2010年5月9日日曜日

遷子を読む(58)

遷子を読む(58)


・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


母病めり祭の中に若き母
   『雪嶺』所収

仲:昭和34年の作。この4句前に

黒南風や病む母をただ傍観し

直前に

三伏や七十の母生きて病む

さらに昭和38年にも

母病むや闇に深紅の躑躅燃え

とあるので母緑(みどり)は病気がちだったのでしょうか。遷子の蒲柳の質は母譲りだったのかもしれません。しかし句集を追っていくと昭和44年に父が亡くなっていますが

父みとる母居眠りて去年今年

と母は元気です。その後も母を詠んだ句が散見され、いよいよ遷子自身が死に至る病を患うことになります。最後に母が句集に登場するのは最晩年昭和50年の

冬青空母より先に逝かんとは

です。つまり遷子と母親とは俗に言う逆縁となってしまったようなのです。遷子享年67歳、母緑の年齢はよく分りませんがこの時点で90歳近かったでしょう。病気がちだった割には随分長生きされた母上だったようです。

この句、冒頭と棹尾に「母」の字を置いた変わった構造になっています。冒頭の母はもちろん現在の母、しかし棹尾の母はどうでしょう? 「若き」とありますから回想シーンのようです。つまり「祭の中に若かったあの母が今は老いて病んでいる」ということでしょう。しかし中七以降が「若かりし母」と過去形でなく「若き母」と現在形で書かれているために一句の中の時間がねじれて不思議な感じがするのです。この書き方だとあたかも今目の前の母が祭の中にいるかのようではありませんか。

しかし私は、この表現は遷子のミスでなく正直な心の動きを反映しているのではないかと思います。彼は目の前の老いた母の向こうに若かった母の姿を実際に目撃したのではないでしょうか。もちろん幻ではありますが、おそらく祭の中で気風のよさを発揮していた昔の母の美しくも頼もしい姿をありありと見たのではないか、そう思うのです。

昭和41年には

母の声背後に若し鰯雲

という句もあります。これなど母の姿を見ず、背後から聞こえる声だけを聞いている訳です。ここでも遷子は母の声の中に若さを聞き取っています。遷子にとって母はいつまでも若い存在(若くあって欲しい存在なのかもしれません)だったのではないでしょうか。

中西:一句の中に母が2回出ています。現実に臥せる母と、思い出の若い母です。この句は二重構造になっています。上五の切れが、年代の異なる二人の母を同時に見せている面白い句です。この祭は信州の夏祭でしょうか。強く印象に残っている母の画像です。もしかしたら、思い出したのは古いスナップ写真の母の画像なのかも知れませんし、幼い遷子を連れていった母の思い出話の中の祭かもしれません。ここではイメージとしての若い母が描かれているわけです。病臥の母への感謝の気持ちが、このような映像をもたらしたのかもしれません。

寒蝉さんがおっしゃるように、遷子にとって母は、子供の頃の美しい母のイメージを常に内在化させた存在だったとしたら、男性にとって母は永遠の恋人であることを確認させてくれるようですね。

前年の作に、

老婆病み命を惜む田植季
ころころと老婆生きたり光る風

の2句があり、掲出句のロマンチシズムとはかなりかけ離れたものを感じざるを得ません。身内へ向けられた愛情に満ちた表現と、患者に向けられた厳しい表現のギャップをどう受け止めたら言いのでしょう。

また、身内を描く場合も父母と妻は病気の句が比較的多いようです。家族が病気をすると遷子が診るわけですから、元気なときより接し方が密になり、俳句になり易いと考えられませんでしょうか。
 
原:一句の中に時差のある不思議な構造の句です。

「祭」の場自体を回想として、上五の「母」を説明していく読みが穏当かと思うのですが、一方で、母が病んでいるこの時、外は祭の最中であって、その中に若き頃の母の姿を一瞬の幻のように見たという解釈を捨て切れません。その方が、作品としての形象度が強いように感じるのです。

深谷:初めて掲出句を読んだ時、まるで映画かテレビドラマの1シーンのようだと感じたのを覚えています。今も、その感想は変わりません。句の意味は、仲さんが指摘されたとおりでしょう。病の床に臥す母と、若く健康で美しかった母(の幻影)。この二つが一句の中で交差するという、二重構造を秘めています。このように複雑な構造を有しながら、句の印象は実に鮮明です。こうした鮮明さは何処から来るのかと考えた時、遷子が持つある種の人間臭さに気付かされます。総じて遷子の家族俳句は、それぞれの対象への想いが極めて率直に詠われています。妻への思いやり、子供の成長を実感する喜び、等等。掲出句でも母恋いが主調になっていますが、その母は若く美しかった母なのです。仲さんが仰ったとおり、遷子の内にある「理想の母」なのかもしれません。そして、それを衒いなくストレートに詠んだからこそ、印象鮮明な一句に仕立てあがったのだと思います。

筑紫:仲さんの指摘は面白いと思います。文は文法で理解すると思われているようですが、それは現在から見た後知恵だと思います。例えば文語文法と口語文法(現代語文法)は古代文法が時々刻々と変化成長してきただけの単一文法であるわけです。方言と違いがあるわけではありません。そして、古代文法には時制はなかったようですから、「若かりし母」と「若き母」は古代語感覚で言えば違いはないのです。それは二つの時間を区別できないことであると同時に、そうした宇宙観に従えば、二つの時間に差はなかったのが日本人だったと言うことです。厳密な時制をもっている、アーリア民族でさえ大昔はそうであったと思われます。

つまらないことを言っているように思えますが、常識が支配する二つの時間差の合理的世界から抜け出すのが文学だとすれば、古代文法で語ってしまうことも、文学という一つの現実否定にはなるのではないでしょうか。

* *

とはいえ、この句の解釈としては、「母病めり」と見ているのが遷子ら子どもたちなのか、むしろ母自身ではないかという気もします。そう見ると、「祭の中に若き母」を見ているのが遷子ら子どもたちであるばかりでなく、母自身が熱に浮かされた脳裏で自らの若い時を再現させていると見ることも可能なようです。遷子ら子どもたちが見ている母は子どもを産んだ成熟した女としての母でしょうが、もし母が幻で見る自らだとしたら、まだ娘時代の自分であったかも知れません。

もちろん、古代文法で語ることと何ら矛盾することではないのですが。

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