2009年8月30日日曜日

第54号

第54号

2009年8月30日発行

俳句九十九折(47)

俳人ファイル ⅩⅩⅩⅨ 折笠美秋

          ・・・冨田拓也   →読む

閑中俳句日記(13)

鳴戸奈菜「古池に秋の暮」50句 

          ・・・関 悦史   →読む

遷子を読む

〔23〕百姓は地を剰さざる黍の風

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

あとがき           →読む

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あとがき(第54号)

あとがき(第54号)


■高山れおな


「鷹」の九月号は、小川軽舟主宰の『現代俳句の海図』の特集で、同誌内部の二氏に加えて、磐井師匠が、

「若手世代」論の総決算
――『現代俳句の海図』の現代史的位置

と題しての一文を寄稿している。一九八〇年代の俳壇における若手発掘ブームのあたりから筆を起こして、収録された十本の作家論についても満遍なく目配りして、読ませる書評になっている。しかし、その終盤はなかなか不穏。ラスト走者の岸本尚毅を小川が〈苦もなく論じている〉のは、〈小川にとって岸本が理想の俳人だからではないか。〉などとあって、いかにも愉しそうに挑発しているのだ。ここから師匠はさらに筆を転じて、昭和三〇年世代とは本質的には「岸本尚毅以前」なのだと述べている。

岸本以外の名前を入れれば、長谷川櫂・夏石番矢・小澤實・田中裕明・岸本尚毅世代といえるかもしれないが、要は岸本尚毅をメルクマールとし、それ以下を切り捨てて現俳壇の「若手世代」論は成り立っている。

状況認識として妥当かとは思うものの、こう改めて文章化されてみるとなんで岸本尚毅がそれほど重要な作家なのか、不思議といえば不思議な気もする。さて、挑発はまだ終わらない。文章は最後に、こう締め括られるのだ。

岸本尚毅以後論はどうなるのか、ヒントはこの本の付録の年表にある(二一四頁)。

一九六一年 一月五日 岸本尚毅、岡山に生まれる。

      二月七日、小川軽舟、千葉に生まれる。

『海図』は誰かが言ったような、団塊の世代や前衛俳句を切り捨てた戦略的現代俳句史ではない。新しい英雄の登場を語ろうと意図した新『サガ』なのであった。

軽舟氏がこのそそのかしを真に受けるような軽忽な人物ではないことは織り込んだ上での記述であるから、その限りでは悪意の文章ではなかろうが、しかし善意の文章でもありませんね。だいたい、この「誰か」とはわたくしのことなんでしょうし。しかし、考えてみると、師弟共々この本に走らされているとも言えるわけで、いずれにせよ近来最も人騒がせで面白い俳書であったのは間違いないでしょう。

・・・と、「あとがき」こそ長く書きましたが、原稿はお休みします。十月半ばまでは、執筆は断続的になりそうです。


■中村安伸

前号をリリースした先週日曜日はちょうど帰省していたのですが、堀本吟さん、堺谷真人さん等、関西の豈同人の方々と、そのお仲間、総勢15人ほどのメンバーで、芦屋の虚子記念文学館を見学いたしました。地下の会議室を借りての句会も非常に充実し、楽しい一日を過ごさせていただき、みなさまに感謝です。お土産にホトトギスの句帖を購入いたしました。今使っている句帖が尽きたら、それを使用する予定です。

本日リリースされた「週刊俳句」に、現代俳句新人賞の「落選展」が掲載されています。メンバーは堺谷さん、岡村知昭さんと私、全員豈同人ですね。

さて、私の記事についてですが、時間がなかったわけではありませんが、どうも書きにくい箇所にさしかかっているようです。気分転換にはじめたtwitter小説の執筆に熱中してしまったりということもあり、今回も休載とさせていただきます。


閑中俳句日記(13)

閑中俳句日記(13)
鳴戸奈菜「古池に秋の暮」50句


                       ・・・関 悦史


雑誌や句集を送っていただくことはたまにあるのだが、せっかくだからちゃんとした紹介文をなどと思っていると結局書けないまま日時を延ばしてしまい、そういう申し訳ないことになっているのが何点もあるのだが、不充分でも書かないよりは何か書いておいた方がよい。

鳴戸奈菜さんから新作「古池に秋の暮」50句が載った詩誌「ガニメデ」46号を頂いたので、今回はここから紹介する。

平目より鰈が好きでよい奥さん

以前永田耕衣の『自人』をとりあげた際に《ラーメンに胡椒が在つたヤイ夏天》などという、素材のどうでもよさにかけてはこれをしのぐものはなかなかないのではないかという怪作にはまってしまって呆れられたことがあり、今回も何もこの50句のなかでわざわざこの句を最初に引くことはないのではないかと自分で思わないでもないのだが、惹かれたというか、何かが引っかかった。

