七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩⅦ
・・・冨田拓也
5月17日 月曜日
古書店にて、『最初の出発』第1巻(東京四季出版 平成5年)と古屋秀雄『青々秀句』(邑書林 平成2年)を購入。
『青々秀句』は青々の弟子であった古屋秀雄が松瀬青々の句集『松苗』所載の作品を1句づつ取り上げて鑑賞したものである。
蝶鳥に無畏を施す御手かな
桃の花を満面に見る女かな
涅槃の床に薄倶羅が近く歎く口
寒蜆鼈甲くろき光りかな
この本の中ではこれらの青々の句が印象に残った。
この松瀬青々(1869~1937)という作者の成した句は一説には5万句を超えるともいわれている。その多産なことには驚嘆してしまうが、さすがに5万句もの作品のすべてを読んでみようという気にはあまりなれないというのが正直なところである(挑戦してみるのも面白いかもしれないが)。ともあれ、この膨大な作品数ゆえにこの作者の実質というものがいまだにいまひとつ明確になっていないところがあるように思われる。
この松瀬青々の弟子には青木月斗や西村白雲郷、細見綾子、右城暮石などが存在する。また実際のところはどうであるのか詳しくはよくわからないが、もしかしたら日野草城の作風への影響というものも若干ながらあるのではないかという気のするところもある。
自分も何年も前にいくつか青々の作品を読んでみたことがあるのであるが、その時見出した句の中のいくつかをここに記しておくことにしたい。
琴の塵掃へば遠きこてふ哉
うつくしき蛇が纏ひぬ合歓の花
螢よぶ女は罪の声くらし
麦秋の埃にまじる聖者かな
螢の香ありて夢よりさめしかな
夕立は貧しき町を洗ひ去る
日の筋の埃しづかに冬至かな
貝どもが海にゆられて夜の朧
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり
涅槃其時岩は裂け地は凹みたり
天地が月の一つにおぼろなり
山に花海には鯛のふゞくかな
月見して如来の月光三昧や
5月19日 水曜日
なんとなく「手」という言葉が思い浮かんできた。
てのひらといふばけものや天の川 永田耕衣
大寒の街に無数の拳ゆく 西東三鬼
暗闇を毆りつつ行く五月かな 三橋敏雄
手が見えて父が落葉の山歩く 飯田龍太
月光のをはるところに女の手 林田紀音夫
夕焼の中来て白き掌をひらく 小宮山遠
5月20日 木曜日
書店で新刊の宇多喜代子、黒田杏子監修の『現代俳句の鑑賞事典』(東京堂出版)という本が出ていた。どうやら俳句のアンソロジーであるようである。
値段の高さもあってか、すこし読んだ後すぐに棚へと戻してしまいしっかりと内容を確認しなかったのであるが、選ばれている作者のラインナップについてはやはり割合順当というか穏当な内容であるように見受けられた。単純にスタンダードな内容が悪いというわけではないのだが、個人的にはこういったアンソロジーは選出された作者の顔ぶれに意外性が感じられないといまひとつ面白くないように思えてしまうところがある。
しかしながら、これまで自分はこういったアンソロジーが出る度に毎回不満をもらしつつも結局購入して何度となく繰り返し読むのがほぼ習い性となっている。本書についてもまた今度とりあえず購入してみることにしようか。
5月21日 金曜日
何年も前に購入してそのままずっと放っていた『私版・短詩型文学全書19 清水昇子集』(昭和45年)が、たまたま目についたので漸く読んでみようという気になった。
清水昇子は、明治33年生まれで、三鬼に師事。「天狼」、「俳句評論」、「面」の同人で、句集に『走馬燈』、『石を抱く』、『生国』、『拝日』などがある。
土の香となりて桜のふぶくかな
唐紙の螢をおとす畳かな
捨灰の雪にめり込む月夜かな
逆立つて流れてゆくや彼岸花
