2010年7月5日月曜日

俳句九十九折(90) 七曜俳句クロニクル XLⅢ・・・冨田拓也

俳句九十九折(90)
七曜俳句クロニクル XLⅢ

                       ・・・冨田拓也



6月27日 日曜日


髙柳克弘、高山れおなの両氏に続き、本日、「週刊俳句」において上田信治氏による「ゼロ年代」の100句選が公開された。

この3者によるゼロ年代の100句選を読み比べながら、ゼロ年代の俳句に限ってみた場合だけでも選というものは、思った以上に色々な切り口があるものだな、となかなか意外な思いのするところがあった。

上田信治氏の選については、今後10年の展望を見据えての分類というその発想自体にまず驚かされるところがあったが、単純に100句を読んでいてこんな句があったのかという発見も少なくなく、またこのようにみるとゼロ年代における俳句の成果は、まだまだ他にも存在するのかもしれないなと思わせられるところがあった。また、個人的な感想を簡単に述べさせていただくと、今回の100句選からは、いうなれば、ど真ん中をゆるやかに迂回してゆく裏道の楽しさ、もしくはいい意味での「B面」の良さとでもいったものがじんわりと感じられるところがあった(単純に「裏道」、「B面」と言ってしまうのは問題であるが)。

ということで、これらの3氏の選を併せて読めば、ゼロ年代における俳句の成果というものが随分と立体的に見えてくるところがあるのではないかという気がする。

ともあれ、今回のようにこの「ゼロ年代」の10年における俳句作品の優れた成果がピックアップされ俯瞰できるかたちで呈示されたのは、俳句という文芸にとってなんとも喜ばしい出来事であるといえよう。



6月29日 火曜日

なんとなく「道」という言葉が思い浮かんできた。

此の道や行く人なしに秋の暮     松尾芭蕉

寂しくて道のつながる年のくれ    永田耕衣

行かぬ道あまりに多し春の国     三橋敏雄

寝ているや家を出てゆく春の道     鈴木六林男

この径にふつと消えたき野菊かな    矢島渚男

秋のみちひとりにあがる土けむり    吉田汀史

ハイウェイ濡れて雷映す青年の静脈    大沼正明

島の道すべてつながる春の雨     五島高資



7月1日 木曜日

このところ、とある場所において、1句評というものを書き続けているのであるが、先日三橋敏雄の句を取り上げて鑑賞したところ、割合強い反応が寄せられるところがあった。自分としては、書いた内容が一体どこまで正しい読みとして成立しているのか少々心許ないながらも、他の方々の意見というものもいくらか窺ってみたいという思いもあり、今回加筆訂正を加え、その文章をここに再掲させていただくことにしたい。

天地や揚羽に乗つていま荒男      三橋敏雄

「揚羽」とは、単純に読むならば「揚羽蝶」であり、夏の季語ということになる。

「荒男」は、やはり「ますらお」と読むのであろう。 「ますらお」とは、「益荒男」「大夫」「丈夫」とも表記し、その意味としては、1に立派な男、勇気のある強い男であり、2に武人や兵士、3に狩人や猟師をあらわすもの、ということになる。

だが、この句における「揚羽」に「荒男」が「乗」るとは、一体どういうことであるのか、長い間自分にはその意味を理解することができなかった。理解できないというよりも、むしろ「腑に落ちなかった」といったほうが正確であろうか。

そのまま字義通りにその内容を受け取って幻想的な風趣の作品として読むこともできなくはないのであろうが、作者が三橋敏雄の作品であるということを念頭において読んだ場合、若干違和感があるような気がするというか、表現に少々無理があるように思われてしまうところがあるのである。三橋敏雄の作品というものは、基本的に現実に即したものが多数を占めるということになる。

ということで、今回この句の意味するところについて少しばかり考えてみたのであるが、この句において、もっとも重要なキーワードであるのはおそらく「揚羽」ということになるのではないであろうか。

三橋敏雄といえば、周知の通りやはり「戦争」の存在がその生涯にわたり非常に大きな主題としてその作風に影を落としていた作者ということになる。

それゆえ、この句における「天地」と「乗って」という言葉、そして、先程にも見たように兵士を意味する「荒男」という言葉の関係性から推測すると、この句における「揚羽」とは、おそらく「戦闘機」を意味する言葉であると考えることが可能なのではないだろうか。季語としても「揚羽」は、「夏」の季節のものであり、また春の蝶と比べて力強い大きな翼を持つものということになる。