一般的にヒラメよりカレイの方が安いからそちらを好むのはよい奥さんには違いないが、それだけの取り方でよいのかと立ち止まらせる不穏な気配があり、どこの誰とも知れない、具体的な知人でもなければ身内でもなく、語り手自身でもなさそうな、関係性から切り離された「奥さん」が、何やらマグリットの絵に登場する、しばしば顔を隠されていたりもする紳士淑女のようにも見え、その奥さんの上空にヒラメとカレイが相似の姿を並べてあらわす図が頭に浮かぶことになるのだが、このヒラメやカレイもマグリットに近い雰囲気を持っていて、つまり何かの寓意のように見えるのだが、それがいかなる寓意なのかはさっぱりわからず、結果としてフォルムは明快なのに何やら不気味な余剰を漂わせることになる。「よい奥さん」の、何の思い入れもない記号じみたフラットさが立ち去り難い(鳴戸さんに限らないが、非伝統的な作りの俳句で、緊張し垂直に屹立する風情の句は最近少ない気がする。良いとか悪いとかではなくて、戦後詩じみたスタンスの句が現在説得力を持ちにくいということなのだろう)。

ヒラメやカレイ自体はおそらくあまり重要ではないので、重要なのは、似通っていながら微妙にずれている要素同士の対比並存自体である。標題がそもそも「古池に秋の暮」という、《俳句》の代名詞のような言葉二つを並べていて、ワビサビに別のワビサビを重ね合わせて過剰な何かにしてしまうという動きをはっきりと示しているのだ。

紐と繩どちらも好きと春の松

美しき男いたぶるバラ科の桜

「紐と繩」、「バラ」と「桜」。この辺の組み合わせにもその特徴がよく出ていて、つまり通常の二項対立にはなっていない。首吊りされることを楽しんでいると思しき「春の松」にとっていかなる有意な差があるのか、はたから見たら一緒ではないかと思われる紐と縄の微妙なキャラクターの違いから生ずるズレと広がりが情緒的な湿りを払うさまが鳴戸奈菜の句の大陸的と呼ばれもする特質の一端を担っても来たのであろうし、「美しき男」をいたぶるのが「バラ」であれば西洋、「桜」であれば日本の美意識の範疇に過不足なく収まってしまいどうということもなくなるのだが、「バラ科の桜」となると途端に洋の東西から性別・性役割までよくわからなくなり多形倒錯的な様相が現われる(なおウィキペディアによるとサクラは実際にバラ科の植物である)。

中心が二つあるという点が、花田清輝や後藤明生が偏愛した楕円性を想起させる。一つの価値観にまとめあげられた円の世界に対し、それを相対化するもう一つの中心が批評性や笑いを介入させてしまうのが楕円の世界である(抽象論議に見えかねないが、花田清輝が生きていた軍国主義の時代に「価値観」を「相対化」したら身の安全に関わる)。

少年A蝉が怖いと木に登る

妹を待つ桃流れくる川のほとり

しゃぶるによき勾玉のあり良夜

楕円の世界は基本的に喜劇の世界で、じっさい、法を犯したらしき「少年A」が恐れの対象を免れ難く真似てしまった結果、当の蝉の体勢になってしまったり、桃太郎の舞台と思しき川がこれまた性関係の惑乱の場に変じてしまったり(「妹」は古語では恋人や配偶者をも指す上、待っている人物の性別もわからない)、勾玉が口唇的な欲望に巻き込まれることにより古代や天文(良夜)があっさり涼やかに身体と地続きになってしまったりとさまざまに喜劇性を露呈していたりもするのだが、喜劇性の場はそもそも日常秩序壊乱の場であり、死が容易に介入する場でもある。

赤い糸口より垂らし亀鳴けり

いつまでも眠りいつかは荒蓬

麻酔医のふところ深く青山河

一生の途中で踏んだ蝸牛

藤房のむらさきが垂れ昼も過ぎ

水色の影とふたりや蓮の花

百歳の媼舌出すところてん

昼と夜のあいだふらふら夕顔や

芒原穴のかたちに寝るばかり

しかし死と生の関係が安定した楕円形のコスモロジーを成し、それが俯瞰されて整頓されてしまうということにはならない。語り手は、観測者が観測対象に不可避的に影響を与えてしまう量子的な関係のなかにとどまる。

