2010年1月31日日曜日

第76号

第76号

2010年1月31日発行

鶏頭論争もちょっと、にちょっと

          ・・・山口優夢   →読む

遷子を読む

〔44〕癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(68)

七曜俳句クロニクルⅩⅩⅠ

          ・・・冨田拓也   →読む

閑中俳句日記(22)

小久保佳世子句集『アングル』

          ・・・関 悦史   →読む

あとがき           →読む

おしらせ           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

■バックナンバーの入り口は右上にあります。「第?号~ のバックナンバーはこちら」をクリックしてください。

■記事タイトルの右側にある「⇒読む」をクリックすると記事の内容が表示されます。最新号の表紙に戻りたいときは、最上部のブログタイトル「―俳句空間―豈weekly」をクリックしてください。

■ コメントは、各記事の下方にある「コメントを投稿」をクリックしてください。画面右側の記入欄にコメントを書き込みます。記入欄の下に「個人情報を選択 Choose an identity」という項目がありますので「名前/URL」を選び(URLは空白も可)お名前を記入してください。

あとがき(第76号)

あとがき(第76号)


■高山れおな

「遷子を読む」が大変白熱しております。

関悦史さんがご紹介の小久保佳世子さんの句集、どえりゃー面白い。

山口優夢さんはちょっとにちょっと。わたくしも来週あたり、ちょっとにちょっとにちょっと、とゆくかどうか。

物言う蛋白質のみなさん、それではまた来週。


■中村安伸

3D映像が話題の映画「アバター」を観てきました。東京ディズニーランドなどのアトラクションで、3Dの映像そのものは経験済みでしたが、3時間もの長時間、巨大なスケールの景観を完全に3Dとしたものを観るのははじめてで、非常に刺激的な体験でした。映画を観ているというより、海外などへ旅行に出掛けて、見慣れぬ光景に驚くような感覚といいましょうか。鑑賞中は世界に惹きこまれていて意識しませんでしたが、しばらくの間、眼の奥に疲れが残りました。

先週日曜日に行われた、現代俳句協会青年部勉強会「田中裕明『夜の形式』とは何か」に、私も運営側のスタッフとして参加させていただきました。第一部は四ツ谷龍さんによる講演、第二部は裕明夫人の森賀まりさん、かつての「ゆう」の同人のみなさんなど、生前の裕明の人物をよく知る方々によるシンポジウムという構成でした。田中裕明という、興味深く、また底の知れない稀有な俳人について、新たな解釈や未知の側面を知ることができました。二次会で四ツ谷さんが仰っていたとおり、田中裕明の作品は彼の死後も成長を続けていると思いますし、田中裕明という人物もまた、成長を続けているのだと感じました。


おしらせ(第76号)

haiku&me特別企画のお知らせ

Twitter読書会『新撰21』 第一回「越智友亮+小野裕三」

Web同人誌「haiku&me」主催の特別企画として、Twitterを使用した読書会を実施します。
昨年末に発行され、各所で話題の若手俳人アンソロジー『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作者と小論をとりあげ、自由に鑑賞、批評を行う会にしたいと思います。開催は不定期で、全21回を予定しております。

第一回は掲載順でも年齢順でも最も若い作者である越智友亮さんの「十八歳」と、小野裕三さんの小論「俳句を継ぐ者」をテーマとします。

「haiku&me」のレギュラー執筆者三名が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

・第一回開催日時: 2010/2/6(土) 22時より24時頃まで

・参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者三名
青山茂根(mone424)
榮猿丸(micropopster)
中村安伸(yasnakam)
※()内はTwitterアカウント名です。

その他どなたでもご参加いただけます。

・ご参加方法:
(1)ご発言される場合
開催時間にTwitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方は、以下のURLからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)
http://twitter.com/

(2)傍聴のみの場合
以下のURLをご覧下さい。
http://twitter.com/#search?q=%23shinsen21

・お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

俳句九十九折(68) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅠ・・・冨田拓也

俳句九十九折(68)
七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅠ

                       ・・・冨田拓也


1月25日 月曜日

春めくやもの言ふ蛋白質にすぎず  兎原逸朗

この兎原逸朗という作者は、科学者であったそうである。掲句は、かの俳人和田悟朗氏を俳句へと誘った句でもあるとのこと。

「もの言ふ蛋白質」とは、やはり単純に考えて「人間」そのものを指すということになろう。人間の身体というものは、大半が蛋白質で成り立っているそうで、なんというか実に身も蓋もない内容の句なのであるが、そうなると「俳句」というものも「もの言ふ」行為と同じく、所詮蛋白質が創り出す泡沫のような呟きに過ぎないということにもなりそうである。

ただ、この句における春の始まりといった生命力の横溢そのものを感じさせる季節感と併せて、「もの言ふ」の「もの」という言葉からは、どこかしら「もののけ」「ものものしい」などといった原初性を感じさせるやや異様な雰囲気が連想されてくるところもあり(「もの」は、「物」であり「霊」という意味合いも含んでいたらしい)、この句は科学的な知見に基づいて人間の存在を理知的な角度からそのまま切り取った作品であると同時に、この世界もしくは自然界そのものの得体の知れなさといったものをそのまま捉えものであるともいえるように思われる。

人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人  橋間石



1月26日 火曜日

角光雄『俳人青木月斗』(角川学芸出版)という本が2009年に刊行されていたらしい。残念ながら自分は未読である。

青木月斗という作者について自分はあまり詳しく知るところがない。せいぜい随分昔の大阪の俳人であったということ、松瀬青々の弟子であったことなどといった事実とその作品のいくつかを知っているくらいである。それでも前々からこの作者には興味を抱き続けているのであるが、割合名の知れていると思われる作者であるのに、資料がどういうわけかいまひとつしっかりと纏められておらず、その作品の全貌を把握するのはなかなか容易ではないところがある。

ともあれ、松瀬青々にしても、青木月斗にしても、これらの作者の作品の真価というものは、具体的には一体どのようなものなのであろうか。この2人の作品というものは、中央の俳壇とあまり関係がなかったためであるのか、それともその作品の数の夥しさゆえ全貌が摑みきれないためであるのか、判然としないが、いまだに俳句の世界において、はっきりとその評価が定まっていないという印象がある。

元旦や暗き空より風が吹く  青木月斗

星影を映せる草の水溜り    〃

初鶏に劒の如き霜気哉    〃

月玲瓏糸瓜の水も澄みにけり    〃

黒々と山が囲める夜長かな     〃

鳧の子はつぶつぶ風に吹かれけり    〃

鷹一点雪山眠り深き哉       〃



1月27日 水曜日

しかしながら、松瀬青々や青木月斗といった作者の存在にしてもそうなのであるが、これまでの俳句の歴史には、いまだにその実体が正確に把握しきれていない俳句作者や俳句の集団といったものが少なくないように思われる。

いくつか挙げてみると、尾崎紅葉とその門下、河東碧梧桐とその系譜、久保田万太郎の系譜、松根東洋城の系譜、臼田亜浪の系譜、さらには「旧派」の流れなどが、そういった例にあたるであろう。

角川の『俳句』平成17年12月号の特集「近代結社の師系」の阿部誠文編「俳誌編年大系統図」を見てみると、碧梧桐から直接派生した俳誌の数だけ見ても136誌あり、子規の直接の弟子の俳誌は67誌、紅葉から44誌、亜浪から41誌、吉岡禅寺洞から22誌、日野草城から24誌などといった事実を確認することができ、さらにこれらからそれぞれに派生していった俳誌の数というものも相当に多い。

こういった系譜とその作品の中には、いまだに優れた実作の成果や埋もれてしまった何らかの可能性といったものが、いまだにいくつか眠り続けているのではないかという気もしないではない。



1月28日 木曜日

先週、俳句の「漫画」について少し考えたのだが、もし実在の俳人をモデルにするとすれば、やはり、

芭蕉、一茶、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、種田山頭火、尾崎放哉、水原秋桜子、中村草田男、西東三鬼、篠原鳳作、高柳重信、金子兜太、住宅顕信

あたりの作者が、その生涯の行程が起伏に富んでいるということもあり、なかなか相応しいのではないかという気がする。

あと、これらの作者の他には、案外「前田普羅」の生涯というものも面白いかもしれない。



1月29日 金曜日

おれのひつぎは おれがくぎうつ  河野春三

こういった作品を見ると、川柳作品を読むという行為も、やはりなかなか簡単には済まされないところがあるようである。

自分は、これまでこの作品における「ひつぎ」を、字義通りにそのまま「棺」として受け取って読んでいたのだが、この作品における作者の真意といったものについてある程度思いを巡らして読んでみるならば、単純に自分のための実際の「棺」を意味する言葉というわけではないようにも思われてくる。この「ひつぎ」という言葉は、やはりある種の「メタファー」として使用されているということになろうか。

端的にいえば、この作品からは、「おれ」というぶっきらぼうな一人称から感じられるように己に対する自恃そのものと、その自らの「死に場所」でさえをも自分自身の手によって選び取り、決めなければ気が済まないとでもいったような自らの「生」そのものへの峻烈な意思と矜持をこそ読み取るべきなのかもしれない。



1月30日 土曜日

とある機縁により『桂信子全句集』(ふらんす堂 2007)を頂戴することができた。

「俳人ファイル」以来、自分は軽い「全句集恐怖症」になってしまったのであるが、この全句集の立派な装丁と造本、そしてその重量感を伴った手応えからは、やはりある種の感慨といったものを催さずにはいられないところがある。

桂信子は1914年に生まれ、2004年に89歳で生涯を閉じた。句集は全10冊で、この全句集に収められた句は計5218句ということになる。

桂信子の師は日野草城であるが、草城とその周辺の作者というのは、どちらかというとその作品傾向に、仄かな「肉体性」というか、軽い「エロース」ともいうべき雰囲気を湛えた作品が少なくないように思われる。

草城門の作者を何人か挙げてみると、富澤赤黄男、片山桃史、喜多青子、神生彩史、藤木清子、桂信子、楠本憲吉、伊丹三樹彦、寺井文子あたり、ということになる。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ  日野草城

乳房や ああ身をそらす 春の虹  富澤赤黄男

雨はよし想い出の女みな横顔  片山桃史

ソーダ水翡翠のあをき手が添へる  喜多青子

厭世の柔かき軀をうらがへす  藤木清子

貞操や柱にかくれかがやけり  神生彩史

搦む手の爪の真赤なマリアたち  楠本憲吉

ひと去りしあとなまめくや冬畳  伊丹三樹彦

窓の雪女体にて湯をあふれしむ  桂信子

やはらかき魚の産卵天の川  寺井文子

過去においてはこのような作品傾向が斬新なものであったということが推察されるところがある。どの作者も、全体としてはこういった傾向の作品ばかりというわけではないのだが、それでもやはり俳句の歴史の中においてこのような作品傾向を持っていた俳句集団というものは、どちらかというとやや珍しい例であるようにも思われる。

ともあれ、桂信子という作者には、この草城の作風からの流れというものが、その特徴のひとつとして挙げることが可能であろう。

--------------------------------------------------

■関連記事

俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(56) 七曜俳句クロニクル Ⅸ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(59) 七曜俳句クロニクル ⅩⅡ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(60) 七曜俳句クロニクル ⅩⅢ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(61) 七曜俳句クロニクル ⅩⅣ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(62) 七曜俳句クロニクル ⅩⅤ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(63) 七曜俳句クロニクル ⅩⅥ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(64) 七曜俳句クロニクル ⅩⅦ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(65) 七曜俳句クロニクル ⅩⅧ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(66) 七曜俳句クロニクル ⅩⅨ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(67) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩ・・・冨田拓也   →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。


閑中俳句日記(22) 小久保佳世子句集『アングル』・・・関 悦史

閑中俳句日記(22)
小久保佳世子句集『アングル』

                       ・・・関 悦史


私にとっては全く未知の作者、小久保佳世子氏から今月出たばかりの第一句集『アングル』をいただいた。略歴によると、1945年生まれ、「萬緑」を経て現在は「街」同人とある。


アングル(構図)という題名に見られるとおり絵画に日ごろ親しんでいる方のようだが(自分で絵を描いているらしき句もある)画家の名をナルシスティックな審美性の中に取り込んだといった句は全然なくて、《涅槃図へ地下のA6出口より》のような生活実感と視点のクールさを併せ持つ都市叙景の句あり、《脳の標本厚物咲のごとくあり》のような見立ての奇抜さにシュールな諧謔漂う句もあり、《謝る木万歳する木大黄砂》のような時代・社会への寓意の句あり、《十二月蒸しタオルに母軟化して》のような老母を世話する句ありで、要するに素材の雑多さが私と似ていて親しみを覚えた。

まず都市叙景系の句は以下のようなもの。

涅槃図へ地下のA6出口より
東京ドーム膨らみきつてゐる春愁
中心にブランコ化学工場跡
森ビルの鉄塊膨らんでゆく朧
手遅れのやうなる街や春マスク
万緑の味する美術館の水
秋風を縦に感じて六本木
福祉作業所煎餅置かれある西日
電子音させて子等来る冬の坂
毛皮着て東京タワーより寂し
薬缶から冬草電波塔の下

《東京ドーム膨らみきつてゐる春愁》《森ビルの鉄塊膨らんでゆく朧》などはいずれも外から見ている句だろう。《手遅れのやうなる街や春マスク》などとも併せ、巨大異様なものの生動と共存している日常に不気味さが漂う。

《電子音させて子等来る冬の坂》では住人そのものも無機性の網のなかに接続されあって暮らしているさまが摑まれ、《毛皮着て東京タワーより寂し》ではスカスカと骨組みを露出させた鉄塔の空疎さが内面まで貫く線となっている。

