2010年6月13日日曜日

遷子を読む(63)

遷子を読む〔63〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


葦切や午前むなしく午後むなしく

    『山河』所収

昭和49年作。この年の春、胃切除手術、まもなく肝臓障害を併発。以後、句集を辿ってゆくと、坂を転がるように体調悪化の切迫していく様子がありありと見て取れます。季節の風物を眼にするにつけ、衰えて行く我身を思わざるを得ないという状況だったようです。この年、句集に残されている夏の句は、掲出句を含めて僅かに4句。

掲出句ではこれまでの医師業の多忙さにひき比べ、身体の回復を待つだけでしかない今の自分には、一日がむなしく過ぎるばかりとの焦燥と諦めとが交錯します。この句の時期から、無為に過ぎてゆく時間、そして自分に残された時間を意識することが始まります。

秋に入っての冒頭に、

山々がまさをに囲む出水川

があり、従来の遷子らしい叙景句として詠めることに安堵しますが、それも束の間、すぐ次に「痩せし身の吹かれ撓めり秋風に」と続き、再び

秋風や何為さば時みたされむ

流れ去る時の音かも秋の声

吾を追ふは秋の風にはあらざりき

3句を見出します。遷子の意識に上る「時間」の質の違いに注目しますが、殊に3句目は、「時間」の語は入っていませんけれど「吾を追ふ」時間そのものを詠んでいる句と思われます。

中西夏の句が4句しかないというのは、手術後、精神的に参ってしまったのかもしれませんね。原さんが時間に注目されていること、また詠われている時間の質の多様なことに気付かれたのに感心しました。

体力も気力もなくなっているでしょうから、何も出来ない状態でしょうに、

秋風や何為さば時みたされむ

という句などは読んでいて胸が詰まります。やはり一番時間を費やしたのは作句と読書だったのではないかと思いますが。同49年の、

伝中の茂吉老いゆく霜の夜を

と、翌年の作の

厚く重き初刷をすぐ読み終へぬ

がありますから、評論などの茂吉について書かれたものを読んでいたらしいことが分かりますし、それと、初刷は何でしょうね、重い本を胸の上に立てて読んでいたのでしょうか。闘病中に俳句月評を書いたりしているのですから、俳句に向っている時間が主だったのではなかったかと思います。全く俳句だけに集中している時期と言えるかも知れません。

葦切という季語は「筒鳥に涙あふれて失語症」の筒鳥を思い出します。実際にはいないと見ていいでしょう。しかし、遷子の気持ちを表わすのに是非とも必要な季語だったと考えられます。葦切の声は何も出来ないむなしい気持ちを訴える媒体のような役割をしているからです。

深谷:原さん御指摘の通り、この頃の遷子は手術後の肝臓障害により体調もすぐれず、ひたすら静養に努めていた日々でした。前向きに何かに取り組むには気力、体力とも追いつかず、ただ無為に過ぎていく時間を見送るしかできなかったのでしょう。掲出句では中七下五のリフレインが作者の寄る辺ない心境を効果的に表しており、読む者も切なくなります。

折りしも季節は初夏。家の外に目を転ずれば、自然の事物がその生命力を謳歌し始める時期です。例えば掲出句の直前には、

田を植うる山河の命疑はず

の句が見えます。そうした季節の明るさの象徴が上五の葦切であり、その賑やかな鳴き声が作者の心裡の陰影を一層濃いものにしています。

思えばこの年の「万愚節おろそかならず入院す」から遷子の闘病が始まり、闘病を通じた晩年の遷子俳句のきらめきが増していったのでした。胃切除術を受け、縫合不全のために絶食が長引き、ようやく「点滴注射明日より減るよ桃の花」と子供のように喜び「わが肌に触れざりし春過ぎゆくも」までが入院中の句でしょうか。原さんのご指摘の通り入院中の春の句の多さに引き比べると句集の中では夏はあっという間に過ぎてすぐに秋風が吹きます。

この句、要するに葦切の声を聴きながら午前・午後、つまりひねもす「むなし」との感を抱きつつ暮らしていたと言うのでしょう。病気をしてみて、以前皆さんと検証したように、この時点ではまだ癌によって死ぬとまでは思わなかったかもしれませんが、胃切後の痩せ衰えた身体を自覚するにつけ「許されし余生いくばく木々青む」との心境だったでしょう。私の父もそうでしたが胃切後の痩せ方はその人の風貌を一変させるものです。この時期遷子は体力も気力も衰えて気弱になっていたのでしょうか。

原さんの鋭いご指摘の通り「この句の時期から、無為に過ぎてゆく時間、そして自分に残された時間を意識」することが始まるのは確かでしょうが、例えば2句前には「行く春や荏苒として回復期」の句もあり、これとて時間を主題にしている訳です。しかし掲出句ははっきりと「むなし」と言い切ってネガティブな方向を向いているのに対し「回復期」の句の方はこの単語があるためかポジティブな印象があります。この年の夏の句の少なさは、掲出句のような思いがこの時期の遷子の心を占めており、この一句あればあとは詠む必要もなしというくらい落ち込んでいたのかもしれません。

筑紫遷子の句がある思いを述べようとするときに見える散文化の特徴を何回かあげましたが、この句は詩の本質である反復を置くことにより、詩情を浮き上がらせるようです。「むなしい」のなら「むなしい」を重ねれば、作者の思いはよりよく伝わる、理屈にも詩論にもならない説明のようですが、人間の心は案外こうしたことに動かされるものだろうと思います。

「葦切や」がいいと思うのは、水辺の風景を思い浮かべさせるだけでなく、葦切の性格上、葦切以外何もいないと断定させるからでしょう。そうした空間で、それも明るい日差しの中で、心ゆくまでむなしさを感じるのです。そこには、単なるむなしさと違って、充実に近いものもあるかもしれません。作者はむなしさを痛感していますが、しかしそのむなしさを嫌っているのか、むなしさ以外の何かを求めているのかというと、この句でうかがう限り、充足した時間を感じているように思われてなりません。

あわただしく錯乱するような最後に比べれば、これは何と幸福な時間ではないでしょうか。季節は逆転しますが、冬麗の微塵となりて去らんとすの心の落ち着きに似ているように思うのです。

人間に残される最後のものは、行動でも意志でも信仰でもなく、認識だと思います。人生とはこんなものだと思うことにより、次の瞬間の苦痛が癒されるのではないでしょうか。「見るべき程の事をば見つ」が最後の言葉になる価値があるのはそんな理由からだと思います。絶望と諦観、そうしたものが交互に襲ってくるのが遷子の晩年だと思います。

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