2010年5月9日日曜日

「セレクション俳人」読む10 大木あまり集

「セレクション俳人」を読む10 『大木あまり集』
俳句は誰のものか

                       ・・・外山 一機

かつて「台所俳句」という呼称があった。これは、ほとんど男性の独擅場といっていい状態にあった大正期の俳壇において雑誌『ホトトギス』が女性向け投句欄として「台所雑詠」を設けたことに遠く由来するのだろうが、『ホトトギス』の意図はともかく、「台所俳句」という言葉はしばしば、女性の俳句を批判する語として用いられてきたのであった。むろんこの語が女性俳句蔑視の意味合いを持っていることは僕も知っているけれど、一方で「台所俳句」という語が単なる差別語にとどまらなかったこともどうやら確かなようである。少なくとも戦後まもなくの頃に多少とも自覚的に俳句に関わろうとした女性にとって、「台所俳句」とは踏み絵のようなものであったのだ。踏むべきか、踏まざるべきか、その態度決定は自らの俳句行為のありかたに関わる問題であるはずだった。

大木あまりが本格的に俳句に取り組み始めたのは、角川源義の「河」に入会した一九七一年ごろからであろうか。その二年後の七三年、句会や俳句誌への女性の進出が目立つようになった戦後の俳壇について、当時『俳句研究』の編集長を務めていた高柳重信は次のように述べている。

忌憚なく言えば、最近の女流の進出は、もっぱら量の面で目立っており、たとえば、今後の俳句形式の命運に深くかかわりを持ちそうな、特にきわだった業績を示しつつある女流が出現したために、その存在が注目されているというわけではない。現在の女流俳人の大半は、従来の多くの平凡な俳人たちと同じように、いつも眼前にあると根拠もなく信じきっている俳句形式を、その都度、無邪気に利用しているに過ぎない。それは、まったく消費的な光景であり、それも、俳句形式の歴史が長い歳月をかけて蓄積してきたものに、何一つ新しく加えることもなく、猛烈で無差別な消費がつづくのである。(「編集後記」『俳句研究』一九七三・五)

この頃にはすでに女性の主宰や女性の受賞者も多くなってきていたから、「台所俳句」という言葉で女性の俳句を語る評者も少なくなっていただろうが、大量に生産される女性の俳句表現の質についてはますます問われることになっていく。大木の俳句的出立はまさにこのような状況においてなされたのであった。とすれば、「いつも眼前にあると根拠もなく信じきっている俳句形式を、その都度、無邪気に利用しているに過ぎない」という地点からどれだけ飛躍できるかということこそが、表現者として、あるいは青年としての大木あまりの課題であるはずだった。

大木は一九八〇年に第一句集『山の家』(一日書房)を刊行、続いて一九八五年に第二句集『火のいろに』(牧羊社)を刊行している。とりわけ『火のいろに』は当時の新人を集めた精鋭句集シリーズ(全一二巻)の一冊として刊行されており、大木が将来を嘱望された若手俳人の一人であったことがうかがえる。このように順調に俳人としての歩みを進めていた大木であったが、俳句には初めから興味を持っていたわけではなかった。「河」の会員であった母親の勧めがあったものの、「歳時記を開くことさえしなかった」という。

絵を志していた私が、遠回りして、ようやく俳句に興味を持つようになったのは、

紺絣春月重く出でしかな  飯田龍太

の句に出合ってからだ。装飾の仕事をしていたので、この句には実感があり、親しみが持てた。ウインドの飾りつけをしていて、ふと、空を見あげると、大きな月が私の仕事ぶりを見下ろしていることもあった。また、夜遅く仕事を終え、冴え冴えとした月光のなかを帰るとき、自分の影さえ重く感じることがあった。〈春月重く出でしかな〉と詠ったところに、青春の翳りを感じ、この句に私の青春を重ねてみるのだった。
(「破壊星人と俳句」『現代俳句ニューウェイブ』立風書房、一九九〇)

龍太の句に「青春の翳り」を感じたという大木だが、大木自身の句にも、たとえば次のようなものがある。

かき氷さくさく減らし同世代(『山の夢』)

