2010年7月18日日曜日

高橋睦郎『百枕』

枕・眠り・俳句
高橋睦郎『百枕』を読む

                       ・・・高山れおな


前号拙稿の末尾には「つづく」と表示し、あとがきには「気分と時間によっては打ち切りかも知れません」と記したのであるが、どうやら後の方の予想の通りになったようだ。しかし、それはそれとして『戦後俳句論争史』(第一章が「第二芸術論論争」にあてられている)(*1)を久しぶりに書棚からとりだしたり、『短詩型文学論』(一九四八年に八雲書店から出た短詩型批判の論文の集成)(*2)を読んだり、こちらはまだ手をつけていないのであるが、『現代俳句の為に 第二芸術論への反撃』(*3)というお廉くない本を新たにとりよせたりと、なにやら第二芸術論のまわりをうろうろすることがつづいている。その間、坪内稔典の「戦後俳句のゆくえ」(*4)を再読もしてみたが、直接に第二芸術論にかかわる部分よりも、山本健吉や吉本隆明を参照しながら使われている「空白」という概念の方に興味をひかれた。それから、第二芸術論について岡井隆が書いた本もあったはずだと部屋の中をごそごそやったら、さいわいあっさりと見つかった。『短歌―この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論』(*5)という凄いタイトルの本だ。同書は、二十八章に附録がつく構成なのであるが、パッとひらいたとたん目にとびこんできたのは「七 高橋睦郎の詩と歌」という章題で、お蔭で、そうだ、高橋睦郎の句集について書くのだったと思い出したわけである。


籠枕百の枕の手はじめに

魂座(たまくら)に叶ふ軽さよ籠枕


「籠枕」をモティーフにした、夏七月の十句を巻頭にすえる高橋睦郎の句文集『百枕(ももまくら)(*6)が到来したのは、まさに七月のそれも月の枕ならぬ月の頭。もちろん発行のタイミング自体、高橋の演出なのにちがいない。個人的なことから記すと、俳句の作り手としての高橋との出会いはそれなりに古くて、評者が俳句をはじめる以前、自由詩や短歌を試作していた時期にさかのぼるのではないかと思う。思潮社の『新選高橋睦郎詩集』(*7)に全篇が録されている句集『荒童鈔』を読んだのがおそらく最初で、ほどなく店頭にならんだ句歌集『稽古飲食(けいこおんじき)(*8)の普及版を新刊で買ったのではないか。同書は、前年の一九八七年に出た非売品のオリジナル版が山本健吉の目にとまって読売文学賞を受賞し、短詩型作者としての高橋睦郎が一挙に世に知られるきっかけになった。高橋は一九九〇年の一年間、「俳句」誌で「季戀(きはこひ)」と題する連載を持っているが、これも読売文学賞あってこその展開なのであろう。「季戀」は同誌の巻頭扉に毎月五句を掲出するものだったからいやでも目立ち、“季とは恋である”というコンセプトについてはよく理解できないままにとにかく読んでいた。齋藤慎爾がどこかの雑誌で、例の毒舌をふるってこの連載を罵倒していた記憶もある。一九九二年の『私自身のための俳句入門』(*9)もやはり新刊で手にしているし、あれこれ考えると高橋睦郎はじつに、評者初学の頃にある程度系統的に親しんだ作者としては角川春樹や河原枇杷男とならぶ存在だったらしいのだが、では睦郎俳句に心酔していたかというとそれはちょっと違うようだ。


業平忌あつものの蓋の露しとど

棹ささんあやめのはての忘れ川

         『荒童鈔』

ぶりきの蝉へこへこと秋立ちにけり

捨靴にいとどを飼ふも夢の夢


          『稽古飲食』

夜濯や蹼のこる指の股

       「季戀」(*10)


