2010年1月18日月曜日

鶏頭論争もちょっと

鶏頭論争もちょっと
金原知典・しなだしん・峯尾文世・後閑達雄句集を読む


                       ・・・高山れおな


いただいたり、買ったりしたままになっていた句集をいくつか読みました。簡単に感想をしるしておきます。

金原知典句集『白色』 ふらんす堂 二〇〇九年
すぐれた写生句が多いことに感銘しました。

羽のあと胴が横切り鬼やんま
割るるとき追ひつく重み寒卵

この両句は自讃句でもあり、先生の斎藤夏風氏が序文でも賞賛しているように、この作者の特徴がよく出た佳句だと思います。その特徴とは、前句では視覚、後句では触覚において、対象を解体してゆくような把握の仕方にあります。細かく見て描写するというのは写生の基本的な方法のひとつなのでしょうが、細かい描写が統一感として立ち上がらず、解体するベクトルを一句の表面に残しているような印象をしばしば受けました。実際、

その新樹一羽を吸ひて二羽をはき
香煙に靡かぬ燭や日短か
一瞬の目の下の皺囀れる
横がほのまま遠ざかる百合鷗
湯豆腐のあとには星のうるほひも

などになると、細かすぎるゆえの鬱陶しさを覚えないでもありません。まあ、非常に微妙な話ではあって、これらの句にしても技術的には申し分なく立派なものであるのは見ての通りなのですが。全体にあまりに人格的なものの反映を抑制した、無味無臭の詠み口がそういう印象をもたらしているのかもしれないとは思いました。一方で、

昼過ぎの明るさかなし冬に入る
秋の薔薇人もひかりに包まれて

これらの句のような性急な抒情は、ややセンチメンタリズムに傾きすぎており、この人の本領とも思えません(栞で岸本尚毅さんは褒めていますが)。

弓なりに鎌倉の海七変化
金鯉の朧にすすむ冬はじめ
デパートの中はきらきら夕時雨
雪かなし上がる雪片あることも
つぎつぎに光の珠や川小春

個人的にはこのあたりの句にも感興を覚えました。一句目の「弓なりに」は海岸線の形とも取れますが、水平線のことを言っているとした方が、「七変化」の物質感がより生きるように思います。二句目、「冬はじめ」の巧さに舌を巻きます。日差しの弱まった季節の水の感じがよく出ています。四句目の「雪かなし」の歌い上げには、加舎白雄の〈日に悲し落葉ただよふ汐ざかひ〉を連想しました。下五の「あることも」が、ベストの表現かどうか疑わしいのが残念ではあります。


しなだしん句集『夜明』 ふらんす堂 二〇〇八年
帰省とはこのトンネルを抜けること
板の間に積む通夜客のアノラック
蟹いれてかにのおとする金盥
あきかぜのなかの周回おくれかな
秋の田の見えて商店街終る
雄鶏の貌はふくざつ霾れる
噴水の落ちてロックンロールかな

ごった返す雪国の通夜の様子を積み上げられた「アノラック」に焦点化する的確さ、商店街がいきなり「秋の田」に行き当たる鄙びた味わい、「貌はふくざつ」という投げやりでとぼけた表現の面白さ、噴水の水が弾けるさまを「ロックンロールかな」と捉えたシンプルかつ清新な見立て。鷹揚な詠みぶりのようでいて、「蟹」「かに」と書き分けたりする細心さもあります。新潟県柏崎の出身とのことで、出身地にちなむ風土性もあり、また何とも言えず人柄の良さのようなものが伝わってくるその句柄は、掲出の数句にも窺えるのではないでしょうか。読んでいて温かな気持ちになり、時々ふーと唸らせられる、そんな句集でした。


峯尾文世句集『微香性(HONOKA)』 富士見書房 二〇〇二年
結局、この句集でいちばん頑張っているのは、タイトルだったのかというのが読み終えての感想。怖いもの見たさ半分でこのタイトルのケレンに期待して読むと、いささか肩透かしを食います。