戦闘機については、自分はほとんど無知に等しいのであるが、すこし調べてみると、「揚羽」と呼ばれる戦闘機は見つからなかったのだが、第2次世界大戦時における日本海軍の戦闘機の名称には「月光」、「強風」、「烈風」、「陣風」、「極光」、「白光」、「橘花」などの他に、「雷電」、「紫電」、「紫電改」、「閃電」、「天雷」、「震電」、「電光」などが、また「局地戦闘機」としては「迅電」、「飛電」、「栄電」、「彩電」といった名称のものが存在していたようである。

こうみると全体的に「雷」や「電」の文字が多いということがわかる。理由としては、やはり単純に戦闘機であるがゆえこのような漢字が使用されている、ということになるのであろう。

そして、「揚羽」という言葉そのものの意味である「揚羽蝶」には、別称として「カミナリ蝶」という呼称があるそうなのである。

「雷」、「電」という言葉と「カミナリ蝶」。こうみれば、この句における「揚羽」とは、やはりそのまま「戦闘機」の存在をあらわすメタファーであると考えてもおかしくないところがあろう。

というわけで、この句からは、まさに戦闘機に乗って敵陣へと乗り込んでゆく男性の勇壮な姿が、そのまま描き出されている、ということになるのではなかろうか。さらに「揚羽」という言葉から連想されるスピード感と、「いま」という言葉の働きによって、まるで戦場の臨場感というものがそのまま直に伝わってくるように感じられるところがある。

また、この句における「荒男」という古典的な言葉からは、嘗ての日本の歴史における馬に乗って疾駆する鎧兜の「武士」の姿というものが、そのまま髣髴として浮かび上がってくるところがあろう。

ここから、三橋敏雄の代表句である、

いつせいに柱の燃ゆる都かな

の存在が想起されるところがあり、この句における、建築物である「柱」の存在と、日本の古来よりの神を数える言葉とが二重となって表現されている内容と同じく、掲出の句もまた、まさしく人間という存在そのものが何時の世にも変わることなく宿命的に背負い込んでいる「戦(戦争)」という普遍的なテーマをそのまま内側に抱懐した一句であるといえるのではないかと思われる。

また、過去の歴史における事実を踏まえ、さらにこの句の考察を試みるならば、「揚羽」とは、嘗ては「平氏一門」の家紋として使用されていたものであり、その家紋は鎧兜や旗にも印されていたものであるとのことである。この事実というものは、まさにこの句における「揚羽に乗つていま荒男」という表現に、そのまま符合するものがあるといえないだろうか。

そして、ここから想起されるのは、やはり平氏の盛衰を描いた『平家物語』の存在そのものであり、さらにそこから連想されるのはその冒頭部における「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」にはじまる一連ということになろうか。このように考えてみると、この句において通低音として鳴り響いているのは、この『平家物語』の冒頭の部分に象徴されるようなまさにこの世界における「無常感」そのものであるように感じられるところがある。

また、「揚羽」などの蝶の存在というものは、古来より「冥府よりの使い」とも見なされてきた。それゆえにこの句は、この世における「戦」で命を落とした「荒男」が、その後「揚羽」の背に乗って「彼の世」へと旅立っていった、という風に解釈することも可能であろう。

ということで、この句は、「風の前の塵」と同じように虚しく散っていった嘗ての様々な戦没者たちへと捧げられた三橋敏雄による「レクイエム」であった、ということになるのかもしれない。



7月2日 金曜日

邑書林の『超新撰21』の応募枠の2名の作者が本日決定したとのことである。

決定した作品は、

・小川楓子  芹の部屋

・種田スガル  ザ・ヘイブン(The Haven)

の2篇で、それぞれの作者の略歴は、

・小川楓子(おがわ・ふうこ)氏は1983年4月生まれ 鎌倉市在住 「海程」「舞」所属

・種田スガル(たねだ・すがる)氏は1986年12月生まれ 川崎市在住 無所属

とのことである。

50歳以下であるから、40代か30代の作者が入集するものだとなんとなく思い込んでいたのだが、2人とも思った以上に年齢が若いのでやや驚いた。共に20代である。

小川楓子氏は所属結社があるのでともかく、種田スガル氏については性別にしてもそうなのであるが、無所属であるということでその作風については全く想像が及ばないところがある。

なかなか変わった人が結構いるものだな、という思いのするところがあった(人のことは言えないかもしれないが)。

他の最終選考まで残った作品というものもなかなかの力作揃いであったようである。これらの作者たちの作品というものも、個人的には結構読んでみたいという思いのするところがある。



7月3日 土曜日

明日で「―俳句空間―豈weekly」の98号が発行ということになり、その後における自分のこの連載というものは、残りあと2回ということになる。

この「俳句九十九折」もはじまってから、一応今回で90回目を迎えることとなった。

とりあえず、曲がりなりにもここまで続けることができてよかったなという思いがしている。

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