これらの句は、心酔や心服とは異なる位相で、評者を安心させてくれたと言う方が、より実際に近いと思う。ロマンチックな古典志向、フェティッシュな形式主義、描写型の句であっても決して写生句ではないこと――高橋作品のそうした特徴によって、要は「これでいいんだ」と励まされたのである。語彙や用字は圧倒的に豊富で難解(掲出句はそれほどでもないけど)、とはいえそれらもあくまでブッキッシュな性質のものであって経験的なものではないから読みの回路はひらきやすい。季語の使い方なども保守的なように見えて、結社で煮しめた伝習性を帯びない独学者(安東次男に師事しているとはいえ)の用法であり、自身も独学の初心者だった評者にもさほど抵抗なく受け入れられたということもあろう。その後、『賚(たまもの)(*11)、『花行(けぎやう)(*12)と読み継いできてしかし、次の『遊行』(*13)になると高橋と俳句の関係もやや楽々と親密なものになりすぎてしまったらしく、かえって流れに乗り切れない不満がのこった。そこへ四年ぶりの句集となる『百枕』が現れたのである。期待半分、失望させられるのではないかという恐れが半分、これが正直なところだった。実際はどうだったか。結論からいえば、これはとても面白い句集(正確には句文集)なのではないだろうか。『百枕』についてはすでに前号で関悦史が論じてしまっており、以下の記述にも関の文章といささかの重複があるがその点は御海容を請いたい。


『百枕』は俳誌「澤」(当初の数回は「俳句研究」)での連載をまとめたもので、〈具体的な枕そのもの、また具体的な枕を含む類語を用いて詩歌作品を試みたいとの私かな望み〉を、俳句連作のかたちで実現したものだ。毎回、「菊枕」「草枕」「枕炭」などのテーマを立てて章題とし、各章はそれぞれのテーマにちなむ十句の連作と短文、そして短文に付される反歌のごとき一句で構成される。冒頭はすでに述べたように「籠枕―七月」で、最初の年は「年の枕―十二月」にいたって終わり、その後は一月から十二月までを二巡させる。つまり正味二年半、三十ヶ月=三十章ということであり、十一句×三十章=三百三十句となる。後記に載る三句をこれに加えて、収録は計三百三十三句。その全句に必ず「枕」の一字を詠みこむ大技を見せるものの、それ自体はこの作者にはむしろ易々(いい)たる仕事にすぎまい。もちろん、一冊の本としての変化を考えるときつい縛りには違いなく、そこで威力を発揮するのが各章の短文ということになる。一回あたり四百字詰原稿用紙で二枚強、章毎のテーマの解説を主にしながら、そこは手練れの書き手だから趣向はじつにさまざまで、現代的な“俳文”の可能性をきりひらくものであると同時に、これあればこそ句の方で思うさまな冒険が可能になった面もあろう。その冒険の多彩さは三十章のテーマにあきらかに見てとれる。たとえば、「籠枕」「菊枕」などの季語、「草枕」「歌枕」「枕詞」などの文学用語があり、一方、「枕木」は日常語、「枕絵」「枕経」「枕太刀」は日常語ではないものの難解とまでは言えない普通名詞で、この辺は一般的にも容易に了解できよう。それだけではない、「長枕」「枕船」のようなやや特殊な民俗的な語彙もあれば、王朝古典の中にただ一度だけ現れて消えてしまった「枕虫」という言葉を季語として復活させたケースもある。「時雨枕」「年の枕」「初枕」では季語プラス枕でモティーフを示すかと思えば、「春枕」の章では“枕”を春季、それも晩春の季語とするよう半ばは戯れ、半ばは本気の提言さえしている。「枕川」「枕占」「枕討」は造語による遊びであり、解説の短文はそのまま高橋一流のロマネスクとなる。枕の類語、縁語とひとくちに言っても、なかなか一筋縄ではゆかない広がりを見せているのがわかるだろう。


ここで具体的な連作をいくつかご紹介しておく。まずは第九章にあたる「涅槃枕―三月」より。


涅槃会や枕のやうな山麓

思ひみよ山を枕の涅槃仏

わが涅槃枕思へば磐
(いは)か根か

春の山名付くとならば枕山

あの枕この枕春の山指して



十句のうち半分を引いた。エッセイでは涅槃会の由来などもひもとかれるが、とりわけ問題とされているのは「体感」である。


仏伝によれば、釈尊は布施物の豚肉を食べて下痢が止まらず、ついに死に到った、という。鎌倉初期の清僧明恵(みょうえ)上人などは、涅槃会の一日じゅう、釈尊の苦痛を思って涙が止まらなかった、と伝えられるが、当今の仏教者にこの宗祖への体感敬慕の残っている者がはたして幾人あるだろうか。体感が喪われた時、宗教は肉体を失い形骸化するほかないのではあるまいか。


