2010年5月23日日曜日

岩淵喜代子『頂上の石鼎』を読む

松朽ち葉かからぬ五百木無かりけり
岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』を読む


                       ・・・高山れおな


岩淵喜代子著『評伝 頂上の石鼎』(*1)は、刊行直後に高評価の書評が出ており、読んでみたいと思っていたところ、書店ではいつも見当たらず、amazonで買うのも億劫でそのままにしているうちに日数を経てしまいました。先日、ようやく書架に並んでいるのと出会い、読むことができました。

『評伝 頂上の石鼎』について書いていたのは猫髭氏です。「週刊俳句」の二〇〇九年十月十一日号掲載の書評(*2)は、ほぼ絶賛といってよい内容で、氏の文章の上手さもあって、これは是非読まねばという気にさせられました。しかし、今回、実際に読んでみると、疑問に感じる点がいろいろとありました。もちろん、裨益されるところの多い本ではあるのです。ただ、書きぶりにずいぶん問題がある本でもあるのです。猫髭氏は、本書が「鹿火屋」や「ホトトギス」の古いバックナンバーを読み込み、石鼎の句が詠まれた場所にこまめに足を運ぶなどの「地道な検証の上に成り立って」おり、「事実考証の確かさを感じさせる」と述べています。たしかに、「地道な検証」がなされているのはわかります。ただ、そのせっかくの検証が、「事実考証の確かさ」として伝わってくるには、少なくともわたくしには大きな障害がありました。はっきり申しまして、岩淵氏の文章がたいへんに、たいへんに読みずらいのです。ところどころ、猫髭氏がいう「硬質な美しさ」を感じさせる部分もあるのですが、しばしば叙述が飛躍しあるいは錯綜し、前後に行きつ戻りつしながら慎重に行間を補って読まないと、なにやらわけがわからない箇所がはなはだ多い。いや、そうしてさえ腑に落ちない場合もあるのです。一例だけ挙げましょう。大正四年(一九一五)、三十歳で再度上京した石鼎が、ホトトギス社で働いていた頃の話です。

上京してすぐ持ちこまれたのが、郷里出雲で創刊される「ヤカナ」の雑詠選だった。これを承諾するにあたっても、――地方雑誌といふ風なものゝ発刊せらるる動機と結果とが余りに無意義な、虚栄的な、不平的な獨り夜狩的な、低能な、道楽的――というような不自然なまでに否定的な言葉で埋められていた。

手紙はさらに――それが為め大した素養もないのに徒らに虚栄的な木ッ端選者を気取る人々や兎角思はしく人から評判を受け得られない為めの不平的論評や――とかなり批判的なことばが続く。少年時代に〈七草に入りたきさまの野菊かな〉が「山陰新報」の奈倉悟月に採られたことが、俳句文芸への入り口だったことを思い返せば、石鼎に似合わない論理である。手紙は「ヤカナ」誌に掲載されることを意識したものである。

上記の箇所で、二倍ダーシでくくった形で引かれている“手紙”ですが、前後をいくら読んでもこれが誰の手紙なのかがわからないのには困りました。石鼎が選者となることを虚子が承諾した石鼎宛の手紙なのか、石鼎が「ヤカナ」誌に宛てて選者就任を了承した手紙なのか、そのどちらかなのでしょうが、どちらなのかがはっきりしないのです。語調からすると虚子っぽく感じられますが、しかし「石鼎に似合わない論理」とあるので石鼎なのかなと思えなくもない。さらに、「手紙は『ヤカナ』誌に掲載されることを意識したものである。」とありますが、岩淵氏がどういう根拠でそう判断したのかも示されていませんし、実際にそれが掲載されたのかどうかにも言及がありません。虚子・石鼎両者の名誉にかかわるそれなりに重大な内容であるにもかかわらずなんとも曖昧な記述で、気分がすっきりしません。これなどは記述の不備と考えてしかるべきでしょうが、他に間欠泉のようにおりおりに噴き出す思い込みの激しい文章にも悩まされました。例えばこんなの。

