2010年5月16日日曜日

「セレクション俳人」を読む 11 『橋本榮治集』 まだ元気?・・・藤田哲史

「セレクション俳人」を読む 11 『橋本榮治集』
まだ元気?

                       ・・・藤田哲史




この稿をはじめるにあたって、まず、水原秋櫻子の作品の引用からはじめたい。

来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり

梨咲くと葛飾の野はとの曇り


挙げたのは水原秋櫻子の第一句集『葛飾』(昭和五年刊)からの二句だ。

掲出した二句にあるように、『葛飾』における秋櫻子の題材のとり方は、平均するとむしろ古典的であり、平易である。が、それでも『葛飾』は十分魅惑的だ。それは、何のトリビアルさもない(素十の俳句をイメージしつつ書く)美しい風景を、美しい調べで読み手を秋櫻子の世界にいざなうからである。そしてこれらの、内容にバイアスをかけ甘美な叙情をつよめるはたらきを担っている調べこそ、秋櫻子の伝家の宝刀ともいうべきものだ。

先に内容の平易さを言ったが、更に厳密に言うと、秋櫻子は意図的に風景の中の夾雑物を排除している。十七字のフレームワークの中に、無駄なものを入れないことを意図している。(「私はきたないものや、自堕落なものや、未完成風なものは大きらいで、むしろ拵へものと思つても完成してゐるものの方が気持ちよい」)それこそが秋櫻子の言う「文芸上の真」でもあったろう。

その圧倒的に甘美な思想のもと、意図的な風景の純粋化を一身に受け止めた句こそが、後期作品における

冬菊のまとふはおのがひかりのみ  (『霜林』)

だ。髙柳克弘は評論集『凛然たる青春―若き俳人たちの肖像』において、『葛飾』の叙情の本質が、“光”にあると記したが、その光は秋櫻子の句業全体におよんでもいて、その過剰なまでのひかりは、現実の世界のきたなく、おぞましい見たくないような部分をくらませてしまう光でもあった。

そして、それと同じ“光”を今回取り上げる橋本榮治の作品に探すのはまったくむずかしいことではない。

春の櫂ひかりの渦を掻きにけり   (『麦生』)

雪嶺を出でたる星のはなればなれ

春星のあはきも濡るる百ヶ日

露を結ふ音か月光降る音か


昭和二二年生まれで、ほぼ初学のころから「馬酔木」に投句、また同誌編集長の経歴も持つ彼の作品に、その「馬酔木」の伝統が含まれていないわけもなく、また、その通りなのである。

ここで、ことさら目新しい題材を読みこまない作品を抽出している作為を指摘されているかもしれないが、しかしというべきか、やはりというべきか、集中の白眉はやはり以上のような、甘美さをのこす作品にある。




次に、前章の「馬酔木」らしさを基調を差し引いた地点から、もう少し、橋本の作品をつぶさに見てゆく。

(前章だけではあまりに作家の人物像が透けて見えてこない。それらの句は彼個人というより「馬酔木」の成果というべきものだろう)

ただ、先に断っておくと、橋本の作品には、その私生活をことさら強調するような作品は少ない。風土性も少ない(略歴を見るかぎり、横浜生まれで現在(二〇〇四年刊)も同地に住むという)ことはもちろん、私生活に関する作品すら少ない。

そして、その中にあって特に目立つのは音楽に関する作品だ。

バッハ聴く雪は音なく雪を追ひ (『麦生』)

炉明りやセピアに褪せてレノンゐる

ことクラシックに関するものが多い。そして作品のなかに都会的らしさを適切に消化している節度のよさも見える。だが、どこか物足りない。彼は「褪せ」た存在として「レノン」を見てしまっている。私にとってビートルズは純然たる古典だというのに、である。

また似た系列のものとして、芸術作品に関するもの、あるいは、食物に関するものがある。職業的な要素は出ないが、趣味的な要素に関しては多分に現れてくるのだ。

シャガールの月恋人に夜が白む (『麦生』)

ダリの絵の時計脈打つ炎天下

エスカルゴ好きで春愁なかりけり (『逆旅』)

