2010年5月29日土曜日

遷子を読む〔61〕

遷子を読む〔61〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井

ただひとつ待つことありて暑に堪ふる
     『雪嶺』所収

筑紫:「遷子を読む」の私の基調コメントもこれで12回目です。お約束の各自10句程度を鑑賞してみるという作業も皆さんほぼ達成されることになりました(後から参加された仲さんは次回で9回目となるわけです)。考えてみると、近代俳句が生まれた時代に、碧梧桐や虚子が俳三昧や俳諧散心という不断の修行を行ったわけですが、今回、平成の俳人達がブログを使って評論で行ったところに新しい意味があると思っています。そろそろこの荒行を意味のあるものに収束させたいと思います。ちなみに「遷子を読む」を連載している「―俳句空間―豈weekly」も7月18日で終刊する予定です。切りもよいところではないかと思います。

今回取り上げた句は、昭和41年の作品です。

病者とわれ悩みを異にして暑し〔16〕

の時に触れている句ですが、掲出の句は一層句の詠まれた状況が分かりにくいかも知れません。前書きもなく、ヒントになるのは相馬遷子という作者が詠んでいると言うだけの事実です。もちろん、医業に関連しての待つことであるという保証はなく、直後に〈日焼して痩身老いをしるくせり〉(何と登四郎に似た句の詠みぶりなのでしょう)があることからすれば、初老の男の意志と、そして少しの焦燥感のようなものが感じられるだけかも知れません。

作者の住んでいる空間が、ある静かさに満ちている点では、中西さんが前回取り上げた〈患者来ず四周稲刈る音聞こゆ〉に似たものを感じなくもありません。ただ前の句にくらべてこの句が一層の緊張感があるように思うのは、待つことが必ずしも待望のことだけではなく不測のこと(例えば患者の急変)も含めて待つことも含められていること、だからこそ「暑に堪ふる」という苦行のようなわざを作者は堪えているのではないかと思われるからです。もちろん、意味が解釈しきれない、とか、どんな意味であれ「ただひとつ」は甘すぎる表現ではないか、とか批判はあると思いますが、実はそうした不満な点も含めて、これこそもはや我々には二度と味わうことのできない、昭和30~40年代の風景なのでしょう。

中西:今まで見てきて、遷子の句を作る動機は軽くないと思っています。現実を実寸大で描こうとしています。美しいものは若い頃は風景句や、希望を描いた句などあったのですが、中年になりますと、風景句と回想の句が辛うじて美しく、どちらかと言いますと、辛いことは辛く、憎むものは憎んで、ものの見方も、言葉も飾らないで直情的に描かれているように思います。

この句は具象ではないようです。では何か。「念」ではないかと思っていますが如何でしょうか。「思い」と言いなおすと漠然としてしまいますが、「暑に堪えている」のは、自分に何か課しているからではないでしょうか。

人間の内面を描こうとする句は、俳句に人生を託し、自分の人生を俳句に描こうとしている人が必ず通る道なのだと思います。

私の句もそうなので否定的には言えませんが、現俳壇の流行の軽い淡い小さな思いとの違いをかなりはっきり見るようです。この時代は社会性、風土性など重い内容の句が主流だったことも言えるかもしれません。飯田龍太も遷子を「馬酔木にあって、一番重い風景詠を作る人」と言っていますから、重く作る体質とも言えるかも知れません。

重いというのは、深刻に考えていることです。つまり句に「念」が入っていると言えるのではないでしょうか。

また、この句の表現に甘さは感じられません。「ただひとつ」は遷子個人の問題として重く存在しています。自由に読める句の存在は読み手にとっては、面白いというか有難いと思います。しかし、この句も背景が分かってしまうともう自由ではなくなってしまいますね。

原:「作者の住んでいる空間がある静かさに満ちている」という磐井さんの指摘は、一句の背景についてあらためて考えさせて下さいました。人間の感情や志向は、場や時間のあり方に大きく左右されるものだと思います。現代のように、時間が食い荒らされるような細切れの多忙さや喧噪に囲まれていたのでは、思いを深めることなど出来はしないのでしょう。

掲出句は、「待つこと」の中身にあえて踏み込まず、「暑に堪ふる」存在のみを示すことで、作者の生きる姿勢そのものが詠まれたように感じられます。

深谷:確かに「ただひとつ待つこと」が何なのか、全くわからない句です。どうとでもとれますから、却って解釈は難しいかもしれません。けれども、作者にとってそれは極めて重大な関心事であり、そのことが頭から離れない筈です。このように、掲出句では「意味」を超えた切迫感が、読む者にヴィヴィッドに伝わってきますし、作品としてはそれで充分なのではないでしょうか。もちろん、そうした効果をもたらしているのは、「暑に堪ふる」という措辞の的確さでしょう。こうしたことが可能な文芸は、俳句形式以外にはないように思えます。その意味において、掲出句は極めて“俳句らしい俳句”と言えるのではないでしょうか。

仲:遷子はこの時何を待っていたのでしょう? もちろん開業医が患者の来るのを待っているなどとありふれたことではなかった筈。それなら「ただひとつ」が生きて来ないからです。『ゴドーを待ちながら』のように何者ともつかぬ誰かを待っているとの解釈も不条理で面白そうですが「ただひとり」ではないので人を待っているという線はなし。やはり何事か、起こりそうな、いや起こると分っていることをひたすら待っているのでしょう。磐井さんが触れられた「患者の死(急変なら予測不可能なので想定内の死)」という解釈は遷子の真面目さからすればありそうです。当時でなくとも在宅で看取る時は心電図モニターなどありませんから、じっと脈をとり呼吸の様子に神経を集中したでしょう。「ご臨終です」と言った後に最後の大きな呼吸が来て大恥をかいたなどというエピソードも珍しくありません。しかしそのような場合「ただひとつ待つことありて」という表現になるでしょうか。

東京と比べれば過ごしやすいとは言え佐久の夏も日中は結構暑い。だからこの「暑に堪ふる」は本当にやりきれない気分なのだろうと推察します。そこまでしてじっと待っていることとは本当に何でしょう、大きな謎です。今「じっと」と言いましたが「暑に堪ふる」という措辞からは動き回ったり何かをしながらということではなく矢張りじっと待っているとしか考えられません。磐井さんのおっしゃるような「初老の男の意志と、そして少しの焦燥感のようなもの」は確かにありそうです。ただ私としてはここに時代性を感じることはできませんでした。遷子にしては珍しく不親切な表現なので却って謎を謎のままにしておこうとの意志を感じました。根源的な「待つ」という行為そのものを見据えた作品のように思ったのですがどうでしょう。

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