2010年6月26日土曜日

遷子を読む(65)

遷子を読む(65)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


ちかぢかと命を燃やす寒の星
     『雪嶺』所収

筑紫:昭和35年の作品です。この『雪嶺』の時期は星を詠んだ句が多く見られます。一気に上げてみましょう。

冬来るオリオン山に起き直り 31年
自転車を漕ぐ寒星の宙の中 32年
深夜にて雪上を匍ふさそり星
病む人に銀河を残し山を去る
夜寒さのオリオン諸星白く炎ゆ
中空にオリオン揚げて村凍てし
山の星ともしび凍るミサに侍す
 33年
冬ぬくし月にしたがふオリオン座
ゴッホの星八十八夜の木々の間に
 34年
星満ちて地にはこぼれずクリスマス
雪原に硬き闇あり星を嵌め 
35年
大流星砕けて消えて吾が立つ
寒波来る明星金の翼揺り
凍る闇シリウス光千変し
 36年
ぽつとりと明星ともる梅雨の果て 37年
木枯の野面や星が散りこぼれ 
凍る夜や星に牽かれて星出づる 
38年
荒星のいま大寒に入るひかり 39年
枯野行くまつはる星を眼にて逐ふ 40年
星が降る零下十度を予告して 41年
星白く炎えて雪原なほ暮れず 42年
水田辺の八十八夜星ゆたか 42年
寒星の真只中にいま息す 43年(遷子を読む15)
金銀の星を雲間に梅雨の月 44年

この多さはちょっと驚きです。

いや、第1句集の『山国』からそれは始まっているのです。

星天のおぼろに寒し隠密行 16年
行軍や古沼に夏の星一つ 17年
夜寒むさをめぐる星座とひた歩む
寝て仰ぐ星天雁の声過ぐる
片空に星座ひしめく野分かな 
20年
木枯に星斗爛○たり憎む 23年頃?
○=火偏に干(遷子を読む37)
ひとりゐに銀漢たはむ祭笛 24年頃?
夕星やおとろへそめし雪解風 26年
叢林に夜鷹鳴くより星隠る 26年
邯鄲や樅のほつ枝に星一つ
あをあをと星が炎えたり鬼やらひ 
28年
一寒星燃えて玻璃戸に炬のごとし 29年
星たちの深夜のうたげ道凍り(遷子を読む26)
火星燃ゆ阿鼻叫喚の蛙らに
山国や年逝く星の充満す
天鳴りて寒星青き火を散らす 
30年
露更けし野にぼうぼうと昴星
オリオンを九月の深夜見るかなしさ
長き夜に斎くと山河星を飾り
明星の銀ひとつぞや寒夕焼
 31年
  (波郷の跋文では「ひとつぶや」)
夜空澄み霜害過ぎし星湛ふ

そういえばいままで「遷子を読む」で取り上げた句にも星にちなむものがありました。60回の内3回もあるということはふつうの作家にはないことです。

    *    *    *    *

日本人は自然を愛好していると思われている割には、西洋人・中国人と比較して星を素材とした芸術作品が皆無に近いことがちょっとした驚きです。数ある自然の風物の中で(月には多大な関心があるものの)星には無関心でした。野尻抱影の星に関する美しい著述は世界中の星の伝説や物語で飾られていますが、エジプト、メソポタミア、ギリシャ、中国ばかりで日本の伝説はありません。日本に関しては、民間伝承で(それも星を航海の目印とせざるを得ない漁民のものがおおいようです)お茶を濁しています。

星が登場するのは近代となってから。代表は山口誓子(野尻抱影との共著句文集『星恋』があります)で、彼を頂点に草田男などいかにも近代的な視点から星の俳句をぽつぽつと詠み始めました。そうした意味では、遷子は異常であったのです。

遷子の句を見ると冬の星が多いようです。これは天体観測に向いている時期が日本では特に冬であることから当然かも知れません。またその故に、「春の星」のような情緒的なものではなく、リアリティのある星の姿を映しています。

星の作家と言えば、宮澤賢治を思い出します。彼は科学者(本当は技術者と呼ぶべきでしょうが、科学の勉強を晩年までしていました)の目で見た対象を再構築して独特の詩情を生みだした作家です。彼は存命中に評価されることもなく、貧しい生活の中で亡くなりました。賢治の理想や宗教に対する周囲の人々の無理解から、現実から離れた優れた詩や童話が生まれたと言えなくもありません。

