2010年5月16日日曜日

私自身のための羅針盤(2004)・・・中村安伸

-Ani weekly archives 011.10.05.16.-
私自身のための羅針盤(2004)

                       ・・・中村安伸


俳句を作ることが、俳句という街にひとつの家を建てることであるとすると、俳句を読むことは、街じゅうを散歩してまわることである。ならば、俳句について論じることは、俳句という街の地図を書くということだろう。今回は自分の地図を書きはじめる前の準備として、羅針盤にあたるものを作ってみたいと思う。つまり、俳句とは何か、その土台となるものを考えていこうということである。

俳句をその土台から考えてみようとすると、私の脳裏に浮かぶのは、かつて三人の友人が問いかけてきた言葉である。俳句に関しては全くの素人か、初心者であった彼等の言葉を繰り返し反芻することこそが、私にとって俳句を考えることだったのかもしれない。

ところで、俳人の多くは、知らず知らずのうちに俳句の存在意義を自明のものとしてしまい、彼らのように素朴に、俳句を根こそぎ疑うことが難しくなっているのではないだろうか。そう思うと、彼らがつきつけてくれた問いは、シンプルだがとても貴重なものなのである。これから、三つの問いを順に思い出しながら、私自身のための羅針盤を組み立ててゆきたいと思う。

1.

一人めの友人は次のように問いかけた。 「どうして俳句なんですか?俳句にはいろいろと制限がありますよね。もっと長くて自由なものを書いたほうが、いろいろと面白いことが出来るし、言いたいことも言えるのに……」  彼は私が大学時代に所属していた歌舞伎研究会の後輩で、俳句に関わったことはないが、文学や漫画などに幅広く興味を持っているようだった。当時俳句にのめりこみはじめていた私は、句会の楽しさなどを夢中で語っていたのだと思う。はじめのうち興味深そうに聞いていた彼だったが、だんだん怪訝そうな表情となり、心に浮かんだ疑問を抑えることができなくなったというように、この問いを私にぶつけてきた。そのとき私は、やや狼狽してしまい、彼を納得させるような反論をすることは出来なかった。

俳句は短いものだから価値が低いのではないか、この問いにはそういう意図があったと思う。誰もが抱いても不思議のない疑問であるかもしれない。しかし、俳句の本質の中で最も重要なものはその「短さ」である(と私は思っている)以上、この問いは俳句の存在意義そのものを揺るがすものである。

もちろん当時の私も、俳句にはその短さによってしか成立しない表現があり、短くても、否、むしろ短いからこそ高い価値を持つと信じていた。ただ、その思いを彼に伝えるための言葉を持っていなかったのである。

俳句は詩であり、それ以前に「文」である。ここでは「文」について、出来るだけ図式的に考えてみようと思う。文とは「伝達のために語を連結させたもの」と理解することができる。その上で文の「価値」とは何かを考える必要があるのだが、ここでは単純に「量」×「質」=「価値」という式を設定しておくことにする。「質」は作品個別に論じるべき問題であるため、ここではもっぱら「量」について考えてみたい。そもそも文の「量」とは、一般に考えられているように、文字数、あるいは文に使われている「語」の数によって量ることができるものなのだろうか。長い文が短い文に量において勝るという常識そのものを疑ってみたいのである。

たとえば「犬」という語は、犬という動物そのものを直接的に指すにとどまらない。飼い犬の従順な性格、またそこから連想される「権力の犬」といった比喩、鋭い嗅覚などの身体的特徴、犬にまつわる故事や、テレビや漫画で見た犬などを思い浮かべる人もいるだろう。他にも、自分が実際に飼っていた犬、犬に関わる個人的な出来事など、人それぞれに異なる連想もある。こうした連想のすべてを含めると、一つの語が指示するものの範囲は、その広さにおいて長文をはるかに凌駕するのである。

一方、犬という一つの語のみで、不特定多数の受け手に対して、同じ内容を確実に伝えることが難しいのも事実だ。そこで、たとえば「小型の」、「乱暴な」などの修飾語を接続することによって、指示するものの範囲を狭めながら伝達の正確性を増すことができる。

