つまり、君は君以外の存在になれないことに不満だった。
・・・藤田哲史
いかなる結晶もその中は完全な粒子の配列になっていない…これは粒子一つ一つのエネルギーの問題ではない。熱力学的な視点からある系のエントロピーを考えたときにそれは説明できる。どうしても世界に温度というものがあるかぎり、うつくしい結晶の整然とした粒子の配列の中にいくつか欠陥が生じてしまう。たとえそれが透明な石英の結晶であったとしても。
その話を聴くとき、私は遠く青春詠のことを考える。俳句においての青春詠は、その作品としての強度、完成度を高めるほど、実は少年の強欲さ、傲慢さを失ってゆく。作品の完成に向けての推敲とは、作家個人の青春性を普遍性へと転換する行いだ(無論作品のためにはそれでよい)。しかし、その作品の作り手はもはや純粋な少年でありえないのではないか、とも考える。いかな齢であろうと普遍性を獲るために言葉の品定めをするまなざしは、それは少年ではなくもはや大人のまなざしではないか、と。
誤解を怖れずここでは、その普遍性に迫る巧さを狡猾さと言い換えもしよう。そうやって早熟の詩人は、みな少年と大人の中間の場所にいて、あっけらかんと言葉を紡ぐのではないか。そうして、狡猾さをほどよく調合しながら彼らは「今」「ここ」にいる「僕」だけの切実さを削って普遍性とつながってゆく。
向日葵の蕊を見るとき海消えし 芝不器男
かりかりと蟷螂蜂の皃を食む 山口誓子
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永耕二
冬の枝しだいに細し終に無し 正木浩一
渚にて金澤のこと菊のこと 田中裕明
どの句も青春性の芯を通した名句だと思う。「海消えし」の独断や、「かりかりと」の鋭い感覚、「墓碑」、「終に無し」の感傷。「渚にて」の清潔感。どれもとってもモチーフの厳密な選びとられ方が、完成度への強い意志を暗示する。結果のこされた詩の空間はどれも静謐で、動的な描写もまた永続的なニュアンスを帯びている特徴をもつ。
それでは、高野ムツオの初期作品――第一句集『陽炎の家』においてはどうか。
翼欲しい少年街は黄落期
まぶしい花粉に姿隠して逢引きする
ぼくの唾ずり落ちる愛のように
ながれくる毛髪これはぼくの罪
月蝕はじまる僕の手足は逃亡中
触覚欲しくて揺れる棒状の他人
第一句集の巻頭近くから六句引いてみた。同時に作家の略歴も手短に挙げておく。
高野ムツオは昭和二二年、一九四七年生まれ。小学校から俳句に手を染める。高校卒業後一度は地方公務員の職につくが、昭和四二年、國學院大学の夜間部に入学。この年、「海程」に入会。昭和五四年、初めて佐藤鬼房にまみえる。その六年後、昭和六十年に「小熊座」創刊、その後校正に携わるようになる。現在「小熊座」主宰。
さて、先ほど挙げた高野の作品には、概観したかぎりほどよい抒情の沈静化を担う文語の使用はなく、逆に口語の使用、とくに「僕(ぼく)」という一人称の使用が目をひく。そして、この一人称の「僕」が、高野ムツオの本質を掠めている気がする。もともと「僕」という語には青年のニュアンスより少年のニュアンスが強いが、その少年性の中でも、自意識の不安定さの部分を切実に言葉に写し取っている点で、高野の作品は極めて興味深い。
そして、それは身体と意識の関係を題材にとった作品になって顕著に現れる。一句目の「翼」の句においてはことに明確で、身体の拡張がそのまま自我の拡張願望の投影と見ることができるし、七句目の「手足」などには意識と体の不整合性の認識が見られる。この点は、自らの身体にピアスのための穴を開ける行為と深層で繋がっているもので、要するに、ファッション以前の生の肉体への興味、私の意識がどうしても抜け出せない私の体自体への興味、がそこにある。(他の作家で似たものを、といえば「目覚めるといつも私がいて遺憾」(池田澄子))
人の羽化はじまる晩夏図書館より
またそのような認識の本質は、「僕」そのものに限らず、「あなた」に乗り移ったりする。それどころか、その対象が「それ」や「あれ」や「これ」になったりする。(あなたが集中してものを書くとき、触覚の認識しているポイントは、手と筆の間にあるのではなく、筆と紙の間にありはしないか?)
ただ、自意識の境界が曖昧なときには「僕」を用いるが、ある程度他者性が自明のモチーフに関しては「われ(わが)」を用いるらしい。
一日晴れ一日わが喉は鳥の巣
われはイラクサ雨の一日の外套に
時代順としては後になるこれらの作品を、高野の成長の証拠として汲み取ることもできる。しかし、それでも精神的な事象への切実さに対して、現実世界への切実さに乏しい。それは師・佐藤鬼房の初期作品と比較してみるとより明らかだ。
金借りて冬本郷の坂くだる 『名もなき日夜』
夕焼に遺書のつたなく死ににけり
かかる夜の月満ちて肺うるほはしめよ
月明の沼氷りつつ必死なり
雪に一点の鴉三十に余白なし
満月の藻を靴に纏き発狂す
大正八年生まれの佐藤鬼房の作品には、主体という言葉が奇妙に聴こえるほど大前提のように作者の視点が守られている。だから鬼房には作品中で改めて「われ」という言葉を持ち出す必要がない。
対して高野は対象を見ることに自信がない。今見ていることの確かさに疑念すらまじっている。認識は、対象以外の夾雑物をつねに引き連れてくるのだ。また彼はそのことに興味すらある。だから、彼の作品にはメタファーが頻出しもする。
ストーブ燃える此処をオリオンとも思う
阿武隈川という女体なり喉に霧
後頭の夜霧は春のてのひらか
俺という夾雑物へ真夜ヨシキリ
彼に強固な主体は似合わない。彼は「俺」自体を夾雑物としてすら見てしまう。第二句集以後も、主体が空回りしながら過剰なメタファーの演出に終始している作品が目立つのは私だけか。
雨の夜の少女五人は黒蟻か 『鳥柱』
星屑を集め寒中見舞とす 『雲雀の血』
空気にも絶壁がありなめくじり 『蟲の王』
第四句集『蟲の王』のあとがきに「(佐藤鬼房は:筆者注)この程度の句ではまだまだと苦笑いしていることだろう」とあるが、果たしてそれが高野の終着地点となるのか、はなはだ心もとない。「存在するゆえの不安やかえろっぱ」という作品を第三句集『雲雀の血』に残した高野が鬼房を目指すのは、極めて悲痛な作業なのではあるまいか。「切れば血の噴き出る俳句を目指」すことが、最上のことなのか、と私は疑う。いかにもブンガキテキなものに価値を見出す時代は既にはるか彼方にある。
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