(サララちゃん)、元正天皇(美貌の女帝)ファンも登場してきたので楽しいです。私は、意外に藤原不比等は能吏ではあったが悪人ではなかったと思っています(役人には寛容なのです)。誰も殺していませんから。酷いのは、藤原不比等の4人の子供やその子孫たちで(不比等の教育は確かに悪かったのでしょう)、血塗られた平城京を演出しています。まあこんなことを、万葉集の続編で書きたいという希望もあるので、ここらでやめておきます。今年1年、楽しく万葉集、藤原京、平城京を語り合えれば本望です。
      筑紫磐井

さんのコメント...

磐井様、どうも。
磐井詩学に加えて磐井史学ができそうですか?

大和は、幾つかの勢力圏のせめぎ合う地域だったらしく、私のすむ生駒地帯は、神武東征に先駆けて、兄(豈?)のニギハヤノミコトが、大和の哮ヶ峯に降臨したという伝説があり、このへん一帯の山岳信仰の起源神話のようになっています。
生駒山系全体が、難波の住吉大社に捧げられた「神南備」=神領だったとか、海の信仰ともつながっています。もともと、大陸伝来の馬を放牧したのが地名のはじまりということで、そう言うことに始まって、文字通り、大和盆地一帯、大小の都だらけです。
 板東武者の磐井さんと、遷子以外のことでこういう風土についてお話ができるなんてうれしいですね。 
(今回は、ミスがなかったようです、ひやひやものです。)