彼岸花橋の途中で目が覚めぬ

俯瞰は一般論につながり、明快さのなかに潜在する混沌を消してしまうからである。

古池に巨きな船が秋の暮

標題ともなった「古池」と「秋の暮」は二つの中心を持つ楕円のずれから「巨きな船」を呼び出してしまった。池に巨船では身動きも取れなさそうである。

話は少々飛ぶが、本稿が掲載される予定の2009年8月30日は政権交代確実と言われている総選挙の投票日である。冷戦終了までは「政権選択」はそのまま東西両陣営のどちらにつくかという「体制選択」に直結してしまいかねず、ほとんど考えられなかったのだがその可能性が現実のものとなってきた。

選択肢は一応複数提示されているのだがどちらにしてもイデオロギー上さほど明確な差があるわけでもなく、先行きも当分見えそうにない。そういう事態の寓意として詠まれた句群では別にあるまいが、歴史の動きは人の心の動きでもあり、そこに棹差して表現のリアルを探ればおのずと感応するところもあるはずで、「格差」が問題になり『蟹工船』が売れているから「貧困」を詠もうというようなこととは全く別のレベルで、作者個人の身と歴史とを貫く線が瞬時に生成することもあり得、じっさいこの50句も「保守」と「革新」とか「伝統」と「前衛」とかいったものとは別のずれ、対立項ならぬ対立項の間から表現を生み出そうとしているように見える。

そうした混沌を経て澄んだ明晰な叙情に至った句として、以下の辺りが印象に残った。

恋人を連れ込む秋の昼寝かな

朝顔のさびしき色は七つほど


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■関連記事

閑中俳句日記(01)永田耕衣句集『自人』・・・関 悦史 →読む



2009年8月29日土曜日

遷子を読む(23)

遷子を読む(23)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


百姓は地を剰さざる黍の風
      『雪嶺』所収

深谷:昭和39年の作品です。

高度経済成長の恩恵を享けられなかった当時の農業従事者の生活は大変厳しいものがあり、それこそ必死に生きていました。だから、農地に変えられる土地は全て開墾し、耕地を広げていきました。「百姓」という呼称は、今でこそ差別用語として排斥される対象になっていますが、もちろんこの時代にはそんな意識も広がっておらず、遷子も愛情を込めて、大地に働く者達をそう呼んでいます。そして、ある意味でぶっきらぼうな、この措辞の中には、同様に生きてきたその先祖たち、つまりかつての「百姓たち」をも意識した時間的・歴史的拡がりを感じます。

一方、黍は生育期間が短く乾燥に強いといった特徴をもち、古くから粟・稗とともに山村や開拓地では救荒作物として必要不可欠の作物でした。歳時記などでは、「秋風に吹かれる光景には独特の風情がある」(講談社『図説日本大歳時記』 当該項目担当=広瀬直人)とするわけですが、遷子のこの作品では、そうした俳句的情緒を排したリアリズムを感じざるをえません。

遷子らしい、実直に生きる者達への応援歌に思えます。

中西:私の小学生のころ、授業でも「お百姓さん」と言っていた記憶があります。遷子の句にも、深谷さんがおっしゃるようにまだ差別用語の意識のない時代の大らかさがあるようです。佐久平は寒い土地の割に、雪が少ないと聞きます。としますとお米の収穫にはあまり適してない土地のようですね。昭和39年であることを思いますと、お米ができなくて、雑穀を植えていた田圃も多かったのではないかと思います。

この句は中七の終わりに切れがあります。切れがあることによって、句柄を大きくしているようです。「黍の風」が「黍畑」だったら途端につまらなくなります。黍ながら収穫の豊かさがここにあります。農家の人達の勤勉な労働を是とし、感心していることが窺える句です。

勤勉な遷子の眼は人の勤勉にも敏感なようです。「もったいない」という言葉を明治生まれの祖父母や、戦争体験者の父母がよく使っておりましたが、この句にも父祖の地を大切にし、開墾した土地を無駄なく耕す、「もったいながる」、良き時代の日本が見えるようです。

原:「地を剰さざる」というフレーズは、良くも悪くも土地にしがみついて生きる農民の姿を思わせます。作者が「百姓」であったら、返ってこのような把握はできないという気がします。 一歩はなれた客観的立場であることが、全体像といいますか、典型をつかまえることができるのでしょう。深谷さんのゆきとどいた鑑賞に付け加えるところはありません。「応援歌」とまでは言いがたいのですが、肯定否定に関係なくこの句が内包する農民の現実生活を考えさせられます。