高橋という人には現在の仏教(にもかぎらぬ宗教界)への、おそらくは期待と裏腹になった激烈な批判があり、本稿でもあとでふたたびふれることになるだろう。驚くのはここから、〈末法(まっぽう)一万年の最中(もなか)を生きるわれら〉とりわけ〈日本の詩歌に関わる者〉へと視点をひるがえしたかと思うと、〈仏祖ならぬ歌宗、柿本人麿の死についてなら、いささか体感も可能かもしれない〉と述べるところだ。その手がかりとなるのがわずかに『万葉集』巻第二に載せる、


鴨山(かもやま)の磐根(いはね)し枕(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ


という人麿臨終の歌一首なのであってみれば、これはほとんど傲然と見えるまでの自信ではないか――というのはしかしじつは型通りに反応してみせたまでで、評者自身その「体感も可能」というところを露うたがってはいない。なぜなら、現にひとつのすぐれた詩歌作品が残っている以上、その体感は可能なのだし、それが可能でないなら詩歌を読んだり作ったりすることにほとんど意味はないだろう。俳句となると歴史が短かすぎて、こうした体感云々が焦点化するまでのこともなく、さればこそ「芭蕉さん」などという距離設定においていささか怪しげな呼びかけが横行する結果にもなるわけだけれど。


ここで掲出の五句に戻れば、一句目、〈涅槃会や枕のやうな山麓〉は、阿波野青畝の〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉を面影にしながら、「葛城」という固有名詞のなつかしさを「枕のやうな山」という視覚的な原型性の方へ転じてみごと。二句目(本の配列でも二句目)の〈思ひみよ山を枕の涅槃仏〉は、この一句目をうけながら、山ふもと、山ふところに寝釈迦がおわすのではなく、山そのものを枕にして横たわる巨大な涅槃仏を幻視した。当然ながら山川草木悉有仏性の思想が二重うつしになっている。さらに涅槃会がらみの句が続いたあと三句目(本の配列では五句目)の〈わが涅槃枕思へば磐(いは)か根か〉にいたって仏陀の入滅ならぬ「わが涅槃枕」のイメージがよびだされる。自分の死は磐を枕にしたものになるのか、木の根を枕にすることになるのかというので、句を読むだけでも人麿の鴨山の歌が下敷きになっていることはあきらかだが、短文を読むとそれが実際に人麿への敬慕に根ざしつつ、詩を通じての体感の問題にまで思いを凝らしたものだったことがわかる仕掛けだ。つづく四句目、五句目(本では七句目、八句目)の〈春の山名付くとならば枕山〉〈あの枕この枕春の山指して〉は、一句目、二句目の「枕のやうな山」「山を枕」の発想へ回帰しながら、枕と死を結びつけるのではなく、枕の安らぎのもとでの春の歓びが歌い上げられているおもむき。特に後者、あの山も枕、この山も枕と興じるさまには、楽しげなうちにどこか狂おしい過剰さも感じられる。


つづいて第二十七章にあたる「枕討―九月」を見てみよう。本書の三十章に収める各十句の連作は、各句相互の関係もごくゆるやかで、ほとんどの句がばらばらでも意を通じるものから、配列の順を追って句の世界が展開する厳密な意味での連作まで、おなじく連作といってもありようには幅がある。上でご紹介した「涅槃枕―三月」の場合はまずは前者の例にあたるが、「枕討―九月」はこれとは対照的に十句が全体で物語を構成し、かつ短文をあわせて読まないとよく理解できない内容になっている。こういうところへ一句の独立性云々というつまらない議論をもちだして欲しくないのは、俳句連作+エッセイ(俳文)という本書の基本的な形式からすればむしろこちらの方が、形式と内容の適正な関係を示していると言えなくもないからだ。