謝る木万歳する木大黄砂
薔薇迫る軍用機に耳塞ぐ時
夏来る突然変異の魚跳ねて
木下闇戦の話に猿も来て

この辺りは社会批判、危機意識の句。《謝る木万歳する木大黄砂》は今井聖氏の序文にもあるとおり日本とアジアとの関係史を想起せざるを得ない句で寓意性があらわだが、寓意や思いを「大黄砂」の物質性が受け止めている。《一億の蟻潰しゆく装甲車》《点滅の蛍や地球の持ち時間》などになると寓意が浮き気味だが、肉体を通した《薔薇迫る軍用機に耳塞ぐ時》はその弊を免れた。

《木下闇戦の話に猿も来て》からは谷雄介の《開戦や身近な猿の後頭部》を連想するが、小久保句の場合「猿」を寓意のハリボテから免れさせているのは季語「木下闇」による自然の奥行きであり、無季の谷句の場合は「後頭部」という一部分のクローズアップが実体感を担っているので、相似た想像力のうちに有季と無季との技術や志向の違いもうかがえる。

漬物屋のむらさき黄色春疾風
優先席の少年桜より白く
青春は疎まし菫のむらさきも
足開くプリマ涼しき角度まで
風邪心地三原色の鳥を見て
アングルを変へても墓と菜の花と
ハートダイヤスペードクラブみな若葉
青野から白抜きに犬疾走す
六地蔵の赤の分量芒原

視覚芸術に興味の深い作者らしく、色・形の扱いが際立つ句を並べた。

《青春は疎まし菫のむらさきも》の「むらさき」に端的に見られるように、色や形の抽出は視覚効果の鮮やかを打ち出すこと自体が狙いではない。色や形は抽象化されることで逆に実体感が引き出され、それが内面へ食い入ってくるのである。《漬物屋のむらさき黄色春疾風》などどうということもない写生句に見えて、生活圏内に不意に介入した具体と抽象の相渉の層に触れている。《アングルを変へても墓と菜の花と》は「墓」を死、「菜の花」を生と取らせてしまう知的な整理が働いていて、わかりやすいが「漬物屋のむらさき」の生々しさからは離れた。

具体性と抽象性を句のなかに一度に形象化しようとするときに現れるのが文字である。《黒蟻の集まつてきて鬱の字に》はその方向の佳句だが、こういう一足飛びの方法に偏らない姿勢がその次に並んだ《穴の蟻土臭き空見上げをらん》の蟻の身体感覚への寄り添いに見て取れ、同じ素材での振れ幅の大きさが面白い。

蝶止まる広場のやうな背中かな
春惜しむ名前に鳥の付く人と
六月の脳より高く鉄亜鈴
山車を曳くわけの分らぬものを曳く
頭に蜻蛉乗せて菜食主義者なる
脳の標本厚物咲のごとくあり
白猫のごとき春日を膝の上
空つぽの母胎のごとく冷蔵庫
来賓のコート次々壁の中
編み耽りセーターの首伸びてゆく
「今投げろ」とて寒卵挑発す
雲食べて太りし羊合歓の花
白シャツからアフリカの腕伸びてをり
十人のひとり残らず霧になる
多摩川の匂ひしてゐる昼寝人
桃ひとつ御霊のごとく運ばるる
大いなる芋の坐つてゐる木椅子
こふのとり二羽ゐて百合の佇ひ
雁万羽日暮の空が壊れさう
卓袱台のごとく脚折り冬の鹿

見立てや比喩、あるいは叙述の省略がシュールさを生む句を並べたが、この作者に体質的に一番近い画家はマグリットだろう。いずれも思い入れの重苦しさと無縁な明快な描出がなされていて、《編み耽りセーターの首伸びてゆく》など些細な日常の破調から恐怖・恍惚・諧謔の要素がにじみ出る。そうした要素は顔や口を扱った句にことに顕著で、そういえば顔を隠すことによる匿名化が恐怖と表裏一体の笑いを生むというのもマグリットの絵にもしばしば現れる手法であった。個人の人格、歴史、人生といった単独性の重さが、ごく表面的な操作で無造作に匿名の永遠へと投げ込まれてしまう恐怖とおかしみである。

顔ほどの窓を余して蔦館
春昼のわが顔の中鯉泳ぐ
緘黙を貫く雛の顔に罅
ピンポン玉大や巣箱の暗黒は
ダイバー消え水面に臍のごときもの
海の日や顔いつぱいに鳶の翳


 「口」を開いた句はどちらかというとマグリットよりもフランシス・ベーコンだろうか。《人を呼ぶ口中黒しななかまど》など、匿名化の力場の中に叫びとも哄笑ともつかぬ開口部を黒々と開けてみせるベーコンの口の気配がことに強い。

春夕焼語り始める排水口
人を呼ぶ口中黒しななかまど
限界まで広がる仁王の口枯野
冬夕焼鴉の開く嘴の間も
よく食べて天井に大扇風機
目鼻口流さぬやうに髪洗ふ


恐怖とおかしみでは他に《捕へられざまの混沌蛸の足》などという足だけに還元された句もあり、クトゥルー神話の「ナイアルラトホテップ」でも捕まえてしまったかのようだ。

老母をはじめとする家族、家庭を詠んだ、少なくとも素材の上からはごく日常的な一連の句もあるのだが、これらの句の背後にも具体と抽象、恐怖とおかしみを貫く視線が潜んでいるようである。後記にある作者の言葉は《句集『アングル』の作品にほんの少しでも飾りや作り物ではない私自身の見た「もう一つのほんとう」が描かれていたら本望です》

雛の頃隣家を包む工事幕
無言夫婦一ミリ伸びる藤の房
蜆汁その日息子の声変はる
笑はない母としりとりして暮春
朝の薔薇血圧計と置かれあり
緑さす四阿に母置いておく
琉金一尾部屋から母の消えてをり
扇風機の羽根の向かうに透けて母
家族にも旬といふもの柿の昼
十二月蒸しタオルに母軟化して


その他文中で触れなかった句を引く。

酢で硝子磨きし夜の緑雨かな
ごきぶりの家を作つてゐる静寂
オンドルの遠き隣国わが生地
耕人や和解のごとく鍬を置く
万緑に隠れしプレハブから祈禱
名刺無数に貼られし駅舎流氷来
霧襖オムレツひつくり返したり
思はざる駅に着きをり蟋蟀と
土俵入り始まる前のかまどうま
月揺れて川揺れて人踊るなり
人間を信じて冬を静かな象

《名刺無数に貼られし駅舎流氷来》が何のことやらわからず検索した。

鉄道マニアならばすぐわかるのかもしれないが、オホーツク海に一番近い駅、釧網線の北浜駅というところの待合室が実際にそういう状態になっているらしい。旅行者が訪問記念に名刺や切符を壁に貼っていく習慣がいつからかついたのだそうだ。

小久保佳世子…1945年11月18日朝鮮平安南道生まれ。1988年「萬緑」入会。1996年「萬緑」新人賞受賞、「萬緑」同人、2003年「萬緑」退会、「街」入会。現在「街」同人、俳人協会会員。


-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。


鶏頭論争もちょっと、にちょっと・・・山口優夢

鶏頭論争もちょっと、にちょっと

                       ・・・山口優夢


先々週の豈weekly(74号)にて、高山れおな氏が「鶏頭論争も、ちょっと」と題する記事で、髙柳克弘氏の「現代俳句の挑戦 第13回 十七音に徹して読む」(角川「俳句」2010年1月号)を取り上げ、この記事およびこの記事の背景をなしている坪内稔典氏のエッセイに対して異議を唱えている。

髙柳氏の記事に対する直接的な反応としては、「作者の思い」と「作者の意図」を混同していることに対する指摘にとどまり、あとは髙柳氏の援用する稔典氏のエッセイに対する批判が行なわれている。

れおな氏の論の道筋はこうである。まず稔典氏が、正岡子規の

鶏頭の十四五本もありぬべし

の評価をめぐる鶏頭論争では、「子規という作者を読むことで、鶏頭の句は高く評価されるようになったのではないか」との認識を示し、この句を「作者名を消して句会に投じてみた」とき、つまり、作者である子規が病床に伏せっていたという背景なしでこの句を読んだとき「末期の存在感のようなものを感じるだろうか」「私見ではこの句は平凡な作、いや、語るに足らない駄作である」と断じている。これに対して

「なぜ、子規の人生とセットで了解されている句を、あえてその人生から切り離さなくてはならないのか」

・他の子規の鶏頭の句は子規の人生を投影して語られずに、「なせ、『十四五本も』の句だけが抽んでられているのか」

この2点の疑問を挙げ、「他とは格段に異なる強さで子規の人生をおのれに引き寄せ、時に過剰なまでの読みを誘発する力をこの句が持っている以上、この句を名句と呼ぶに躊躇う理由はないのではないでしょうか」と結んでいる。

僕自身は鶏頭の句について異なる価値観を持っている(後述)ので、ここで稔典氏、髙柳氏、れおな氏の言うような意味で「名句」なのかどうかという議論にさほど興味はないのだが、ある俳句を、作者名を消して読むべきか否か、をめぐって議論が行なわれているこの状況については大いに興味を抱いている。

髙柳氏の論には確かに不十分なところがあり、それはおそらく「句の状況」と「句の核心」を分けていないところなのではないかと思う。一句の指し示している状況を、髙柳氏は十七音だけから読みとろうとし、あえて作者が読もうとした情景と外れ、誤読になることも恐れない、という態度であった。そのような態度によって子規の別の一句、

いくたびも雪の深さを尋ねけり

を読もうとしている。十七音だけに徹して読む場合、この句をめぐる状況は「家族や友人同士」「無邪気な子供」とその親、「片方が病に倒れた恋人同士」など幾通りも読めるが、それら全ては許容されるべきだ、という論旨である。しかし、髙柳の示す「句の状況」の多様性は、実は「句の核心」が変わらない範囲での多様性に過ぎず、髙柳がその文中で苦労して導き出した(発話主体が)怪我か病気をして病床にある」という設定の範囲内での話になっている。この句だけに即して読むのであれば、「尋ね」たのが差し向かいの状況と考える理由は特段なく、電話でもかまわないはずであり、そうすると「屋内にいて動きたくても動けない状況」だから看病の様子なのだ、とする髙柳の論法は崩れてしまう。あるいは、この時代には電話などなかった、と言いだしてしまっては、それは十七音以外の情報に基づいた判断ということになってしまうだろう。

この句が看病の様子だとすると、「句の核心」は「雪を見たくても見られない病気の主人公の気持ち」、に焦点が行くことになるが、看病でなくてかまわないのであれば、「句の核心」は単に「なんだか知らないけれど雪を見たがっている主人公の気持ち」と、見る影もないほど矮小化されてしまう。「句の状況」に多様性を認めたとしても、「句の核心」に多様性を認めていいのかどうか。本来ならば、十七音に徹して読む、というマニフェストはそこに話を及ばせるべきなのではないかと僕は考えている。

逆に言えば、なぜ髙柳氏が十七音以外の情報を読みに入れることを拒むのかと言えば、そういう外部情報によって「句の核心」が変わってしまうからではなかったのか。「鶏頭」の句の核心に「自己の“生の根拠”」を見る山口誓子や「死病の床にあってなお生きよう凝視めよう描こうと願うたくましい意志」とする山本健吉の読みは、子規の人生を前提しないならば全く異なる「句の核心」を見せるはずだ。髙柳氏は、作者を読まないことによってこの句にどういった「句の核心」が読みとれるようになるのか、書かない。本来ならば、そこにアドバンテージを示さなければ鶏頭の句で作者を読まない理由は示せていないことになってしまう。

十七音以外の外部情報を持ってきた結果、句の核心は明らかに変容してしまうが、十七音だけで読んでも句の核心を定めることが難しい可能性が否定できない。となれば、むしろ、句の核心を固定できるのであれば外部情報を持ってきた方がいい、ということになり、これはれおな氏の「わざわざ作者名をはずす意味がどこにあるのか」といった主旨の指摘に通じるのであろう。

しかし、実は僕は心情的には髙柳氏に加担したいという気持ちが強い。なぜなら、これは僕らの世代が生き残るための「戦略」だからだ。子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。不幸が無いのが不幸、という、ふざけた状況に生きている僕らが、それでも自分たちの言葉を残していこうとするとき、句の背景にある作者の人生といったものは使うことのできないほど貧弱なものであることは、誰よりも僕ら自身が一番痛感しているのだ。そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。あるいは、全くの虚構である必要はなく、現実に結びついていたとしても、自分からは切り離されてもいいように十七音を育てておく必要がある。十七音を作者から切り離したがっているのは、僕ら自身なのである。実は、髙柳氏が示しているのは、作者の論理が反転した読みの論理だったのではないか。

れおな氏がそのような句に対してうんざりしているのは、彼が豈weeklyで発表したいくつかの論考を見れば察しはつく。たとえば柴田千晶の『赤き毛皮』句集評(「ミヤコホテルでつかまえて」豈weekly64号)の中で、彼は現代の風俗の中に暮らしている等身大の作者が見えてくる柴田氏の句集を評して、こう発言している。

今やどの句集もこの句集も、作者は何をやって食べている人で、俳句以外の何に関心があるのか、さっぱり見えてこない場合がほとんどだから、たまさか人間の生活をしている人の顔を見てほっとなつかしい思いに捉われたわけである。