語が指示するもの、すなわちあらゆる連想を含めた内容のことを、ここでは「指示対象」と呼ぶことにする。一方、どれだけ多くの人にどれだけ正確に、同じ内容を伝えることができるか、その能力についての指標を「伝達力」と呼ぶ。すると上記の例からわかるとおり、「文」が長ければ長いほど、「指示対象」の範囲は狭くなり「伝達力」は増すことになる。そして「指示対象」の範囲の広さは「伝達力」の強さに反比例するとも言える。さらに「指示対象」×「伝達力」=「量」という式を仮定すると、あらゆる文の量は等しいという言い方も成り立つのである。したがって、俳句は短いからといって、必ずしもその量が少ないというわけではない。また、俳句はあらゆる文芸の様式の中で、特に「指示対象」が広く「伝達力」の弱いものだということになる。

このことを別の角度から述べると、伝達力とは、電球などの光源から放射状に発せられる光のようなものであり、この光の届く空間すべてが指示対象の範囲にあたる。光源に近い部分の光は強く、犬なら犬の実体や、直接的な印象はより強く伝達される。一方、光源から離れると光は拡散して弱まってしまうように、間接的な連想などは伝達されにくいのである。そして、複数の語を組み合わせて文を作ることは、それぞれの語の持つ伝達力の光を組み合わせて、表現したい指示対象を浮かび上がらせようとすることである。

たとえば二つの語を並列させたとき、二つの光源を配置したときのように、光が重なり合う部分は存在感を強められるが、それ以外の部分は相対的に弱められて、作り手も受け手も多くはこれを無視するのである。逆に言えば、俳句のように文が短く、語の数が少ないということは、伝達力の強まる度合いが少ないかわりに、薄められる度合いも少ないということである。

文芸の様式を特徴づけるのは、この伝達力の扱い方の違いなのかもしれない。たとえば散文は、濃い光を正確に直接的に当てることによって、表現したい指示対象を輪郭までくっきりと照らし出すものであり、俳句は、間接的な薄い光を活かすことによって、全体的に広がりを持った像をつくり出す装置なのだ。
 また、次のように言うこともできる。伝達力の光が最も強く当てられた部分をたどってゆくことこそが、文の「意味」を読み取ることなのである。したがって、文の「意味」とは「内容」すなわち指示対象の全てではなく、ほんの一部に過ぎないのである。

2.

二人目の友人は、私がホームページに掲載した俳句作品について、掲示板に次のような感想を書き込んでくれた。 「この作品は一行、一行を読むのですか?それとも全部続いているのですか?」 彼は私が勤務するコンピュータ会社の後輩であり、特に文学等に関心のある人ではない。私は即座に「これは俳句だから、一行ずつ読んでもらえるとありがたい」というふうに答えた。

ところで、私の俳句作品は非常に難解と思われているらしいが、それも当然かもしれない。作品を「解る」ということが、作品から解答を導き出すということであるなら、そのような理解のされかたを拒絶したいと思っているからである。これについては後ほど詳しく述べるが、俳句作品を一つのかたまり、ひとつの装置として存在させ、読者に何らかの作用をもたらすことが出来ればよいと思っている。だからこそ、一行が一句であり、一つの作品であるという前提が崩されてしまっては困るのだ。

しかし、今思えば、いくら門外漢だとは言え、彼も俳句作品の多くが一行に書かれることは知っていたはずだ。彼がとまどったのは、数十句の作品がまとめられ、それに表題がつけられていたことに対してであったかもしれない。彼の問いは、これらの俳句の集まりを、連作のようにひとかたまりの作品として読むのか、そうではなく一句を完全に独立したものとして読むべきかという疑問であったのかもしれない。

俳句の場合は、一般的に一句が独立したひとつの作品だととらえられているが、実際には、作品を分割する境界には複数の層があり、階層構造をかたちづくっている。俳句の場合、「句」という単位を最小とし、その上位に「連作」あるいは句集の中の「章」という単位がある。さらに上位には「句集」という単位がある。この階層構造は可視的なものであり、読者の意識にも同じ階層が作られるのである。すなわち、読者が俳句作品を読むときには、ある句集を読んでいるという意識、ある連作を読んでいる意識を同時に持ちつつも、ある一句を読んでいるという意識を最も強くもちながら読んでゆくことになる。作者も同様に、章、句集のそれぞれのレベルにおいて、連続した意識の層を持ちながら作品を構成してゆくのであるが、その基本となるのは、やはり「句」という単位なのである。

