箱庭の王様
・・・外山 一機
私は俳句にダイアローグでなくモノローグをもとめたい。これはひとえに私の気質にもとずく(ママ)。
「私の気質」を根拠とする方法論の提示―本書のあとがき(「作句ノオト」)に記されたこの一文の書きぶりは、中田のみならず、中田と同世代の俳人たちを語るうえでも多分に示唆的である。「私」へと退却し、「私」に引きこもることによって中田はようやく自らの表現行為のありようを照らし出すことができる。しかし、そのとき俳句による表現行為はもはや極私的なものでしかありえない。だがそれがどんな悲劇をもたらすのかということも、中田は十分に自覚している。
ただひとり叫べるが箱庭のなか
箱庭に家あり誰もをらざりし
箱庭に置く夢殿のなかりけり
箱庭の山川にしてひつそりと
箱庭や砂ひとにぎり堆く
中田は世界の創造主にして王である。モノローグの極点としての「箱庭」的世界へ退却し、表現者としての自らの根城を明らかにしたうえで、それでも人はその表現行為の空しさにどこまで耐え抜けるものだろうか。さらにいえば、「ただひとり叫べるが箱庭のなか」の句からは、俳句にモノローグをもとめることへの疑問さえうかがえる。もとより「モノローグをもとめたい」という言い方自体、その不可能性のうえに立つことを前提としていよう。では、こうした俳句による表現行為の不可能性を認識したうえで、それでも俳句形式を選ぶ中田の強さは何に起因するのだろう。
連句から切り離されて独り立ちして俳句となってから、実感のない対話の拘束から開放(ママ)され、どんどんとモノローグなものとなってゆくのだが、じつはこの俳句という表現形式はモノローグであることさえも難しかった。おもいはいつも何処かで途絶えてしまった。俳句のうちの棒の如き時間の流れを持ち込み、その時間の流れのなかでものを語り尽くすことはできない。俳句のなかで、時間は線ではなく点であり、その断面をさらす。一瞬しかない。だから、俳句のなかに作るもののおもいをあえて残そうとするならばそれは視線でしかなくなる。しかし、なおも俳句たらんことを突きつめてゆけば、視線さえもそこからは消え、その視線のゆきつくさきに存在するただ一個のモノだけがのこる。視線の先のただ一個のモノを抉りだして沈黙してしまう俳句の孤独。(「月夜の葦 尾崎放哉についてのメモ」『晨』平成7・5)
ここで中田は「作るもののおもいをあえて残そうとする」ことと、「俳句たらんことを突きつめ」ることとを同時に成立させることの困難に行き当たっている。俳句のモノローグ性を突きつめることによって生じるであろう俳句形式の悲劇に、中田は自覚的である。そして中田はこの両者の決着点を、たとえば尾崎放哉に見出す。いわゆる「近代的自我」の表出を目指した新傾向俳句運動が遠く実らせた果実としての「放哉」は、たしかにその好例といえるだろう。だが中田は「放哉」ではない。中田は「放哉」の痛みを負いつつ「放哉」以後を生きる表現者であらねばならないはずであった。
わたりゆく雁の眦おもふべし
手につつむ蛙のまなこのみおもへ
中田は俳句について「視線の先のただ一個のモノを抉りだして沈黙してしまう」と述べる。しかし箱庭の王様は、「眦」や「まなこ」を思うばかりである。このきわめて臆病な気質の持ち主は、「蛙」をつつんだ「手」を開けることがあるのだろうか。
瞳孔をのぞく瞳孔さくら咲く
あるいはこんな句がある。見ることは、同時に、見られることでもあった。「視線の先のただ一個のモノ」も、実はこちらに視線を投げかけているという事態の発見。この句ではその発見のもたらした一瞬の華やぎを「さくら」の開花に重ね合わせているのだろう。けれども、こんな幸福な視線のやりとりはむしろ稀であった。
顔に斑のいちじるしきが桜守
近づけば鹿は狐の面差しに
目玉にも斑ありけり蟇
かまきりの眼ふたつが怜悧たり
蟋蟀の正面の貌おそろしき
ふりむきし狐のお面水草生ふ
モノを直視したとき、そこにあったのはしばしば禍々しい顔であり、あるいは「狐の面差し」や「狐のお面」としてこちらをはぐらかす顔であった。こんなときの中田の句はやや饒舌である。すなわち中田は「おそろしき」といい、「怜悧たり」という。「一個のモノ」を抉りだすだけでは足りずに、こちら側から投げかける視線の有様までも述べてしまうのである。だが、こうした阻害物を削ぎ落としたところにこそ中田の表現者としての本領があろう。
旗とほり黒髪とほり薄原
蛇の殻ひらかれてゆく水の上
秋立つとちひさき鳥のながさるる
ここで視線の先にあるのは夢うつつのような世界である。これらの句が幻想的であるのは、流れてゆく時間の一断面を、時間そのものがもつ手ごたえへと還元することに成功しているからだろう。「薄原」も「蛇の殻」も「ちひさき鳥」も、「一個のモノ」でありながら、余計な質量を失うとともにたしかな時空間を伴いつつ把握される。こんなふうに「一個のモノ」を抉り出す方法を、中田はいくつも持っている。
雑巾に散りたる花を拭きとりぬ
かさねあふべき肉声に緑さす
「散りたる花」は花弁のもつ厚みをあえて消し去られ、「雑巾」で拭きとれるほどのモノとして認識される。あるいは「肉声」という視覚的に感知できないモノに「緑」がさすという不可思議な風景へと読者を誘う。これらは言葉によって抽出された、まったく人工的な幻景である。「一個のモノ」を抉り出す行為の果てにあったのは、いわばモノローグの砦としての「箱庭」的風景であった。
一番忘れてはならぬこと。それは俳句が言葉を以てする表現であるということ。つまり俳句はついぞ実体そのものにはなりえない。即ち俳句のうちにあらわれたものすべてが幻である。
(前掲「作句ノオト」)
思えば、これとやや類似することを述べた俳人に阿部完市がいた。阿部は「現実感」や「実感」がすでに「夢」や「幻」を内包するものであることを指摘し、それを「現(うつつ)」という語で表した。だが、中田は「俳句のうちにあらわれたすべてが幻」であると断言する。これは「現実感」や「実感」を端緒としながら作句を重ねた阿部よりも表現者としてはるかに厳しい態度であろう。
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