しかし、十七音だけで世界を構成するというのは想像以上の苦行である。昭和40年世代が小澤・長谷川を筆頭に古典へ連なろうとする俳句を作ったのは、長谷川櫂自身の口からも聞いたことではあるが「戦争や病気といった主題のない我々の世代が何を書くべきか」という問いへの答えであった。十七音に対する個別の作者の背景を前提できないならば、古典という共通の背景をまとうしかなかった、ということだ。同じ昭和40年世代でありながら、能動的で冷めていて新しい女性像を打ち立てることで「作者」を復権した櫂未知子も、近作ではそのような方向性からは離れつつある。つまり、新しい女性像、という概念そのものがすでに失効した、ということであろう。その意味で櫂未知子が新たなステージへ移行しようとしてゆくのは実に理にかなった戦略とも言える。

我々は十七音に古典をまとうことではなく、別の方法によってこの問題を越えていかなければならない。それがどのような戦略に基づくべきかを語ることは、この稿の手に余る主題であるが、髙柳氏が作者をキャンセルして読もうとする態度に共鳴する僕の心性の中には、このような世代としての背景があるように思えて仕方がない。

そこで、僕としても、自分たちの世代が句を残してゆくための戦略として、髙柳氏の論考における読みの論理に乗っかっていきたい。髙柳氏の論考では、作者の持つ外部情報がなくても一句の価値を見出すことはできる、という主張がなされていた。これを部分的に認める立場を取ろうと思う。僕の認識は、「外部情報があった方がよく読める句と、ない方がよく読める句がある」というものだ。それぞれの句(あるいは句集単位でもいいが)に対するとき、我々が自分でその句の読みに外部情報をかませるかどうか選択することが必要だと僕は考えている。その「選択」する行為も含めて、「読み」というべきなのではないか。どちらの方がよく読めるかは、どちらの読み方の導き出す「句の核心」が面白いかに依存するべきであろう。どこに「句の核心」があるかは、評者によって異なる場合ももちろんあるかもしれない。

ただ、もちろんこの方法には明らかな語義矛盾があって、それは、「外部情報がない方がよく読める句」であることを判断するには、外部情報を見る必要がある、ということである。この場合、外部情報を参照したうえで「忘れる」「見なかったことにする」のが最上の策であろう。僕の主張は、一つの句集を読む場合、まずどんな人なのか知った上でその人の句を楽しむ場合と、句を読んでいく過程でどんな作者なのか想像してゆく場合とがあるが、どちらがよりよくその句集を楽しめるかはケースバイケースでしょう、という、当たり前のようなことを言っているにすぎない。

さて、鶏頭論争から始まり、印象論的な話で恐縮だったが世代論を経由して折衷的な俳句の読みの提示というつまらない結論に達した。ここまでの道のりが長かったため、もう鶏頭の話などははるか遠くへ追いやられてしまった感があるが、一応、稿を締めくくる前に鶏頭の句に少し触れておこう。

僕は、誓子や健吉が示す過剰な読みは、全く実感が湧かないので、正直肯うことができない。「他とは格段に異なる強さで子規の人生をおのれに引き寄せ、時に過剰なまでの読みを誘発する力をこの句が持っている」とれおな氏は言うが、ほとんど何も主張しない写生句が、ある種の境涯と結び付けばそのような読みは自然と生まれるのではないだろうか。たとえば

遠山に日の当りたる枯野かな

という虚子の句について、もし「これは子規が作ったものなのだよ」とか「この句の作者の虚子は実は若死にしていてね」などと誰か批評家に嘘の情報を吹き込んだら、その批評家はやはり鶏頭の句において示しされたような過剰な読みを提示するのではないだろうか。鶏頭の句における過剰な読み、とは、この句は若死にした子規にしか作れなかった俳句なのだ、と信奉している、ということでもあるだろう。もちろんどういう句に対してもその句はこの人だから作れたのだ、ということを信じたい気持はだれしも持っているだろうが、実際にはそれを証明することなどできないし、それを外部的な情報から証明してゆこうとする読みは、いずれ客観性を失い、失効してゆくに違いない。名句を作りだした原因は、基本的にはその人の才覚という見えないものになすりつける以外に納得できる道筋がないのだ。鶏頭の句を子規の人生と過剰に結び付けて読もうとする読みは、そういう意味でも僕からは遠い。

鶏頭の句の唯一最大の価値は、僕には「早い者勝ち」というところにあるのだと思える。それまで「十四五本」などという表現で鶏頭を写生してみせた人はいなかった。そして、言われてみたら鶏頭にぴったりだった。だから残った。それが僕の考える「鶏頭」の句の核心である。子規の人生を介入させなくても、自分としては十分面白い句の核心を見出すことができた。鶏頭の句が名句だとすれば、それは上記の理由以外に何もない、と僕は個人的には考えている。

--------------------------------------------------

■関連記事

鶏頭論争もちょっと 金原知典・しなだしん・峯尾文世・後閑達雄句集を読む・・・高山れおな   →読む

ミヤコ・ホテルでつかまえて 柴田千晶句集『赤き毛皮』を読む・・・高山れおな   →読む

遷子を読む(44)

遷子を読む(44)



・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井


癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ
    『山河』所収

仲:昭和49年、遷子晩年の句。この少し前に〈万愚節おろそかならず入院す〉とあり、胃癌の手術、術後の肝炎(?)と死に至るまでの闘病が始まります。直前にはすでに読んだ〈わが山河まだ見尽さず花辛夷〉があり自分の病気は癌である、もう駄目かもしれないという覚悟は相当感じられます。

ちょっとこの句から逸れてしまいますが一言。不思議なのはこの句の少し後に出てくる〈梅に問ふ癌ならずとふ医師の言〉です。遷子には所謂癌の告知がなされていなかったのでしょうか? この句の意味は、一般論として自分も含めて患者に「癌ならずとふ医師の言」を吐いているがそれは如何なものか、と自省しているのか、それとも本当に遷子自身が「癌ならずとふ医師の言」を受けていたのか、どちらなのでしょう? 遷子は医師として自分は癌であるとの覚悟を決めています。今さら医師でもある彼に「癌ならずとふ医師の言」が、それも手術直前になされていたとはとても思われませんから、縦令現在ほど癌の告知が普通に行われていなかった時代だと割引いてみても、矢張ここは前者ではなかろうかと考えていますが如何。

さてこの句に戻ります。「癌病めばもの見ゆる筈」とは彼のこれまでの臨床経験に基く言と思われます。自分のこれまで診てきた患者さん達の例からすれば、癌という死病を病んだ人は物が見えるようになる筈だが私はまだその境地には達していない、夕霞がかかっているようだ、とおどけているのでしょう。癌と言っても手術で治る可能性もあるのですし、この時点ではまだこのように冗談めかして言える余裕があったのでしょう。

尤も先の「梅に問ふ」の句の意味が後者だとすれば少し意味が変ってきます。もし私の病気が癌だとすれば物が見える筈なのだが実際にはそうではない、ということは私は癌ではないのかな、と。しかし矢張この解釈には無理があるようです。この後に「死なばいづこへ」とか「遺書書けば」と書かれていることを思えば遷子は自分の病気が胃癌であり、手術してよくなるかもしれないが駄目かもしれない、と考えていたのでしょう。

中西:寒蝉さんのお医者様としての見方で、この句の味わいが深まりました。〈梅に問ふ癌ならずとふ医師の言〉も遷子が、自分を含め当時の医師達が癌患者に「癌ではない」と言うのが果たしていいことなのかという自省に取られたことで、後の句の解釈も変わってくるものと思われます。

萬愚節おろそかならず入院す

という2句まえにある句から死を覚悟した入院の句となります。心の底から搾り出したような自問の句と、闘病の苦しみを綴った句が始まります。遷子は苦しみを苦しみとして、実寸大でわれわれに伝える句を作っています。

しかし、今までは医師がどの程度自分の病を認識しているものなのかが、いまひとつわかりませんでした。肝炎再発と書かれている前書きの句〈夏蜜柑肝臓燃ゆる口に合ふ〉が後に出てきますが、これがどういう解釈をするべきか考えさせられます。〈梅雨深し余命は医書にあきらかに〉とこの句の2句あとにあり、肝臓への癌の転移かと本人も思われるものをこのような前書きにしたのは何故なのか疑問が残ります。

掲出句の夕霞は遷子の気持ちを端的にあらわしています。入院したばかりという予測のつかない状態を描いているものかと思いますが、「もの見える筈」というどこか決め付けたような言い方に、少々違和感がありました。

原:文中に引用されていた〈梅に問ふ癌ならずとふ医師の言〉について先に申しますと、癌告知の是非についての自省の句ではないかという仲さんの解釈に驚かされました。そういう観点があるとは見ていませんでしたので。これは仲さんが職業柄このことに関心が深い為もあるのでしょうね。考えてみたいと思います。

さて掲出句ですが「もの見ゆる」の部分にまずこだわります。「ものが見える」とは何なのか。

古来、「もの」の語が表す意味内容はかなり曖昧、かつ広く複雑で、使い方によって、つまり前後の脈絡によって微妙に意味合いが異なったりするようです。時代による変化も勿論ですが。ざっと思いつくままに上げてみても、「もののあはれ」「もののゆゑ」「もの哀しい」などをはじめ、たとえば「もののけ」などは折口信夫によれば「霊(もの)の疾(ケ)」の意味であり、この場合の「もの」は「霊」である、と言っています。このような「もの」という言葉の意味する伝統は、現在でも幅を狭めながらも続いているのでしょう。

話が逸れましたが、「ものが見える」とは、物象や事象の奥に秘められた真理(といってよければですが)のようなものの感受かと思います。この句の場合、「末期の眼」という言葉もふと連想しました。ここから、無常を知る心まではほんの一歩でしょうが、でも、現在を生きている人間の心理はそのときどきに揺れ動くのが当たり前でしょう。諦観や悟りと、不安や執着と言った対極的な心情がかわるがわる押し寄せて、自問自答の日々だったかと想像しますが、何よりも、自分は本当に癌なのか、間違いではないのかという疑問が湧いては消えていたように感じられます。たとえ告知されたにしても、事実を受け入れるには長い時間がかかるものではないのでしょうか。

この句を含め、『山河』の作品には、それまでどちらかと言えば客観的な作風だった遷子の、生身の人間としての声が聞こえてくるようです。

[追記]「遷子には所謂癌の告知がなされていなかったのでしょうか」の疑問に関してたった今見つけましたが、昭和51年1月号の「馬酔木」(遷子の葛飾賞受賞の特集)に「流霜」と題する遷子の作品があり、その前書きに〈四十九年胃癌の疑にて胃切除を受く。幸ひ癌ならざりしも肝炎を続発、五十年初夏急に悪化して肝硬変に移行〉とありました。これによると、直接癌とは言われていなかったようですね。

深谷:なかなか解釈が難しい作品です。

まず、仲さんが引用された「癌ならずとふ医師の言」は、「遷子を読む(12)」の筑紫さんのコメントにある横浜の友人医師の言葉をさすものと思います。だとすれば、「癌の疑いのある胃潰瘍」という診断結果が伝えられ、遷子もその言葉に疑念を抱きつつも、それに従って手術に臨んだというところではないでしょうか。

一方、掲出句の作成時点では、その直後に相当な覚悟をもって遺書まで書いた(〈遺書書けば遠ざかる死や朝がすみ〉)わけですから、病状への認識はもっとシリアスだったような気がします。そして、どう解すべきか悩ましいのは「もの見ゆる筈」です。この「もの見ゆる」が、単なる視覚的な意味だけなのか、あるいは心象的な意味(=事物の真理も見えてくる)を含むものなのか、判然としません。「深読み」は節度をもって行わなければならず、例によって個人的想いが先行し過ぎているきらいはありますが、敢えて申し上げれば後者であるような気がしてなりません。この前後の句を見れば、遷子はあきらかに死を覚悟していると思われます。そのような心境の中でこそ「真理が見えてくる」という、ある種の期待が遷子の心の中に潜んでいたのではないでしょうか。

筑紫:仲さんが参加されなかった頃のこの連載の12回(深谷さんに引用していただいたものです)で取り上げた書簡や資料から遷子への癌告知について再度整理して上げておきましょう。いずれもなくなる前の年、最後の入院前後のものです。

〈肝臓が今頃悪くなるとは思っていなかったので少々がっかりしています。まあ、しかし出来るだけがんばって何とか長持ちさせたいと存じます〉(8月5日 古賀まり子宛書簡)

〈小生の病気は肝炎といっても、性質が悪く、急速に肝硬変に移行して了いましたので参りました。あとは何とか出来るだけ長く持たせるしか方法がありません。何年持ちますか。色々、これからと思っていたのに残念です。〉(8月18日 古賀まり子宛書簡)

〈昨年までは80数歳まで長生きする積りでした。血圧も低く、動脈硬化が眼底検査で〇度ですので、癌にさへならなければといふ訳です。ところが思ひがけない肝炎から肝硬変になってしまひました。自分には全く縁のないと思ってゐた病気です。肝硬変も徐々に来たのは10年以上も生きる人もありますが、私のは全く急速になったので、性質が悪いのです。どうもかういふ時に医者はいけません。余命の統計もちゃんと出てゐますので覚悟だけはしてゐる積りです。やりたいこと沢山あり、旅行など、長男が帰って来ましたので、これから出来る筈だったのに甚だ残念です。・・・・水原先生には肝硬変と申し上げておりません。慢性肝炎といふことにしてあります。〉(日付不明 渡辺千枝子宛書簡)

〈「大失敗をしました」「この前胃癌の疑いで手術をしたが、その疑いが晴れて、絶対に長生きできると信じていたのですよ。僕は血圧も心臓も全く異常がないから安心していて手当てが遅れてしまいました。大失敗をしてしまいました」〉(12月3日 福永耕二、黒坂紫陽子、市村究一郎と面談時の回想記録)