その他の文芸にも同様の構造があるが、俳句の特徴を考えてみるために、ここでは比較対象として自由詩をとりあげてみる。俳句の場合と自由詩の場合とでは、大きな違いが二つある。ひとつは俳句には表題が無いことである。一部の句には前書きがあって、表題に近い役割を果たす場合もあるが、例外的なものと考える。もう一つは、俳句は多くの場合一句が一行に表記されるということであり、これは俳句の本質に深く関わってくる特徴である。

さきほど述べた階層構造において、最小の単位を俳句の場合はひとつの「句」とした。自由詩の場合、それに対応するのは、ひとつの「詩作品」ということになる。ここで、さらに下位の階層として「行」を考えてみると、俳句と自由詩の違いをとらえやすくなるであろう。いうまでもなく、俳句の場合は行と句が一致している。

読者が作品を読むとき、縦書きの場合、視点を上から下へと移動させる。すなわち、行を末尾まで読み終えたら、視点を先頭に戻すことになる。このとき、自由詩の場合、一つの詩を読んでいるという意識を保ったまま、次の行へと移動してゆくことが可能である。一方、俳句の場合は、一つの句を読んでいる意識を保ちつつ行を読み終えたとき、視点は次の行へは移らず、同じ行の先頭に戻ることになる。視点を上下に移動させるという行為は、ほとんど無意識に近いレベルで、いわば自動的に行われるものであるが、ひとつの作品から次の作品に移行するためには、ある程度意識的な判断が必要となる。俳句の場合、この判断を下すまでは、一行の中で繰り返し視点を上下に移動させることになるのである。
 そのため、一句が文として不完全なかたちで中断しているように見える場合でも、実は、句の末尾が先頭に接続することによって、環状の構造をもった文として存在していることがある。これを俳句の円環構造と呼んでみる。このような構造をもった俳句は、一句がひとつの小宇宙を形成しているかのような独立性を持つのである。

また、改行とは、作品の中で時間の経過や空間の移動を表現するための、最も有効な物理的仕掛けであるのだが、一般的に俳句ではこれを使用しない。俳句では、視点の一回の移動で一句の全体が把握できるという点で、言葉が同時的に現前すると言われる。しかし、同じく一行に表記されることの多い短歌の場合は、一行を読み終えて先頭に戻ったり、同時に全体を把握できるという感覚がない。これは、もちろん長さの差である。

短歌の場合、一行の中で読み取りの動作を二回行うように感じられる。一首を読むうちに息継ぎが一回入るのである。これは人間が一度に処理できる語の量の問題であろうと思われる。俳句の外見的特長は、一行に表記されること、そして一度の読み取りで全体が把握できる長さであることの二つなのである。

ここで「多行俳句」について触れないわけにはいかないだろう。高柳重信が創始したといわれる四行ないし三行の俳句を「多行俳句」と呼び、そのスタイルを継承している俳人も多くはないが存在している。またそのバリエーションとして、文字の配列じたいが記号や図となるようにする「カリグラム俳句」というものもある。これらの作品は、一行が一句という俳句の外見的特徴を備えていない。だからといって私は、これらの作品が俳句であることを否定しない。俳句として作られ、俳句として発表された作品は、やはり俳句として読まれるべきだと思うからである。作者が責任をもって「これは俳句である。」とするとき、俳句という文芸様式が変化し、成長してゆく歴史の最後尾にその作品を置くことになるのだと思う。俳句の本質は、最終的にはあらゆる俳句作品の総体として認識するほかにない。外見的特徴を本質と混同してはいけないのである。

別の見方をすると、多行俳句とは、読者がこれを俳句として読むことを逆手にとり、改行による時間、空間の切り替え効果を最大限に活かそうとする試みであるのかもしれない。俳句が一行のものであるという常識が無ければ多行俳句は存在しないのである。

3.

三人目の友人は小学生の頃から、長く親密なつきあいをしている仲間で、高校時代にはともにロックバンドをやっていたこともあった。彼は一時期私に誘われ、句会に投句をしていたことがあったのだが、数ヶ月ほどして俳句を一切やめると言い出した。熱心に投句をしているようだったので、意外に思って理由を尋ねると、以下のように話してくれた。

句会で読んだ先輩俳人の句に魅力を感じた彼は、親しい友人にそれを見せて感想を求めた。すると「これがどういう意味かまったくわからないし、なにが面白いのか全然わからない。」という答えが返ってきたという。そして、彼はこう言った。 「僕は誰にでもわかってもらえる、誰もが楽しんでくれることをやってゆきたい。だから俳句はやめる。」

