2010年4月18日日曜日

俳句九十九折(79) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩⅡ・・・冨田拓也

俳句九十九折(79)
七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩⅡ

                       ・・・冨田拓也


4月12日 月曜日

先週、

汽罐車も鰓もてすすむ稲穂波  竹中宏

という句を取り上げたのであるが、この句についてよく見てみると、「鰓」という言葉と「稲穂波」という言葉には意図的な関連性というものが内在しているのではないか、ということに気が付いた。即ち「鰓」と「波」から、海と魚のイメージがこの句の裏側には潜んでいるということになるのではなかろうか。

現実の秋の吹き靡く「稲穂」の中を進む「汽罐車」の光景といったものが(これだけでも作品としてはなかなかの迫力である)、一転して海の波がうねる中を「汽罐車」がそれこそまるで竜神のようなものと化して進んでゆくようなイメージとなり、現実の風景とは別趣のダイナミックな作品世界として生動してくるということになるようである。鋼鉄の汽罐車が、ぬめぬめとした軟体質の魚類のようなものへと変貌していく感触のようなものが感じられ、なんとも異様な手触りの残る作品である。



4月14日 水曜日

「絵」というキーワードが思い浮かんだのだが、いまひとつ例句が思い出せない。「絵」による俳句というものは、おそらくもっと数多く存在するはずであるのだが。

子等の絵に真赤な太陽吹雪の街   金子兜太

絵の中の扉開けば夏の海   西村我尼吾

二月絵を見にゆく旅の鷗かな   田中裕明

路地裏に蠟石の絵の凍ててをり   武藤尚樹



4月15日 木曜日

思潮社の現代詩の総合誌である『現代詩手帖』が6月号において、ゼロ年代の俳句と短歌による短詩型の特集を企画しているそうである。

今後は、

『新撰21』の俳人たち VS 「ゼロ年代の詩人たち」

などという状況も、いつかはやって来るのであろうか。(あと、短歌の世界も)

しかしながら、社会における経済状況というものが年毎にひどくなってくると、もしかしたら今後、また文芸というものが少しばかり見直される時代というものがやってくる可能性もあるかもしれないな、という思いも若干ながらしないでもない。文芸というものは、他の様々な表現ジャンルと比べて、特にそれほど元手がかからないところがある。



4月17日 土曜日

この連載の3月28日に「ライトヴァース」について少しふれたのだが、歌人の荻原裕幸さんにこの問題について、「デジタル・ビスケット」のブログ(4月3日)において再び取り上げていただいた。

その内容というものは、「ライトヴァース」というものの、定義とは言わないまでも、輪郭といったものを具体的にしないと、ライトヴァースにおける可能性及び不可能性の考察というものを進めるのは難しいのではないか、といった論旨のご意見であった。

この問題については、実のところ、やはりそもそも俳句における「ライトヴァース」とは具体的にどういったものであるのかということが、自分にはなかなか明確に把握し難いところがあり、この前の3月28日の内容は、これまでの俳句の歴史の中からライトヴァース的、ライトヴァースっぽいと思われる作者をとりあえずピックアップしてみて、なにか見えてこないだろうか、という思いを以て試みたものでもあったのである。

自分としてはそもそも、「ライトヴァース」というものについてはそれこそ単純に「漢文的な格調や詰屈さというものがなく、口語やカタカナによる表現に比重をおいたソフトでポップな傾向の作品」とでもいったような、なんとも非常に漠然としたイメージというか、相当にいい加減な認識しか、これまでにおいてもまた現在においても持ち合わせていないようなところがある。

そもそも「短歌」におけるライトヴァースの作者といえば、

仙波龍英、俵万智、荻原裕幸、中山明、穂村弘、加藤治郎、早坂類、紀野恵、高柳蕗子、林和清

あたりということになろうか。

つけてくる運命の鰐に向きなおれ私を愛しはじめたあなた  高柳蕗子『ユモレスク』(1985)

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智『サラダ記念日』(1987)

ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら  加藤治郎『サニーサイドアップ』(1987)

しみじみとわれの孤独を照らしをり札幌麦酒(さつぽろビール)のこの一つ星  荻原裕幸『青年霊歌』(1988)

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピンを抜けば朝焼け  穂村弘『シンジケート』(1989)

ライトヴァースといっても、歌集などをみると作者それぞれに少々色合いが違っている部分があり、単純に一括りにしてしまうのも問題である気がするところがある。あと、加藤治郎の『サニーサイドアップ』というタイトルの意味は「目玉焼」のことで、「固ゆで卵」の作品と張り合う気持ちから付けられたものであるそうである。