明らかに遷子は肝硬変と理解していたようです。この前回の手術と告知の関係については「俳句」15年4月号の〈相馬遷子追悼〉で、「『山河』五十句抄」の付記として矢島渚男氏が次のように書いています。

氏の死因は肝硬変と発表されたが、癌が真因であった。一昨年(49年)三月、胃の異常を自覚、横浜の友人医師による診断を受けたとき、既に悪性の癌は第四期にまで進行しており、不治なのであった。本人には癌の疑いのある潰瘍と説明され手術、カルテ・写真等を要求された氏に書き改めたカルテなどが示されたため、癌の疑いを捨て回生に希望を持たれた。縫合の失敗などから退院が長引いたが秋には体力もやや回復、最後の吟行にも出られるまでになった。しかし昨夏、癌は肝臓に移転し、本人には輸血による肝炎とその悪化との診断が伝えられた。その頃から極度に食欲が衰え、味覚に変調が生じてきた。すぐれた専門医として自己の病状に不審を抱かれながらも、栄養さえ摂ることができれば、肝硬変は治癒しないまでも、悪化は食い止めることができると氏は説明されていた。そして十一月十七日、佐久総合病院七階の個室に再入院されたが、入院と童子に病状は急激に悪化し、近い死を自覚されるに至った。

これで見る限り、遷子は肝硬変と信じていたようです。「栄養さえ摂ることができれば」については、遷子の無くなる数週間前の句に食思が多く詠まれていることからも納得されます(「わが生死」の句は『山河』の巻末最後の句です)。

空腹感戻らば奇蹟色鳥よ
食思無き食事地獄や冬の鳶
わが生死食思にかかる十二月

そして、矢島氏は次のように結んでいます。

氏が自己の病気をはっきり癌であると知っておられたとすれば、最後の作品群はかなり違ったものとなったにちがいない。〈死病とは思ひ思はず〉という心境が最後まで病との闘いをあきらめさせなかったことは、身辺のものにとってせめてもの慰めであった。

しかし、よしんば癌ではなかったとしても、肝硬変で死を迎える状態が近いという認識はありえたと思います。夏の段階で、

来年は遠しと思ふいなびかり

で余命1年以内、

  病急激に悪化、近き死を覚悟す
死の床に死病を学ぶ師走かな

では〈「この間の状態では、今年までは、もつまいと思ったのですが、輸血などをしてもらって、楽になりました」「これ(「冬麗の微塵となりて去らんとす」11月26日の作品)は僕の辞世の句です。もうこの時は本当にダメだと思っていました」〉(1月2日 堀口星眠、福永耕二と面談)という認識ですから、癌であろうとなかろうともう死のふちにある認識の中での作品であったと思います。

今回のテーマは重い問題です。そして、インフォームドコンセントが日本に医療現場で定着して行く途上にあって行われた虚偽(しかし善意)の説明であり、現在とは全く異なる環境であったと考えなければならないでしょう。そしてそれに伴って遷子の句の解釈も変わらざるをえないように思います。一方こうした医療現場の環境が、次回原さんが触れる予定の遷子の句、〈行秋やなさねばならぬ悪ひとつ〉と重なっているようにも思われます。遷子自身も虚偽の告知を行っていたのかも知れません。

それにしても、遷子は本当のところすこしの疑惑も感じなかったのでしょうか。素人には分からない難しい問題です。

今回は新しい話題は何も提供せず、申し訳ありませんでしたが、話題にぴったりの資料だったのでこうした扱いをさせていただきました。

仲:追加発言 磐井さんはじめ皆さんのコメントから遷子には所謂「癌告知」が正確にはなされていなかったことがよく分かりました。当時の日本の医療情勢を考えればこのときの遷子の主治医を責めることは出来ません。当時は、否私が医者になりたての昭和60年前後でも患者に直接「胃癌」とは言わず「胃潰瘍」とごまかしていた覚えがあります。今でこそ胃癌も早期ならほぼ治る病気ですが、当時の医療水準では内視鏡すらまだ発展途上で早期発見自体が困難でしたし、手術成績もお粗末、ましてや抗癌剤を組み合わせたアジュバント療法など思いもよらぬ時代ですから。そのような治療成績も反映して「癌」という言葉の印象は当時と今では相当異なります。

それに医師だからと言って病気への覚悟ができているとは限りません。「俺なら大丈夫だから本当のことを話してくれ」と言われた同僚が癌であることを告げたところその人は自殺してしまった、という事例もあります。

磐井さんの質問への答えは遷子本人でなければ分らないでしょうが、私に即して申せば医師とて人間ですので自分に都合のよい方へ解釈するだろうと思います。科学者としての自分が「こんな不自然な胃潰瘍があるはずはない、まして肝炎の併発なんて、素直に考えれば自分の病気は胃癌であり肝臓に起こっていることは癌の肝転移に違いなかろう」と考えたとしても別の自分が「いやいやあの主治医が癌ではないと言うのだからそれを信じよう、ちょっと潰瘍の経過が悪くて、おまけに出血に対して行った輸血から肝炎を併発したのだろう」と考え後者が前者を圧倒していくのです。遷子の一連の闘病句を癌告知のなされていない宙ぶらりんの、しかも自分で癌の疑いを捨てきれない状態で作られたと思って読み直すと彼の揺れ動く心の中がよく分ります。

それにしても「四十九年胃癌の疑いにて胃切除を受く。幸ひ癌ならざりしも肝炎を続発、五十年初夏急に悪化して肝硬変に移行」なんていう説明を本当に信じていたのでしょうか。彼のカルテを見たわけではないので決めつけることはできませんが普通に考えれば癌の肝転移から衰弱死という経過だったと思われます。「肝炎」が実際に輸血後に起こっていたとしても、少なくとも肝硬変がこんなに早く進行することはあり得ません。当時はまだC型肝炎の存在は知られていなかったので上記のような記述も通っていたのでしょうが。

筑紫:追加発言 仲さんありがとうございます。拝見するにつれて、遷子の自分に対する声(私への声)と秋桜子や俳句の同僚、家族に対する声(半ば公の声)とがゆれながら交わっている感じを受けます。ごく普通に我々は建前と本音を使い分けていますが、病気のような私的な事件であっても、激励してくれる仲間や家族に対して彼らの善意を無にしないために建前から頑張る必要があり、本来私的な発声であるべき俳句においてもそれがにじみ出てくるような気がするのです。社会性の次には、遷子はこうした述志の文学としての俳句に立ち向かう事態となっていったように思うのです。うがち過ぎかもしれませんが、我々はまれにしか見ることのできない事態に立ち会っているような気がします。もちろん、特殊な事態ではありますが、いずれ誰もが死すべき宿命の中では普遍的な命題です。それを俳句という形式で語っているところが、特殊なのです。

今回の「遷子を読む」を続けているうちに、遷子という人物が、不安で苦しくてしょうがなくても、こと自分の死に関しては本音を詠めなかったひとなのではないかという気もしてきました。家長であり、馬酔木の幹部・同人会長であり、愛すべき人々に囲まれていると、そうした不安を思っていても詠めないのでしょう。立派に死ななければならない、つらいことだと思います。しかし、責任の方がもっと重要でした。昔の武士が意地になって切腹して果てるのと似ています。時代がちょっと変わったとたんに愚かしくもみえますが、それがまた一種の美学であったのでしょう。

だから、本当は死にたくない、とか、不安で不安でしょうがないとのたうちまって詠みたいところを

冬麗の微塵となりて去らんとす

と美しく詠んで果てるのが遷子の意志だったのです。醜くあっても人間の真相に迫るのをリアリズムとすれば、ここにはそうしたものはありません。なにしろ、絶句というべきこの句を遷子は推敲しているのですから(初案「に何も残さず」でした)。

そしてまた、そうしたあり方をたたえているのが我々なのです。どこか死病と戦った子規にも似た思いで遷子を読んでいる自分に気がつくのです。

--------------------------------------------------

■関連記事

はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔1〕 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔2〕 冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔4〕 春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔5〕 くろぐろと雪片ひと日空埋む・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔6〕 筒鳥に涙あふれて失語症・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 読む
遷子を読む〔7〕 昼の虫しづかに雲の動きをり/晩霜におびえて星の瞬けり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔9〕 戻り来しわが家も黴のにほふなり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔10〕 農婦病むまはり夏蠶が桑はむも・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔11〕 汗の往診幾千なさば業果てむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔12〕 雛の眼のいづこを見つつ流さるる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔18〕老い父に日は長からむ日短か・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔19〕田植見てまた田植見て一人旅・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔20〕空澄みてまんさく咲くや雪の上・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔22〕山の虫なべて出て舞ふ秋日和・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔23〕百姓は地を剰さざる黍の風・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔24〕雪降るや経文不明ありがたし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔25〕山深く花野はありて人はゐず ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔26〕星たちの深夜のうたげ道凍り ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔27〕畦塗りにどこかの町の昼花火・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔28〕高空は疾き風らしも花林檎・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔29〕暮の町老後に読まむ書をもとむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔30〕山の雪俄かに近し菜を洗ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔31〕一本の木蔭に群れて汗拭ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井  →読む
遷子を読む〔32〕ストーヴや革命を怖れ保守を憎み・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔33〕雪山のどの墓もどの墓も村へ向く・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔34〕幾度ぞ君に清瀬の椿どき・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔35〕わが山河まだ見尽さず花辛夷・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔36〕霧氷咲き町の空なる太初の日・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔37〕霧木枯に星斗爛■たり憎む (■=火偏に干)・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔38〕萬象に影をゆるさず日の盛・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔38〕-2 特別編 遷子はいかにして開業医となったのか・・・仲寒蝉 →読む
遷子を読む〔39〕大雪のわが掻きし道人通る・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井  →読む
遷子を読む(39)-2 特別編2 「遷子を読む」を読んで(上)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井  →読む
遷子を読む〔40〕夕涼や生き物飼はず花作らず・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む(40)-2 特別編3 「遷子を読む」を読んで(中)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む
遷子を読む(39)-3 特別編4 「遷子を読む」を読んで(下)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔41〕しづけさに山蟻われを噛みにけり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔42〕凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔43〕瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。


2010年1月24日日曜日

第75号

第75号

2010年1月24日発行

閑中俳句日記(21)

眉村卓句集『霧を行く』

          ・・・関 悦史   →読む

遷子を読む

〔43〕瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(67)

七曜俳句クロニクルⅩⅩ

          ・・・冨田拓也   →読む

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

■バックナンバーの入り口は右上にあります。「第?号~ のバックナンバーはこちら」をクリックしてください。

■記事タイトルの右側にある「⇒読む」をクリックすると記事の内容が表示されます。最新号の表紙に戻りたいときは、最上部のブログタイトル「―俳句空間―豈weekly」をクリックしてください。

■ コメントは、各記事の下方にある「コメントを投稿」をクリックしてください。画面右側の記入欄にコメントを書き込みます。記入欄の下に「個人情報を選択 Choose an identity」という項目がありますので「名前/URL」を選び(URLは空白も可)お名前を記入してください。

あとがき(第75号)

あとがき(第75号)


■高山れおな

月火水と仕事で京都と七尾を廻ってきました。先週の日曜日の夜から月曜日の未明にかけて、前号掲出の拙稿を書いたものですから、つまりは徹夜で新幹線に乗ったのです。まあ、車中爆睡すればいいやという思いつきで、予定になかった原稿を急遽書いたということなのでした。これに近いケースはこれまでも幾度もあったのですが、不思議と京都を寝過ごしたことはありません。東京の地下鉄ではよくやるのに。

七尾では守護大名の畠山氏の居城だった七尾城の跡に登りました。一昨年の秋でしたか、丹波の黒井城というこれも戦国時代の山城跡に登って酷い目に遭いましたので、今回も戦々恐々としていたところ、幸い、山上の郭のすぐ下まで車で上がれたので心配していたようなことはありませんでした。もちろん雪が厚く積もっていて、普通の革靴を履いていたものですからぐずぐずになってしまいましたが。

足袋あぶる能登の七尾の駅火鉢 細見綾子


■中村安伸

みなさま、俳句関連、職場の新年会等々で、お忙しいことと存じます。私は昨日新年会があり、本日は講演会ということで、二日続けて家をあけることとなります。昨日お会いした方のなかには、三日連続で俳句関連のイベントに参加されるという方もいらっしゃいました。なにとぞお身体にはお気をつけくださいますよう。


俳句九十九折(67) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩ ・・・冨田拓也

俳句九十九折(67)
七曜俳句クロニクル ⅩⅩ

                       ・・・冨田拓也
1月18日 月曜日

昭和三十年代あるいは四十年代のはじめだつたか、前衛川柳の何人かの人と、私とを、金子さんは引き合わせてくれた。今はやりの風俗的な、口あたりのいい川柳とはちがう川柳。今、心ある新鋭たちが柳壇の再興をねがつて論をかさね、作品を書いてゐるのを読むと、この人たちの先輩にあたるのが、金子さんが引き合わせてくれたかれらだつたのだと思ふ。あの謎のやうな一群の川柳人たちと、私は、巣鴨か大塚あたりの小さなホテルの一室で合議したことがある。あれは一体なんだつたのだらう。大方は私の方の事情で、この会議は続かなかつたが、金子兜太の、俳壇を超越した動きの一端はあのあたりにもあつた。

上記は『金子兜太の世界』(角川学芸出版 2009)所載の岡井隆「金子兜太といふキーパースン」という文章からの引用である。

これらの「謎のやうな川柳人たち」というものが一体どのような人々であったのか具体的にわからないのが残念であるが、川柳にも前衛的な試みへの動きがあったということ、また、それが当時の俳句や短歌を巡る状況とも少なからず歩調を合わせていた部分があったことなど、こういった事実について自分はやや意外な思いをするところがあった。それは、当時の短詩型の試みに川柳というジャンルもけっして無縁ではなかったという事実への驚きということになろうか。