過去もちて石の光れる時雨かな
琴の音干すからかさの緊まる中
密集の破蓮や抽斗の奥暗き
幽かなる力枯蓮折れてゆく
草餅を食べる口中三鬼亡し
梅匂ふ炭団全体燃え盛り
羽抜鶏不意に跳び立つ大落暉
月の出のバナナを食ひて喜べり
筍の上親竹の散る優し
三鬼の弟子としては、割合「古風」とさえいっていい作風といえよう。堅牢な構成により成り立っているこれらの作品からは、それこそ風格すら感じられる。
ここに取り上げた作品をみると、この作者におけるキーワードというのは「内なる力」ということになろうか。
しかしながら、こういった作品を見ていると正直なところ、先週に取り上げた「小金まさ魚」の作品にしてもそうであるのだが、単純に「上手」ければいいのだろうか、という疑念が自らの内部において若干頭をもたげてくるようなところもないではない。
ただ「土の香」、「彼岸花」、「からかさ」、「抽斗」などの句からは、一読なんというか軽い衝撃のようなものを受けてしまうところがあった。それは、単純にこれら作品の持つ言葉の力というものも当然あるわけであろうが、さらにこの作者の内部においてやや抑えられたかたちを以て底籠っている三鬼を源流とする熱気の存在と、誓子を思わせる現実を的確に切り分ける冷徹な手腕というものが、そのまま作品を通してまざまざと感じられるゆえということでもあるのであろう。
5月22日 土曜日
清水昇子を読んだので、次いで同じく三鬼の弟子である山本紫黄の句集『早寝島』(水明発行所 昭和56年)を読んで見ようという気になった。こちらも入手してから何年もそのまま放置していたものである。
山本紫黄は大正10年生れ、父は山本嵯迷という俳人であるそうである。昭和24年に長谷川かな女に師事、昭和31年に「断崖」入会、西東三鬼に師事。昭和41年「俳句評論」同人。
この『早寝島』は第1句集ということになる。装丁は三橋敏雄で、栞には三谷昭、高柳重信、三橋敏雄、星野紗一が文章を寄せている。
蟻の昼レンズは紙を焦がし抜く
緑の雨城の急坂いまも滑る
傾斜し立つ単車一台青岬
船厨にあり玉葱の烈しき山
一艇を出す如月の大艇庫
うろこ雲頭上俄かに粗鱗
舌を持つ雀ばかりや寒雀
稲妻さかん全速力で遅い汽車
釣針は泛子を後るる春夕べ
鯨の骨は櫂のかたさよ春の雷
鯛の海いよいよ深し春の雷
みはるかす五月六日の鯉のぼり
真向へる坂は薄暑のすべり台
革足袋や砂金袋も革袋
空あかくバナナ尊き子供かな
今は昔の飛行機ビラや飛ぶ青葉
噴水も海も水なる夏の果
むかしより蕎麦湯は濁り花柘榴
無声映画の萬物跳ねる睦月かな
人々に最寄りの駅や雁渡る
秋風や拳の中に子安貝
この作者の作は一見したところ単調なものに見えるが、よく読んで見るとどこかしら非凡な言葉の働きが内在していることが感取できるであろう。また、清水昇子と比べてみた場合、少なからず飄逸味の感じられるところもある。
全体的に句集の作品を読むのがやや難しいところがあるというか、注意深く読まないと作者の真意を充分に理解できないような句が多いようである。これはこの作者が一語一語使用する言葉を揺るがせにすることなく厳しい態度を以て選び抜き句作を行っていたがゆえの結果ということになるのであろう。
稲妻さかん全速力で遅い汽車
もしかしたらこの句が、この作者の実質というものをもっとも物語っているものであるといえるかもしれない。単に見かけが遅いように見えてもけっして内なる力強さを備えていないというわけではなく、稲妻を伴う強い風雨の中においてもその中で奮進するだけのエネルギーを有していないというわけでもない。この作者には、先に取り上げた清水昇子と同じく「内なる力強さ」というものがその内部において秘められているように見受けられた。
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