2010年5月2日日曜日

遷子を読む(57)

遷子を読む(57)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


信濃びと我に信濃の涼風よ
『山河』所収

原:昭和45年作。

昭和26年の時点で、故郷佐久の風土と人間について、「久しぶりに帰住した私にとっては、稍期待を裏切られた感がありました」(佐久雑記)と記したこともある遷子でしたが、掲句では産土の地に根を下ろし、信濃人である自分を素直に諾っています。「涼風」はわが風土への讃辞にほかならないでしょう。すでに昭和40年『雪嶺』に「田を植ゑてわが佐久郡水ゆたか」の作もあります。

掲句の作られた前年に波郷の死、年が明けてまもなく父の死、といったことはありましたが、この昭和44年には『雪嶺』上梓、俳人協会賞受賞、翌年「馬酔木」同人会長に推されています。戦地からの帰還以来、病気に悩まされ続けた遷子ですが、この時期は体調も比較的平穏、句業に対する評価も次第に定まってきていたようです。

地域をやや広げることになりますが、「信濃」という風土と人について、別の角度からの例をあげてみます。

遷子と同じく、戦後、父祖の地・信濃に定住することになった歌人斎藤史はこの地(長野市、善光寺平長沼町、長野市と転々する)を次のように詠っています。

とげとげしき山の姿に在り馴れしこの国人よなめらかならず
不意に来て冷酷にものをいひ放つ人は善良な野良の面せり
落し紙も石鹸も使はぬ土地の女等のあとなるお風呂
(ゆ)を我はいただく

そして土地人としての自分を、次のように詠いました。

山坂を髪乱れつつ来しからにわれも信濃の願人の姥
              『ひたくれなゐ』 (昭和51年)

遷子は子ども時代を佐久で過ごしていますから、まだしもですが、史の場合、父祖の地ではあってもこの時まで住んだことはなく、ほとんど余所者として疎開定住しています(史の夫は医者)。

男の眼と女の眼という違いもありましょうけれど、土着ではないインテリ層の人間という共通性を持ちながら、風土になじむかたちの相違を考えさせられて、これまでしばしば史を念頭に置きつつ、遷子の句を読むことがありました。

自らを「願人の姥」と詠んだ史に対して、遷子の掲出句は、しずかな朗らかさとでもいったらいいでしょうか。多忙な日々の合間に、このような至福のひとときもあったことを喜びたい気がします。

中西:風光りただねむたさの峯の雪

これも昭和45年作の句ですが、この2句、風景句でも、人事句でもありません。では何かと言うと、風景への愛着を詠ったもの、気持ちを詠ったものと言えるでしょう。観念句になりそうな事柄を、風土を詠み込むことで誰もが共感を覚える内容となっています。

佐久に定住して子供達も、巣立って行きました。子供達はここを故郷として帰ってくるでしょう。孫も生まれました。そんな状況で詠まれています。

遷子は「信濃びと我」に長年かかってなったように思います。この言葉には、信濃の人への同胞意識があります。良いも悪いも飲み込んだ愛惜です。自分が今までいやだと思っていた人達と同化することによって、見えてきた美しい景色が、きっとあるのでしょう。

そして、この頃は土地の人の尊敬を集める、相馬医院の大先生だったのではないでしょうか。ミステリーツアーで弟さんの奥様からお聞きしたように、相馬先生と言えば、土地の人と将棋に興じる我が町のお医者さんだったらしいですから。

淡々と続けてきた俳句のほうでも、認められて良いときが到来したようです。

飯田龍太の鑑賞文の中に、「『馬酔木』の作家の中では、最も重い自然詠を示す人だ。あきらめず焦らず、静かに自然を享受している。そのかすかな呼吸に情感のたかぶりを見せたとき、澄んだ佳句が生まれてくるのだろう。」(「雲母」昭和41年11月号)(『飯田龍太全集』6 角川書店)というのがあります。風土作家である龍太らしく、遷子の風景詠をよく言い当てているように思います。龍太の言う「情感の高ぶり」と言う点では、この句などはかなりハイになっているようです。

原さんが書かれていますように、「このような至福のひと時があったことを喜びたい」ということに全く同感です。また、こういう至福の句があるからこそ、遷子は多くの人に愛されたのではないでしょうか。