その前衛的といわれるような川柳の作品をいくつかざっと読んだ印象ではあるが、それこそ三橋鷹女や大原テルカズといった作者の作風をそのまま髣髴とさせるような、やや異様ともいうべき迫力を秘めたものが少なくないように見受けられた。

そしてそれは、当時の前衛俳句の作者であった、堀葦男、鈴木六林男、林田紀音夫、八木三日女、島津亮、東川紀志男、大橋嶺夫などの作風とも共通するものが感じられるところがあり、そこに時代の雰囲気や特徴といったものを見出すことが可能であるかもしれない。

また、このような川柳作品からは、無季俳句や自由律俳句といったものの可能性を考える上においてヒントとなるようなものを、いくつも見出すことが可能なのではないかという気もするところがある。

たちあがると 鬼である  中村冨二

一散に馳ける夕焼けに救われんとし  河野春三

ピストルの弾に山河の映るとき  林田馬行

文学や月の切尖われに向く  小宮山雅登

牧神が水浴びの日記より逃げる  墨作二郎

きみは 夢屋か ぼくは ころし屋  草刈蒼之助

人の世の桝をこぼれる豆のかず  前田芙巳代

滅裂の時計はうてり緋の正午  渡部可奈子

幾山河 凍る手を抱き帰らねば  福島真澄

涅槃図へ風とひとりが吸いこまれ  寺尾俊平



1月20日 水曜日

書店でリルケの新刊(正しくは復刊か)を2冊ほど見かけた。単なる勝手な思い込みかもしれないが、最近リルケに少なからず注目が集まりつつあるところがあるのであろうか。

しかしながら、リルケにしてもそうであるが、ゲーテやカフカ、パウル・ツェランなど、日本人はやはりドイツの文学というものが相当に好きなのだろうか。ドイツの文学が日本の文芸に与えた影響というものを考えると、計り知れないものがあるように思われる。そういえば、かの俳人飯田蛇笏の作風にも、ドイツロマン主義が、少なからず影響を与えているところがあったという話を読んだこともある。

あと、確かリルケは俳句にも興味を持っていて、俳句のような短い詩がいくつかあったのではないか、ということも思い出すところがあった。



1月22日 金曜日

ふと『恋は五・七・五!』という映画があったことを思い出した。2004年の作であるらしい。俳句関連の映画というものは、おそらく数ある映画の中でも珍しい部類に属するものであろう。自分はこの映画を見たことがない。面白いのだろうか。

それはともあれ、こういった俳句に関する映画というものは、この『恋は五・七・五!』以外には存在しないのであろうか。自分には、他に、俳句に関する映画の存在といったものは、全く思い浮かばない。

映画の方はともあれ、小説の方では、芭蕉や一茶、山頭火などといったように俳句及び俳人の存在が取り上げられることが割合少なくないように思われる。

漫画については、どうであろうか。こちらも映画と同様、思った以上に俳句を取り扱った作品の数は少ないような気がする。

自分がそのような漫画の存在を思い浮かべることが出来るのは、せいぜい、俳人「井上井月」を取り上げたつげ義春の『無能の人』、「山頭火」を取り上げた勝又進の短篇「夢の精」(『赤い雪』(青林工藝社 2005)所載)、齋藤なずなの短篇「青い山」(『千年の夢』(小学館文庫 2002)所載)くらいであろうか。

他には「あすなひろし」という漫画家が亡くなる前に「山頭火」をモデルにした漫画を書こうと試みていたらしく、また、梅図かずおの『イアラ』(小学館文庫)には、ほんの少しではあるが芭蕉が登場していたような記憶もある。あと花輪和一の『刑務所の中』(講談社漫画文庫)に、作者のモデルと思しき主人公が俳句を詠む場面があったはずである。それでもやはり俳句に関する漫画というのは、せいぜいのところこのくらいであろうか。

明治の文豪を活写した、谷口ジロ―と関川夏央による「『坊ちゃん』の時代」(双葉文庫)という漫画があるが、このような漫画の存在が俳句にもあれば面白いかもしれない。(そういえば、関川夏央には戦後の短歌史を叙述した『現代短歌そのこころみ』(NHK出版 2004 現在、集英社文庫)という著書の存在もあった。)

ともあれ、やはり、俳句そのものを本格的に取り扱った漫画作品というものは、未だに登場していないといっていいのではないか、という気がする。

そして、俳句という文芸そのもの、またはそれをめぐる状況に対して、今後多大な影響をもたらす可能性のありそうなものを考えてみた場合、自分には、俳句をテーマにした漫画以外には有り得ないのではないか、という気すらするところがある。

今後、時代やフィクション、ノンフィクションを問わず、俳句の魅力といったものを十全に伝播し得るだけの表現力を備えた優れた俳句の長篇のストーリー漫画というものが登場すれば、俳句をめぐる状況といったものも、なにかしらのかたちで少なからず変容するところがあるかもしれない。



1月23日 土曜日

このところ俳句、現代詩、短歌、川柳等々で、頭の中が滅茶苦茶というかほとんど「カオス」と化しつつある。また、部屋の中にある様々な資料についてもやはり同じく「カオス」というか、それこそやや軽い悪夢に近いような様相を呈しつつあり、その資料の堆積といったものを眺めていると、どことなく仏教の説話の、賽の河原で子供が延々と石を積み続ける行為といったものが思い浮かんでくるところがあり、自分の続けている数々の詩句の意味をひたすら読み取るといった行為も、もしかしたらこういった延々と石を積み続ける行為にも似たよくわけのわからない「苦行」に近いものであるのかもしれないな、と思われてくるようなところもないではない。

何が言いたいのかというと、取り上げたい句集や歌集も少なくないのだが、このような状況ゆえなかなか俎上に載せることができない、ということなのである。

ともあれ、今回はこの「カオス」ともいうべき状況の中から、とりあえず新しく刊行された山田耕司句集『大風呂敷』(2010年1月19日 大風呂敷出版局)について、簡単にではあるが、少しばかり紹介させていただくことにしたい。

山田耕司さんは1967年の生れで、高校生の時から俳句を書いておられたそうである。現在は「円錐」同人。今回の句集については、これが第1句集ということになるようで、総合誌である『俳句界』の最新号2010年の1月号の137ページには、この句集の刊行に先だって『大風呂敷』の広告が出ており〈18歳での登場から25年。昭和最後の新人、復活!〉とあり、さらに〈なにをいまさら、山田耕司〉という句集の宣伝としては大変異色ともいうべき惹句が掲載されている。

一応、句集の構成としては、「桐生」、「少年兵」、「夜の雪」、「よぢりすぢり」の全4章から成るもので、全200句が収録されている。

「桐生」

多佳子忌と知らず遠雷録音す

夏休み蟹座の友の胸囲かな

勲章を磨かず納屋の宇宙論

「桐生」の章より。この章の作品は全24句からなり、高校生の時の作であるようで、かの林桂さんが当時の先生であったということでその影響からであるのか、なんとも珍妙な句の存在が少なくないが、やはり全体的な雰囲気については、使用されている語彙にしてもそうであるが、非常に若いといった印象を受ける。また同じくその語彙からは、若干ながら寺山修司の句を連想させるところもあるといえよう。

「少年兵」

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ

蚊柱や影のかたちに我育ち

永き日の日の水没の水煙

味噌汁に映るわれらや世紀末


「少年兵」の章は主に1985年あたりから1991年あたりまでの作品が収められている。年齢的には作者の大体18歳から24歳あたりということになろうか。「少年兵追ひつめられて」の句については小林恭二や林桂などが当時の評論で取り上げていて、個人的には大変「有名な句」である。当時の1989年の毎日グラフの別冊『俳句 HAIKU』にもこの句は著者の写真とともに掲載されている。この句はどうやら山口誓子の〈パンツ脱ぐ遠き少年泳ぐのか〉のパロディであるらしい。また今回の句集には収録されていないが当時には〈大岩石恐竜燃える夢を見て〉〈全裸なり金星に頬を焼かしむ〉などといった句もあったらしく、この時期におけるこの作者の未収録の句にも優れた作品の存在が少なくないのかもしれない。

「夜の雪」

友の忌の蚊柱なれば浴びにけり

浴室に鯨を待てば夜の雪

本懐は男子のものかゆでたまご

今生はおきどころなし濡れしやもじ



「よぢりすぢり」

天文や地べたに漬物石を置き

春の夜に釘たつぷりとこぼしけり

秋雨や花札の山ふたつ伏し

短夜の紙ヒコ―キに李白の詩

箸を逃げ骨に春昼あかるけれ


「夜の雪」と「よぢりすぢり」の章についてであるが、作者は1991年に俳句から離れることになる。そして約10年に及ぶ沈黙を経て、再び俳句を始め、2002年から「円錐」に作品の発表を開始。そしてその後の8年の間に書かれた作品からこの2つの章は構成されているということになる。この章にも見るべき句がいくつもあり、作者の10年にも及ぶ沈黙の後も俳句作者としての詩心は、単純には失われてしまうことはなかったということになるようである。

句集全体としては、ナンセンスともいうべき妙な句から稚気溢れる句、また、真顔ともいうべき真率さを感じさせる句や、それこそ俳句らしい上手さをそのまま感じさせる句まで、なかなか幅広い作品が取り揃えられてあり、そこに30年弱にも及ぶ時間の堆積が1冊のうちに凝縮され封入されているという側面も加わり、それゆえになかなか多彩な相貌を有するという結果に到ったやや異色の句集であるということができそうである。

--------------------------------------------------

■関連記事

俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(56) 七曜俳句クロニクル Ⅸ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(59) 七曜俳句クロニクル ⅩⅡ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(60) 七曜俳句クロニクル ⅩⅢ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(61) 七曜俳句クロニクル ⅩⅣ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(62) 七曜俳句クロニクル ⅩⅤ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(63) 七曜俳句クロニクル ⅩⅥ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(64) 七曜俳句クロニクル ⅩⅦ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(65) 七曜俳句クロニクル ⅩⅧ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(66) 七曜俳句クロニクル ⅩⅨ・・・冨田拓也   →読む
-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。

閑中俳句日記21 眉村卓句集

閑中俳句日記(21)
眉村卓句集『霧を行く』



                       ・・・関 悦史


週刊俳句の新年詠に「スーパーコンピューター的白雲の壊(くわい)や元日の暮」などという句を出した祟りででもあろうか、この年末年始、2台あったパソコンが相前後して両方壊れた。

パソコンともども私の体調も壊れてしばらく休ませていただいていたので、今回がじつは今年最初の投稿となる。本年もよろしくお願いします。

先日SF作家の眉村卓氏に『新撰21』をファンレターを添えてお贈りしてみたところ、氏が去年上梓された句集『霧を行く』のサイン本を送ってきてくださった。眉村氏は私が小学生の頃から愛読してきた作家であり(入手困難なものが数冊あったと思うが、全作品の9割方は読んでいるのではないか)、取り上げないわけにはいかない。

句集『霧を行く』は巻末に「俳句と私」と題する長いあとがきがついていて、今までエッセイなどで断片的に知っていた眉村氏の来歴をかなり詳細にたどることができる。愛読者なら知っていることだが眉村氏は高校時代に俳句部に属している(「文芸部」が見当たらないという消極的な理由からだったらしいのだが)。

昭和9年生まれの眉村氏は新制中学の一期生、つまり高校に入ると一学年上の先輩から旧制中学の卒業生となるので、自由な雰囲気の新制中学からいきなり《議論を吹っかけられ、不勉強をなじられ、ときには命令を受ける》旧制ノリの部活でしごかれることになり、気風の違いに難儀したらしい。当時の投句先は「馬酔木」等で、部の講師にも「馬酔木」同人(澤田幻詩朗)を迎えている。

間を端折ってSF作家となってからの昭和40年代、眉村氏はパーティー会場で毎日新聞の赤尾記者と知り合う。これが俳人の赤尾兜子であった。

この縁で「渦」に入会し、SF的な感覚を句に盛り込めないかと苦心しはじめて、うまくいかずにいる最中、兜子からさらに追い打ちをかけられる。《というより、私の小説の書き方そのものを考え直すきっかけを与えられることになった。何かの折に赤尾兜子氏が、私の書いた小説を前にして、「眉ちゃん、これは俳句の文章やで。こんなもん、散文で書いとったら売れへんよ。もっとわかるように書かんと」》

この言を容れて以後書き方が変わったというのだが、眉村卓と赤尾兜子、この二人の作家にまるっきり別々に親しんできた私などからすると、二人がこういうことを率直に言い合える仲であったということに感慨を覚える。眉村氏はのち兜子の他に伊丹三樹彦氏らも交え総勢7人で、ヨーロッパ旅行(当時はおおごとであった)をも共にしている。