(いなづま)を逐うて失せしを枕討

枕討つ人数踏込む露の宿

人憎し枕憎しや残る蠅

枕討たれ了んぬ露四散

枕首級
(しるし)のごとし冷かに

人は逃れ枕は討たれ秋深む

露の夜々枕慣れざる旅ならん

枕捨てゝ落行く先や夜々の月

落びとの良夜の枕いかならん

長き夜の枕の咎を噺かな



物語の流れを追いやすいよう十句すべてを引いた。「枕討」という見慣れない言葉に、これは「女敵討(めがたきうち)」にかこつけた造語だろうか、あるいは元々そんな言葉があるのか、それとも「後妻討(うはなりうち)」の類か、「粥杖」や「成木責」のような年中行事かとまずは戸惑いが先に立つ。順に読んでゆくと女敵討風の情景のように思えるものの、なにしろ肝心のキーワードに確証を持てないのだから句意も治定(じじょう)しようがない。ではとエッセイを読むと、〈江戸時代の姦通した二人、いわゆる姦婦・姦夫が逐電、つまり身を暗ました後、寝取られた夫の側が二人の密通の場に踏ん込んで、せめてもの腹いせにそこに残された二人の枕を討つという状況を想像しての、筆者の我儘な造語である。〉と明かされていて、委細ようやく腑に落ちる。エッセイの方は、近松の世話物を例に引きながらの、高橋独自の恋愛小論にして江戸文化小論といった按配で、十句目に出てくる「枕の咎」(これも造語であろう)という言葉については、〈二人が不義密通に落ちたのもあながち二人のせいではない、枕というものがあればこそ、男女が枕を共にするという習いがあればこその罪〉との説明もなされる。文章の後に付けられる一句は、


この枕なくばあらずよ秋の翳


虚子の〈もの置けばそこに生れぬ秋の蔭〉とおなじことを、別の言い方で述べているわけだ。虚子の句がそうであるように、必ずしも男女のことに結びつけず、秋思一般を詠んだ作としても解せるが、あくまで反歌ならぬ反句として読めば「枕の咎」の気配を見せ消ちに見せた句ということになるだろう。さて、「枕討」の説明を受けて十句の方へ戻れば、〈人憎し枕憎しや残る蠅〉〈両枕討たれ了んぬ露四散〉の両句が、句の出来としてはぬきんでているように思う。前者は、「残る蠅」の斡旋がほとほと巧みで、閉てきった室内にこもる濁った熱気までを感じさせるし、後者は、まるで軍記物のような大仰な語調で報告される戦果が「両枕」でしかない落差がなんともおかしい。それから、一句目の〈電(いなづま)を逐うて失せしを枕討〉は、「逐電」の語を読み下し文にひらいているのはもちろんとして、句形が蕪村の〈御手討の夫婦(めをと)なりしを更衣〉を思い出させるのも、この作者のことだから、プレテキストとしておそらく意図的に利かせているのに違いない。


以下、個別に、興に入った句をいくつか読んでみたい。


(す)の入りし頭一つを籠枕


第一章「籠枕―七月」より。「鬆(す)の入りし頭」を横たえるなら、これも隙間だらけの「籠枕」こそがふさわしいというのが心か。巻頭の一連のうちにある句であることを思えば、これからお見せするあまたの句々も、所詮この鬆の入った頭から出たものですよという絶妙の謙辞としても働いていよう。自嘲というほど苦くない、軽やかな諧謔であり、挨拶である。


波枕下の地獄も夏果つや


第二章「長枕―八月」より。章題の「長枕」は〈二人寝に用いる長いくくり枕。〉だそうだが、高橋は若者宿で用いられたという〈丸太ん捧の両端を断ち落としただけの殺伐〉たる長枕を持ち出し、それからそれへと連想の景をくりひろげてゆく。若衆宿の若者たちが漁師の青年たちに読み換えられるあたりは、連句の呼吸ということになるか。掲句はもちろん「板子(いたご)一枚下は地獄」の慣用句を下に敷いて、死と紙一重の危険に生きる若い漁師たちの姿を、夏の終わりの海と太陽の輝きの中に観想する。「夏果つ」という季語が、これほど官能的に、胸に迫るように感じられたこと、評者には初めてだ。


凩赤時雨うすゞみ枕何

手枕を解いて灯入るゝ時雨かな



第五章「時雨枕」より。時雨と枕の関係をいろいろに取りなす章で、エッセイでは高橋が師と仰ぐ三好達治の凩の句にはじまって、時雨論議、凩論議、さらに宮中祭祀へと短い中によくぞと思うほどに話題が転じてゆく。一句目、凩の色を赤とするのも、時雨の色を薄墨とするのもむしろ類型的な比喩であり、しかしその類型性が「では、枕の色は?」という問いを際立たせることになる。二句目はまるで蕪村か太祇かというような古風さだが、手枕をして思いに耽っていた人物が時雨空の翳りに驚いて灯を入れる、そのとっさの動作のうちに写しとられた、心理描写なき心理の綾を味わうべきか。


