2009年11月9日月曜日

柴田千晶句集『赤き毛皮』

ミヤコ・ホテルでつかまえて
柴田千晶句集『赤き毛皮』を読む


                       ・・・高山れおな


先日、必要があって田山花袋の「蒲団」を読んでみると、これが滅法面白かった。こういう文学史上の有名作品を今の今まで未読で済ませていたのはお恥ずかしい次第ながら、読書年齢の点では適切だったようにも思う。毫も難しい小説ではないとはいえ、二十歳で読んでも興味は持てなかっただろうし、三十歳でもいかがなものか。しかし、四十一歳の評者は、しばしば身悶えするようにして読んだのである。さらに、「蒲団」を読みながら、この前の芥川賞を獲った磯崎憲一郎の「終の住処」を連想したりもしたが、語りの方法が現代小説風に格段に高度化している点はさておいて、「終の住処」には「蒲団」の色男版といった気配もあるやに感じた。「終の住処」について、「これは女性に読ませてはいけない小説だよ」という意味のことを言っていた同僚がいて、どちらの作品も女性には読ませたくないというか、読んでも余り共感を得られないのに違いない。


男根、魔羅、女陰という言葉を使うと即破礼句(ばれく)なのか?

私は現代詩の書き手でもあるが、十代の頃から一貫して「性」を主題に詩を書いてきた。自己の性を描くことで、この世に存在することの不安と孤独を描いてきたつもりである。

柴田千晶の第一句集『赤き毛皮』(*1)には、こんなマニフェスト(後記の冒頭)さえ掲げてあって、俳句界の頑迷固陋(老いも若きも)を考えればそうしたくなるのも尤もではあれ、その身振りはやや防御的にすぎ、先回りしすぎかもしれない。ともあれ、この作者の過剰さだけは、間違いなく受け止めることが出来る。集名の『赤き毛皮』は、巻軸の

全人類を罵倒し赤き毛皮行く

に由来していて、収録三百四十四句の思いの流れ込む先がはっきりと示されているわけだから、読者は楽チンといえば楽チンである。本書には、柴田の所属誌「街」の主宰・今井聖が力のこもった「序」を寄せており、そこで今井は、

まったく新しい情趣はいつも、その時代とぶつかり合い、軋むほどの抵抗を生じさせて火花を上げながら騒然と現れる。

と、柴田の俳人としての出発をことほいでいる。しかし、上に引いた一句にあきらかなように、柴田が提示しているのは「まったく新しい情趣」というよりは今日的にはむしろ古風にさえ見えかねない、近代文学的な主体そのもののように思える。柴田の情趣が「時代とぶつかり合い、軋むほどの抵抗を生じさせて」いるとしたら、新しさゆえというよりは、遅れのゆえかもしれないのである(今どき毛皮、ですしね)。

あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だ

言うまでもなく、『にごりえ』のヒロインお力の名高い独白。そしてつまりは、「全人類」に向かっての「赤き毛皮」の女の罵倒そのものに他なるまい。この句をある日の柴田の自画像と読んでいいのか、共感を以っての三人称の句とすべきなのか判断に迷うけれど、結局どちらでもいいのだろう、彼女がお力や『或る女』の葉子の仲間であることさえ見落とさなければ。そして評者自身は、近代文学的な主体こそが好きなので、この句もあたりまえに好きである。

夜の梅鋏のごとくひらく足

巻軸から巻頭に跳ぶと、こんどはこんな句が見える。楽チンとは、例えばこの句における「足」を「ひらく」動作を、性愛の時の女の姿勢を詠んだものとためらいなく受け取れる、あるいは受け取る他ないように句集が構成されている点を指している。さらに、「鋏のごとく」の比喩は、交接に際して受け身たらざるを得ない自らの身体への違和を、男根の切断の暗示という攻撃的な形で表明しているのであり、たとえ愛を交わしても拭い去れない「不安と孤独」の表現ということになる。「夜の梅」もかかる読みの延長線上で解釈してしかるべきなのだろう。つまり〈梅の花にほふ春べはくらふ山闇に越ゆれどしるくぞありける〉(*2)〈春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるゝ〉(*3)などを踏まえての、闇の中の花の匂いこそが「夜の梅」の本意であるから、それはすなわち闇の中で行われる性愛のメタファーであり、嗅覚という劣位の五感の強調がそのまま身体性・官能性の強調につながっている――というような寓意的な読解は、普通なら俗読みではないかと用心してかかるところであるが、この場合はこれで正解のはずだ。なぜなら作者がそのように読みの道筋をつけてしまっているのだから。