大木の代表作の一つといっていいこの句のテーマもやはり青春であろう。それも、決して明るいものではなく、エネルギーに満ち溢れた「同世代」を傍で見ながら、焦燥と不安とに駆られた青春である。しかし、大木は必ずしも悲愴な面持ちの傍観者ではない。むしろ大木は「同世代」から少し離れたところから詠っていくことで「大木あまり」であった。

人に和すことの淋しさ花八ツ手(『山の夢』)
街やつと暮れてやさしき蛇の渦(同)
マネキンの言葉知らねば涼しけれ(同)
両眼なき達磨のゆとり桃の花(同)

大木は周囲に同調することに「淋しさ」を見る。周囲から取り残されたという思いは、反転して、自らその立場を引き取ったのだという自負になる。あるいはまた、日暮れの時間を「やつと暮れて」と、待望するかのように詠む。日の暮れた「街」にあるのはとぐろを巻いた蛇であるが、それは禍々しいものではなく「やさし」さに満ちているというのである。「言葉」を知らない「マネキン」も「両眼なき達磨」も、大木にとっては悲しいものでも痛々しいものでもない。何がしかが欠如していることによって、それらは五体満足なモノやコトを超越することができるのである。

むろんこうした反転は感傷の裏返しでもあろうが、それが句として結実したとき悲壮な感じのしないのはどういうことだろう。すなわち大木がただのセンチメンタリストでおわらずに、感傷を「裏返す」ことのできる、いわば奇妙に腕力のあるセンチメンタリストでいられるのはどういうわけなのだろうか。

この秋や病も組みおく予定表(『山の夢』)
涅槃西風けふ生かされて蛇眠し(同)
遺髪となる髪をのばさむ草の花(『雲の塔』)
後の世に逢はば二本の氷柱かな(『雲の塔』)
蒼猫忌とはわが忌日夏の雨(『雲の塔』)

大木はまぎれもなく此岸にいるのだが、しかし視界はすでに彼岸に侵食されている。のみならず、彼岸はまるであこがれの地であるかのようだ。「予定表」にはすでに「病」が組み込まれ、「生かされて」いる「蛇」はそのことに無頓着なまま眠りを貪る。「髪」はすなわち「遺髪」であり、すでに自らの「後の世」や「忌日」を夢見ているというのである。

冷奴音なく食べて忌の明くる(『山の夢』)
父の骨土に根づくか春の雪(『山の夢』)
荒星を風が磨くよ棺づくり(『火のいろに』)
喪の家の焼いて縮める桜鯛(『雲の塔』)
マスクして月の光の屍室(『火球』)

大木の句には死が充満している。だがそれを詠いあげることで、大木は此岸の五体満足なモノゴトを超越するまなざしを獲得していったのかもしれない。

さて、改めて最初の話題に戻ろう。大木は『火のいろに』以後も、此岸と彼岸を行き来するようにモノゴトを詠ってきた。その姿勢は一貫しているともいえる。しかし大木の「以後」の仕事が俳句形式を揺さぶるほどの果実を実らせたかというと疑問である。たとえば二〇〇一年刊行の第四句集『火球』の代表句が「火に投げし鶏頭根ごと立ちあがる」であることを思うとき、かつて俳句形式の将来を託された大木あまりの現在がどのようなものであるのかおおよそ想像がつくようだ。しかしながら、大木自身にとってそんなささいなことが問題であったかどうかもまた、僕には疑問である。

生きてきた記憶をごちゃまぜにしながら、心を壊してゆく星人(母のこと…引用者注)は、それでも俳句を作ろうとしている。彼女にとって俳句は何んなのだろう。執念なのか、習慣なのか、わからないが、星人の生きるエネルギーになっていることは確かだ。彼女に質問しても、答えてくれないが、星人にとって俳句は、彼女の肉声そのものだったといえる。だから、いくらすすめられても、気後がして、私は俳句に馴染めなかったのだと思う。(前掲「破壊星人と俳句」)

自らに俳句を勧めた母についてこのように述べた後で大木は言う。すなわち、「私にとって俳句は、星人への挨拶である」。

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