その後兜子の急死、本業の多忙等でしばらく句作からは離れることになるのだが、復活したのが平成9年、悦子夫人のがん発病によってだった。

『妻に捧げた1778話』(新潮新書)に詳しいのだが、夫人の気を引き立たせるため、眉村氏は毎日1本、3枚以上のショートショートを夫人のためだけに創作するという作家ならではの看病の日々に入る。売り物になるレベルを心がけたショートショート創作の一方、《これと平行してにじみ出るような感じで、少しずつ、結構素直な俳句ができるようになってきた》。のち「渦」にも復帰し、エッセイやカット(マンガ的な簡素なイラストがまた味わいがあるのだ)ともども句を寄せるようになったという。氏と俳句との関わり拾うとざっと以上のようなことになる(余談ながらこの『妻に捧げた1778話』は草彅剛主演で映画化されるそうで、SF界における事績を離れて“奇跡と感動の夫婦愛の作家”にされてしまうことには、長年のファンとしてはやや複雑なものがある。眉村氏ら第一世代の作家たちは日本にSFを根付かせるためにある時期まで学習雑誌にジュブナイル作品を多数執筆し、それらの作品がまた女性アイドルを主演に据えやすいためか、NHKのドラマや角川映画等で映像化の機会に恵まれ続けるということになってきたので、この世代のSF作家はミステリ作家と違い、それでなくても一般的には主要作以外の作品で知られていることが多いのだ。眉村氏でいえば『ねらわれた学園』『なぞの転校生』など。眉村氏と同郷同年齢の筒井康隆作品でも『時をかける少女』が映像化の回数で際立っている)。

眉村氏の句集出版は今回が初めてで、内容は3部に分かれる。

Ⅰは高校時代から勤め人生活を経てSF作家となるまで。

ⅡはSF作家に転身後、夫人の病気・死別まで。

Ⅲがそれ以後となる。

私家版にするつもりだったが、齋藤愼爾氏が手伝いを申し出て商業出版のかたちとなったとのこと。

渡り鳥空の一点よりひろがる

冬霧を集めて門に灯がともる

寒灯の輪の沈黙に歩きだす

車庫の灯の届く限りを雪降れり

最初期に限らず「灯」に惹かれている句が多い。

一点の明かりの他界性に想いを託すという作りは類想も生じがちで、初学の時期だけで止められてしまうことが多いのか、専業俳人の作ではあまり見かけない。よってこの辺の句は小説家一代の句集ならではの採録かもしれないのだが、《冬霧を集めて門に灯がともる》には渡辺白泉《街燈は夜霧にぬれるためにある》に通じるモダンな感覚への志向が窺える。「ぬれるためにある」という白泉句の見立ての才気と色気に比べると、こちらの擬人化は「集めて」にかかっていて、霧の中の門灯のみと朴訥に対峙しあっている印象。白泉の街燈はレトリックの鋭敏さが際立つ外在的な素材、眉村氏の門灯はより内面に入り込み、語りかけてきそうな生気を帯びつつ静まっているといった違いが見て取れる。

ポケットの硬貨鳴りをり虹残る

夜風なか思ひなほして蜜柑買ふ

残雪を踏みくれば怒濤くだけをり

以上は勤め人になってからの作と思しく、生活から来る混沌が少し混じり始めているようで、だんだん句の内実が豊かになってくる。

霜の坂揃ひ出づるも馴れにけり

妻遅き霧の夜の窓並びたる

湯気立てて少し酔ひたる妻の唄

長女出生雪の夜を生れて深く眠るなり

夫人との共働きから長女出生まで。

いずれも情と生活実感が素直に出て一見地味ながら実があり、《湯気立てて少し酔ひたる妻の唄》などは夫人の身体がそこにあるという現前感と上機嫌さが巧まずして現れていて、読む者の心にすっと入ってくる。

     Ⅱ

湯ざめつつ異形の美女の宇宙劇

テレビでやっていた特撮映画ででもあろうか。詠まれた時期がよくわからないが、『スター・ウォーズ』が大ヒットした頃にSFブームと呼ばれるものが一度あったらしい。地道に原稿を書いている小説家からすると無縁の空騒ぎとも感じられたようで、この句など日本にもSF的なものが一般化してきたと心強く思っているというよりは、こういう活劇ものだけがSFと思われては困るのだとやや索然としつつ眺めていた可能性もある。

去りし町どこかで布団叩く音

永くバス待ちて案山子の視野の中

腰高の稲架の鮮明すぎる影

この辺の句は本業の方、奇妙な味のショートショートや短編を成り立たせる不安感と同質のものが見て取れる。

《去りし町どこかで布団叩く音》は語り手が不在となった町の生活音を描いている。これは本当に人々が暮らしているのか、それとも何やらあやしげな機械装置の類が人の生活を模してみせているだけなのか。人が滅んでも布団を叩く音だけは勝手に立ち続けていそうで、町というのも親しげなサイズながらよそ者にとってはその正体を把握しきれぬやや不気味なところのあるものでもある(たしか、住人がいなくなった集合住宅を機械仕掛けの生活音で満たすというショートショートもあったはずだ。『午後の楽隊』に収録されていたと思うのだが)。

勤務校探検木の芽みな吹かれ

めちやくちやに枯木に刺され日が沈む

影過ぎて冬田に夕陽あるを知る

立つは松曇りて暗き雪の原

眉村氏は大阪芸大に教授(現在は客員教授)として勤めているので「勤務校」はそこから来たと思しい。《木の芽みな吹かれ》に明るい季感があって、未知なる大建築の探検が楽しそうである。

《めちやくちやに枯木に刺され》て沈む日や、《影》が過ぎる《冬田》は映像性と内面性が両立しているが、ファンとしては不安感の強い作りがやや気になる。

妻元気並木の辛夷咲き始め

癒えよ妻初燕見てはしやぎをり

ぞんざいに言はれもの買ふ暑気中り

軽口を恥ぢて西日の中帰る

七夕竹灯を掩ひゐる胸騒ぎ

病院のいづこ虫鳴く風入れて

風花して妻小康に似る日あり

春嵐持ち直しつつ妻眠る

卯月雨妻への処置を廊下で待つ

紫陽花よ妻確実に死へ進む

西日への帰途の彼方に妻は亡し

ご夫人の発病後の句をまとめて引いた。内容については多言の必要はないと思う。

     Ⅲ

妻逝きし病院を訪ふ秋の雲

妻の居ぬ病院秋のひと満ちて

際限もなく銀杏散る明る過ぎる

これは私も似た経験をしているのだが、死亡診断書が何通も必要になったりして、一、二度はどうしても病院を再訪する必要が出てくるのだ。そして来る度に看病していた時空がいきなり生々しく蘇り、未だに相手が病室で待っている気がして、その不在感に毎回改めて胸が騒ぐのである。

歳末の満月笑ひついてくる

月がついてくるだけならば類想が多々ありそうだが、「歳末」で人事、人の世の濁りが介入した。個人内部の幻想ではなくて、生活空間、世間で満月が笑いついてくるわけで、「満月」が象徴にも写生にもおさまりきらず、微妙にずれたところに浮かぶ変な生き物のようである。

幕末よ薄暑の砂利を踏みつづけ

朱雀門の奥は時間のなき枯野

この古墳築きし日々よ花曇

つけし人ら今亡し梅雨のティアラ展

歴史探訪的な旅行の句も幾つかある。ちなみに「幕末」については、NHK少年ドラマ『幕末未来人』の原作となった「名残の雪」という短篇が『思いあがりの夏』に収録されている。

加速する時間の雫鬱王忌

渦俳句会編『鑑賞赤尾兜子百句』(立風書房)という本に眉村氏も一句鑑賞を寄せている。そこで氏は《踊りの輪挫きし足は闇へゆく 兜子》を取り上げ、兜子本人の不安を忖度していた。俳句という踊りの輪において自分は既に足を挫いているのではという疑いを兜子が抱えていたのではないかと。

《大雷雨鬱王と会うあさの夢 兜子》では一応別のペルソナに分かれて対面していた「鬱王」と兜子、忌日の呼び名が「鬱王忌」と定まるともはや鬱王の正体は兜子自身のことという一体化が露呈しているようだ。この痛ましい癒着が「大雷雨」が「雫」となるまでの歳月を経ても眉村氏の中に残り続けている。

愛読者というのは眉村卓氏の俳句を読むのにじつは一番ふさわしくない立場なのではないかと思いつつ書きつづって来たのではあるが、思いのほか長くなり、きりがなくなってきた。『霧を行く』なのにきりがないのでは先へ行けぬという駄洒落のつもりはさらさらないのではあるが、以下は抜粋句を引くに留める。

暗い心象をあらわしている句も少なくはないが、頂いた礼状には、また何度目かの作風変化に入りつつあるようですと、衰えぬ創作意欲が窺われる文言もあった。夫人を偲ぶ真情の句でも《若かりし妻下り来るか青草土手》などは飾らぬ詠みぶりの中、「青草土手」のゴツゴツした字余りに実体感と明るい光の遍満があって余技の域の作ではない。一ファンとして、今後の益々の御健筆をお祈りします。

秋服に亡き妻のメモ文字勁し

堰鳴つて二月の山に迷ひをり

ロケはじまる谷なす森の法師蝉

水撒きて青鬼通りさうな夕

夢の日々炎昼をパン買ひ戻る

ぎらぎらの寒満月に門とざす

会議あと河内野大き虹得たり

小指ほどのガラスの鳥よ隙間風

病妻が待ちゐし記憶春の雪

銀木犀の空に昭和のあるごとし

草にまぎれ得ぬ秋蝶をみつめをり

降る雪原に派手な巨人を寝させたし

両手振り女去りゆく枯野道

照り出てて立体となる新芽たち

更けて火にむらさきまじる夏暖炉

あの人がゐるかもの町濃紫陽花

向日葵が全部目となるさやうなら

冬の鬱で来しがペンギン並び立つ

冬の噴水また立ちあがる暗き午後

蝶多き池なり手帳失ひて

老鶯や寄れば天までダムの壁

古書漁りして映画見てわが晩夏


-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。


遷子を読む(43)

遷子を読む(43)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり
『草枕』所収

筑紫:戦前の遷子の代表句といってよいでしょうし、馬酔木の自然詠を代表する句といってもよいでしょう。秋桜子が戦後那智を訪れて

瀧落ちて群青世界とどろけり

の句を詠むに当たり頭にあったのはこの句であったといわれます。「群青世界」の観念美は、遷子の写実美に負けまいとする秋桜子の緊張感が作り出した幻想であったと思われます。

類似の句で、

神にませばまことうるわし那智の瀧 虚子

も悪くはありませんが、いかんせん趣味の句であり、瀧と格闘している句とはいえないと思います。

水の上に瀧現れて落ちにけり 夜半

は瀧の句の極め付けとされています。それを否定するものではありませんが、この構図は何べんでも現れかねないパターンを生み出します。瀧だけを素材にして俳句を詠めといわれればこうなるしかない、実際この句の詠まれた直後に同じパターンの作品を一流の作家ですらしばしば詠んでいます。そうした中で、遷子の句は屹立しています。

実は瀧の句とは近代の句でありました。江戸俳諧が関心を持ったのは、瀧殿や瀧見茶屋であり、大自然のなかで水の塊となって落ちる瀧水に目をやるようになったのは近代になってからでした(〈たうたうと瀧の落ち込む茂りかな 士朗〉がありますが、これの季題は茂りですよね)。近代俳句の瀧の系譜の中でこの句は今日も輝いていると思います。

    

なお言えば、「瀧をささげ」に日本人が忘れて久しい自然に対する敬虔さが伺えるようにも思います。万葉集のごく初期に見られる、「とりよろふ 天の香具山」とか「名ぐはし 吉野の山」と呼びかけていた素朴な自然に対する素朴な情感がよみがえる気もするのです。秋桜子一派を「万葉派」と呼んだのですが、それは万葉の風景を読むだけでなく、万葉の真情を再現するところまで進んでこそ初めて適切な名称といえるのではないでしょうか。

中西:若い頃の遷子は医局の句会の先輩達に、兼題の例句として暗記した句を次々と教え、秋桜子はその例句が時代と各派にまたがって広範囲であることに驚いたというエピソードを書いていますが、このことは勉強盛りの遷子を彷彿させるものです。この句も俳句を一生懸命に学んでいる頃の句かと思います。

磐井さんが仰っていた中で、馬酔木の自然詠の代表句であることはすぐに納得できたのですが、「万葉の真情を再現している〈万葉派〉の句である」というご指摘に、馬酔木の〈万葉派〉の奥深さにはじめて触れたように思いました。

この句と並んで、

かの茂る山乗り越えておとす瀧
かの茂る山截ち裂きてとよむ瀧

などがあります。どちらも細かく描写していながら観念的になっているようです。那智の瀧5句の中のトップに載っているこの句の迫力は他の4句を圧倒しています。

「遷子を読む(41)」で磐井さんがこの句を引いて、遷子の自然というのは、没入することによってあらゆるものを切り捨てる、一種の行のようなものと読んでいるという発言に感心しました。自然に没入して作っているのをこの句から直に感じることができるように思います。しかし、行のような作業というのは、もしかして自然を観念化する作業ではなかったかとも考えました。上に揚げた2句も観念を指摘したのですが、観念が観念と感じさせないで、突き抜けた時、佳句が生まれるのではないでしょうか。掲出句はまさにその典型的な例なのではないかと思いました。

原:実はあまり響いてこない句だったのです。あの有名な『那智瀧図』を、言葉に置き換えればこうなるかなと思うのですが、それ以上には取り付くしまがないというのが正直なところです。私は細やかな味わいの景が好きなのかもしれませんね。むしろ、例に挙げてくださった〈たうたうと瀧の落ち込む茂りかな〉の方に、空気や色彩を感じて好きなくらいです。

ただ、「瀧をささげ」のフレーズには「自然に対する敬虔さが伺える」という磐井さんのご指摘には、全面的に同感します。

深谷:句集『山国』の序文に、秋桜子は〈熊野川の句は殊に感銘が深くて、私が南紀に行ったときは、これを一つの範例として、作句の参考としたのであった〉と寄せていますが、掲句はこの熊野川の句の直後に置かれています(なお、戦後すぐの時期に発行された私家版『草枕』では別配列)。掲句も秋桜子の作品に影響を与えたことは、想像に難くなく、筑紫さんが指摘されたとおりでしょう。