朝寒や乾ききつたる使ひ墨
我が髪を塵と拾ひて年の夜
秋草の乱れ廃れも秋の澄み

こうした侘びた、求心的な詠み口が悪いわけではないですが、看板からすると、

部屋ぢゆうに春衣掲げて嫁がずよ

のような方向の成功作がもっと欲しい感じではあります。

日記せば恋はをかしき炬燵かな
五分後は別れ月光に身をそらす

くらいだと少々物足りないでしょうか。むしろ地味ながら、

別れきて余寒の林檎厚く剥く

の「厚く剥く」にはさりげない昂ぶりの表現が見えるようで感心しました。もともと上田五千石に師事していて、「畦」終刊後に「銀化」に入ったとのこと。句集の後半になると、

にがうりの受難の相をそぎ落す
この風の冬の含有率いかに

と、まるきりの中原道夫調があらわになってくるのは、当たり前なのかも知れませんが、よいのやら悪いのやら。もちろん、この二句は面白いのですけれど。


後閑達雄句集『卵』 ふらんす堂 二〇〇九年
「俳句年鑑」の「今年の句集BEST15」に、小川軽舟と津川絵里子の両氏が挙げています。では、と期待して読みはじめました。「あとがき」によれば、〈俳句はうつ病がひどい時、母にすすめられ始めました。〉とのことで、こちらもそのつもりで読まないわけにはゆきません。基本的に只事の日常詠の範疇におさまる句ばかりですが、加藤かな文氏のようなポーズの只事、衒った只事ではなく、この人にとって、世界と関係を結び直すのに、俳句が大きな意味を持っているらしいことがひしひしと伝わってくる、そういう只事です。ちなみに集中に卵の句は幾つかありますが、句集名の根拠になったのは、

冷蔵庫まづは卵を並べけり

のようです。この几帳面さはなるほどいじらしい。あえて深読みすれば、このようにせねば、この作者の世界はそれこそ卵のように壊れてしまうということなのでしょう。

桜草楽譜のコピーあたたかく

これは良い感覚。他の句から徴しても、音楽が好きな人らしい。

一粒の息を吐きけり蜆貝

なんとも寂しい、可憐な句でほろりとします。

人よりも長き青春つくしんぼ

石田郷子氏が序文を書いていて、〈その後のやりとりで、ご両親と一緒に住んでおられること、日に三度、何種類もの薬を飲まなくてはならないということをうかがった。〉とあり、事実、医薬に関係する詠作は集中に少なくありません。この作者は句集刊行時点で不惑になっているはずで、「人よりも長き青春」はもとより若さを誇って言っているわけではありません。無類に率直な句だと思いました。

髙柳克弘「十七音に徹して読む」と坪内稔典「鶏頭の句は駄作」
「現代俳句の挑戦」の第十三回にあたるこの回の髙柳氏の文章(*1)で、ほー、そうなのかと思ったのは次の一節。

作品から「作者の思い」を読み取らなくてはならないという、俳句の読みの常識は、更新されるべき時期に来ていると思う。

私は髙柳氏がこの文章で述べている考えに全体として不賛成なので、つまり私もそのうちリセットされちゃうのね、とそんなことを思いました。ただ、それにしては隙の多い論旨で、言葉の運用ひとつとっても結構杜撰なのはいささか心もとなく思いました。掲出したセンテンスの先で、高柳氏は坪内稔典氏の「鶏頭の句は駄作」(*2)というエッセイを援用しつつ、正岡子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉をめぐる山口誓子や山本健吉の読みを、

作者である子規の境涯を裏付けに、「作者の意図」に近づこうとしている点においては、「鶏頭論争」に加わった評者のほとんどは共通している。

と、概括しています。髙柳氏は、「作者の思い」=「作者の意図」として済ませているようなのですが、両者は果たして同じものなのでしょうか。日本語の常識では、「作者の意図」は作者が作品を作るにあたって意識的に目指したものを指し、一方、「作者の思い」はしばしば作者自身にさえ自覚されないまま表現にこめられた、無意識的な要素をも包摂した概念なのではないでしょうか。実際、髙柳氏が引用する山本健吉や山口誓子の鑑賞文で、彼らが作者=子規の「意図」に近づこうとしている形跡はないように思われます。彼らがそこでなしているのは、ある程度は根拠があり、ある程度はフィクショナルな、子規の「経験」の追体験の提示の試み、とでもいうべきものだと思います。

そもそも髙柳氏が、自説の足がかりにしている坪内氏のエッセイが、私にはかなり無茶な暴論のように思えてなりません。

俳句は作者を抜きにして詠まれてきた。定型や季語の働き、表現のさまざまな技法などが一体化して一句の素晴らしさを作りだす。作者はその表現の力を生み出す創作の主体ではあるが、決して表に現れない。それが俳句の伝統だ。