『赤き毛皮』は、「軀(からだ)」「横須賀」「煙の父」「死霊」「派遣OL東京漂流」「赤き毛皮」の六章からなる。このうち、〈「性」を主題に「人間」を描きたいと思っている。〉という柴田の真骨頂が発揮されているのがまずは第一章の「軀」。第二章の「横須賀」では、柴田が生まれ育ち、今も暮らす横須賀を舞台に、近代日本の歴史と、母親との愛憎を軸にした柴田の個人史が重ねあわされる。第三章「煙の父」は、父の老いと死が描かれ、第四章「死霊」は前章を受けつつ父やそれ以外の死者たちの存在が喚起される。第五章「派遣OL東京漂流」では、標題通りに柴田の職業婦人としての生活が風俗的なタッチで展開される。第六章「赤き毛皮」には地下鉄サリン事件や東電OL殺人事件にまつわる句も見えて、近過去の社会史と自らの来し方を絡ませながらのコーダとなる。以上の要約でもわかるように、『赤き毛皮』は句集としては近頃めずらしいくらいに、テーマによって明快に分節化されている。このテーマ性と分節化の志向は、単に句集編集上のレベルにとどまらず、一句一句にも貫徹している。これはマイナスに働くと、わかりやすく理に落ちる結果をもたらすだろうし、現に本書にその傾きがないわけではないものの、評者としては共感の方をより強く覚えた。もちろん、特に写生を身上とする作者であれば、むしろテーマを持たず、素材に手ぶらで立ち向かうのが望ましいわけで、一概に良し悪しを言えることではない。ただし、現在の俳句には柴田のような態度があまりに欠如しているから、やはりこれは貴重な試みだと支持しておきたい。

今井聖は本書序文で、第一章「軀」における性をテーマにした作品を三種に大別している。ひとつは、

冬菜洗ふや乳房を圧す膝頭
昼蛙乳房さびしき熱を帯ぶ

などで、〈これまでの「性」の情趣の範囲を逸脱しない。〉作品。橋本多佳子や桂信子の成果がすでにあるゆえに、これらの句は読者に違和感なしに受け入れられるだろう、と今井は述べる。次に〈従来の女性的なセンチメンタリズムが踏襲されている。〉とされるのは、

冬銀河陸橋の君の背に頭突き
抱かれし後の花野へわが野性

などの作品。なるほど、正木ゆう子や東京ヘップバーンあたりにもありそうな句ではある。今井が高く評価するのはさらにこの先に一歩を進めたとみなせる作品で、すでに引いた〈夜の梅鋏のごとくひらく足〉の他、

葡萄滲むシーツの裏に千の夜
鰯雲の不思議な日暮排卵日

の二句を例にあげる。これらの句が〈そのリアルの生々しさ〉ゆえに、〈多くの俳人の理解を得るのに少し時間が必要だろう〉とする今井の見立てには、果たしてそうかと疑問も感じるが、しかし、三つの分類そのものは首肯できる。この第三番目のタイプの句には、他に以下のようなものがあるだろうか。

単純な穴になりたし曼珠沙華 「軀」
快楽はオートマティック紫荊 同
月の部屋抱き合ふ影は蜘蛛のごと 
首抱けば鋼のごとし霧の中 同
体内に器具の感触冬薔薇 
わが子宮めくや枯野のヘリポート 
スクリューのごとき男根枯野星 「死霊」
闇汁の魔羅女陰(ほと)乳房喉仏 同
絨毯に男を包むデジャビュかな 「赤き毛皮」