確かに掲句は遷子の代表句として名高い作品ですが、正直に告白すれば、初見時より「瀧をささげ」が解りませんでした。「ささげる」の意味を「献上する」というニュアンスで捉えてしまったからです。ですから、ささげるという行為の主体は「那智の山々」なのでしょうが、こうした擬人法が少々あざといという印象を受けたものです。しかし今回あらためて掲句に接し、「ささげる」が「上方にかかげる」という意味だと解した時、永年の疑問が氷解しました。そう考えると掲句は、スケールの大きさを感じこそすれ、ネガティブなわざとらしさは影を潜めました。そして、そのスケールの大きさの底流には、筑紫さんが基調コメントで指摘されたように、「自然に対する敬虔さ」があると思います。そう考えた時、掲句は単なる自然描写から自然賛歌あるいは「那智という土地に対する畏敬の表明」に昇華したように感じます。

窪田:この句を作った昭和13年は、遷子が「鶴」同人となった年。骨格のしっかりした自然詠が中心の作風です。句集『草枕』の「草枕」の章は、ほとんどが前書のある吟行句です。

遷子は、

「大陸行」以前の句はひたむきな投句家時代の所産であり、俳句に対して最も強い情熱を持っていた時のものである。

と『草枕』の序文で述べています。俳句に夢中になり自然の中に出掛け、それを深く見つめたことによって、自然崇拝の姿勢が出来上がったと思われます。

ですから、掲句の、「瀧をささげ」という措辞は技巧ではなく、筑紫さんの言われるように「自然に対する敬虔さ」が素直に表現されたものなのです。この「瀧をささげ」という措辞で、鬱蒼とした山を背景に瀧がぐっと前に立ち現われてきます。また、那智という地名も効果を上げています。「鬱蒼」「ささげ」と響き合い、神々しい趣を醸し出しています。

秋桜子は句集『山国』の序文で〈熊野川の句は殊に感銘が深くて、私が南紀へ行ったときは、これを一つの範例として、作句の参考とした〉と述べていて、

瀧落ちて群青世界とどろけり

の句がこれにあたると思われます。筑紫さんの、秋桜子の「群青世界」の句は、遷子の写実美に負けまいとして構築された観念美の世界という指摘には目を開かされました。

遷子が生涯変わらず持ち続けた自然崇拝の姿勢は、自然の中に溶け込ませるように身を置き作句したこの時期に身に付いたのでしょう。

仲:昨年の夏、「里」の面々で熊野を訪ねました。谷口智行という熊野市で開業する医師であり「運河」「湖心」にも所属する「里」同人の計らいにより熊野をあちこち見て回りました。もちろん那智の滝も。私にとってはこの滝を訪ねるのは2回目でした。高さや水量ということならこれに勝る滝は国内にも幾つかあるでしょうが神秘性というか神々しさという点においてはこれに勝る滝はあるまいとの意を一層強くしたのでした。

実は智行君は滝を後回しにして真っ先に滝の遥か奥の阿弥陀寺という所に案内してくれました。そこは熊野の人たちの魂が死んだら行くという場所で奥の院までの山道を行くと何とも言えない霊気を感じるのでした。熊野は不思議な土地です。古事記の記述を読んでもあそこには原初からの人達、大和朝廷にもまつろわぬ(一方で神武に力を貸したりもしたようですが)民が棲んでいたようです。熊野三山の祭神もアマテラスより以前、或いはそれに逆らった系列の神々というのも如何にも熊野らしい。

磐井さんの挙げられた秋桜子の「群青世界」の方は私の愛唱句の一つになっていますがこの句の方は今回まで知らずに来ました。「群青世界」はスケールが大きい代わりに滝を普遍化・抽象化していて必ずしも那智の滝でなくともよい感じがします。一方遷子の句の方はやはり那智の滝しかないという詠み振りです。磐井さんのおっしゃる万葉人の「自然に対する敬虔さ」に溢れており、それほどの畏敬は滝そのものを神格化した那智にこそ相応しいと思われるからです。また滝ばかりでなくその背景の鬱蒼とした森にも言及し、「紀の国=木の国」と言われた熊野の自然を取り入れています。

筑紫追記:40回を越えるようになるとそれぞれ自分の基準で採否を決めても気にならなくなってきました。原さんのご意見は尤もだと思います。というより、絵を言葉に写したものが馬酔木俳句の本質であり、理想であったと思っていたからです。「絵の具を使わない印象派」といってよいだろうと思います。しかし考えるて見ると、単語を色彩に置き換えてしまうというのも超絶的な技巧ではないでしょうか。つまらないと思いつつもここまで純化するとちょっとどころ技巧ではすみません、必ず挟雑物が入ってピュアでなくなるからです。もちろんそれがすばらしい文芸といえるかどうかは別として。だから、「それ以上に取り付くしまがない」というのは、俳句表現の近代化が目指したそのものであったからでしょう。情緒や連想やらを切り離して言葉は明瞭なイメージさえ結べばいいという発想です。秋桜子もそうですが、おそらく、素十と誓子が最もその極を行った作家であり、何がいったい面白いのかと思われるような事実描写だけで俳句を成り立たせていたわけです。現在、その近代化は嫌われています。問題はこれを乗り越えて何を作りえたかということです。遷子は社会的意識をそこに見つけたのでしょう。]

筑紫追記2:窪田さんは今回をもって研究会から抜けられることになりました。長らくのご参加ありがとうございました。メンバー一同感謝します]

--------------------------------------------------

■関連記事

はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔1〕 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔2〕 冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔4〕 春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔5〕 くろぐろと雪片ひと日空埋む・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔6〕 筒鳥に涙あふれて失語症・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 読む

遷子を読む〔7〕 昼の虫しづかに雲の動きをり/晩霜におびえて星の瞬けり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔9〕 戻り来しわが家も黴のにほふなり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔10〕 農婦病むまはり夏蠶が桑はむも・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔11〕 汗の往診幾千なさば業果てむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔12〕 雛の眼のいづこを見つつ流さるる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔18〕老い父に日は長からむ日短か・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔19〕田植見てまた田植見て一人旅・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔20〕空澄みてまんさく咲くや雪の上・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔22〕山の虫なべて出て舞ふ秋日和・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔23〕百姓は地を剰さざる黍の風・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔24〕雪降るや経文不明ありがたし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔25〕山深く花野はありて人はゐず ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔26〕星たちの深夜のうたげ道凍り ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔27〕畦塗りにどこかの町の昼花火・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔28〕高空は疾き風らしも花林檎・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔29〕暮の町老後に読まむ書をもとむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔30〕山の雪俄かに近し菜を洗ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔31〕一本の木蔭に群れて汗拭ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井  →読む

遷子を読む〔32〕ストーヴや革命を怖れ保守を憎み・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔33〕雪山のどの墓もどの墓も村へ向く・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔34〕幾度ぞ君に清瀬の椿どき・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔35〕わが山河まだ見尽さず花辛夷・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔36〕霧氷咲き町の空なる太初の日・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔37〕霧木枯に星斗爛■たり憎む (■=火偏に干)・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔38〕萬象に影をゆるさず日の盛・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔38〕-2 特別編 遷子はいかにして開業医となったのか・・・仲寒蝉 →読む

遷子を読む〔39〕大雪のわが掻きし道人通る・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井  →読む

遷子を読む(39)-2 特別編2 「遷子を読む」を読んで(上)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井  →読む

遷子を読む〔40〕夕涼や生き物飼はず花作らず・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む(40)-2 特別編3 「遷子を読む」を読んで(中)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む

遷子を読む(39)-3 特別編4 「遷子を読む」を読んで(下)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔41〕しづけさに山蟻われを噛みにけり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む

遷子を読む
〔42〕凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む


-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。

2010年1月18日月曜日

第74号

※1/18 「鶏頭論争もちょっと」を追加
第74号

2010年1月17日発行

鶏頭論争もちょっと

金原知典・しなだしん・峯尾文世・後閑達雄句集を読む

          ・・・高山れおな   →読む

俳句九十九折(66)

七曜俳句クロニクルⅩⅨ

          ・・・冨田拓也   →読む

遷子を読む

〔42〕凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井   →読む

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

■バックナンバーの入り口は右上にあります。「第?号~ のバックナンバーはこちら」をクリックしてください。

■記事タイトルの右側にある「⇒読む」をクリックすると記事の内容が表示されます。最新号の表紙に戻りたいときは、最上部のブログタイトル「―俳句空間―豈weekly」をクリックしてください。

■ コメントは、各記事の下方にある「コメントを投稿」をクリックしてください。画面右側の記入欄にコメントを書き込みます。記入欄の下に「個人情報を選択 Choose an identity」という項目がありますので「名前/URL」を選び(URLは空白も可)お名前を記入してください。

鶏頭論争もちょっと

鶏頭論争もちょっと
金原知典・しなだしん・峯尾文世・後閑達雄句集を読む


                       ・・・高山れおな


いただいたり、買ったりしたままになっていた句集をいくつか読みました。簡単に感想をしるしておきます。

金原知典句集『白色』 ふらんす堂 二〇〇九年
すぐれた写生句が多いことに感銘しました。

羽のあと胴が横切り鬼やんま
割るるとき追ひつく重み寒卵

この両句は自讃句でもあり、先生の斎藤夏風氏が序文でも賞賛しているように、この作者の特徴がよく出た佳句だと思います。その特徴とは、前句では視覚、後句では触覚において、対象を解体してゆくような把握の仕方にあります。細かく見て描写するというのは写生の基本的な方法のひとつなのでしょうが、細かい描写が統一感として立ち上がらず、解体するベクトルを一句の表面に残しているような印象をしばしば受けました。実際、

その新樹一羽を吸ひて二羽をはき
香煙に靡かぬ燭や日短か
一瞬の目の下の皺囀れる
横がほのまま遠ざかる百合鷗
湯豆腐のあとには星のうるほひも

などになると、細かすぎるゆえの鬱陶しさを覚えないでもありません。まあ、非常に微妙な話ではあって、これらの句にしても技術的には申し分なく立派なものであるのは見ての通りなのですが。全体にあまりに人格的なものの反映を抑制した、無味無臭の詠み口がそういう印象をもたらしているのかもしれないとは思いました。一方で、

昼過ぎの明るさかなし冬に入る
秋の薔薇人もひかりに包まれて

これらの句のような性急な抒情は、ややセンチメンタリズムに傾きすぎており、この人の本領とも思えません(栞で岸本尚毅さんは褒めていますが)。

弓なりに鎌倉の海七変化
金鯉の朧にすすむ冬はじめ
デパートの中はきらきら夕時雨
雪かなし上がる雪片あることも
つぎつぎに光の珠や川小春

個人的にはこのあたりの句にも感興を覚えました。一句目の「弓なりに」は海岸線の形とも取れますが、水平線のことを言っているとした方が、「七変化」の物質感がより生きるように思います。二句目、「冬はじめ」の巧さに舌を巻きます。日差しの弱まった季節の水の感じがよく出ています。四句目の「雪かなし」の歌い上げには、加舎白雄の〈日に悲し落葉ただよふ汐ざかひ〉を連想しました。下五の「あることも」が、ベストの表現かどうか疑わしいのが残念ではあります。


しなだしん句集『夜明』 ふらんす堂 二〇〇八年
帰省とはこのトンネルを抜けること
板の間に積む通夜客のアノラック
蟹いれてかにのおとする金盥
あきかぜのなかの周回おくれかな
秋の田の見えて商店街終る
雄鶏の貌はふくざつ霾れる
噴水の落ちてロックンロールかな

ごった返す雪国の通夜の様子を積み上げられた「アノラック」に焦点化する的確さ、商店街がいきなり「秋の田」に行き当たる鄙びた味わい、「貌はふくざつ」という投げやりでとぼけた表現の面白さ、噴水の水が弾けるさまを「ロックンロールかな」と捉えたシンプルかつ清新な見立て。鷹揚な詠みぶりのようでいて、「蟹」「かに」と書き分けたりする細心さもあります。新潟県柏崎の出身とのことで、出身地にちなむ風土性もあり、また何とも言えず人柄の良さのようなものが伝わってくるその句柄は、掲出の数句にも窺えるのではないでしょうか。読んでいて温かな気持ちになり、時々ふーと唸らせられる、そんな句集でした。


峯尾文世句集『微香性(HONOKA)』 富士見書房 二〇〇二年
結局、この句集でいちばん頑張っているのは、タイトルだったのかというのが読み終えての感想。怖いもの見たさ半分でこのタイトルのケレンに期待して読むと、いささか肩透かしを食います。

朝寒や乾ききつたる使ひ墨
我が髪を塵と拾ひて年の夜
秋草の乱れ廃れも秋の澄み

こうした侘びた、求心的な詠み口が悪いわけではないですが、看板からすると、

部屋ぢゆうに春衣掲げて嫁がずよ

のような方向の成功作がもっと欲しい感じではあります。

日記せば恋はをかしき炬燵かな
五分後は別れ月光に身をそらす

くらいだと少々物足りないでしょうか。むしろ地味ながら、

別れきて余寒の林檎厚く剥く

の「厚く剥く」にはさりげない昂ぶりの表現が見えるようで感心しました。もともと上田五千石に師事していて、「畦」終刊後に「銀化」に入ったとのこと。句集の後半になると、

