・・・藤田哲史
正木ゆう子が俳句に与えた影響、それは『新撰21』における「俳句甲子園組」の作品によく現われている。そう思うことがよくある。
そもそも、正木ゆう子の俳句に対するある種の気儘さは、かつて師事した能村登四郎についての追悼の文章を読んでいても肯える。正木は「じつに自由に気ままに俳句の道を歩き始め」、「恋愛中に俳句どころではなくなると欠詠し、気が向かなければ欠詠し、結婚しては欠詠」していたようだし、登四郎に対して「あまり近づくこともなかったし、俳句のこと、まして自分の作句上の相談などしたこともなかった」。彼女はことさら盲目的に師弟愛を謳歌することはしなかったし、「沖」の気風をよく受け継ぎえたひとは、やはり中原道夫などに代表させておきたい。結社をある指標としながらも、彼女はひとりで俳句を作ってきたひとなのだ。
ひるがえって「俳句甲子園組」を考えてみると、彼らの大きな特徴は、俳句のつながりを結社以外の場所に得ることができた、作品発表の場を結社以外に設定できたところにある。しかも、その場所が、新聞の投句欄やインターネット句会でなく、「俳句甲子園」というお互いに面と向かえるような特殊な場であることに留意したい。「俳句甲子園」とは、読み手が即書き手である環境とも異なるし、一人の読み手のために書き手が書き続けるという関係性でもないのだ。そのような環境の類似性が、作品の類似性となって現れてくるのではないか、というのが、私の一つの仮定である。
以上のようなことを考えて、『正木ゆう子集』と『新撰21』をそれぞれ繰ってみると、類似した作品がときおり見えてくる。しかも、その類似点は、いわゆる従来の俳句で考えうるような類想の範疇をいささか脱したところに存在する。
摑み洗ひせしセーターの明日ふくらむ(『水晶体』)
毛皮コートの裏地ナイロン明日来るか 神野紗希
寒いねと彼は煙草に火を点ける(『水晶体』)
トンネル長いね草餅を半分こ 神野紗希
たんぽぽ咲きテッシュペーパーつぎつぎ湧く(『水晶体』)
鳥雲にテッシュ箱からティッシュ湧く 越智友亮
クリスマスイブ取り放題のサラダ取る(『水晶体』)
囀りやサラダのお代わりは自由 越智友亮
特に、現代かな遣いの作家である神野紗希と越智友亮の作品に正木に似通った文体、構成、内容があらわれる。(おそらく他の「俳句甲子園組」にも多かれ少なかれ影響は存在しているのだろうが、注意深くそれを避けていることもあるだろうから、ここでは例に挙げることはしない。)
そして、正木と「俳句甲子園組」の類似性を推したい理由は、先に挙げたような断片的なものだけでなく、俳句における一人称の扱い方(結果的には、季語の扱い方)にもよくあらわれると考えている。
わが肩に乗れよ蛍火見にゆかむ 『悠 HARUKA』
もつときれいなはずの私と春の鴨 『静かな水』
主人公が「わたくし」をことさら明確に主張する文体には、一見ナルシスティックな印象を覚えやすいが、一方では、「わたくし」と「あなた」の違いを改めて提示するという自己と他者を再確認する一手間がある。「わたくし」を省略可能な文脈は、読み手と書き手の関係性が密な場合で発生しやすい。それは一人で俳句作りに没頭するような読み手即書き手の場合は極限的にまさしくそうだろうし、投句というシステムにあるような、読み手が限られている場合もまた同様だ。改めて書くが、正木にとっての読み手は、それほど近くに密接に存在するものではない。(そして、「俳句甲子園組」にとっても、そうではなかったか、というのが私の考えなのだが。)
「わたくし」が非常に色濃く表出するのは、他者としての読み手が遠くに存在するからだ。順序を逆にして全く同じことを言えば、読み手がひじょうに遠い位置にあるために、テキストにおける「わたくし」という自己はきわめて淡い存在として読まれていくことになる。ここでの遠さとは、読み手と書き手の関係がひじょうに限られた文脈でつながっていることを意味するが、そういった読みのなかで淡くなりゆく「わたくし」とはまさしく無名性のことだ。だが、それにとことん抗ってゆくのが、正木ゆう子だった。
だからこそ彼女は読み手のために何度も「わたくし」を提示しなおす必要にせまられる。たとえば、彼女は一つの対応策として、あらかじめ意識が介入する範囲をかぎられた幅で設定しておき、そこから外界を「垣間見る」ことで「わたくし」の設定を解決しようとした。そして、その「垣間見る」行為において、はじめて自己を相対的に表出する。そういった手法で、「わたくし」の提示の必要性を解決している。少し、わかりにくい説明だったが、詳しい例を挙げると、次のようなものがある。
不知火でないかもしれぬ眠たくて『悠 HARUKA』
鹿の声われを呼ぶにはあらざれど
この句では、あらかじめまどろみという設定を置くことで、はじめて彼女はその意識の搾り具合の中に「眠たい」という主体を再確認できている。これこそ、彼女の「垣間見」の手法の典型だろう。二句目も鹿の声以外に外界の要素はない。ここにある主題は、「鹿の声」に仮託させた「わたくし」の「恋」心だ。