恋の種類にも師恋という言葉がある。久女の虚子への師恋は物語になったほど有名だ。晶子と与謝野鉄幹にしても同じである。恋の中で、師恋ほど崇高な恋はない。相手の全人格を敬い慕うのである。久女が「ホトトギス」を除名になって精神を病んだのは当然である。この世で最も残酷な出来事があるとすれば、師恋を拒絶されたときであろう。女性の場合は、修復するには男の数倍のエネルギーが必要である。ましてや、巨大な「ホトトギス」から拒絶されたことは生きることを拒絶されたことでもある。それはロダンの恋人カミーユ・クローデルにも言える。本来は師恋が師弟の仲を結んでいるはずである。逆にいえば師恋もない師弟関係など本物ではない。

まず、ここで言われていること自体、わたくしにはわけがわかりません。さらに、この一節が置かれているのが、京都医専を放校処分になった石鼎が初めて上京した翌年、ふらりとホトトギス社を訪ねたエピソードを紹介した直後であるのもどうかと思います。石鼎は虚子に就職の斡旋を頼んで断わられ帰郷を勧奨されるのですが、この時点での石鼎は、〈ホトトギスの地方俳句界に投書して来たり募集画に応じてさし絵を送って来たり〉(高濱虚子『進むべき俳句の道』)したことがあるというだけの存在にすぎません。学校を中退して、なんの目算もないままに上京してふらふらしている青年が、仕事を世話してくれといきなり頼んできたのです。頼まれた方としては断わるのがあたり前で、師恋がどうこうという筋合いではありますまい。なにしろこれは、石鼎が吉野に行って、俳人として頭角をあらわす前の話なのです。石鼎も後に虚子との間で不幸な行き違いがあり、心身を病んだなどの事実があるところから久女の名前を連想した筋道はわかるとしても、ここで引き合いに出すのはいささか無理に思われます。まして、カミーユ・クローデルとは! 岩淵氏の久女に対する強いパッションだけは伝わってきますが、そのあまりにも“直感的な”師弟関係論には辟易させられました。

この種の思いこみは、俳句作品の鑑賞に際しても発揮されています。

うれしさの狐手を出せ曇り花

という、大正九年(一九二〇)の句について、岩淵氏はこんなことを書いています。

この句には、のちに自註で――私はいつか木版の日本古書の中に、蓮の花の咲ゐてゐる蓮池の中から、比較的大きな女の片手が、その水底より水面へ出している所の画かれてあつたのを見て驚いたことがある――と、句の想を得たことを書きとめている。

石鼎の見た絵というのは、傑作中の傑作として知られるジョン・エヴァレット・ミレイの描く「オフィーリア」ではないかと思う。蓮と睡蓮を混同しているのではないだろうか。蓮は丈高く生える花で、水底の女の手が際だたない。実際に「オフィーリア」に描かれているのは睡蓮でもない。

石鼎の自註のどこをどうすると、石鼎が見たのが《オフィーリア》だということになるのか脈絡がさっぱり摑めません。石鼎の自註を読む限りはっきりしているのは、石鼎が見たのが《オフィーリア》ではないという事実だけのようにわたくしには思えます。要するに、岩淵氏は《オフィーリア》が好きで、この句の背後に《オフィーリア》があるとしたかったのでしょうか。こういう、我から求めて誤まったような誤まり以外に、時間の先後関係からしておかしいと思われる記述であるとか、岩淵氏の意見が前後で矛盾しているところとか、単純な事実関係の間違いであるとか、気づいただけでもずいぶんありましたが、いちいちあげつらうのはやめておきます。誤字脱字は、どんな本でも皆無ということはありえないとはいえ、この本はひどい部類に入るでしょう。評伝というジャンルの性質上、さまざまな一次資料・二次資料からの引用がなされていますが、その際の表記の仕方にも原則があるのだかないのだかわかりません。「鹿火屋」の古参同人のオーラルヒストリーをふくめ、入手はおろか瞥見するのさえ容易ではなさそうな資料が豊富に踏まえられているだけに、引用の精度や利用の仕方に不安があるのは残念なことです。