特に、「単純な穴になりたし」の倦怠や「快楽はオートマティック」の発見は新鮮だ。性に魅入られながら嫌悪する、アンビバレントが分かり易く表現されている。ただし、「夜の梅」もそうだったが、「冬薔薇」や「枯野」「闇汁」などの季語の寓意的な用法はまさしく理に傾いていようし、「月の部屋」や「霧の中」の斡旋もどこか間に合わせ以上を出ない感じがする。人間探求派(加藤楸邨→今井聖→柴田千晶)的なレトリックの大雑把さが、しっかり継承されているということだろうか。

雪の夜や体重計といふ孤島 「軀」
海溝はドレスの背中朧かな 
白髪をふいに抜かるる冬銀河 同
青梅雨の体に百眼描かれたる 「死霊」
こめかみに棲む百歳の水馬 同

狭義の性よりはレンジを少し広く取ると、性的な気配を纏った身体の句としてこれらがある。やはり「冬銀河」が微妙に甘い気がしないでもないが、「白髪をふいに抜かるる」という描写には、親密な関係にある、或る年齢以上の男女の仕草が的確に捉えられているだろう。「体に百眼描かれたる」は、柴田でなくても作れそうな句ながら、この感覚は面白いしよくわかる。しかし、この中で断然傑作なのは〈こめかみに棲む百歳の水馬〉だろう。ここにも「あゝ嫌だ嫌だ嫌だ」という怒りが強く響いているのはあきらかで、老いてはいないにせよ、もうはっきりと若くはない四十代の女性の身体が背景にあることも納得できるのである。

青鬼灯写真の母に睨まるる
蜩や砂風呂に母深く埋め
家中に鉄路巡らせ朧かな
機関車の突き刺さりたる春障子
昭和天皇アオウミウシに隠れたる
犬蓼と交換したき母のあり
地下茎のやうな母なり梅雨満月
輝く丘母にもありぬ白木槿
横須賀の鶏頭が我が詩の故郷

第二章の「横須賀」は、国家の歴史と家族の歴史を重奏させる手法・構成の点で、個人的にとても参考になった。柴田のうぶすながたまたま横須賀という特権的なトポスであったことの、表現にとっての幸も不幸もふたつながら見てとることが出来る。攝津幸彦は、〈南浦和のダリヤを仮りのあはれとす〉(*4)と詠んだが、攝津に「仮りのあはれ」なる卓抜の表現が可能だったのは、「南浦和」がまろやかな音韻の美しさと裏腹にいかなるコノテーションも喚起しない地名だからであって、横須賀の「あはれ」は「仮りの」などという保留を許さない格段にのっぴきならないものであろう。父にかかわる句が次章「煙の父」にまとめられているため、こちらでは母と娘の関係性が前面に出ているが、その愛憎の深さは土地の重さにちょうど見合っているのに違いない。

上に引いた母の句は、総じてすぐれたものだと思うけれど、次章の父の句が実体験と直結して具体的なのに比べると、かなり一般化・様式化した表現なのは気になる。ひとつには、父に先んじて母がすでに亡くなっているため、加えて家族の場所が大文字の歴史の場所であるために、母までが大文字化してしまったのかもしれない(*5)。逆に、大文字の存在であるはずの昭和天皇が、肉親のようなスケールに縮こまって「アオウミウシに隠れ」てしまう視線のありようも好ましい。この優しさ、いたわりは、昭和天皇に対する評価とは別に肯定されてよいはずだ。それから、三句目も例によって「朧かな」のお座なりは不満ながら、「家中に鉄路巡らせ」の表現には強い独自性と説得力を感じるし、それを受けての〈機関車の突き刺さりたる春障子〉もみごとだろう。横須賀線は、軍都横須賀と東京を結ぶためかなり早い時期に整備され、以後も特に重要視された路線だった。そういう連想を呼び起こしつつ、家族を結びつけるものの重さを“鉄路”の喩で語っている。また、「春障子」に突き刺さった「機関車」は、この作者の書き方からして当然、男根のメタファーということでよろしく(『太陽の季節』!)、家族がもともと性的な結びつきに基盤を持っていること、にもかかわらずその結びつきがこの家ではもはや座礁してしまっていることが暗示されている。