これを聞いて寂しく感じたのも事実だが、彼が真剣に考えた結果として、俳句から遠ざかることを決意したことについては、むしろその潔さを賞賛したい気持ちであった。

もちろん私自身の俳句を続けてゆこうという気持ちが、これによってゆらぐことはなかった。世間に俳句を全く理解しない人が存在するのだとしてもである。

先に述べたように、俳句は指示対象が広いかわりに、伝達力に乏しい文芸ジャンルである。したがって読者が俳句作品を読んだときに、そこから作者が意図したものを受け取ることは簡単なことではないのかもしれない。読者の側に何かを受け取ろうという気持ちがなければ、往々にして俳句は意味不明な語の羅列となってしまう。特に、高度な俳句作品に張り巡らされた様々なテキストの網の目を伝って、作品の持つポテンシャルを最大限に引き出すことの出来る読者は稀であろう。

多く人々が高いレベルの俳句を享受する能力を欠いているのだとしても、読者のレベルにあわせたものを書いていて良いということにはならない。それならば俳句というジャンルを選択せず、もっと高い伝達力を得ることの出来るジャンルを選ぶべきだ。

しかし、俳句を享受するためのハードルというのはそれほど高いものなのだろうか。むしろ、気持ちを少し切り替えるだけで、一般に難解とされる句を楽しむことが出来るのではないだろうか。あるいは、既に何かを受け取っているにもかかわらず、そのことを認めようとしない人が多いのではないだろうか。

彼が友人に紹介したという俳句作品を検討してみると、文意に不明瞭なところはないし、文法的にも俳句独特のものが使われているところはない。ただし、内容としては全くナンセンスなもので、そこから何らかの「解答」を求めても袋小路に入るだけであろうと思われた。

先にも触れたが、俳句を解ろうとする態度、すなわち、俳句から解答を得ようとする態度とは、別の角度からいえば、俳句を読むことによって受け取ったものを、自分にとって既知のものに置き換えようとすることである。あるいは、作品を他の言葉に言い換えようとすることである。

もちろん、俳句作品が表現している内容、すなわち指示対象の全体を、他の言葉で置き換えることはできない。また、そうでなければわざわざ作品として製作する必要はないであろう。

俳句に限らず、どのような芸術作品であっても、他の言葉によってすっかりおきかえることのできるものはない。受け手にとって未知の領域が表現されているものこそが価値のある作品なのである。既知のことがらを足がかりにして、未知のものに触れようというアプローチそのものは有効である。しかし、既知のものを導き出すことを目的にしてしまっては本末転倒であろう。また、どうしても解答を導き出せないような作品に出くわしたとしても、それを読むことで、自分の内部のもやもやとした未知の領域に触れてくる感覚をもてたなら、読者は充分にその作品を享受し、楽しんだことになるのである。

そして、作品の第一の読者は言うまでもなく作者自身である。私の場合、作品を作ることによって、自分自身の内部にある未知の部分を少しでも照らし出すことができれば、それだけで充分満足なのである。もちろん、そのことを他の誰かと共有できたなら、その喜びは計り知れないものとなる。

あらゆる作品は、人の内部現実を照らし出すための装置である。伝達力の光線をどのように織り上げれば、どのように人の内部に散在する指示対象を照らし出すことが出来るのか。それぞれの語のもつ特質を吟味し、どのように構成すればどのような働きをするのか。それを具体的に検討してゆくことこそ、俳句を論じるということである。そこには、音律、切れ、季などの技法に関する問題はもちろん、個々の俳句作品や句集、俳人の評価など、先にこの文の検討課題から外しておいた、俳句の「質」の問題が含まれてくる。

こうして、ようやく俳句を論じることの入り口にたどりついたところで、この文の役目は終わることになる。ひとまず、現時点における私自身のための羅針盤は以上のようなものであり、今後これを携えて、俳句という街の地図を書きはじめることにしたい。

もちろんこの羅針盤は決して完成品ではなく、使っているうちに多くの欠陥が見つかるだろう。まだまだ多くの検討課題が残されていることは明らかだし、ここでおおまかに考察したテーマを、ひとつひとつさらに深く掘り下げてみることも必要である。

いつの日か、新しく作り直した羅針盤を発表する機会があるとしたら、それがより精度の高いものとなるよう、俳句を書き、読み、論じることをバランス良く自分に課してゆきたいと思っている。


(2004年 「夢座」所収)

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