このような次第で、猫髭氏が、〈石鼎ファンだけでなく、多くの俳句愛好者に読んでいただきたいと切に願う一書である。〉と述べるのに軽々しく同調はできません。読者の側にもある程度の予備知識や、慎重な態度での受容が要求される本だと思うからです。ただ、猫髭氏がこうまでいうくらいですし、七年の余をかけたという労作ですから、一方で、すぐれた点、魅力的な点も少なくないのもたしかです。例えば、石鼎が吉野山中から「ホトトギス」へ初めて投句した中の一句、

空山へ板一枚を荻の橋

の「空山」をなんと読むのかをめぐっての考証などはとても興味深いものでした。辞書的には漢詩でおなじみの「くうざん」になるのですが、「からやま」とルビを振る本(小室善弘『俳人原石鼎―鑑賞と生涯』)もあれば、「そらやま」とルビを振る本(『原石鼎全句集』)もあるという具合で、混乱しているようです。石鼎自選の句集『花影』(*3)はルビの多い本ですが、「空山」にはルビはありません。岩淵氏が「鹿火屋」の先輩たちに聞いても、それぞれがてんでに「くうざん」「からやま」「そらやま」の三つの読み方のどれかを採用しているばかりで、なぜそう読むのかの根拠を持っている人はいないようです。岩淵氏は、石鼎自身は「くうざん」のつもりで作った可能性が高く、虚子もそのつもりで鑑賞したようだと指摘しながらも、句が作られた現地吉野では「そらやま」がごく当たり前の生活用語として使われている事実を紹介しています。岩淵氏はそういう言い方はしていませんが、石鼎は「くうざん」のつもりで作句したものの、後に「そらやま」という言葉があることを知り、その読み方をも許容していたということはあるかもしれません。

この句は「ホトトギス」への初投句である。話題になって人口に膾炙された句である。誰も声に出して読まなかったのだろうか。声に出してみて人と違っていたら、石鼎本人に確かめなかったのだろうか。一度でも確かめた人がいたら、その読みが流布され、即座に定着してしまうはずである。どんな読み方だったとしても、「空山」の句の価値や内容が、大きく揺れることはないのだが、不思議な師弟関係に思える。

岩淵氏自身は、こんなふうになかなか皮肉な言い方で矛を収めていますが、似たようなケースは案外処々にあるような気もします。まず思い出したのは、石田波郷の

吹きおこる秋風鶴をあゆましむ 『鶴の眼』

の「秋風」をどう読むかという件。「鶴」誌の一部の人たちは「しゅうふう」と読むという話を藤田湘子がエッセイで書いていて、しかし湘子は「あきかぜ」と読むべきだという意見でした(これはわたくしもそう思いますが、波郷はどう考えていた?)。わたくしの身近なところでは、攝津幸彦の

幾千代も散るは美し明日は三越 『鳥子』

の「美し」を「うるわし」と読む先輩がいて驚いたことがあります。こちらはごく普通に「うつくし」と読んでいたからです。驚いたら攝津に尋ねればいいだけのことですが、そんな読み方があると知ったのは「全句集出版記念・攝津幸彦を偲ぶ会」における「皇国前衛歌」の朗読の際なのですから是非もありません。もちろん、朗読をしたその先輩は攝津と大変親しい人ですから、作者本人から口伝を受けてのことなのかも知れないのですが、それにしてもわたくしは口伝の有無を確認はしていないのでした。