蛞蝓の化けて枕や梅雨長き


第十二章「梅雨枕―六月」より。これは『なめくじ艦隊』(*14)かと思ったら、案の定、短文では四十年前、上京して間もない頃に落語に熱中した思い出が語られている。梅雨時ともなれば、人間自身がナメクジになったような気分にさせられるのだから、枕が化けたナメクジだったとしても今さら驚かない。この句の背後に湛えられているのはけれど、そのような、否定的に言われがちな季節への逆説的な愛のような気が、むしろせぬでもない。じつは梅雨冷えの皮膚感覚が嫌いではない評者の偏向読みであろうけれど。


佐保姫は怖(おぞ)の虚女神(ひめがみ)菅枕


第二十章「枕神―二月」より。枕神は、〈夢枕に立つ神〉のこと。〈とすれば、ふさわしい動詞は「立つ」。これを二月にもってくれば、春立つ日の女神、佐保姫ということになろう。〉との説明で、ここになぜ「佐保姫」が登場するかは分明であるが、慕わしかるべき春の女神が、「怖(おぞ)の虚女神(ひめがみ)」とされるのはだがなにゆえか。これを、〈四月は残酷極まる月だリラの花を死んだ土から生み出し追憶に欲情をかきまぜたり春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。〉(*15)という具合に、春という季節がはらむ生長することの苦しみ、それへの恐れゆえと解しても悪くはない。実際、睦郎自身の〈虫鳥のくるしき春を不為(なにもせず)(*16)という知られた佳吟は、この解釈をうべなってくれよう。が、ここは本章に付せられたエッセイにしたがっておけば、なんとこの佐保姫は「詩(ポエジー)」の比喩なのだという。『新撰犬筑波集』に載る有名な〈霞の衣すそはぬれけり佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして〉という付合を、〈春先、小児(しょうに)の寝小便はじつは春の女神の悪戯(いたずら)の濡衣(ぬれぎぬ)なのかもしれない。〉と読み換えた高橋は、女神の寵童となった男児の物語を「詩(ポエジー)と詩人(ポエト)の関係式の比喩」として官能的に織り上げてみせる。


詩人は詩という女神に召されながら、ついに女神その方(かた)に触れることを許されない。詩との巫山雲雨(ふざんうんう)の交わりは、詩人にとって永遠に叶えられることのない夢にほかならない。


もちろんこれは絶対言語を夢想しながら相対言語へ帰ってくる、というところへいつも意識を追いつめている人の場合であって、普通に伝習的な俳句を書いている分にはほとんど関係のない話です。念の為。


日闌(た)くるも目覚めぬ者に枕経


第二十一章「枕経―三月」より。「枕経」とは死者の枕頭でする読経のこと。この句の興は、一にかかって死者を「日闌(た)くるも目覚めぬ者」と看破したところにある。日が高くなっても目覚めない者、それが死者である――こはまた、なんと残酷でユーモラスな箴言であろうか。


枕大刀銘は春往く粟田口


第二十二章「枕大刀―四月」より。「枕大刀」は就寝する武士が、護身のため枕元に置いた刀のこと。「粟田口」は東海道の京都への入口で、三条白川橋の東にあたる。東山の青蓮院の所在するあたりである。この地名が、同地に住した山城鍛治の刀工一族の家名ともなった。粟田口国綱は作刀に趣味のあった御鳥羽院の御用鍛治だったといい、また粟田口吉光は岡崎正宗、郷義弘とならぶ史上屈指の名工とされる。枕大刀の銘が粟田口某だというだけの句意だが、「春往く」を「粟田口」の枕詞のように置いたことで、刀工の名がその苗字の地の実景をも引き出すことになっている。現在ではほとんど高橋以外誰もあえてしない、古風な詠み口である。その古調をたのしむべき句。


われを待つ晦枕年の淵


第三十章「枕の果て―十二月」より。最終章だけあって、〈枕に謝す三百六十五夜の寝(しん)〉〈坂まくら枕(ま)ける異形や年の神〉〈坂枕その坂の果て年くだつ〉〈時の恩枕の恩や年ほろぶ〉など、さすが万感の思いのこもった力作がそろう。掲句はエッセイの後に出る反歌/反句で、「晦枕」は「つごもりまくら」と読ませる造語である。〈夢一つ見ぬ、ひたすら眠りという名の闇〉が詰まった枕であり、〈その枕に疲れ果てた首(こうべ)を預けたまま目覚めぬというなら、なおさらめでたいではないか。〉とが作者の弁。


句文集『百枕』の概要は以上だが、あえてふれずにきた謎がある。それはなぜ枕か、ということ。そしてなぜ俳句かということ。関悦史は、前号の『百枕』評で、次のように述べている。


高橋睦郎の句には専業俳人のそれとはやや異なる感触がある。そしてそれは必ずしも俳人と詩人一般の差異に還元出来るものではない。一言でいえば、虚ろなもの、虚空的なものがそのままで餅菓子か何かのようにしっとりと重く身の詰まった実体感へと転じて鎮座しているといった奇観的な感触であり、これは意識が虚ろとなることがそのままで充実に転ずる眠りというものの逆説的ありように通じている。ここにおいて「枕」とは「眠り」の換喩(メトニミー)に他なるまい。


関のこの分析をほとんど受け入れるが、評者としては高橋睦郎の俳句が専業俳人のそれとも、詩人が余技で書く俳句とも異なる感触を持つという事実を、なぜ高橋にはそのような俳句が書けてしまうのかという方向に転じてみたい。実際、高橋は一級の自由詩の作者でありながら、なぜ同時に一級の短歌や俳句が書けてしまうのか。いや、短歌・俳句どころの話ではじつはないのだ。二〇〇一年に出た『倣古抄』(*17)において高橋は、「祝詞」「催馬楽」「旋頭歌」「今様」から「常磐津」「小唄」の類まで、古代から近世にかけて栄え、かつは滅んだ二十一もの定型を駆使してみせてさえいる。それらの出来栄えを検討することはいま置くとしても、なぜひとり高橋睦郎だけにそのようなことが可能なのか。これを才能と言って片付けるのがためらわれるのは、少なくとも自由詩において高橋に劣らぬ声望とキャリアのある何人か――谷川俊太郎、吉増剛造、入沢康夫など――の名前を思い出してみたところが、誰ひとりすぐれた短歌もすぐれた俳句も書いてはいないからだ。いや彼らは付き合いで句会に出たことくらいはあったとしても、おそらく精魂を傾けて短歌や俳句を作ろうとしたこと自体がないのにちがいない。だから、先の問いをこう言い換えてもいい。なぜ、高橋睦郎だけに、かくも強い古典詩型制作へのうながしがあるのか、と。


高橋に「そなしのむなくに」(*18)と題されたエッセイがある。ごく短いものだが、高橋の日本ないし日本文化に向けた考察がコンパクトに纏められている点でなかなか興味深い。


日本の文化財として私たちが誇るべきものの第一は、げんざい私たちが住む日本列島弧の位置ではあるまいか。地質時代の地殻変動によってこの列島弧がユーラシア大陸の東側から離れて独立した時、日本文化なるものの性格は決定した、といえるのではなかろうか。それはユーラシアという母胎から切れ、切れたゆえに母胎を希求し、さらに切れ……という永久運動を繰り返すという性格である。


この雄大な鳥瞰図的歴史観を踏まえつつ高橋は、政治外交的には開国と鎖国を繰り返す日本は、開国時にはユーラシア文化を希求・吸収し、鎖国時にはそれを咀嚼・日本化するプロセスを反復してきたと、より具体的に述べる。日本化した外来文化が地層のように積みあがったのがすなわち日本文化であり、新文化の到来時こそ熾烈な闘争が発生するとしても、やがてそれが〈時間の中で鎮静化し、共存していく。〉というのがその特徴であるともいう。


鎮静化し共存するのは、列島弧の先には大洋しかなく、逃げ場がないため、そこで吹き溜るほかないからだ。吹き溜った宗教は宗教というよりは宗教の遺跡となる。


「宗教の遺跡」とはまことに辛辣だが、宗教以外の文化、たとえば芸能はどうなのか。それは遺跡ならぬ遺骸だというのが高橋の答えだ。


その地層化は、神楽・雅楽・平曲・能・狂言・人形浄瑠璃・歌舞伎・新派・新劇……の現状を見るだけで明らかだろう。それらは遺骸であるおかげで、何の抵抗もなく共生、ひょっとしたら共死できるのだ。茶道、花道、香道についても同じ。これらが言葉の真の意味での生命力を失ったのは、官僚化・妻帯世襲化によって下降した宗教者の場合とは逆に、特権階級化によって芸能者が上昇したからだろう。芸術と呼ばれるものもこれに準ずる。


こうした事態によって、〈日本文化なるものは虚構化せざるをえない。〉と高橋はいう。エッセイタイトルの「そなしのむなくに」とは、そのような虚構の文化、虚無の価値を生きる国としての日本を、記紀の語彙をアレンジしつつ規定した高橋一流の言い回しである。すなわち、〈わが日本とは膂肉(そしし)の虚国(むなくに)、いや膂無(そなし)の虚国、敢えていえば豊穣なる膂無の虚国なのである。〉


こうして見ると、『倣古抄』において極限的なあらわれ方をした古典詩型と高橋の関係がはらみもつ深い射程がよくわかる。それらはまさに遺骸であり、「何の抵抗もなく共生、ひょっとしたら共死できる」存在だったのである。だが、実際、とっくに死んでいる催馬楽や今様にとってその事実はなんの痛痒ももたらしはしない。むしろ、普通にはいまだ生きているとみなされている短歌、俳句、自由詩にとってこそ高橋のこの日本文化観は痛切であり、容赦がないというべきだろう。


わが国の詩歌文芸では古来大切にされ、おそらくは土地信仰起源の修飾語としての枕詞があり、古歌名歌を踏まえた歌作の題材としての名所をいう歌枕がある。この二つについてはすでに『爾比麻久良』『歌合枕』の二冊を世に問うているが、筆者としては具体的な枕そのもの、また具体的な枕を含む類語を用いて詩歌作品を試みたいとの私かな望みがかねてあり、その作品は自由詩でも短歌でもなく、俳句でなければならないと思いつづけてきた。


すでに一部を本稿中に引いた、『百枕』巻頭のエッセイの一節である。「枕」について作品化するのは「俳句でなければならないと思いつづけてきた」事実が、理由を明かさぬままに記しつけられている。それは高橋自身にも説明がつかない直観なのに違いあるまいが、一読者たる評者にもそれを肯んずる直観がはたらいているらしいのが不思議だ。ここでおなじエッセイの、枕の語源を探っている部分も見ておこう。高橋は白川静の『字訓』によって「枕」という漢字の語義をさぐり、ついで小学館の『日本国語大辞典』に載る大和言葉「マクラ」の語源を八つ列挙したのち、〈ここに挙がっていない「枕に頭をあてがうと魂が肉体から遊離して枕の中に宿る、これが睡眠であるとすることから、魂の倉(容物 いれもの)」(平凡社『大百科事典』)とする説を欠かすわけにはいくまい。〉と付け加えている。もちろん高橋がいちばん固執しているのは、最後に挙げられているこの「魂の倉」説なのだろう。そして、高橋の先の直観の根にあったのが、「枕」=「魂の倉」=「俳句」というアナロジーだったと仮定した時、ではなぜこの式の俳句の位置に短歌や自由詩が代入され得ないのかが次の問題となる。

高橋自身の自由詩、短歌、俳句を比較する時、共通する性格として叙法が端正で、一義的な了解性に富んでいることが挙げられよう。要するに、意味がとれずに困惑させられるようなことは、高橋の詩歌作品にあってはほとんどない。一方、三者の違いであるが、自由詩、短歌、俳句の順で主題性が後退し、同時に言葉それ自体に対するフェティシズムと、アナクロニスティックな形式への固執が増す傾向があるのをみとめてもよいだろう。

以上のような諸点をあわせ考えると、枕及び眠りと三位一体を形成するのが、自由詩でも短歌でもなく俳句でなくてはならないことの意味がはっきりと浮上してくるようだ。自由詩のような主題の展開力もなく、短歌のような韻律の喚起力にも乏しい俳句定型とは、まさしく「虚ろ」な「容物(いれもの)」以上でも以下でもない、この認識こそが高橋の直観の実体だったのではないか。先の引用で関悦史は、「意識が虚ろとなることがそのままで充実に転ずる眠りというものの逆説的なありよう」を指摘していた。すなわち「『枕』とは『眠り』の換喩(メトニミー)」であり、引用につづく箇所では、「魂の遊離まで視野に入っていることからすれば、ここから永眠まではほんの一歩である。」との言葉も見えた。詩神(ポエジー)そのものが、日本という圏域にとらわれて共生し共死するなにものかにすぎない――そう観じてしまった詩人(ポエト)の手に最後に残されたのは、死/眠り/枕への渇仰であり、その渇仰を癒す甘美な酒――フェティシズムとアナクロニズム――を注ぐのには、純粋な「容物(いれもの)」たる俳句こそが最もふさわしい。いまさら主題がなんになろう、いまさら黄金律がなんであろう。そんなものは我が眠りには邪魔なだけではないか! このようにも想定され得る高橋の俳句観を、ただちに一般化して語るわけにはゆくまい。だとしてもなお、 『百枕』を俳句によって実践された一個の稀有な俳句論と見ることは、ゆるされるように思われる。


◆高橋睦郎氏の句集では、漢字は正字で組まれているが、本稿では現行字体で引用しています。

◆高橋睦郎『百枕』は著者より贈呈を受けました。記して感謝いたします。



(*1)赤城さかえ『戦後俳句論争史』 俳句研究社 一九六八年

(*2)『短詩型文学論』 八雲書店 一九四八年

同書は以下の十二編を収録している。

和歌の永続性と現代短歌……近藤忠義/貴族的文学のゆくへ……土居光知/短歌への訣別……臼井吉見/歌の条件……小田切秀雄/短歌の運命……桑原武夫/他山石語……吉川幸次郎/短歌の新方向……クボカワ・ツルジロー/詩人への畏敬について……渡辺一夫/第二芸術―現代俳句について―……桑原武夫/俳句の近代詩への発展―俳句は「第二芸術」か―……栗林農夫/俳句は生き得るか……加藤楸邨/近代俳句の建設―詩人の反省に触れて―……赤城さかえ

(*3)孝橋謙二編『現代俳句の為に 第二芸術論への反撃』 ふもと社 一九四七年

同書は序を孝橋謙二が記すほか、以下の十七編を収録している。

往復書簡……山口誓子/教授病……中村草田男/文学の一世界……中村草田男/手近の更に手近の問題……中村草田男/「第二芸術」論に答へる……西東三鬼/現代俳句は第二芸術か……頴原退蔵/現代生活と俳句……頴原退蔵/俳句と芸……頴原退蔵/俳句といふもの……日野草城/俳句の命脈……山口誓子/俳句は生き得るか……加藤楸邨/俳句人の道……東京三/俳句否定論に対す……富澤赤黄男/「第二芸術論」以後……栗林農夫/俳句作家の立場から……三谷昭/最短詩型の生構造……高屋窓秋/俳句は近代詩である……孝橋謙二

(*4)坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん 俳句百年の遊び』(岩波書店 二〇〇九年)所収

(*5)岡井隆『短歌―この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論』 短歌研究社 二〇〇二年

(*6)高橋睦郎『百枕』 書肆山田 二〇一〇年七月十日刊

(*7)『新選高橋睦郎詩集』 新選現代詩文庫120 思潮社 一九八〇年

(*8)高橋睦郎『稽古飲食』 不識書院 一九八八年

(*9)高橋睦郎『私自身のための俳句入門』 新潮選書 一九九二年

(*10)掲句は後に、句集『賚』に収録されている。

(*11)高橋睦郎『賚』 星谷書屋 一九九八年

(*12)高橋睦郎『花行』 ふらんす堂文庫 二〇〇〇年

(*13)高橋睦郎『遊行』 星谷書屋 二〇〇六年

(*14)古今亭志ん生『なめくじ艦隊』 朋文社 一九五六年

(*15)T・S・エリオット「荒地」 西脇順三郎訳

(*16)句集『賚』所収

(*17)高橋睦郎『倣古抄』 邑心文庫 二〇〇一年

(*18)高橋睦郎「そなしのむなくに」/「芸術新潮」二〇一〇年一月号 特集「わたしが選ぶ日本遺産」所収

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