今、俳句の伝統という言い方をしたが、俳句は句会を創作や鑑賞の第一の場としてきた。そこでは、句は無署名で投じられる。誰の作か分からなくして作品が鑑賞される。つまり、句会という場では作者はどうでもいいのである。肝要なのは表現そのもの。鶏頭の句も明治三十三年九月九日に子規を囲んで行われた句会で作られた。「鶏頭」が席題であり、この句、その句会ではほとんど注目されなかった。

こんな風に坪内氏は言うのですが、芭蕉の俳句史における意義を考えるだけでも、こんな論が成り立たないのは明白でしょう。「作者を抜き」にして詠まれ、読まれてきた貞門や談林の俳諧に対して、「創作の主体」である作者を表現の「表に現」したことにこそ芭蕉の俳諧の面目があったのですから。また、「鶏頭の十四五本も」を名句と認める立場からすれば、「明治三十三年九月九日」の句会でこの句が「ほとんど注目されなかった」のは、むしろ句会という読みの場の限界を露呈している、という言い方さえ可能です。坪内氏(それから髙柳氏も)が奉じる“句会幻想”は、私にはかなり異様に思われます。もちろんその幻想が、こんにちの俳句界の現象面での繁栄を支えていることまで否定するつもりはありませんが。しかし、先を急ぎすぎました。

「鶏頭の十四五本も」の句そのものに関して坪内氏は、

子規という作者を読むことで、鶏頭の句は高く評価されるようになったのではないか。この句をもう一度、作者名を消して句会に投じてみたい。そのとき、十四五本の鶏頭に末期の存在感(坪内が引いている司馬遼太郎の鑑賞文中にある言葉……引用者注)のようなものを感じるだろうか。私見ではこの句は平凡な作、いや、語るに足らない駄作である。

と全否定します。誰がどの句を全否定しようと自由ですが、私によくわからないのは、なぜ、子規の人生とセットで了解されている句を、あえてその人生から切り離さなくてはならないのかです。子規の人生とセットにすることでそこに感動が生まれるならセットにしておけばよいではありませんか。坪内の論にはさらにもうひとつの盲点があります。子規の「俳句稿」には、明治三十三年に限っても、〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉以外に、以下のような鶏頭の句があります。

萩刈て鶏頭の庭となりにけり
鶏頭や二度の野分に恙なし
鶏頭に車引き入るゝごみ屋哉
誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や
鶏頭の花にとまりしばつた哉
  送烏堂
鶏頭の林に君を送る哉
鶏頭の四五本秋の日和哉

これらの句もほぼ同時期に病床の子規によって詠まれた以上は、「十四五本も」の句と同様に子規の人生とセットにされ、誓子なり健吉なり司馬遼太郎なりから熱烈な賛辞を捧げらる資格があるはずなのですが、もちろんそんな事実はありません。「十四五本も」の句だけが選ばれて(最初にこの句を見出したのは斎藤茂吉)、讃えられ、貶され、現在でも議論し続けられているわけです。「十四五本も」の句を単に「子規という作者を読むこと」で名句を僭称する「語るに足らない駄作」としてしまうのは、いささか即断にすぎるというものです。なぜ、「十四五本も」の句だけが抽んでられているのか、他の鶏頭の句との差はなんなのか、性急に駄作と決め付ける前に、坪内氏にはそこのところを解き明かしていただければ有り難いと思います。なぜならそこにこそ、坪内氏が作者を捨象してまで関心を寄せる「定型や季語の働き、表現のさまざまな技法」の秘密があるはずだからです。もちろん、その秘密の解明が誰の手にも負えないものであるがゆえの鶏頭論争ではあるのでしょうが、現に他とは格段に異なる強さで子規の人生をおのれに引き寄せ、時に過剰なまでの読みを誘発する力をこの句が持っている以上、この句を名句と呼ぶに躊躇う理由はないのではないでしょうか。

(※)しなだしん句集『夜明』、峯尾文世句集『微香性(HONOKA)』、後閑達雄句集『卵』は著者から、また「船団」は編集部から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)「俳句」誌 二〇一〇年一月号
(*2)「船団」誌 第八十一号(二〇〇九年六月)

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