賢治に比較すれば開業医として恵まれてはいたでしょうが、遷子も星のある自然に没入していくようです。遷子の周囲の(故郷ではあっても)人間には疎外感があり、自然に没入せざるを得なかったとすれば、最も純粋に没入できたのが(地上から最も遠い)星空であったかも知れません。

それは人間との葛藤に傷ついた賢治にも似たところがあり、「銀河鉄道の夜」「よだかの星」「双子の星」などで登場する魅力的な主人公はみな賢治の投影でありました。そして、よだかも、チュンセ童子とポウセ童子も、そしておそらくカムパネルラも命を燃やす星となって作者を見守っていたのでした。

「ちかぢか」にはそうした星に親近感を持っていた遷子の気持ちが伝わるようです。

    *    *    *    *

最後の句集『山河』を見てみましょう。

晩霜におびえて星の瞬けり 44年
西眩し夜半の星座の喟集して 45年
鳴く虫のひとつひとつに星応ふ 47年
凍る闇星座牝牛の目が赤し
明星いまだ金色保つ初明り 
48年
玻璃越しに寒星も身を震はせつ
巨き星めらめら燃ゆる木枯に
オリオン座天頂に年逝かんとす
直立の三つ星寒夜始まれり 
49年
寒星に爛たる眼全天に

これ以後の星の句は見当たりません。49年春から入院生活に入りますから、規則正しい入院生活により夜空を観察する機会がなくなったのかもしれません。あるいは、星を詠む緊張した精神を入院・闘病で維持するのは難しかったのかもしれません。

いずれにしても、軍隊で孤独な星天を仰いで始まった遷子の星の句は50余句を持って終わるのです。ここにも、遷子の、ある精神をうかがってよいでしょう。

中西:遷子の星の句の多いのには、佐久が星の降るように見える地域であることがまず言えるでしょう。また遷子が星の美しさを敏感にキャッチし得る美的センスがあったこと、思索好きだったこと、そしてロマンティストの一面があったことがあげられそうですね。星を美しいと陶然と眺めることが多かったのではないでしょうか。磐井さんの遷子全句集中の星の句一覧を見ますと遷子は星の俳人でもあるのですね。

日本はヨーロッパ、アメリカ、アラブに比べますとかなり湿潤だと言われています。東南アジアのモンスーン地域の湿潤に続く日本は、長雨の春と梅雨のある夏、台風のある秋は星が見えにくい、それに比べて日本より乾燥しているヨーロッパや、砂漠のあるアラブなどは、今も大気汚染さえなければ、星が美しいところなのではないでしょうか。星の伝説のあるところは広い空が見える平原(平野)ではないですか。あるいは大航海時代の海洋ですね。島国で山国の小さな日本では、星座という大宇宙が見られるほど広大な地面も空もありません。大陸の壮大な荒々しい景観に比べて、箱庭のような小さな穏やかな景色からは、星座の物語は生まれなかったのかもしれませんね。

宮沢賢治は夜中森を歩いて考え事をしていたらしいですし、遷子は夜の往診に行っていたようです。ふたりの文学的な星との出合いは、暗い夜道を独りで出歩いて得たもののようです。人間が住みにくいところは自然が美しいものです。冬が厳しいところの星はとりわけ美しかったことでしょう。

磐井さんが言われるとおり、星に親近感を感じる句です。「命を燃やす」に遷子の意気込みも投影されているように感じます。

原:「星」の句が多いとは思っていましたが、これほどの数に驚いています。

遷子の「星」の句が、「情緒的なものではなく、リアリティのある星の姿を映してい」るという磐井さんの指摘は大事だと思いました。そういえば、遷子には全くの想像や虚構で成った句はほとんどないようです。一見して観念的であったりすることはあっても、その根本のところでは自分の現実や生のありかたに必ず結びついている作家であって、読み手はその誠実に打たれますし、自然に対する場合も、そういう姿勢、つまり実際の対象を見据えて詠んでいるという信頼感があります。句集『雪嶺』では、社会の矛盾や、その渦中に在る個の生活が多く詠まれている中で、「雪嶺」の語は遷子にとっての精神的象徴のように現れますが、句集中に鏤められた「星」は彼のひとりごころに親しく表れるもののように感じています。

