七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩⅥ
・・・冨田拓也
5月9日 日曜日
この「―俳句空間―豈weekly」も100号で終了ということで、これまでほぼリアルタイムでお送りしてきたこのドキュメント(?)である「七曜俳句クロニクル」もそろそろ終局へと近づきつつある模様である。
7月18日の日曜日がちょうど100号にあたり、その時点でこの連載も終了ということで、残りあと2ヶ月余りということになる。
しかしながら、このように毎週文章を書き続けるという行為はそれこそ一種の「マラソン」に近いように感じられるところがあり、現在の自分の現状としてはそれこそ半分目を回している状態というか足元も相当にふらついてきており、さすがに少々限界が近いようである。今回の連載を続けていて、途中でブログをやめてしまう人の気持ちというものがよく理解できるところがあった。
ともあれ、あともう少しラストまでなんとか文章を書き継いでゆきたいところである。
5月11日 火曜日
書店で『現代詩手帖』を立ち読みしていたのであるが、次号の予告を見ると例の短詩型の特集の予定内容が掲載されており、それを見ると特集のうちの座談会が、松浦寿輝、小澤實、穂村弘の3氏で、もう一つの座談会が城戸朱理、黒瀬珂瀾、高柳克弘の3氏であるということである。
なんだかいまから読むのが楽しみというよりも、随分とおそろしいものに思えてきてしまった。
5月12日 水曜日
なんとなく「童子」という言葉が思い浮かんできた。
春来る童子の群れて来る如く 相生垣瓜人
山羊守りて岬に遊ぶ南風童子 大野林火
薄原笛吹童子現れよ 桂信子
噴け火山わが意識下の透明童子 金子兜太
笛吹童子時雨の夜は何をなす 鈴木六林男
花野ゆく金伽羅(こんがら)童子従へて 佐藤鬼房
5月14日 金曜日
『定本小金まさ魚句集』(定本小金まさ魚句集刊行委員会 昭和57年)を手にすることができた。
この小金まさ魚という作者は、明治34年に生れ昭和55年に没、昭和12年に岡本圭岳に師事し、昭和13年に下村槐太を知り以後同人誌などを創刊。昭和27年に「赤楊の木」を創刊し、昭和45年には「海程」に同人として参加している。
この『定本小金まさ魚句集』は小金まさ魚の没後に刊行されたもので、その生涯における作品が総計で783句収録されている。その内容は、第1句集の『夕凪』(昭和9年から昭和26年までの計239句)、第2句集の『街坂』(昭和27年から昭和44年までの計236句)、『街坂』以後(昭和44年から昭和55年の308句)で構成されている。
まずは第1句集の『夕凪』(昭和9年から昭和26年までの計239句)について見てゆきたい。
霜の日の人しづかなる乗り降りを
人の名を憶ひ出でにし海月かな
朝月の大いなりける秋祭
風邪の熱なかなかとれず初雲雀
堀外を人をりをりに夏座敷
極月の貨車を響ける地に見送る
鳥帰る夕餉の木ぎれ幾許ぞ
片陰に近づく母に逢ふごとく
足もとを風ひやひやと遠花火
極月の石に雨降り流れけり
一日がはじまる金の虻とべり
青鷺を見しより駅に遠ざかる
あぢさゐの白日何を恃むべき
水車踏む西日の天を攀づごとく
鶏頭に雨降る誰も近づかず
にはたづみ又にはたづみ冬休
帰るさの小波つらく冴返る
去ぬる雁閂ささぬ夜はなく
樹下の家立夏の光沁みとほる
一読、まずシャープでどこまでも無駄のない表現によってその作品世界というもの全体が統べられていることが感取できよう。そのおおよそは日常の風景から材を摂った作品でありながら、一句のうちに意図的に齎してある「ねじれ」や「ひねり」の効果によってどこかしら単なる散文性を峻距しているような書き方であり、その意味内容を明確に理解し難いところがあるが、これはこの作者がなるべく「ものを言わない」ことを旨とするような書き方を指向しているため、ということになるのであろう。このような俳句の叙法というものは、ほとんど無意味な内容を言葉によって型式の内側に充填させようとする一種の「パッキング」の手法とでもいえようか。当時の下村槐太とその門下の作者であった火渡周平、林田紀音夫、金子明彦などの作品を見てもそのような傾向を持つ作品をいくつか確認することができる。
目刺やいてそのあとの火気絶えてある 下村槐太
飛行機が扉をとざし飛行せり 火渡周平
青空のけふあり昨日菊棄てし 林田紀音夫
祭きて青空はいづこにもありぬ 金子明彦
結局のところ、この作者のこれらの作品というものは単純に言って大変「達者」ということになるわけであるが、これには師の下村槐太の影響のみならず、もしかしたら石田波郷の作品からの影響というものも若干考えられるところがあるのかも知れない。
5月15日 土曜日
昨日に引き続き『定本小金まさ魚句集』を読み継いでいる。
今日は、第2句集の『街坂』(昭和27年から昭和44年までの計236句)から読むことにしたい。
干草を雲白き日に踏みゆきし
空を奪いし蜆の水をまた換える
火と立ちし寒暮の虹を寝におもう
赫っと向日葵夜でなく昼でなく
舗道流るる雨いちにんの生数ならず
鎖切って旱の犬の行方知れず
上記の作のみではわかりづらいもしれないが、どうもこのあたりからこの作者に社会性俳句、前衛俳句による影響が見られ始めてくるところがある。しかしながらこの時期における小金まさ魚の年齢はすでに50代であり、作品を瞥見する限りにおいてはどうもいまひとつそのような前衛的な方向で作品が成功をおさめているとは言い難いものがあるように見受けられた。
同じ時期における同門であった堀葦男や林田紀音夫といった作者も小金まさ魚同じく社会性俳句、前衛俳句運動に身を投じた作者ということになるわけであるが、この2人と比べて小金まさ魚の作品の場合はあまりイメージの跳躍が振るわずやや中途半端な作品ばかりが並ぶ結果となってしまっているように見受けられる。また年齢的な問題もあってやはり当時の実験的な作風というものはこの作者にはややそぐわないものがあったのではないかという思いがこの時期の作品からは否応なく感じられてしまうところがある。
その後、前衛俳句運動も終局を迎えるわけであるが、その時期にあたる小金まさ魚の句業が『街坂』以後(昭和44年から昭和55年の308句)の作品ということになる。この昭和55年に小金まさ魚は78歳でこの作者は亡くなっている。
真昼間の涼み将棋のさびしさよ
杉群を木霊ぬけゆく冬休
金堂の巨き月の扉あゝ差さる
帰る雁口中くらく思うとき
すたすたとすたすたとゆき秋の暮
この時期におけるどの作品も前衛俳句運動が終息した後のものでその作品からは前衛色が退潮しているのが確認できるのであるが、それでも昔日の無駄がなく切れ味の鋭い俳句表現というものは、ここではもはやいくつかの作品を除いてほとんどその影を見出すことができない。残念ながらその表現はおおむね緊張感を欠き弛緩してしまっているように見受けられ、単純に作品を読んでいてもあまり感興をおぼえるものが少ないのである。
結局のところこの小金まさ魚という作者の真価というものは、第1句集の『夕凪』に所載の作品のみに尽きるようである。この『夕凪』の作品を、現在の様々な作品と比較して読んで見た場合、得るところまたは気付くところはけっして少なくはないはずである。
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