第三章の「煙の父」は、介護と看取りの俳句。シンパシーも覚えるが、昨今とみに多いこの種の表現のうちにあって、特に抜きん出ているとは思わない。ただ、父が亡くなったあとの句に、

糠床の底に父の手蝉時雨

というのがあって、これはすごい。グロテスク趣味、怪奇趣味に類してもいるから眉を顰める向きもあろうが、真情もまた疑えない。また、第四章「死霊」にある、

零余子飯どの口からも魂(たま)見えて

も、同様に、父の死への思いを前提にした句ではあるまいか。

十一社目の派遣契約雲の峰 「派遣OL東京漂流」
枇杷の昼みな子を持たぬ派遣社員 同
我と上司に入力の黙熱帯魚 同
羽蟻の夜オペレーターの背発光す 同
触角の見えくる冬の日の渋谷 同
七月や地下鉄で読むサリンジャー 「赤き毛皮」
  地下鉄サリン事件より十三年
地下鉄に充ちゆく神の石鹸玉 同
傘で突く袋東京は蜃気楼 同
円山町に飛雪私はモンスター 

第五章「派遣OL東京漂流」、第六章「赤き毛皮」は、風俗性が前面に出てくる。特に前者はある種ものめずらしさを感じさせはするものの、俳句表現としては平板で、「雲の峰」「熱帯魚」「羽蟻の夜」などの季語の寓意性がいかにも安っぽい(「枇杷の昼」はいいけど)。〈銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく〉(*6)あたりより、だいぶ後退したレトリックと言わざるをえない。「赤き毛皮」の事件物の方が評者には面白く、中でも「私はモンスター」という漫画的な直叙にはひかれた。ただ、地下鉄サリン事件の前書はあるのに、この句に前書を付さないのはなぜだろう。「私はモンスター」という述懐に前書は要らないかもしれないが、なぜ「円山町」かはこのままでは理解されまい。地下鉄サリン事件は正史に載る事項だが、東電OL殺人事件は佐野眞一のファンでもないかぎり、現在三十代半ば以下の人たちは知らないはずである。ともかく、第五章、第六章からは等身大の作者がよく見えて、その点に評者は安心したのであった。今やどの句集もこの句集も、作者は何をやって食べている人で、俳句以外の何に関心があるのか、さっぱり見えてこない場合がほとんどだから、たまさか人間の生活をしている人の顔を見てほっとなつかしい思いに捉われたわけである。

以上で、『赤き毛皮』の俳句作品をざっと読んだのであるが、じつは本書にはもうひとつ興味深い文章が収められていて、それが本稿冒頭で少し引いた後記――「花嫁の性――あとがきにかえて」。これは実は日野草城の「ミヤコ・ホテル」連作を批判的に論じたもので、全人類をさえ罵倒する柴田の気迫をひとり受けて立たされた草城がちと気の毒になる態のものである。なにしろ柴田は、

草城が詠む女はみなドラマ性を帯びているが、肝心のドラマの中に女が生きていない。フィクションにリアリティがないのだ。リアリティのないフィクションほどつまらないものはない。「ミヤコ・ホテル」はその代表的作品だ。

と述べ、また、

通俗の先にエロティシズムの真髄はない。「性」が「生」と激しく結びつかなければ真髄には届かないのだ。この連作十句には花嫁のリアルな肉体がない。通俗的な肉体があるのみ。そう、ここにあるのは花嫁のエロティシズムではない。しいて言えば、性的に未熟な童貞のロマンチシズムだ。