深谷:帰郷して20年以上の歳月が過ぎ、遷子にもすっかり故郷佐久の地への愛着が育まれたのでしょう。手放しの故郷自慢です。当時の生活環境を踏まえれば信州の気候の厳しさは今日のそれを遥かに凌駕していた筈ですので、遷子の風土詠はどちらかと言えば重い、暗い調子のものが目立ちます。けれどもこのような明るい句を見ると、ふと心が和みます。掲出句について言えば、上五で自分自身を「信濃びと」と明確に規定した措辞に注目しました。この宣言に、自信めいたものが窺えます。原さんが揚げられたもう一つの句も、「わが佐久郡」と、佐久が自身の故郷であるという意識が明確に詠われています。そうした自信や自意識に裏打ちされた所為か、どちらの句も堂々とした詠み振りで、句柄の大きさが光ります。もちろんこうした心境に至るまでに故郷に対する心理的屈折や葛藤があった点は、原さんが冒頭に指摘された通りでしょう。そして、そのような過程を経ての故郷賛歌だからこそ、読む者の共感を呼ぶのだと思います。

仲:自分のことを「信濃びと」と規定して色々確執のあった故郷と折り合いをつけたのでしょう。原さんのおっしゃる「産土の地に根を下ろし」た安心感が読み取れます。一方で信濃に生まれずっと信濃に暮らしている人間はわざわざ己を「信濃びと」とは呼ばないでしょうから、そこにまだ完全には信州の地に解け込めていない遷子がいるのかもしれません。いや彼は生涯故郷の内からと外から双方の目で自分を見ていた「自覚的信濃びと」であったと思います。

信州の夏は、日の当る所ではかなり気温も上昇し、他の地域同様に暑いのですが、ひとたび木陰に入るとその涼しさは流石に山国だと思わせるものがあります。こういうときにこそ信濃という土地の有難味をあらためて感じるものです。その意味で遷子のこの句は所謂「国褒め」の歌の延長線上にあるのだと思います。

筑紫:『山河』という句集は、49年以降を切り落としてしまうと、俄然印象の違った句集となります。晩年の切迫した作品がなくなるとともに、老境を迎えて悠々と俳句を楽しもうとした遷子の心境が浮かび上がるからです。この時期の作品を、龍太は、「前半は格別のこともない」といって抹殺しています(「俳句研究」昭和62年5月号 「山河瞭遥」)。いや、『山国』『雪嶺』さえ秀抜の句集ではないといっていますから、遷子の大半を否定していることになります。

しかし、龍太の視点が絶対だという保証はありません。龍太の作品が、「一月の川一月の谷の中」のように、どこか家郷の里に対して冷え冷えとしたものを感じさせるのに対して、遷子は(佐久の人についてはともかく)自然に対してはのめりこんでいます。それを見る描き方は通俗的で分かりやすく共感性に富んでいます。その意味で、浅い印象を与えるかもしれませんが、通俗的であり大衆的であることは、こと俳句に関しては悪いことではありません。

掲出の句は甘い句でありますが、甘くて何がいけないのでしょうか。ほっとした共感が得られるなら、それはそれでひとつの価値を生み出したということができると思います。

【追加】私のコメントを書いた後から、中西さんのコメントが届き、これを読んで、龍太の感想の差の大きさに愕然としました。おそらく、遷子の環境に一番近いところにいて、遷子が最も共感を得られると期待したのが龍太でした。「あれは確か五十年の師走のこと。遷子の身近な人から、近く『山河』という句集が刊行されるが、著者のたっての希望として、あなたにこの書評をお願いしたい旨の書信が届いた。病臥はうすうす承知していたが、それほどの重患とは知る由もなく、また生憎当方も性悪の風邪で臥床中。こころならずもお断りするよりなかった」と遷子が龍太の執筆を熱望していたにもかかわらず断られたことがかかれています(龍太の文章にある遷子の身近な人とは馬酔木の編集をしていた福永耕二だったのでしょう)。そして、10年たってこの句集(実は『全句集』)を読むに当たっての感想を「この全句集は、身近な書棚に収め、時折ひもといていたが、今度全編を読了し、改めて感想を記すことにした。遅ればせながら、私情の風化もまた、著者に対する敬意かもしれない」と書いています。しかし、「私情の風化もまた、著者に対する敬意かもしれない」とは何なのでしょう。龍太にどんな私情があり、それが風化してどうなったというのでしょうか。「敬意かもしれない」といっているのは、「敬意ではない」と言っているのに等しい言葉で、妙に冷え冷えとした言葉に聞こえてなりません。

遷子は龍太の共感を得られると期待していた、それは間違っていたのではないでしょうか。晩年の龍太は遷子のどこか甘いところのある風土詠を、決して高くは評価していなかったのだと思います。龍太の作品全般に共通する冷え切ったような視線は、遷子の思惑を超えて、裁判官のようにクールなものでした。それは現代的で新しいというより、「生きかはり死にかはりして打つ田かな 鬼城」のような土着の冷酷さだと思います。龍太の言葉を読むとき、すこしこうしたバイアスをかけて読んでみたいと思うのです。

ただしそれは、遷子の俳句の本質と何の関係もないものではありました。遷子は遷子で、精一杯だったと思うのです。

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