2010年4月18日日曜日

閑中俳句日記(30) 男波弘志句集『阿字』

閑中俳句日記(30)
男波弘志句集『阿字』

                       ・・・関 悦史

『阿字』は男波弘志(昭和41年生まれ)が昨年上梓した第一句集。

昭和58年、高校の国語教師であった最初の師・北澤瑞史にいきなり作らされた最初の句から岡井省二門下時代を経て近作に至るまで、おおよそ600句前後を網羅しており、全体を通して精神的・人間的高みへの熾烈な希求と憧れが窺える。

北澤瑞史門下時代 昭和五十八年~平成九年

  処女作 昭和五十八年
列車いま大緑蔭の駅に入る
蟇落花まみれに交みをり
行く夏の人となるまで浪を聴く

これら初期の句に既に「大緑蔭」に「入る」、「行く夏の人となるまで」等、高次の世界への参入と変容のモチーフが現れている。「大緑蔭」や「行く夏」の「浪」に爽快で大きな包容力がある。

両生類や爬虫類、海生の軟体動物といった鈍重で奇態な生物たちも全篇に頻出する著者偏愛のモチーフで、これらが句集のトーンを決定づける(句集の作りとしては緩選なので、似た素材の頻出とその扱いのずれ行きは確認しやすい)。第二の師が岡井省二となるのはほとんど必然であった。

      

岡井省二門下時代 平成九年~平成十三年

天の鷹一切経をゆく如し
きりもなく種出てきたる夏みかん
はんざきに紛らふ蟇の跳びにけり
でで虫のししむらが伸び今も伸ぶ
白桃の同心円が水の中

《きりもなく種出てきたる夏みかん》《でで虫のししむらが伸び今も伸ぶ》は身近にある現物に無限への通路を求めた作。《白桃の同心円が水の中》の「同心円」も同様で、拡散・凝縮両方の動きを無限に湧出させようとする。

《はんざきに紛らふ蟇の跳びにけり》は跳び得べくもない「はんざき(オオサンショウウオ)」から「蟇」が識別された瞬間、同時に頓悟のごとく飛ぶ姿を描き、これも高次の世界への参入の句のヴァリエーション。

その精神世界の一切を経文の如く一望に収めているのが「天の鷹」であって、ここまでの句で男波句の世界の地勢図をごく大まかに思い描くことができる。

これらの句の中において、男波的主体は現世の諸生物を無限の相から捉え、高次の世界を窺い憧れつつも「跳」んだ先のヴィジョンを得るには至らず、混沌を統制し得る別の視野を師に求めているといった相関図が得られるのである(その最初の師をこの時期に喪い、「恩師 北澤瑞史 寂」の前書きを持つ《六尺の螢火となり逝きにけり》の句を成すこととなる)。

吊るされし大鮟鱇は母音かな
鮟鱇の頭一つが海
(わたつうみ)
そこらぢゆう磯巾着と梵字かな
祈雨経を諳んじてをる鯰かな
だんだんに梵字が読めて瓜を揉む
はんざきを楔としたる山河かな

《文字》《言語》と現世の関係が現れた句を拾った。

無力にして鈍重な「大鮟鱇」は音声の基盤「母音」であり、同時にその頭は大海でもある。《空海や銀漢に砂なかりける(※「海」は「毎」の下に「水」)の他、空海も他の先賢たちとともにしばしば句中に現れるのだが、その「五大にみな響きあり」の思想を鮟鱇を仲立ちにリアライズした格好。いかにも鈍重で意思不分明な怪生物たちは、地水火風と言語とを橋渡しする役割を与えられているわけである。だからこそ「鯰」は経を諳んじているものと見なされ、「磯巾着」は「梵字」と等置されるのだ。《だんだんに梵字が読めて瓜を揉む》は男波的主体がそうした領域に前進しつつあることの自己確認である。

《はんざきを楔としたる山河かな》は「はんざき」がそのぬめった身体で山河の広がりを一点に集約する同心円的重畳を組織し見事だが、地水火風と言語との通底が仲介者「はんざき」の介入でもって一度に明らかにされた局面を描いてもいるのである。

「はんざき」や「空海」の他、「イエス」もしばしば句中に現れる。

白梅とイエスを見たり昼の闇
この固きパンにかかりし花の影
くろがねの春曙のイエスかな
斑猫が飛んでイエスの跣かな
海は荒れてイエスに青きパセリかな

「くろがね」であったり「跣」であったりと「イエス」はあくまで身体性をもった他者として現れる。イエスも「はんざき」たちと同じく現世と高次の世界を繋ぐ、別の言い方をすれば神から現世に贈与された仲介者的存在である。とはいえ「はんざき」などとは違い「イエス」は現在、この世界のうちに生身を持って会見し得る相手ではない。「イエス」が専ら物質的側面をあらわにすることで現世への定位・定着がはかられるのはそのためである(なおイエスに関しては後に《冬晴れの畦と飯詰(いづめ)のキリストと》という句もある。ここではイエスは親の農作業中「飯詰」に入れておかれたという舞踏家・土方巽の肉体性を持って定着がはかられている)。

