速度と切断
・・・藤田哲史
「この作者、敬虔であって、天才なのである。」
対馬康子は、かつて宗左近にこう評された。左近によれば、ここでの「天才」とは「人間を超えた何者かの目で、対象を見ることができる」人のことだという。おもしろい。しかし、ここで肝要なのはこの言葉を俳人らしいと見るか、それとも詩人らしいと見るか、である。あるいは双方兼ね備えているのか。(評論を書くかぎりにおいては、この選択はピーナッツ(腰ぬけ)だが) そして当の左近は詩人らしいと言った。俳人は、俳人らしいと言うかもしれない。わたしは、俳人らしいと思っている。
とはいえ、その私の思惑とは裏腹に、対馬の経歴はやや詩人的ではある。彼女を論じるにあたって、まずはそこから話をはじめていくことにしよう。
彼女は、一九五三年(昭和二十八年)香川県生まれ。小学生高学年のころから詩に興味をもちはじめ、高校時代大学時代は共に文芸部に所属。大学ノート何冊にも詩を書いていたとあるから、相当熱中していたことが伺える。大学時代、日本女子大学文芸部と東大学生俳句会との合同活動で西村我尼吾と出会い、作句開始。また国文学科の教授であった中島斌雄主宰の「麦」に入会。投句をはじめる。
その他、東大学生俳句会の活動に参加したのち「天為」創刊に参加し、現在に至るまで「天為」編集長を務めているものの、その作品に中島の作品を思わせる場合が多い。もちろん、経歴からして海外での居住体験をもとにしたであろう作品も多いのだが、単なる海外詠とは一線を画しているのが彼女の作品の特徴だ。
少年は黒く生まれし霧の朝
集中にあっては、前後の作品から海外詠とわかる。ただ、対馬はこれみよがしに黒人悲歌を題材に選んだりはしない。
おそらく通常の把握であれば「黒い少年が生まれた」という言葉の並びとなって、当たり前の事実を詠んだものに終わる。(親もまた黒い肌の持ち主であることは省略していると考えている)更に言うと、季語の取り合わせもシンプルに「霧の朝」とあり、これも決して大きな飛躍とは言えない。しかしこの「人間を超えた何者か」は「この少年はたまたま黒く生まれただけのことではないか」とそう考えている。生まれてくる命に選択肢はない。それが「黒く」という形容詞の置き方に現れている。一見何気ない内容に見えるが、凡手には決してつくることのできない、そういう作品だ。
寡黙なる日々紅葉の州境
これも海外詠の一つ。経歴のかぎりではおそらく制作時作者は合衆国に滞在していた。彼女の作品には、この「州境」のほか、「国境」を題材にした作品が頻出する。しかし、ここではむしろ「寡黙なる日々」が眼目だろう。時間というものの本質のなかに境目はない。明確な境目などは所詮人が設けたものだ。
白眉の一句ではないかもしれないが、この作品に含まれている「時間」、また時間の流れから派生して「速度」などは、対馬を論じる上で重要なファクターとなってくる。それはまた次のような作品にも現れている。
葉桜となる少年の日の履歴
ゆっくりと涙が耳へ水中花
一句目。少年時代の回想と葉桜の取り合わせ。「さまざまのこと思ひ出す桜かな(芭蕉)」があるが、「履歴」の語感の素っ気なさに若さを見る。清冽だ。二句目。仰向けに寝ている人物の涙。涙を冷静に感知するのはこの涙もまた自愛の涙がゆえだろう。極めて初期の作品だが、身体感覚に結びつけて言葉に定着させているところはひたすら巧い。
この程度の作品であれば、読み手に親切な範疇だ。だが『対馬康子集』全体の平均をとってみると、言葉を酷使した作品が多い。韻律とうまく噛み合った俳句らしいものもあるが、対馬の世界に言葉の速度が追いつかない作品もまた多いのだ。結果、因果関係がほどよく分解されながら、言葉が定型に嵌め込まれてゆくことになる。簡単に言えば、難解で意味が多重的。そのような傾向の作品を何句か挙げておく。
枯れ進む一輪挿しの長き洞
国境へ夢の速さに水流れ
この秋も会いに無名の土偶の眼
一句目。「枯れ」を季語として考えれば「枯れ進む」が一纏まりで上五の直後に切れがある。「一輪挿し」は直後に「長き洞」と整合させると、単純に花瓶のこと。ただ「洞」のほうを実ととると「一輪挿し」のような細長い洞窟にも読める。二句目。こちらは「夢の速さ」の「の」が手強い。夢のような速さということか。「夢の速さに水」で文脈上「流れ」は思い浮かべられるから、「流れ」には他の必然性がある。三句目。前半は「今年の秋も会いにゆく」の省略形。また「無名の」に飛躍がある。「無名の土偶」の「眼」か、「無名」の「土偶の眼」か。前者ならば、「無名性をもつ土偶」ということか。しかし「眼」の必然性に乏しい。後者ならば孔として表現されている「土偶の眼」を「無名」としたことになる。だとすれば「土偶の無名の眼」でもよい気もする。
喩えると余りの速さに残像があらわれているようなものだが、その残像もまた詩的空間となって定着しているのでいちがいに失敗作とはいえない。
火口湖へもの言わぬ蛇もの見えぬ鳥
星色に流れて過ぎて寒夜の汽車
その夜から落葉始まる赤子は「あー」
一句目は聖書のキリストの言葉「蛇のように賢く、鳩のように素直で」からの引用。より寓話的に、物語に仕立てたもの。こちらの三句は一義的だが、何か俳句らしさが希薄だ。一句目に関して言うと助詞の「へ」を用いたため瞬間性が乏しくなり、物語性が強くなっている。これは「国境」の句の「流れ」の部分についても同様のことが言える。私もこの点に関しては左近の言う「詩らしい」に同意する。
別るる日ラムネの玉の音やまず
桜餅一皿一個家継がず
かなしみはなし身を曲げて髪洗う
もはや海外詠などが対馬の本領ではないことは当然のように首肯してもらえるだろう。季語と季節感を隷属させつつ別離や家族、悲哀などを主題とする手法は中島斌雄と同質のものだ。季題以外の主題の存在があきらかなのだ。主題を忘れた形式はゲームでしかないが、彼女は俳句に対して至ってまじめである。
月明や森の如くに夜の髪
樹の力満ちたり祈りふかければ
朝顔や手鏡持たぬこと久し
みどり子に思い出はなし去年の虹
「俳句想望俳句」。その言葉は既に、かつての「俳句」とこれからの「俳句」が異なることを自ずから示しているではないか。その言葉を聴くたび、私はしきりにそう思うのだ。
(fin)
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