深谷:筑紫さんに、遷子が詠んだ星の句をまとめて掲載していただいたおかげで、その数の多さを実感することができ、あらためて驚きました。確かにこの多さは他の作家にはない特徴で、星は遷子にとって特別な句材だったと思います。そして、「その背景には周囲の人間に対する疎外感があり、最も純粋に没入できたのが星空だった」とする筑紫さんの御指摘に賛同します。その指摘を読んで、以前話題になった“遷子の人間嫌い”を思い出しました。

また「ちかぢか」という措辞が逆にそうした星への親近感を表すものであるという点もその通りでしょう。それに加えて、「命を燃やす」という中七にも注目しました。この表現も、以前採り上げた擬人法です。遷子は対象に没入した時しばしばこの手法を採ったように思えます。夜空の星を見た時、まるで星自身が生命を持ち光を発しているように感じたからこそ成った作品でしょう。遷子が同士愛に類した感情を星たちに抱いていたことを窺わせます。

結局、掲出句は一見メルヘンチックに見えますが、人間に対する遷子の複雑な思い(敢えて「絶望」とは言いません)の反作用として生れた作品であり、遷子の心のありようが反映した作品だったと思います。

仲:磐井さんのご指摘には虚をつかれた感があり、続いてなるほどと深く納得しました。それにしても遷子の星の句をこれだけ並べられると壮観です。日本の文芸では星はあまり扱われてこなかったとのご指摘にも感じ入りました。美術では高松塚やキトラ古墳の壁画、中世の仏像にも妙見菩薩など星を題材にしたものは散見されますがどれもルーツは大陸にあるようです。

さて、俳句をどういうシチュエーションで作るかは作家個人個人によって異なると思います。例えば私は吟行や句会の題詠を除けば大体風呂の中か寝床が多いような気がします。いずれにせよ仕事を終えて夜家に帰ってからです。働いている人は大概そうなのかもしれません。中には仕事中とかトイレの中とかいう人もあるでしょうが。遷子はどうだったのでしょう? 開業医としての仕事が忙しくなってからはやはり夜だったのではないでしょうか。

佐久の夜空は、今では大分明るくなってしまいましたが、それでも都会から比べれば美しいものです。遷子の住んでいた野沢から少し南に行くと臼田という町があり、JAXA臼田宇宙空間観測所のパラボラアンテナやうすだスタードームがあって「星の町」を名乗っているくらいです。

磐井さんの挙げられた星の句54句のうち実に35句が冬の句。残り19句のうち5句は佐久に戻る前の作ですし春の句でも鬼やらいや雪解、秋の句でも夜寒など寒い時期のものがあるのでほとんどが寒い時期の星を扱った句といってよいかもしれません。ここからは想像に過ぎませんが開業してからの遷子の日常の句作は深夜が多かったでしょう。彼の作り方は私のように浴槽に漬かりながら行ったこともない隠岐を想像して作るというようなスタイルではなく、見たもの、出会った人、今日あったことなどを思い起こしながらの行為ではなかったか。そうなると自然に窓の外を眺めたり、時には外へ出たりして夜空の星を見つめ、それに触発されて句をなすということもしばしばであったと思われます。彼の俳句に星が多く登場するのは彼の内面の事情(星が好き、凍て星の凄絶さが彼の感性にはまっていたなど)と環境の事情(仕事柄の句作の時刻、住んでいる町の星空が美しいなど)とが相俟った結果ではなかったかと思うのですが、どうでしょう。

[追加]
筑紫:『雪国』に収録されておらず、『草枕』に掲載されている句があります。

一つ星見えてすなはちおぼろなり
雲の峰昏れて明星をともしたり
月高く稀なる星のうつくしき

いずれも<草枕>の章で昭和11年~15年の作品です。遷子に若くから星への関心があったことはわかりますが、緊張した星の句は大陸へ行ってからの孤立した心境の中で生まれ始めたようです。

余談になりますが、戦争俳句や行軍俳句は現在でこそネガティブにしか受け取られないようですが、その作家がその場にいたことは紛れもない事実であり、人によっては大きな影響を戦争俳句から受けることだとてあるはずです。遷子が見た死は、戦場での死と佐久の貧しい医療現場での死であったとすれば、両者ともに不条理な中での死をみとっていたことになるでしょう。そしたとき仰いだものが、(多く)冴えわたる冬の星座であったと見れば、遷子の思いも分かるような気がするのです。星は自然の象徴ばかりではなくて、その瞬きは死の瞬間を、あるいは死への抗いを意味するのかもしれません。

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