2010年5月30日日曜日

閑中俳句日記(35)

閑中俳句日記(35)
村上鬼愁『句集 竹箆』

                       ・・・関 悦史


村上鬼城と一字しか違わないので見間違われかねないのだが、村上鬼愁は「琴座」の同人だった俳人である。印刷会社「創文社」の社長で「琴座」や耕衣の句集の印刷も請け負っていたらしい。

『竹箆(しっぺい)』はその第2句集で昭和56年刊。師・永田耕衣の栞がつく。

その前の第1句集『拂(ほつ)』の後記によると、本人は《俳人としての自負心の欠如と生来不精者の習癖の故か》句集を作る気は全然なかったという。ところが休み癖がつくのを恐れて「琴座」には20年間無欠詠を通し、その1,200句から南柯書房の渡邊一考と自社の社員が話を進め、耕衣から「拂」(禅語で「はらい去る」「蹤跡を拭い尽す」の意)という句集名を示されるに及んで、とうとう自分では《一指も触れず》に善意の結晶として第1句集が出来上がってしまったのだという。

同じ『拂』の後記にその人生もごく簡単に語られているが、《学徒出陣、特攻隊、吐血と声を失った十年の闘病生活(中略)「元町通りをせめて百米でいい、下駄を履いて歩きたい。」という念願が七本の肋と引換えにかなえられたときは、土を踏みしめた喜びに地を叩いて慟哭し、同時に地引網の一つの目として周辺の人達の集中的な誠に支えられ、生かされて生きている摩訶不思議な身の存在を呼び覚され、さらにすべて天地の呼吸の中に抱きとられ、貫かれ、業(はた)らかれている身の無辺に驚愕させられたのである》という人で、句業においては《耕衣に初まり耕衣に終って行くであろう一凡俗》と己を規定している。

以上から察しがつくとおり耕衣の薫陶が染みとおり、その禅的諧謔に深い影響を受けているのは間違いのない作風だが、一方その来歴からか「墓」や「死」のモチーフが2句集を通じて大変多く、達観という別次元からの把握には達していないなまの心情の投影も窺われて、その暗さと自己というスケールへの固執からは、ときに林田紀音夫をすら連想させられる。しかしそのどちらの要素が強く出た句にしても、演技、韜晦、虚勢といったものは感じられず、耕衣という独特の強大な磁場に身をゆだねつつ、ごく素直に自分の心的現実を句にしていった作家という印象を受ける。こういう衒気のない作家と耕衣との出会い、耕衣の観念性の浸潤という現象によって却って鬼愁の固有性が素直に洗い出されてくる機微がひとつの得難い奇観を成しているとも言える。

老僧の育つは寂し春の潮

落ち際も明日ある顔や寒椿

中吉の初御籤にて老父死す

蘂開きたる石楠花の終りかな

こうした句の吉と凶、希望と寂しさとの混合には、己の中のある弱さから、「蘂開きたる」や「老僧の育つ」と空疎ではないほのかな明るみへの通路を開きつつ、結局は「明日ある顔」をしつつ「落ち」ていく「寂し」さ、「終り」へと主体が落ち着いていくさまが見て取れる。

そうした相克を孕みつつもユーモラスな方向へもう少し傾斜した句もある。

老残の腹を見せ合う鯰かな

提灯の似合う家にて黴臭し

全盲の男女に春の夜の長さ

三老女亀ののろさを喜びぬ

鯉釣つて寡黙となりし老婆かな

寝待ち月一家団子になつて観る

ユーモラスとはいってもカラッと明るいといったものではない。「老残の腹」、「黴臭」さ、「全盲の男女」、「三老女」に「亀ののろさ」と、天上へ突き抜けるような晴れやかさではなく、大津絵のような泥臭さ、古い日本家屋の湿った匂いの中でのもので、耕衣の諧謔に比べると観念性へ突き抜けていく抽象度が低い。鬼愁が耕衣の濁りを身に浴びたときにそこから反射されるものが、こうした生活風土そのものの暗さと親密さの魅惑へと変形されるわけで、こうしたところの面白みに感応すると、つげ義春の漫画の背景のような、なかなかに捨てがたい懐かしさを持ってくる。

紫の花にひそめる黄色かな

白桃の同じ味なる山河かな

夏入日入(にゅう)のごとくに鳥よぎる

  註 入(貫入の略称)は陶磁器のヒビのこと

焼芋を剥けば人類現わるる

高山に登り見下ろす乞食かな

この辺りは、ざっくりと単純明快な言い方が却って深く澄んだ謎を感じさせる佳句。

《夏入日入のごとくに鳥よぎる》などは比喩が比喩に留まらず、鳥が瞬時に夏の夕空を陶磁器の質感に変貌させるダイナミックさがある。

《焼芋を剥けば人類現わるる》も鬼愁における抽象的極大(「人類」)の扱いが、焼芋の質朴で温かみと土臭さのある一様な実体へと集約されているところが特徴的。

寒鴉つまづきしとき羽を上ぐ

墓の蚊と家の蚊と違いありけり

竹林に重なり合いぬ亀の愛

死螢を蠅の屍と見間違う

白桃に住まえる虫の親子連れ

生きものの些細な違和を拾った句もトリビアリズムに陥ることもなく、寓意の提示に終始するわけでもない。《墓の蚊と家の蚊と違いありけり》など現物を観察しての発見感とナンセンスさ、蚊を湧かせる墓の湿った土地の感じが一体となっている。

遊べども遊べども円の中

閉じ込められている感覚と、そこが同時に自在さ、自由さの基盤であるという安心の感覚。鬼愁の耕衣との関係は相克でもなければ被支配でもなく、釈迦の掌ならぬ耕衣の円の中での遊びがそのまま鬼愁の自己形成であり、句業となったという幸福なものであったようだ。ただし食い入りあいつつ別個のものであるというそのありようには、ほんの一抹何か不気味なものも漂っているのかもしれないのだが。

以下、収録句を少し多めに引く。

紅梅の男嫌いの亡母かな

亀の甲羅も鉄路の熱さにて

急流に留まる鮒あり秋の暮

黒足袋のこうの高さの蹴ろくろや

古金魚鯉の仕草を覚えけり

葬列の百合とは知らず蠅こもる

海老天のあたま残しぬ夏夕焼

寝足らねば襖八方張り替えぬ

線香にはマッチがよろしい

蟇死して変らぬ蟇の面構え

羞じらえる雌の蝶追う蝶々かな

雨を得て牡丹神輿のごとく揺れ

勾玉のつらなる如し鬼籍入り

死ぬるまで女に飽きぬ老婆かな

脱糞のあとの鴉の月見かな

凍蝶の風上(かみ)通る草履かな

古池の古き氷や亀の中

恋猫の追われてすくむ火葬場

花杏かの牛糞に負けて居る

渇水の夜も米俵の米こぼれ

夏海に沈まぬ椀の卒寿かな

放ち鮒再(また)釣られくる秋の暮

春嵐心臓薬缶のごとくなり

老梅に栖みつく亀にけつまづく

満開の花弁に皺を素早く見る

豊作やみな抜けている埴輪の眼

秋の蝶社殿の脚の裏で死す

秋水となつて通ろう社殿の裏

紅白の絵具混じりぬ寒の水

大寒の隙なき壺に二人住む

白鷺の優雅に歩き鯉盗む

祠の中白蝶汚れふためくも

うかつに蝉がごごつと鳴いた

螢追う寡婦のうしろの螢火よ

雑巾の忘れ置かれき秋の床

脚上げて鴉がつくる景色かな

紫蘇の葉の穴から紫蘇の葉が見ゆる

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