これは、スケッチするべき対象に大いにのめり込んでいって、そこに自己の表出という目的を果たす「写生」などという姿勢とは全く異なっている。正木の姿勢とは、対象(季語)を一旦ぞんざいに扱うことで、相対的に自己を担保させる姿勢にほかならない。要するに、彼女は、無名性から抗うように見せていながら、実は「垣間見」る程度に視界の大きさを限ることで私をはじめて担保できるくらいの淡さの私しか持ち合わせない作家でもあるのだ。(同じ句集の作品に、「霧の馬睫毛重たくもどりけり」(『悠 HARUKA』)などのような作品もあるのだが、こういったスケッチに徹した作品だけを見ると、彼女の作品は、他の同世代の作家とくらべて無名性が強いことに気づく。伝統的なうまさで言えば、こちらのほうが上だろうけれども。)
そして、その淡さがゆえに、「垣間見ている」はずがいつのまにか、今「見ている」そのものになりきってしまう場合すらままある。
蓬食べて少し蓬になりにけり『悠 HARUKA』
もはや、ここから先は、正木の独壇場といっていいだろう。ここですでに「垣間見」という視線とはかけ離れてしまってはいるかもしれないが、「蓬」以外に、彼女の知覚をさかなでるモチーフは現れてこない点で、やはりこれも一種の「垣間見」ではある。ただ、「垣間見」していた「わたくし」が垣根をとりのこし、いつのまにか外界のなかへ「拡散」しはじめてしまってもいる。垣根をとりのこすとは、人間の視覚や聴覚といった知覚の限界点をとびこえるということであり、実から虚への飛躍とも言い換えられよう。ここでの「拡散」とは、単なる「わたくし」からの決別にとどまらない。彼女は自己の描出を放下すると同時に、自己の知覚をも放下してしまう。そしてどこまでが自分でどこからか自分でないか制御不能となって、層転移するかのように、一気に描出するモチーフが宇宙スケールまで拡散していってしまう場合すらある。
水の地球すこしはなれて春の月『静かな水』
この句に至って、彼女は人間の知覚のほとんどを切除して、意識だけで俳句を構築しえている。たとえば、この句の視点を地球と月のはるか遠方に定めて、そこから地球と月を俯瞰している図式を考えるとする。このとき、「水の地球」には、季節を超越した生物万象のニュアンスがある。それは、もはや無季というより超季的なニュアンスであって、それに対置させた「春の月」という語に、本来の「春」の季節の意を重たく与えると、不釣合いな格好になってしまう。ここでは「春」という語に歓びの気分を第一義的に与え、「春」にことさら季節らしさを与えない読みが適切だろう。
つまりここでは、ある情趣を与えるツールとしての季語のはたらきが第一位に置かれているのだ。季語が実際のモチーフとして機能するのとパラレルに、暗喩的に「春」というフンイキが作品のバックグラウンドに自動設定される。そういう季語の暗喩としての働きをかなり意識的に使用しているのが、この「水の地球」の作品だ。そして、超季的な捕らえ方と、そのときの気分を「春」で補完するという技法は、引き続き、第四句集『夏至』においても現われてくる。
太陽のうんこのやうに春の島『夏至』
先ほどの句の「水の地球」と「太陽」をつけかえれば、全く同じ構成だということは明白かと思う。
以上のように、正木は「わたくし」に加え、超季的なモチーフのために、季語を運用したわけだが、ここで最も重要なのは、そこに季語を、季節感を信用しすぎていない何かが、正木にはあるということだ。季語以外の主題のために季語を運用する。その残像をあるいは、私は「俳句甲子園組」に見たのだろうか。とすれば、彼らもまた「わたくし」という主題に取り組むのは、よく納得できる。
寂しいと言い私を蔦にせよ 神野紗希
冬の金魚家は安全だと思う 越智友亮
彼らにとっても、主題は「恋」や「家族」、つまり「わたくし」であったりするわけだ。
とはいえ、私が、その主題なるものが、文学性と若さで素数分解できてしまうのかどうか、に思い悩でいるのも、また、確か、なのである。
[正木ゆう子略歴]一九五二年(昭和二七年)熊本生まれ。一九七三年(昭和四八年)、兄浩一のすすめで俳句を作りはじめる。「沖」に投句開始。一九八六年(昭和六一年)、第一句集『水晶体』刊行。一九九四年(平成六年)第二句集『悠 HARUKA』刊行。一九九九年(平成一一年)、俳論集『起きて、立って、服を着ること』を刊行。翌年、同書により第一四回俳人協会評論賞を受賞。二〇〇二年(平成一五年)、能村登四郎の後を継いで読売俳壇選者に就任。能村登四郎死去。第三句集『静かな水』刊行。翌年同書により第五十三回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
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