雷鳴のそこは海牛溜りなり

男波氏とは私は一時期通信句会でご一緒していたことがあり、その頃からこの句の「そこ」という指示代名詞の介入が気になっていた。なぜ「雷鳴」「海牛溜り」だけではいけないのかと。「雷鳴」「海牛溜り」だけで生命発生の不可思議といった要素だけならば充分表出できるはずなのだ。ところが「そこ」が介入することで句中に位置関係と分節が生じ、不可思議の光景を見ている、つまりは疎外されている語り手というものが発生してしまうのである。句集一巻の句たちと照らし合わせれば、これが男波句の当時のスタンスを象徴していると見ることができるのだが。

師の岡井省二には「食(を)す」を用いた句が多い。句において極めて食欲旺盛で、たしか「海(わたつうみ)」に食欲を示した作まであったはずである。

無論それらはただの食欲ではなく、万象とそれを成り立たせる法理を丸ごと己の中に内臓し一体化しようとの欲望であり、同時に句作における途方もないひとつの方法でもあった。男波句には対照的に、ものを食べる句はほとんど見られない。身に添わぬ方法だけ真似しても仕方がないので、この疎外がどう昇華されてゆくかが今後の句のひとつの見どころと言えるのだろう。


  岡井省二先生 病臥す
鮟鱇が添ひ寝に来るぞはよ笑へ

  恩師 岡井省二 寂
藁塚の産力(うみぢから)もて逝きにけり

      

平成十三年~平成十九年

蟋蟀や女体にて水呑み終る
鶏頭の縁
(へり)のめくれてをりしなり
呑み込んでしもうた南無阿弥陀仏です
鬼の闇 人の闇 闇 春の山
虚空蔵求聞持法
(こくうぞうぐもんじほう)ぶよぶよの蟹

岡井省二没後から現在の時期に入る。

「蟋蟀」と重層しあいつつ水を呑む「女体」や、めくれた「鶏頭の縁」、重層的な闇を孕んだ「春の山」などにエロスの要素が顕著で魅惑的である。無論この場合のエロスはただの性愛ではなく、高次の世界への越境の動きと相即なのだ。

《呑み込んでしもうた南無阿弥陀仏です》は南無阿弥陀仏の名号を口から六体の仏として吐き出す空也の逆を行き、法理の体内化を試みている。

《虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)ぶよぶよの蟹》の「虚空蔵求聞持法」は真言を百万回唱えることであらゆる経典を記憶する力を得る修行法、若き空海がこれを修したと伝えられる。「ぶよぶよの蟹」は脱皮直後の蟹と取ればこれも高次の世界への憧れを詠んだ句と取れるが、必ずしもそうした図解的役割ばかりには留まってはおらず、「ぶよぶよの蟹」には「鶏頭の縁」や「蟋蟀/女体」にも通じる妖しげなエロスがまつわっている。

靄たえず動くマンジュウホコリかな
山路をふちやふちやのぼる鯰かな
一穴をくまなく廻る揚羽蝶
白桃を白桃潜り終らずに
乳房もて秋の螢を囲みけり
何にもない方がよい柿一つ

岡井省二没後、男波弘志は永田耕衣の弟子たちによる「マンの会」というところに参加していたらしい。

「マンジュウホコリ(粘菌の一種)」とその周りに組織される靄、「白桃」自身に潜ろうとする「白桃」、一つの穴を「くまなく廻る揚羽蝶」、周囲を全て切り捨てることで世界そのものに等しい何かと化す「柿」たちの無限に続く湧出感には、確かに耕衣的なものの遠い反映が見て取れる。

《乳房もて秋の螢を囲みけり》は、蛇笏の「たましひのたとへば秋のほたる哉」を踏まえれば、夭折者の魂を女性的なものたちが輪廻の中に取り込みつつ慰撫している相と見え、《山路をふちやふちやのぼる鯰かな》のユーモラスな姿も、鯰がこのまま直線的に天上を指向するとも思えず、俗の中での往ったり来たりの往還の相が仕込まれていそうである。

《天使魚の方から見たらポタラ宮》という句もあった。梵語の「ポタラ宮(ポータラカ)」を音訳したものが「補陀落」でこれは観音菩薩の住処を指す。中世日本で行われた「補陀落渡海」は行者が海に流されたままとなる決死の荒行であった。水槽にいるエンゼルフィッシュから見れば、人の世界は行ったら生きて帰れぬ別世界には違いない。現世を別の世と見る視点もはじめからあったわけで、必ずしも今後も性急な超越にばかり向かうとは限らない。要注目の作者と思う。

以下、印象的な句を引く。

鯵の群れ色を変へたる涅槃かな
天地やゝ
(ちゅ)とこゑのして甘茶佛
男色や鏡の中は鱶
(ふか)の海
白餡と黒餡とある二月かな
うんざりするほどの笑ひや蝶の昼
目刺焼く炎の中の笑ひごゑ
道元やながれの上の白梅は
玉虫や石橋石の音のする
六月や只真つ白な海牛
(あめふらし)
そこらへん鮫肌色や蛭蓆
蘇鉄咲き十三面の版木ある
石の上に髭乗つてをり寒の鯉
青みどろ大入道が昼寝覚め
桃咲くやまだ歯の生えぬ母とゐて
姿見があるといふのに蟇累々
白桃のやうにあかるい屋根の石
とめどなく亀の入りゆく穴一つ
幻日や鯨にもある永き舌
源氏みな生殺しなり春の暮
すつこみし磯巾着よ純金よ
蟹も吾も泥の団子をつくりをり
海峡を春行く巨き椅子のごと
浜焚火乳房まさぐる如捩れ
水晶の無結晶体ぞ虻宙に

0 件のコメント: