2010年7月18日日曜日

続・私自身のための羅針盤(2) 読者にとっての作者、読者としての作者・・・中村安伸

続・私自身のための羅針盤(2)
読者にとっての作者、読者としての作者


                       ・・・中村安伸

百人町の俳句文学館、図書閲覧室で、抽斗状の木箱の中にある蔵書カードから目的の書物を探した経験のある人は多いと思う。このカードは著者名の五十音順に並べられていて、カードの右肩にはカタカナでその先頭数文字が記されている。読者はこれを頼りに、読みたい句集、めあての俳句作品に辿りつくことが出来るのである。

俳句文学館の蔵書のすべてが句集ではないが、俳句の読者にとって作者とは、まず第一に、句集や俳句作品を分類・検索するためのキーワードであると言ってもよいだろう。俳句には共作という制作方法が、基本的にはないので、ひとつの作品に対応する作者は一人である。つまり、作者と作品とは1:nの関係となる。したがって、作者名は俳句作品をデータベース化する場合、最も重要なキーワードとなるだろう。

すべての俳句作品がデータベース化された世界、またそのデータベースを検索する以外に俳句作品に触れる手段が無い世界を仮定してみると、読者がaという作品を気に入った場合、似たような作品を検索するためには、aの作者Aをキーワードにすることが最も有効な方法となるだろう。

さらにaがおさめられている句集名といったキーワードを追加すれば、より精度の高い検索が可能となるであろうし、検索結果を制作年月日順にソートして、aに近い年代のものを探せば、好みの作品を探し当てられる確率は増すであろう。ちなみに、制作年月日は作風の変遷を時系列でとらえるための指標として有効であるはずだが、実際には記録されていないことが多く、発表年月日を採らざるを得ない場合が多いと思われる。

句集については、複数の句集に収録されている作品、逆に既発表ながら句集未収録の作品がある。すなわち、句集と作品との関係は必ずしも1:nとはならないので、俳句作品を分類するキーワードとしては不完全と言わざるをえない。

むしろ句集はひとつの独立した作品として扱うべきだろう。前述のデータベースで句集名をキーワードに検索したとして、ヒットした俳句作品を五十音順や季語別に並びかえてしまったら、句集の作品としての同一性は失われてしまう。

さて、すべての作品がデータベース化された世界において、作者名Aは作品a,b,cから成るグループを示す記号にすぎないが、読者は作品a,b,cに共通する傾向を「作風」として抽出し、それを作者Aに結び付けることができる。たとえば読者が作者Aの新作dを読んだとき、それがあらかじめ認識されていたAの作風の範囲内であれば納得するであろうし、意外な要素が含まれている場合は作風を更新することになるだろう。

もちろん、記号にすぎないと言ったところで、作者名とはひとつの人格に結び付けられた名前でもある。作風を認識したうえで、その背後に具体的な人物像を想定するのは、読者にとっても好都合な方法であろう。

ちなみに俳句作品は内容がノンフィクションであると仮定されることが多く、したがって、作品に叙述された内容を、具体的事実として作者の人物像に結び付けられやすい傾向があるが、単純に作品内容を作者の人物像に還元することは危険である。

すべての作品がデータベース化された世界における俳句作品の作者とは、俳句作品の集合体であり、その作品群から抽出された作風であり、その作風の背後に想定されるひとつの仮想人格なのである。

もちろん現実には、性別、年齢、所属や師系など作者に関するさまざまな周辺情報を入手することができるし、俳句以外の散文作品などを鑑賞したり、作者が存命であれば対面や手紙などで直接コミュニケーションをとることもできるし、物故者であっても関係者からさまざまな情報を引き出すこともできるだろう。

現実の読者は、作品からフィードバックされる仮想の作者像と、外部情報から生成される実体に近い作者像とを二重写しに見ていることになり、往々にして後者がよりクローズアップされてしまうことになる。