少々大雑把であるかもしれないが、

塚本邦雄→荻原裕幸、高柳重信→高柳蕗子、佐佐木幸綱→俵万智

という関係から、時代の流れによる表現の変化といったものの構図が若干ながら浮かんでくるところがあろうか。

そして、俳句における「ライトヴァース」についてであるが、この前はとりあえずのところ、以下の作者を挙げてみた。

上島鬼貫、小林一茶、高屋窓秋、渡辺白泉、藤後左右、後期富澤赤黄男、阿部青鞋、加藤郁乎、阿部完市、折笠美秋、坪内稔典、攝津幸彦、池田澄子、中烏健二、小林恭二、岩田眞光、『俳句空間』の新鋭(今泉康弘、高山れおななど)、永末恵子、櫂未知子、鴇田智哉(他に、自由律俳句の作者たち、京極杞陽、今井杏太郎、橋間石、中尾寿美子、小川双々子など)

一応、鬼貫と一茶を挙げたのは、鬼貫の〈白魚や目までしら魚目ハ黒魚〉〈そよりともせいで秋たつ事かいの〉や一茶の〈むまさうな雪がふうはりふはり哉〉〈雪とけてくりくりしたる月夜かな〉といった表現に見られる、口語や擬音によるややくだけた表現から、必ずしも格調の高さや言葉を均整に隙間なく構築した結果としての重厚さ、精巧さといったもののみが俳句を成立させる条件というわけではないように思われる、という意味合いから取り上げてみたものである。

昼顔の見えるひるすぎぽるとがる   加藤郁乎『球体感覚』(1959年刊)

切株やあるくぎんなんぎんのよる     〃     〃

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン   〃  『形而上学』(1966年刊)

かなかなのころされにゆくものがたり   阿部完市『にもつは絵馬』(1973年刊)

九月みにゆくきれいな一騎にさそわれて    〃     〃

葉のかたちのトーストいちまい青森にて    〃     〃

春の坂丸大ハムが泣いている   坪内稔典『落花落日』(1984年刊)

三月の甘納豆のうふふふふ      〃   〃

桜散るあなたも河馬になりなさい   〃    〃

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ   山田耕司(1980年代の半ばから後半の作?)

恋ふたつ レモンはうまく切れません   松本恭子『檸檬の街で』(1987年刊)

ピンクのアンダーラインは春の鳥だね   岩田眞光『百合懐胎』(1991年刊)

とりあえず新興俳句系の作者たちは措いておくとして、戦後における俳句作品をいくつか取り上げてみた。やはり俳句における「ライトヴァース」ということを考えるとなると、「短歌」の状況と併せてどうもこのあたりを問題にする必要があるのではないかという気がする。(特に1980年代)

あと、この俳句における「ライトヴァース」の問題については、所謂「新古典派」(このレッテルで一括りにしてしまうのも少々問題であるが)ともいうべき、伝統的などちらかというとアナクロニズムを指向する、辻桃子、長谷川櫂、千葉皓史、小澤實、岸本尚毅、田中裕明、中田剛、中岡毅雄、小川軽舟などの作者の存在についても考える必要がありそうである。

これらの作者の中にも、

ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤實『砧』(1986年刊)

といったどちらかというと割合ライト的な印象の作品があったりもするのである。

そして、なにゆえ「短歌の世界」とは異なり「俳句の世界」においては、アナクロニズムが流行する結果となったのかという疑問もある。それは当然ながら単純に形式の違いゆえという理由が大きいのであろうが、もしかしたら、この「新古典派」の作者たちの作品というものも、時代的な側面も考慮に入れて考えると、ある種の俳句というジャンルにおける「ライトヴァース」の表現であり、「サニーサイドアップ(目玉焼)」である、という可能性も考えられないでもないのではないか、という気のするところもある。

また、荻原裕幸氏が以前に指摘されたように「川柳」の存在というものもあり、このライトヴァースの問題というものは、よく考えてみるとなかなかややこしいところがある。

今回のところは、能力の問題のみならず時間の問題もあって、相当にいい加減な枠組みというか大まかなスケッチのみしか描くことができないところがあったが、この問題については今後も、少しづつであれ考えてみたいところである。

そして、やはり俳句に短歌のようなライトヴァース的な表現というものが容易に成し得ないように思われるのは、先程にも述べたように俳句形式の短さゆえの「ものが言えない」性質と、さらにそれに加えて「季語」の存在というものが大きく関与しているためなのではないか、という気のするところがある。

--------------------------------------------------

■関連記事

俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(56) 七曜俳句クロニクル Ⅸ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(59) 七曜俳句クロニクル ⅩⅡ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(60) 七曜俳句クロニクル ⅩⅢ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(61) 七曜俳句クロニクル ⅩⅣ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(62) 七曜俳句クロニクル ⅩⅤ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(63) 七曜俳句クロニクル ⅩⅥ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(64) 七曜俳句クロニクル ⅩⅦ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(65) 七曜俳句クロニクル ⅩⅧ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(66) 七曜俳句クロニクル ⅩⅨ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(67) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(68) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(69) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅡ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(70) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅢ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(71) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅣ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(72) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅤ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(73) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅥ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(74) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅦ・・・冨田拓也   →読む
俳句九十九折(75) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅧ・・・冨田拓也   →読む
俳句九十九折(76) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅨ・・・冨田拓也   →読む
俳句九十九折(77) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩ・・・冨田拓也   →読む
俳句九十九折(78) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。




2 件のコメント:

上田信治 さんのコメント...

