七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩ
・・・冨田拓也
3月28日 日曜日
この間、岩田眞光という作者の句を取り上げて、俳句と「ライトヴァース」の関係について少し触れたのであるが、偶然にも、歌人の荻原裕幸さんもこの岩田眞光の『芍薬言語』(書肆季節社 1991)を大体同じ時期に読んでおられたとのことで、この問題について、ご自身のサイトである「デジタル・ビスケット」のブログ(3月21日)において言及していただいた。
自分がこの前に書いた内容というのは、ライトヴァース的なものを俳句作品の上において成立させることは容易ではないように思われる、といった論旨のものであった。
しかしながら、その後、俳句形式には本当にライトヴァース的なるものを受け入れるだけの「素地」というものは必ずしも存在しないのだろうか、といったことについて延々と考え続けている。
これまでの俳句の歴史をそういった視点から、少々いい加減ながら省みてみると、
上島鬼貫、小林一茶、高屋窓秋、渡辺白泉、藤後左右、後期富澤赤黄男、阿部青鞋、加藤郁乎、阿部完市、折笠美秋、坪内稔典、攝津幸彦、池田澄子、中烏健二、小林恭二、『俳句空間』の新鋭(今泉康弘、高山れおななど)、永末恵子、櫂未知子、鴇田智哉
といったあたり作者たちの試行とその作品が思い浮かんでくるところがある。あと他には、自由律俳句の作者たち、そして、京極杞陽、今井杏太郎、橋間石、中尾寿美子、小川双々子といったあたりの作者の存在も挙げられようか。
このような作者たちの作品を思い浮かべてみた場合、必ずしもライトヴァース的なものは俳句形式には「なじみにくい」と、単純に言い切ってしまっていいものなのかどうか少しばかり躊躇するような思いもしないでもない(この中でもっともライトヴァース的であるのはもしかしたら阿部完市ということになるのかもしれない。そしてこのアベカン調の流れを汲む作者というものが現在においても何人か存在している)。また、俳句形式に「なじまない」からといって、このような試行というものに意味がないということでもなければ、その表現としての可能性についてもけっして皆無であるというわけでもないであろう。
ただ、結局のところ、やはり俳句に短歌のようなライトヴァース的な表現というものが困難であるのは、単純に形式の短さゆえの「ものの言えなさ」といった性質に負うところが大きいということになろう。それゆえ、ライト的なかたちで俳句作品をある一定以上の水準の高さを以て成立させるのには、言葉を駆使するための高水準での技術というか、まさしくある種のやや特殊な言語センスというものが不可欠であり、単純にそのような作を成し得ることは容易な試行ではない、ということだけは少なくともいうことができそうではある。
3月29日 月曜日
「櫂」というキーワードが思い浮かんだ。
昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて 福永耕二
少年の櫂は朽ちゆく滴る間も 堀井春一郎
十六夜の天渡りゆく櫓音かな 河原枇杷男
櫂は貝の蓋をこつんと過ぎゆきぬ 澤好摩
行く雲と二つ揃ひに水切る櫂 〃
おとうとら月下の櫂をしたたらす 糸大八
3月30日 火曜日
古書店をうろうろ。
藤田湘子『句帖の余白』(角川書店 平成14年)、筑網敦子『ういんでい』(東京四季出版 1988)、山本敏倖『天韻』(ながらみ書房 平成15年)を購入。
木管楽器のなか軍隊は吹雪いていく 筑網敦子
観世音菩薩のごときポップコーンかな 山本敏倖
3月31日 水曜日
総合誌『俳句界』(文学の森)の新人賞である「北斗賞」の応募は、本日を以て締切となったようである。
さらには、今回「第3回芝不器男俳句新人賞」の予選通過者30名の作品が、愛媛県文化振興財団のサイト上で公開された。
予選通過作品には、何名か自分の知っている作者たちの存在もちらほらと見受けられる。やはり、俳句の世間というものはけっして思った以上に広いものではないな、ということを実感することとなった。
しかしながら、パソコンの画面上で直に30人もの作品を熟読するのは個人的にはややつらいものがあり、なかなかしっかりと全ての作品を読むことがいまだにできていない。1人100句であるから、総計で作品の数は3000句にも及ぶのである。というわけで、現在のところ、まだいい加減なかたちでしか応募作品に目を通すことができていないが、気儘に作品を見ているだけでも興味を引かれる作品というものがいくつも目に飛び込んでくるところがあり、個人的には随分と嫉妬をおぼえることが少なくなかった。また、どの作品が受賞することになるのかについては、皆目見当がつかないところがある
ともあれ、「北斗賞」「不器男賞」ともに果たしてどのような結果となるのか、大変興味深いところである。
4月1日 木曜日
今日からもう4月ということで少々愕然としている。
そういえば今日は、俳人ならばおそらく誰もが思い浮かべるであろう「三鬼忌」である。
思えばこの「三鬼忌」ほど、これまで数多く俳句に詠まれてきた忌日というものは他にはあまりないのではないかという気さえする。
釘買つて出る百貨店西東忌 三橋敏雄
棹さすは白壽の三鬼花筏 佐藤鬼房
横文字の新聞燃やす三鬼の忌 桂信子
太陽まだあんなところに西東忌 山本紫黄
4月2日 金曜日
ここ最近の自分の中で顕在化の傾向の顕著であったネットでの句集購入の熱病というものは、とりあえず今週に至って一応のところ大体沈静化しつつあるようである。それにしても、いつもながらこれがブランド品などの高価なものが対象でなくてつくづく助かったなという思いのするところが少なくない。
今週、購入した句集は、大嶽青児『桐の花』(富士見書房 平成元年)、林亮『三百六十五句』(1998)、加畑吉男『而立以後』(昭和50年)、加藤鎮司『日照雨』(書肆季節社 1980)、『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会 1997)の5冊。
4月3日 土曜日
昨日、とある方よりお便りをいただいた。
そこには、桑原三郎氏の「『第三イメージ論』の行方」という赤尾兜子の「第三イメージ論」について論じた記事のコピーが同封されていた。
どうやら現在では、この「第三イメージ論」のみならず、この赤尾兜子という作者の作品もあまり読まれていないようなところがあるようである。
しかしながら、「前衛俳句」時代から後年の「伝統回帰」まで、この作者の生涯とその作品が孕んでいた問題というものは、現在の俳句作者にとってもけっして無関係なものではない、という思いのするところも少なくない。
鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
冴える石の家ピアノ線ひとり雨となる
空鬱々さくらは白く走るかな
雲の上に雲流れゐむ残り菊
さらばこそ雪中の鳰として
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