皿に盛るバジルバジリコ夏来る

一方では絵画のイメージを、一方ではなじみの薄い「エスカルゴ」や「バジルバジリコ」といった食材を季語と配合させ、「季題」らしさをうまくいなしている。

そしてこういった作品を見ていると、橋本が「斬新」という言葉が通用しうる最後の作家かもしれないと思う。橋本のすぐ背後には、「三十年世代」がずっしりと控えている。彼らに斬新という言葉は当てはまらない。彼らは、安易に新しいことを注意深く、慎重にこばんでいる。橋本とて無闇にモチーフを提示しているわけではない、ただ、仮に題材の本意があるとしたら、その本意に付随するように言葉を置いている感がつよいのだ。次の作品と比較してみたらどうだろう。

マクベスの魔女は三人龍の玉   田中裕明(『夜の客人』)

この作者は、明らかにマクベスの情感に支配されきっていない。取り合わせのずらしに冷やかなポストモダンの憂いを感じる。(龍の玉は西洋に自生していないというし、文字上の「龍」という言葉にこだわるならば、東洋の龍と西洋の龍ではニュアンスも大きく異なろう。そもそも「マクベス」に竜は登場しないだろう。黒にちかい紺色の印象のみで魔女と龍の鬚の実をつないでいるところに、私はこの作者の力技を見る)

橋本はやはりまだどこかで、前時代的な何かをのこしているのだ。




彼の主題についても同様のことが言える。実はこれまでの文章には出さなかったが、橋本の作品には旅による作品がひじょうに多い。

『橋本榮治集』に収められた野中亮介による橋本榮治の作家論にもあるように、橋本の主題は、「旅」にある。

野中の論中では、「旅」という言葉を起点に、「旅」に内在する「死」のイメージについても言及しながら、橋本の作家性を焙りだす構成になっている。野中によれば、『麦生』は死や破滅の句集であり、第二句集『逆旅』は文字通り「旅」の句集であるというのだ。

私も野中の意見におおよそ納得するものの、がゆえに、橋本が死や破滅といった青年らしい主題から壮年らしい主題を求める過程で、「旅」という非日常を主題の主力にせねばならぬほど、日常生活レベルでの主題を搾りとるのに苦労する事実があるのではないか、といぶかってもみる。

もしかしたら、秋櫻子が彼の圧倒的な美意識で季題趣味から俳句を解き放った瞬間から、秋櫻子以後の俳人達は意識的に季題以外の主題を探し求める義務を負わなくてはならなくなったのではないか?(秋櫻子自身は、その底抜けに甘美な思想のもとにあからさまな主題から凌ぎえたようだが、それを純粋に踏襲することが許されるはずもない)

思えば、戦後の「馬酔木」からは、境涯俳句、療養俳句、教師俳句など、作者の実生活近辺で成立しうる主題が現れている。(そしてそれらの俳句のほとんどは、石田波郷や能村登四郎のように大正生まれの作家達が担っていた。)そのような時代がとうに過ぎ去った現代で、橋本は主題の欠乏を告白しているようにも見受けられてくるのだ。

なぜなら、野中の言うように、現代とは、その旅の安易さがゆえに西行や芭蕉の「旅」のような重厚な物語性が獲得できない時代だからだ。それは、ことさら旅をうまく詠みこんだとして、安易なメタファーとしての「旅」にしか着地できない危険性に満ちているということも意味する。

かといって、メタファーによる虚飾をはがしたとして、現代に大きな物語があるはずもない。そんな含羞よりも、今は小さな主題を一つ一つ助けていくことこそ、現代の主題のために必要なことではないか。あるいは、そろそろ「季題」を意識しすぎることからも自由になってよいのかもしれない。たまたま文脈が季題のレールに乗ったとして、それはそれで喜ばしいことだと、鈍感に構える作家が現れてもよいのだ。

そう思いつつ、第二句集以後の橋本のあっけらかんとした詠みぶりの示すところを、私は、まだ知りえていない。「次句集を作るとしたら、という想定で」作った『越在』は、まだ、一次経過報告に過ぎないのだ。

耐へるともなき冬芒まだ元気  (『越在』抄)

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