読者が俳句作品を読む場はさまざまである。現実には稀少だが、俳句作者を兼ねない読者、いわゆる純粋読者の場合、アンソロジー等で自分の好きな俳人を見つけ、その句集を読み、師系などをたどって近い作風の作者を捜す、といったパターンが多いだろう。作者兼読者である俳人にも同様のルートはあるが、所属している同人誌や結社誌、句会などで出会う作品を読むことが中心となるだろう。

作者にまつわる周辺情報なしで作品を読む機会は、無記名にて作品に接することのできる句会しかない。もちろんこの場合でも、作風などによってある程度作者が識別されてしまうこともある。

句会以外の場では、俳句作品はすくなくとも作者名を付記された状態で読まれる。つまり、その作者の作品にはじめて触れる場合を除き、なんらかの周辺情報つきでその作品を読むことになる。

周辺情報があるということは、作品を読むうえで必ずしもマイナスではない。たとえば前書、詞書といったかたちで、作者が意図的に情報を付加する場合もある。そして読者の側としては周辺情報を活用して作品を最大限に読むことができる。

また、同時に作品そのものを、できるだけ周辺情報に左右されずに解釈を行うこともできる。私はこれらふたつの方法を一作品に対して同時に行うことが重要だと思っている。多くの方向から光をあてることによって、作品の姿を立体的に浮かび上がらせることができるのである。

俳句作品の総合体としての作者に主眼を置いて読むか、あくまでも個別の俳句作品を鑑賞するか、読者によってそのウエイトの置き方に違いはあるだろうし、時と場合によっても異なるだろうが、前者の場合は周辺情報をフルに活用し、後者の場合は出来る限り周辺情報をシャットアウトすることになるのかもしれない。

もちろん、作品そのものが主であり、周辺情報は従であるという関係を踏み外してはいけない。作品そのものが多様に解釈可能な場合、周辺情報がその選択肢をいくぶん狭めるという程度が望ましいように思う。作品そのものから導くことの出来る解釈に、すこしばかり別の要素を付加する程度はかまわないだろうが、明らかに作品そのものと矛盾する解釈をみちびいたりすることがあってはならないだろう。

さて、俳句作品の作者は必ずしも人間であるとは限らない。いわゆる「自動生成」であるが、機械によって自動生成された作品群からも、もちろん作風を抽出することは可能である。しかしその背後に人格を想定することはできない、というより、想定しなくても良いというべきだろうか。その作風はボキャブラリーとアルゴリズムに還元可能であり、作風の分析はむしろ容易であると言えるだろう。

俳句作品の一人目の読者は作者自身である。自動生成の機械が現在のところ作者として不完全なのは、読者になることができないという点においてである。

作品を発表するかどうか、すなわち二人目以降の読者と共有する価値があるかどうかを決定するために、作者は第一の読者として作品に向き合い、評価をくだす必要がある。自動生成機械の場合は、この役割を人間(多くは機械そのものの制作者)に委ねるかたちとなっている。

このとき「読者としての作者」にとっての困難は、作品に関して、他の読者とは比較にならないほど多くの周辺情報をもっていることである。しかもその情報の多くは言語化できないもの、すなわち他の読者と共有できないものである。また、こうした多量の情報の黒雲にはばまれ、俳句作品そのものの実体を見失ってしまうことも少なくない。

ところで、句会というシステムにはさまざまな功罪があるが、それについて述べることは今回のトピックから外れてしまう。さしあたり今回のトピックに関連した句会の効用をあげておきたい。

ひとつは、無記名の、周辺情報のない裸体の俳句作品を読む経験を積むことができるということである。作者が読者として周辺情報にまみれた作品と相対したときに、それらを剥ぎとるための訓練となるだろう。

もうひとつは、任意の自作の俳句作品を第二、第三の読者の目に触れさせ、彼らの解釈や鑑賞を聞くことができるということである。それにより、作者は、読者として周辺情報の黒雲を十分に払いのけることが出来ていたかどうか、反省することができるのである。

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