ちょっと話題が脇道にそれてしまいました。岩淵氏は、逡巡しつつも書きにくいことまで書こうとしていて、石鼎に肉薄しようとする態度にはゆるぎがありません。これこそ『評伝 頂上の石鼎』の最大の美質であろうと思います。氏が「鹿火屋」に入会した頃、結社内でまことしやかにささやかれていた、石鼎夫人の原コウ子は生涯処女だったという噂なども、そんな書きにくいことのひとつでしょう。これは単なる興味本位のゴシップというわけではなく、健康状態や周囲との人間関係をふくめた石鼎の人となりを考える上で、重要な意味を持つ話のように思います。また、昭和十五年(一九四〇)から十六年にかけて、石鼎は精神病院(東京府松沢病院)に一年近く入院させられるのですが、その前後の時期しばらく、本来の「鹿火屋」とは別に石鼎ひとりに見せるための「鹿火屋」が毎号一冊だけ作られていたという話にも驚愕しました。ただ、岩淵氏はそれらの特製「鹿火屋」の現物まで見ていながら、それがどういう点で本来の「鹿火屋」と異なっているのか説明はしてくれず隔靴掻痒の感は残るのですが、それにしてもなんとも暗い話だなと思ったことです。そして、これらの逸話に感じられる石鼎の曰く言い難い“暗さ”は、石鼎の最もすぐれた表現――つまり吉野から出雲放浪時代にかけての作品に感じられる暗さに通底しているのではないかとの妄想が湧いてきました。石鼎が抱えていたその暗さが、青春時代においては神話的風土の底に根を張った「豪華、跌宕」(『進むべき俳句の道』)の作品世界に昇華され、壮年時代以降においては肉体と精神の直接的な暗さとして現前したのではないか、ということですが。

猫髭氏は、岩淵氏の本を評して、〈ここに初めて、深吉野以前から深吉野以後までを語れる語り部が誕生したと言える。〉と述べていますが、これは贔屓の引き倒しに近い言辞かと思います。石鼎の語り部というなら、岩淵氏も大いに参照している回顧録『石鼎とともに』(*4)を著したコウ子夫人にまず指を屈さねばならないはずです。また、小室善弘氏の『俳人原石鼎―鑑賞と生涯―』(*5)は、岩淵の本ほど浩瀚なものではないものの、生涯の全体をバランスよく記述した好著で、特に作品鑑賞に関しては岩淵氏のものより行き届いています。とまれ、時に熱にうかされたように走る岩淵氏の筆に、わたくしも強く刺激されたのは事実です。全句集や小島信夫氏の『原石鼎 二百二十年めの風雅』は昔から持っていましたが、今回は思わず『石鼎とともに』や『花影』、馬鹿高い『石鼎窟夜話』(*6)まで買ってしまいました。これから読みたいと思います。

なお、本稿のタイトルとした〈松朽ち葉かからぬ五百木(いほぎ)無かりけり〉は、周知の通り、石鼎の最後の句で、永田耕衣が蕪村の〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉に比肩するとして絶賛していたはずです。小室氏の『俳人原石鼎―鑑賞と生涯―』によれば、石鼎死去の翌年、「鹿火屋」の昭和二十七年二・三月合併号に、「遺稿」として発表された八句のうちの一句で、「絶句(十二月七日)」と前書があるそうです。全句集ではこの前書は、句の左側に移され、傍記されています。『評伝 頂上の石鼎』にも本文末尾に掲げられていますが、なぜか「辞世の句」という前書が付けられています。「辞世の句」と「絶句」ではニュアンスが異なりますから、岩淵氏一流の勇み足の感なきにしもあらずですが、しかし気持ちはわかります。この句が、滅びることで世界と一体化しようとする境地を体した寓意句のようにもとれるからで、その意味では辞世と呼ぶにふさわしい内容を持っています。ともかく、死期の近い病床にあって「五百木」などという言葉が出てくるところはまさに天才ですし、調べの重厚さもすばらしい。個人的には東京移住後の石鼎句中の最高傑作ではないかと思っております。

(*1)岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』
    二〇〇九年九月七日刊 深夜叢書社
(*2)「週刊俳句」第129号/岩淵喜代子
    『評伝 頂上の石鼎』を読む……猫髭
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/10/blog-post_1684.html
(*3)原石鼎自選句集『花影』 
    一九三七年 改造社
(*4)原コウ子『石鼎とともに』
    一九七九年 明治書院
(*5)小室善弘『俳人原石鼎―鑑賞と生涯―』
    一九七三年 明治書院
(*6)『石鼎窟夜話』 原朝子編
    二〇〇七年 明治書院

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