こちらでは、はじめてです。上田です。よろしくどうぞ。

>この「新古典派」の作者たちの作品というものも、時代的な側面も考慮に入れて考えると、ある種の俳句というジャンルにおける「ライトヴァース」の表現であり、

それは大きいと思います。

詩の世界でライトヴァースがクローズアップされたのは、おそらく、1960ー70年代的な「生真面目さ」が、70年代末からこっち「ビンボー臭さ」として茶化され倒したこととパラレルで、

血祭りに上げられた「生真面目さ」の中には、全共闘的なもの、白樺派的なもの、前衛芸術的なものなどが含まれ、

要するに、日本も豊かになったという話で、

平成俳句の担い手達は、全共闘的なものに対するルサンチマンこそ、たいして持っていなかったろうけど、

「現代っ子」として、たとえば、荒井由美的な、糸井重里的な、タモリ的なものなどを、呼吸して育っているはずで、

それは、いちおう反時代的表現であったものが、思いっ切り時流に乗っていく、

4文字語としての「サブカル」のはじめの季節です。

自分は、あの人たちとほぼ同年ということもあって、思わず出てきてしまった次第。失礼しました。

そのへん、下の拙記事のラスト近くで、すこし触れています。ご参考になれば、幸いです。

「俳句」2007年12月号「くびきから放たれた俳人たち(最終回) 小川軽舟」を読む(週刊俳句2007年12月2日号)
http://bit.ly/c53ywB

冨田拓也 さんのコメント...

上田信治様

コメントいただきまして、ありがとうございます。

補足していただいて、助かりました(笑)。

心より感謝いたします。

この間「ライトヴァース」について調べていたら、出版社である「書肆山田」についての『ウィキペディア(Wikipedia)』の文章に以下の通りの内容の記事がありました。

<1980年代始めに話題を呼んだのは、「日本のライト・ヴァース」全4巻、「世界のライト・ヴァース」全5巻のシリーズである。
ライト・ヴァースは、直訳すれば軽い詩だが、ただ軽いだけではないしたたかさを備えた詩のことで、日本にライト・ヴァースという言葉が定着したのはこのシリーズによってだと言っても過言ではない。>

この「ライトヴァース」というものがクローズアップされた背景には、当時の「反時代的表現」という意識の存在があったということになるのですね。なるほど。

60年代、70年代、80年と経るにしたがって「経済」の発展に伴い社会全体が豊かになってゆく。そのなかで人々をとらえていた
国家的、社会的な問題(戦争や政治など)、「家」的なもの、病気(結核など)、貧困などといった問題が表面的にはそれほど切実なものではなくなってゆくことになる。

そういった状況の中で、人々の価値感も多様に変化し、そこから「サブカル」的なものも生まれ、「文学」的なものの価値や意義もしくは権威といったものが凋落してゆく、という結果となったということになるのでしょうね。

当時の短歌を見ると、

タモリ的言葉連ねてさくら降る洗足池に泳ぐ酔漢  仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』(1985年刊)

高橋源一郎を奪つて読みあつてほほゑみふかしいづれは寒し  荻原裕幸『甘藍派宣言』(1990年刊)

などというものがありました。

俵万智の短歌は「ユーミン」なのかもしれませんね。

ともあれ、このような時代状況の中では、個人の輪郭というもの自体が薄れ、様々なジャンルにおける表現というものも軽くならざるを得ないようなところもあるのかな、とも。

あと、俳句のライトヴァ―スについてなのですが、これには大まかに分けると大体3つのタイプ、というか流れがあるのかな、という気もします。
80年代以降ということで、金子兜太、高柳重信以後の俳句表現といっていいかもしれませんね。

1.伝統的な方向性を希求する「新古典派」の作者たち

2.文学的な方向性を探究する作者たち(「現代俳句協会」関係の作者に多いか)

3.言葉遊び的な方向性を目指す作者たち(坪内稔典の「船団」関係)

大体このような感じであるかな、とも。

そして、2010年の現在、もしかしたらこの俳句における「ライトヴァース」の問題というものは、このところ割合話題となっている「主題の問題」と今後深くかかわってくる可能性があるのではないか、という気のするところがあります。