2010年7月4日日曜日

閑中俳句日記(39) 対中いずみ句集『冬菫』

閑中俳句日記(39)
対中いずみ句集『冬菫』


                       ・・・関 悦史


何年か前のこと、主宰を喪った『ゆう』の田中裕明追悼号を人から頂き、『ゆう』という雑誌を初めて目にして、多くの作者のトーンがよく揃っていることに驚いたことがあった。その『ゆう』の一員であった対中いずみの句を今度は句集という形でまとめて読み、誌面からはわからないこの作者の固有性がその中から立ち上がってくるのを感じて、まとめ方や媒体によって句の見え方はずいぶん変わってくるものだという当たり前の感を新たにした。

それというのも対中いずみの句は衆の中で声高に自己主張するものではなく、蒸留水のような澄んだ静もりを持ち味としているため、まとめて見ないことにはその特質に意識が向きにくいからだが、これは単に静かな景を詠んでいるだとか、感情の厚みに乏しいとかいったことではない。そこには前面に押し出してくるのとは違ったタイプの或るしなやかな強さが潜んでいる。明確な構成原理があるのだ。

夏服の足浸しゐる渚かな
花野から帰りし顔のままでゐる
夕焼けのいちばん端の色が好き
石橋のへりに螢ともりけり
照りかへす余白に紙魚の走りけり
水打つて山の麓のこと言へり
あをぞらの夜空となりぬ魂祭
ひややかに打ち寄せらるる藻草かな

《夕焼けのいちばん端の色が好き》と好き嫌いの情をはっきり出した句に特徴がよく出ているが、これだけはっきり好悪を打ち出しながらさして押し付けがましい印象もなくて済むのは、その好きなものが実体を持ちもしなければ服飾や何かのように己の所有に帰することもあり得ないひとつの境目だからである。昼と夜の境である「夕焼け」、そしてその「夕焼け」と「夕焼け」でなくなる光と色の変化のはざま。

ここに取り出した句はいずれも境目に関わる。一句目の「渚」、二句目の「花野」と帰った先の家、四句目の「石橋のへり」は橋自体が境目にかかるものである上にさらにその「へり」である。五句目の「余白」、六句目の「麓」、七句目の「あをぞら/夜空」は昼夜の境、八句目の波打ち際とみな時間・空間の境目に関わる。境目にそれを横断し、繋いで動く何かが現れる。それが「夏服の足」、「花野から帰」って余韻を留めた顔、「夕焼け」とそれ以外の境に接する「色」、「螢」、「紙魚」、「水打つ」人、「魂祭」の魂、「藻草」である。いずれも生きものまたは生の気配であり、いずれもそれ自体は小さく微弱なものだ。

さきほどの冬菫まで戻らむか

表題となったこの句の「冬菫」もそうした、境目に現れる小さな生命存在の一つだ。今までの句が概ね通過するだけであったのに「戻らむか」という意志が現れたのが例外的で、この動きの惑いが一面に澄んだ句集の中で微細ながら怪しみと幻惑を引き起こす。

この小さいものとしての生きもの(または生気を帯びた何か)とそれを押し包む大きな領域との交感が対中いずみの中心的なモチーフとなる。これは単に小と大とのコントラストをつけることにより、その双方を明確に描くといったことではない。ましてトリビアリズムなどとも全く違う。

百合鴎よりあはうみの雫せり

湖から上がって(これも一つの越境だ)その雫を垂らす百合鴎。句の仕上がりが雅やかなせいか、単独で見るとごく既成の美意識の中で修辞が決まっただけとも見えてしまうのが損だが、この句も単に水滴を滴らせている鳥の姿が描きたいのではなく、大きな領域を跨ぎ、その余韻を身に帯びた生命の表出が重要なのだ。

山肌の迫りてゐたる門火かな
いぬふぐり花閉ぢそむる夕かな
老斑の母の手の甲あたたかし
冬の日のただ中に入る命かな

(「入院 二句」の前書あり)
糸蜻蛉光りて影に入りにけり
舟下りて青葦原へかくれけり


この辺りの句からは、小さな生気と大きな領域との間にいかなる関係が組織されているかが見える。

一句目の「門火」は「山肌」に「迫」られているだけだが、他の句は概ね「花閉ぢそむる」「老斑」「冬の日のただ中に入る」「影に入」る、「青葦原へかくれ」ると大きな領域への消失、死が暗示される。

ここで特徴的なのはそれがことさら不安や悲観の相に染められてもいなければ、逆に希望や悟達を打ち出しているわけでもなく、かといって冷徹な観相に徹しているというわけでもなくて、やがて来る消失を意識しつつも小さな生命の「光」に相互浸潤し一体化していることだ。これは己を安全圏に置いた「共感」とも、小さい命の儚さに居直った我執とも違う。小と大両方の領域をはざまの位置からひたすら感知し続ける営みであり、繊細な感受性と、蒸留水のような澄明の印象と、小さなものへの注視がそのまましなやかな強さへと通じるといった特質が無矛盾に並立するのもここにおいてなのだが、その感知の営みは、句中においては端的に耳を澄まし、微弱な音から遠くを窺うという営為となって現れる。

冬林檎いつ目覚めても夫の音
(「入院 二句」の前書あり)
冬銀河草のふれあふ音のして
龍天に昇りてよりの掠れごゑ
ともに聞くなら蘆渡る風の音
書く音と紙すべる音猟期来る
とほくより姉のこゑする茸筵
枯蘆の鳴りだす眼閉ぢにけり

これらと別に《言の葉のうるさくなりて泳ぎけり》《夜を寒み言葉貧しくありにけり》もある。「言葉」の意味内容よりも物音が対中いずみという感覚器にとっては大事なのだ。

相手がひそひそ声で話しかけてくると、特に必要がなくともこちらもついつりこまれて小声で答えてしまうということがあるが、対中いずみの句を読むとはその「耳を澄ます」営為につりこまれ、ともに耳を澄ます経験に他ならない。そうした営みの中では当然「おほきなこゑの人」は嫌われてしまうわけである。

雪兎おほきなこゑの人きらひ

「きらひ」と言ってもその断言は「雪兎」の白く丸く小さい静けさのイメージに集約され、ここでもあまり険のある印象にはならないのだが。

全体に静まった印象の句集だが、その内部に豊かな感情生活があることは例えばこうした句からも窺われる。

君のゆく道たたみたき椿かな

これは万葉集に収録されている狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)《君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも》を踏まえたものだろう。

流罪の夫との別れを、あなたが行く道を焼き滅ぼしてしまう天の火があればいいのにと嘆き惜しむ激しい詠みぶりの恋歌だが、この身も世もあらぬ体の激情を小さな生命に沈潜させ、鎮めているのが下五の「椿かな」なのである。

※対中いずみ『冬菫』は2006年刊の第1句集。著者から贈呈を受けました。
記して感謝します。

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