テンプレートのゆくえ
・・・藤田哲史
1
行方克巳。昭和一九年(一九四四年)生まれ。昭和三五年(一九六〇年)、母光子の影響で短歌を作りはじめる。この頃短歌・俳句を投稿。昭和三八年(一九六三年)、慶応大学に入学。慶大俳句会に入会。清崎敏郎等の先輩と句座を共にする。清崎敏郎指導の「夜長会」に参加。昭和四三年(一九六八年)、「若葉」に投句をはじめる(このころ風生選)。昭和五四年(一九七九年)、「若葉」四月号より敏郎選。平成八年(一九九六年)、西村和子と共に「知音」創刊、代表。
以上の略暦から見てもわかるように、行方克巳の俳句の歩みは、いわば「慶応大学直系」といっていい。富安風生、清崎敏郎の系譜にあって、その作品は、平明でのびやか。この系譜に列する人たちの作品は、すこやかさという点で、「ホトトギス」直系にもまさる。
町の雨鶯餅がもう出たか 富安風生
かなかなのかなかなと鳴く夕かな 清崎敏郎
記述することの無為をおらぶよりも、これらの作品はただ記述するよろこびを示している。とくに一句目は、「約束の寒の土筆を煮て下さい」(茅舎))などとくらべても、くらべるまでもなくだが、全く健全な、一小市民の、視線なのだ。それにくらべて茅舎の切実さは、俳句に安らぎを求める読み手にしてみると、すこぶる苦しい。
そしてまた同様に、行方克巳の健やかさを、集中から引用してみる。
パンジーの小さき花束わたす役 (『無言劇』抄)
スイートピー束ねてありし輪ゴムかな
毛皮あひ似たりロビーの立話
虫の夜のペーパーナイフいとしめる
アスファルト切れて溶岩道赤蜻蛉
あえてカタカナ表記の素材を用いた作品を集めてみた。たとえば、橋本榮治の作品とくらべると、行方の現代的なモチーフの扱い方は、そっけないようで、そのあくをうまく克服している。
そのそっけなさは、大雑把なつくりように見受けられがちだが、その細やかな言葉遣いは、アマチュアのそれではない。同じ内容を異なる言葉のつなげ方で再構築するのは、むずかしいことではないが、適切に言葉に定着させることを怠ったときの不快感を行方は知っている。例として挙げるとすれば、四句目。「虫の夜の」を「虫の夜や」と切れ字を用いることも出来る。「いとしめる」を「いとしめり」にも出来る。けれども解は無数に存在しえない。五七五の制約には推敲をかさねていくと、幾つかの解に絞り込まざるを得ない何かがある。
コスモスに冷たき雨の日なりけり (『知音』抄)
とんぼうの世界に長居したりけり (『昆虫記』抄)
ポケットのどんぐり不意に尖りたる
つまみたる切山椒のへの字かな
たかんなの八方睨み効かせをり
第一句集から第三句集までのどれをとっても破綻のない、収め方をしている。基本に、また技法に忠実であることが、その健やかさを失っている点が興味深い。風生・敏郎の代表作は、いわば、ヘタウマ系ともいえる。あるいは、言葉による虚飾のすくなさが、結果的に、私に型(テンプレート)を意識させているのかもしれない。
2
ここで、型について少し。型(テンプレート)と呼ばれる概念の本質は経験則であって、普遍的な公式というものでもない。だから、新しい作品に対してそのテンプレートを適用しなくてもよいと言われても論破することはできない。
それでも、その反論に対しての反論をしていこうとすると、一つには俳句の有限性が挙げられる。つまり、十七音の俳句の限界点から逆算すると、どう多く見積もっても、未来永劫作品が無限に作られることはない、ということ。それは岸本尚毅によって既に『俳句の力学』に同じようなことが書かれている。
有限性、という点で似たものを探すとすると、たとえば将棋。九×九の形式が初期条件として定められているところからスタートすると、ルールに変更がないかぎりいつか強さに限界点が見えてくる。そこにもやはり「定跡」があって、オリジナリティを加える余地は少ない。形式の自由度が少ないほど、そのジャンルが洗練されるまでにかかる時間もまた短いのだ。
ゼロ年代の俳句の無風状態を、既に俳句形式が完成している可能性に読み替える論者は少ない。悲劇的に。
実のあるカツサンドなり冬の雲 小川軽舟
「ゼロ年代の俳句」の本質をついた作品は、このような、型に極めて忠実な作品にある。彼は、俳句形式がフロンティアを失っていることに極めて自覚的だ。そして小川に対しても、外山一機が「消費時代の詩―あるいは佐藤文香論―」で言及した「俳句形式へのフェティシズム」、を当てはめることはたやすい。
ただそれらが積極的な表現であるかぎり、それらは消費でなく引用と呼びうるものだ。それでも、引用先が他ジャンルに向かわずに、俳句形式からの引用のみで新しい作品が成立しうる状態に不安をおぼえる外山にわたしもすくなからず賛同はする。
その状況に、更に積極的に向かう作家に鴇田智哉がいる。それにまったく反した作家に榮猿丸がいる。「ポスト昭和三十年世代」と呼ばれる俳人達がいるとすれば、その代表格はその二人になるだろう。それでいて、彼らは小川が提示するテンプレートを解体させて、表現のオリジナリティをわずかでも確保している。彼らの振り幅がかつての前衛の域を出なかったとしても、消費時代の俳句形式はたしかに延命している。
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