にがうりの受難の相をそぎ落す
この風の冬の含有率いかに

と、まるきりの中原道夫調があらわになってくるのは、当たり前なのかも知れませんが、よいのやら悪いのやら。もちろん、この二句は面白いのですけれど。


後閑達雄句集『卵』 ふらんす堂 二〇〇九年
「俳句年鑑」の「今年の句集BEST15」に、小川軽舟と津川絵里子の両氏が挙げています。では、と期待して読みはじめました。「あとがき」によれば、〈俳句はうつ病がひどい時、母にすすめられ始めました。〉とのことで、こちらもそのつもりで読まないわけにはゆきません。基本的に只事の日常詠の範疇におさまる句ばかりですが、加藤かな文氏のようなポーズの只事、衒った只事ではなく、この人にとって、世界と関係を結び直すのに、俳句が大きな意味を持っているらしいことがひしひしと伝わってくる、そういう只事です。ちなみに集中に卵の句は幾つかありますが、句集名の根拠になったのは、

冷蔵庫まづは卵を並べけり

のようです。この几帳面さはなるほどいじらしい。あえて深読みすれば、このようにせねば、この作者の世界はそれこそ卵のように壊れてしまうということなのでしょう。

桜草楽譜のコピーあたたかく

これは良い感覚。他の句から徴しても、音楽が好きな人らしい。

一粒の息を吐きけり蜆貝

なんとも寂しい、可憐な句でほろりとします。

人よりも長き青春つくしんぼ

石田郷子氏が序文を書いていて、〈その後のやりとりで、ご両親と一緒に住んでおられること、日に三度、何種類もの薬を飲まなくてはならないということをうかがった。〉とあり、事実、医薬に関係する詠作は集中に少なくありません。この作者は句集刊行時点で不惑になっているはずで、「人よりも長き青春」はもとより若さを誇って言っているわけではありません。無類に率直な句だと思いました。

髙柳克弘「十七音に徹して読む」と坪内稔典「鶏頭の句は駄作」
「現代俳句の挑戦」の第十三回にあたるこの回の髙柳氏の文章(*1)で、ほー、そうなのかと思ったのは次の一節。

作品から「作者の思い」を読み取らなくてはならないという、俳句の読みの常識は、更新されるべき時期に来ていると思う。

私は髙柳氏がこの文章で述べている考えに全体として不賛成なので、つまり私もそのうちリセットされちゃうのね、とそんなことを思いました。ただ、それにしては隙の多い論旨で、言葉の運用ひとつとっても結構杜撰なのはいささか心もとなく思いました。掲出したセンテンスの先で、高柳氏は坪内稔典氏の「鶏頭の句は駄作」(*2)というエッセイを援用しつつ、正岡子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉をめぐる山口誓子や山本健吉の読みを、

作者である子規の境涯を裏付けに、「作者の意図」に近づこうとしている点においては、「鶏頭論争」に加わった評者のほとんどは共通している。

と、概括しています。髙柳氏は、「作者の思い」=「作者の意図」として済ませているようなのですが、両者は果たして同じものなのでしょうか。日本語の常識では、「作者の意図」は作者が作品を作るにあたって意識的に目指したものを指し、一方、「作者の思い」はしばしば作者自身にさえ自覚されないまま表現にこめられた、無意識的な要素をも包摂した概念なのではないでしょうか。実際、髙柳氏が引用する山本健吉や山口誓子の鑑賞文で、彼らが作者=子規の「意図」に近づこうとしている形跡はないように思われます。彼らがそこでなしているのは、ある程度は根拠があり、ある程度はフィクショナルな、子規の「経験」の追体験の提示の試み、とでもいうべきものだと思います。

そもそも髙柳氏が、自説の足がかりにしている坪内氏のエッセイが、私にはかなり無茶な暴論のように思えてなりません。

俳句は作者を抜きにして詠まれてきた。定型や季語の働き、表現のさまざまな技法などが一体化して一句の素晴らしさを作りだす。作者はその表現の力を生み出す創作の主体ではあるが、決して表に現れない。それが俳句の伝統だ。

今、俳句の伝統という言い方をしたが、俳句は句会を創作や鑑賞の第一の場としてきた。そこでは、句は無署名で投じられる。誰の作か分からなくして作品が鑑賞される。つまり、句会という場では作者はどうでもいいのである。肝要なのは表現そのもの。鶏頭の句も明治三十三年九月九日に子規を囲んで行われた句会で作られた。「鶏頭」が席題であり、この句、その句会ではほとんど注目されなかった。

こんな風に坪内氏は言うのですが、芭蕉の俳句史における意義を考えるだけでも、こんな論が成り立たないのは明白でしょう。「作者を抜き」にして詠まれ、読まれてきた貞門や談林の俳諧に対して、「創作の主体」である作者を表現の「表に現」したことにこそ芭蕉の俳諧の面目があったのですから。また、「鶏頭の十四五本も」を名句と認める立場からすれば、「明治三十三年九月九日」の句会でこの句が「ほとんど注目されなかった」のは、むしろ句会という読みの場の限界を露呈している、という言い方さえ可能です。坪内氏(それから髙柳氏も)が奉じる“句会幻想”は、私にはかなり異様に思われます。もちろんその幻想が、こんにちの俳句界の現象面での繁栄を支えていることまで否定するつもりはありませんが。しかし、先を急ぎすぎました。

「鶏頭の十四五本も」の句そのものに関して坪内氏は、

子規という作者を読むことで、鶏頭の句は高く評価されるようになったのではないか。この句をもう一度、作者名を消して句会に投じてみたい。そのとき、十四五本の鶏頭に末期の存在感(坪内が引いている司馬遼太郎の鑑賞文中にある言葉……引用者注)のようなものを感じるだろうか。私見ではこの句は平凡な作、いや、語るに足らない駄作である。

と全否定します。誰がどの句を全否定しようと自由ですが、私によくわからないのは、なぜ、子規の人生とセットで了解されている句を、あえてその人生から切り離さなくてはならないのかです。子規の人生とセットにすることでそこに感動が生まれるならセットにしておけばよいではありませんか。坪内の論にはさらにもうひとつの盲点があります。子規の「俳句稿」には、明治三十三年に限っても、〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉以外に、以下のような鶏頭の句があります。

萩刈て鶏頭の庭となりにけり
鶏頭や二度の野分に恙なし
鶏頭に車引き入るゝごみ屋哉
誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や
鶏頭の花にとまりしばつた哉
  送烏堂
鶏頭の林に君を送る哉
鶏頭の四五本秋の日和哉

これらの句もほぼ同時期に病床の子規によって詠まれた以上は、「十四五本も」の句と同様に子規の人生とセットにされ、誓子なり健吉なり司馬遼太郎なりから熱烈な賛辞を捧げらる資格があるはずなのですが、もちろんそんな事実はありません。「十四五本も」の句だけが選ばれて(最初にこの句を見出したのは斎藤茂吉)、讃えられ、貶され、現在でも議論し続けられているわけです。「十四五本も」の句を単に「子規という作者を読むこと」で名句を僭称する「語るに足らない駄作」としてしまうのは、いささか即断にすぎるというものです。なぜ、「十四五本も」の句だけが抽んでられているのか、他の鶏頭の句との差はなんなのか、性急に駄作と決め付ける前に、坪内氏にはそこのところを解き明かしていただければ有り難いと思います。なぜならそこにこそ、坪内氏が作者を捨象してまで関心を寄せる「定型や季語の働き、表現のさまざまな技法」の秘密があるはずだからです。もちろん、その秘密の解明が誰の手にも負えないものであるがゆえの鶏頭論争ではあるのでしょうが、現に他とは格段に異なる強さで子規の人生をおのれに引き寄せ、時に過剰なまでの読みを誘発する力をこの句が持っている以上、この句を名句と呼ぶに躊躇う理由はないのではないでしょうか。

(※)しなだしん句集『夜明』、峯尾文世句集『微香性(HONOKA)』、後閑達雄句集『卵』は著者から、また「船団」は編集部から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)「俳句」誌 二〇一〇年一月号
(*2)「船団」誌 第八十一号(二〇〇九年六月)

--------------------------------------------------

■関連記事


-------------------------------------------------


■関連書籍を以下より購入できます。




2010年1月17日日曜日

あとがき(第74号)

あとがき(第74号)


■高山れおな

うさぎさん、かちかち言うのは何の音だい。ここはかちかち山だからだよ。というわけで、生業の方でお尻に火がついております。しばし、俳諧国から遁走いたします。月火水と、京都経由で北陸に出張する予定ですが、今週の「遷子を読む」を読んだら、行く前から身も心も凍りついてしまいました。


■中村安伸

昨日、連句の会に参加いたしました。全くはじめてというわけではありませんでしたが、十年以上ぶりの二回目ということで、なかなか新鮮でした。先週のこの欄で作詞のことを書きましたが、連句もまた共同作業という点では作詞に似たところがあります。少なくとも私の場合は、俳句を作るときとは気持ちを切り替える必要がありました。


俳句九十九折(66) 七曜俳句クロニクル ⅩⅨ・・・冨田拓也

俳句九十九折(66)
七曜俳句クロニクル ⅩⅨ

                       ・・・冨田拓也

1月9日 土曜日

昼ごろ、関西の俳句のとある集まりに出席。例によって、自分は滅多に人前に姿をあらわさないため、ここへ出席させていただくのも約1年振りということになってしまった。

この集まりは、関西における名の知れたというか、まさに実力派というべき俳句作者が何人も顔を見せる会合で、その報告内容や意見交換のレベルは相当に高水準のもので、例によって自分はいつものごとく、ただ目をぱちくりとさせているのみであった、

会合の後、実作、論評ともに大変な膂力を誇るあるお方から、『新撰21』に収録されている拙作100句について、「ざっと読んだ印象ではあるが、それほど悪くはなかった」というご感想をいただき、随分とほっとするところがあった。

また、この間東京へ行った時もそうであったのだが、今回もこの「―俳句空間 豈―weekly」の自分の連載を読んでいると声を掛けて下さる方が何人もおられて、やはり俳句に興味を持っている方が読んで下さっているのだな、ということを実感するところがあった。



1月10日 日曜日

昨日、とある方より俳句誌『豆の木』を直接いただいた。たまに俳句の集まりなどへ出掛けると、何か貰えたりするので嬉しい。

『豆の木』は超結社で、なかなかの実力派の俳人が揃っており、またそれだけでなく全体的に遊び心といったものを大切にしているといった雰囲気に満ちた俳誌である。今回いただいたのは、2008年4月刊行の12号で、やや異色ともいうべき奇妙な面白みの感じられる作品がいくつも見出せる。

人口過密都市に毬藻を育てゐる  大石雄鬼

陸橋の前まで鷺でありにけり  こしのゆみこ

一房の一気に黒くなるバナナ  近恵

夕暮が見知らぬ蟹を連れてくる  さいばら天気

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ  田島健一

鳥の恋ノースカロライナへ無線  中嶋憲武

踝を固くプールに浮いている  三宅やよい

虚子の忌の鎌倉ハムの詰合せ  上野葉月

青鮫の来るほどシンク磨きけり  岡田由季

背伸びして風船つかむ文化の日  小野裕三



1月11日 月曜日

なんとなく「『天狼』と通俗性」といった考えが思い浮かぶ。

「天狼」は、いうまでもなく山口誓子の俳誌であり、その「天狼」における作者といっても多種多様であるが、何人ものこの天狼の系譜にあたる作者の作品を見ていると、その作風の根底には、容易に「通俗性」へと泥んでしまう危険性といったものが多分に抱懐されているところがあったのではないか、という気もする。



1月14日 木曜日

普段、「川柳」についてはほとんど読むことがないのであるが、この文芸についてもある程度目を通しておく必要があるのではないかという強迫観念と、ろくに読まないことへの後ろめたさといったものの双方に、随分と長い間苛まれ続けているところがある。

いまから何年か前にも同じような思いを抱き、いろいろと川柳に関する資料を集めていたこともあったのであるが、いまひとつ川柳作品を読む行為といったものにしっかりと腰を据えることができないまま(一応基本ともいうべき作品にはある程度目を通したような記憶はあるのだが)、気が付けば、ただ徒に歳月だけが経過してしまっていた。

しかしながら、川柳における優れた成果というものは、果たして現在、その成果を簡便に俯瞰できるように、アンソロジーなどといったかたちで資料としてどれくらい適切に纏められているのであろうか。自分が何年も前に、川柳を読もうとしつつも途中で読む行為を途絶えさせてしまうことになったのには、自分の堪え性のなさがその原因のひとつであったのは疑いようのないところであるが、それのみならず、川柳における読みたいという思う資料、もしくは重要と思われる資料といったものがいまひとつ手に入らなかったという事情も、一因であったような記憶がある。

谷底を鬼が行くとき花降れり  中村富二

風の夜は風の化身のお前たち  片柳哲郎

帯をとくふるい雪崩がよみがえる  前田芙已代

窃盗のひとりは見張りひとりは神と饒舌る  大島洋

おとこ痩せさらばえてなお男たり  寺尾俊平

かぞえきれない遊女の影のなかにいる  児玉怡子

逢いたくて雨の炎をくぐり抜け  前原勝郎

神様に借りているのは破れ傘  村井見也子

-------------------------------------------------

■関連記事

俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(56) 七曜俳句クロニクル Ⅸ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(59) 七曜俳句クロニクル ⅩⅡ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(60) 七曜俳句クロニクル ⅩⅢ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(61) 七曜俳句クロニクル ⅩⅣ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(62) 七曜俳句クロニクル ⅩⅤ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(63) 七曜俳句クロニクル ⅩⅥ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(64) 七曜俳句クロニクル ⅩⅦ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(65) 七曜俳句クロニクル ⅩⅧ・・・冨田拓也   →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。


『セレクション俳人 プラス 新撰21』はこちらからご購入いただけます。