といった調子で、「ミヤコ・ホテル」を全否定するのである。しかし、この種の批判が、この連作の発表当初からのものであることは、柴田も参照したであろう復本一郎『日野草城 俳句を変えた男』(*7)に詳しく書いてあるところで、「性」と「生」の激しい結びつきなど最初から求めていない草城に対してこんなことを言うのは、無いものねだりの、ためにする論としか思えない。しかも、柴田も先駆者として仰いでいるはずの桂信子は、連作中の〈枕辺の春の灯は妻が消しぬ〉に驚嘆して草城の弟子になったと自ら述べており(*8)、他にも「ミヤコ・ホテル」に感動して俳句を始めた当時の若者の例が復本の本にいくつも紹介されている。通俗だろうとリアルでなかろうと、この連作がかなり強い生命力・感染力を持っていることは確かなのだ。それをもたらしたのは、草城の圧倒的な修辞力であり、一方、〈「性的な私」の切実さ〉に恃むがゆえに、柴田は自らに表現の平板さを許してしまっているところがなくはないのか。『赤き毛皮』のうちでも特に、「派遣OL東京漂流」の章などは通俗的といえばかなり通俗的で(似たようなタイトルのTVドラマがあったと記憶する)、まあそうなんだろうなという程度の共感は覚えるものの、事実の強みが十全に生かされているとはとても言えない。それこそ草城ならもっと巧妙に、いかにもそれらしい派遣OL物語を構成してみせたに違いない。

……などと妙にヒートアップしてしまったのは、じつは「性的に未熟な童貞のロマンチシズム」という言葉にカチンときたからであることを告白しておく。それは悪いものなのでしょうか。柴田的には悪いものなんだろうな。しかし、法然も明恵も吉田松陰も宮沢賢治も死ぬまで童貞だったし、正岡子規は登楼の経験はあるだろうが素人童貞だった。今は「蒲団」に悶絶する元童貞として言っておくが、じつのところ「童貞のロマンチシズム」はこよなく生産力に富んでいて、それは性的に成熟して童貞でなくなってもなお生産力の源泉であることをやめないものだったりするのである。

補記1……柴田が「ミヤコ・ホテル」と対比させ、肯定的に引用するのは、中村草田男の〈妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る〉、加藤楸邨の〈十六夜や妻への畳皎々と〉〈炎昼の女体のふかさはかられず〉だが、「妻抱かな」はともかく、楸邨の二句はそんなに良い句なのか。評者にはこれらこそ奇怪なロマンチシズムの産物としか思えない。草城の方は、じつのところテーマに対してはいたって冷静に書いている。草田男の句に関していうと、評者の観測するところ、〈「性的な私」の切実さ〉などと無関係な妻は迷惑している可能性高し。「ミヤコ・ホテル」がロマンチシズムの産物に感じられるとしたら、それはむしろ作者の問題ではなく、現在では新婚初夜まで童貞や処女のままでいる男女などというものが存在しなくなっているためかもしれない。

補記2……柴田は、草城の〈牝獣(ひんじう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜〉と楸邨の〈すいつちよやひき入れひき入れつつ溢れ〉を並べて、〈どちらが官能的か比べてみてほしい。〉とも言っている。評者には、どちらもあきれた怪作としか見えない。しかし、官能的ということならともかくも草城の方が官能的だろう。

補記3……柴田はエロティシズムの表現に成果をあげた女性の俳人の代表として橋本多佳子をあげ、さらにそれ以前の例として、阿部みどり女の〈泰山木乳張るごとくふくらめる〉と竹下しづの女の〈緑陰や矢を獲ては鳴る白き的〉を引く。〈泰山木は男根の、白き的は女性器のメタファーだ。〉というわけだ。評者は百パーセントの自信を以って言い切るが、柴田のこの読み方は間違っている。自分の句を寓意的に作るのは結構だが、この解釈はひどくないか。しづの女からあげるなら、少しもエロティックではないが、ともかく性的な身体を描いた名句という点では、〈汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍す〉だろう。

(※)柴田千晶句集『赤き毛皮』は著者から贈呈を受けました。記して感謝いたします。

(*1)柴田千晶『赤き毛皮』 金雀子舎 二〇〇九年九月二十日刊
(*2)『古今和歌集』三十九番 紀貫之の歌
(*3)同四十一番 凡河内躬恒の歌
(*4)句集『鳥子』所収
(*5)引用一句目「写真の母」は遺影なのだろう。ただし、次章に〈バリカンで刈る母の髪秋桜〉の句があるのだがこれは回想?
(*6)『金子兜太句集』所収
(*7)復本一郎『日野草城 俳句を変えた男』 角川書店 二〇〇五年
(*8)『日野草城全句集』(沖積舎 一九八八年)の栞文

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