これまで行き当たりばったり式に句を見てきて、遷子という俳人の位置づけがまだ見出せずにいます。句としての完成度か、それとも少々粗くとも生きる姿勢のあらわれた句をよしとするか、そのあたりも関連してくるようです。こういう二元論もどうかと言われそうですが、ともかく一人の俳人にも多様な面があるわけで、無理に特徴づける必要はないでしょうが、もう少し私にとって接点のようなものが見えてくるといいなと思います。その意味でも、佐久野沢に行っていらした磐井さんのご報告を興味深く読ませて頂きました。特に、生活の場である地元では、俳人であることより将棋好きの相馬院長として名が知られていたという点に、私は好感を持ちます。

筑紫:引き締まった表現でいい句であると思います。ただ、「百姓」を詠んだからといって、悲惨や惨めばかりではないと思います。「百姓は地を剰さざる」とはしたたかな農民が剰余の地を残すことなくすべて耕しきり、生産に活用しているという意味でしょう。豊穣の祝福であり、稲作で言えば、一面の青田をながめる痛快さがあるような気がします。今回の遷子ミステリーツアーでも、佐久平は一面の青田が広がっていました、天の恵みを感じる時期です。したがって、この「百姓」にも、もちろん差別的なニュアンスがあるものの、したたかさや、素朴さ、定着性の中の安心など感じとってもいいのかもしれません。
この句のポジティブなところを強く感じてしまうのは、「黍の風」によるところが大きいと思います。「黍嵐」では調子が強すぎておおらかな上五中七を受けきれないように思うのです。

私は、ご異議があるかもしれませんが、むしろこの句は写生に近いのではないかと思います。それはこれを短歌で詠む場合に次のようになるのではないかと思うからです。

<黍の風・・・・・・百姓は地を剰さざるなり>

リアリズム的ですね。中の・・・・の部分は適宜想像して補ってください。「吹き渡りつつ佐久晴れて」。ただそうした改作をしようとするとき、・・・・の部分が意外に明るい風景として書き込みたくなることに気づくと思います。これはこの俳句の構造が明るい風景を予定していることを証明していると思います。

      *      *      *

個人的な感想を先取りして、原さんの質問に回答するとすれば、遷子が対象にした農民や百姓は悲惨でもあり、哀れでもあり、したたかでもあり、意外に賢く度胸があるものではないかと感じているのではないかという気がします。自然の風景は多様であるように見えてもその変化は限りがあるように思います。しかし、人間は千変万化です。「遷子を読む」第4回で原さんが引用している遷子の次の言葉は、ステロタイプな農民の属性描写とはかなり違います。しかしこのような対象(あえて百姓といっておきましょう)であるからこそ、遷子は自然から人間に関心を移していったのでしょうし、ワンパターンに見える遷子の農村俳句にも深みが出てくるように見えます。

だから私は、今まで何回か登場した農民と税務署員を対立的に描く読みはあまり好みません。両者とも、時に善人であり、時に悪人であるのでしょう。おそらく「大方世人の七割八割は、金があれば或る程度善人になり得る」は、真実に近いでしょうが世のつねの文学者(ロマン主義文学者)のせりふではありません。ただ自然主義文学者として考えるときなるほどと肯えるのです。

(佐久の人の)人情は果たして如何でせうか。久しぶりに帰住した私にとつては、稍期待を裏切られた感がありました。自分自身のことを思ひ合せてみましても、大方世人の七割八割は、金があれば或る程度善人になり得るのではないでせうか。恵まれぬ経済的環境といふ事も、よほど考慮に入れねばならぬと思はれます。(「佐久雑記」)

窪田:磐井さんも夕紀さんも、行ってこられたので分かると思いますが、佐久市野沢はかなり広々とした平地です。掲句が生まれたのは、往診か吟行かで行った山際の傾斜地の景でしょう。平地では稲を作り、水の便の悪い山の畑では当時多く桑を作っていたのではないでしょうか。傾斜地では、長い柄の鍬は使いづらいので短いものを作りました。土が畑の下方に落ちてしまうので、除草をする時も下から上に鍬を使い、少しでも土を上に上げようとしました。そんな苦労をして、少しの土地も余さず有効に使うのは当たり前のことでした。例えば、田の畦には大豆を作り、畑のそれには南瓜を這わせました。稲の品種改良は明治31年頃から始まっていて、耐寒性の稲も生まれています。また、栽培法も「保温折衷苗代」など工夫されていましたので、昭和39年頃の佐久平で大切な水田に黍を作るということはまず考えられません。おそらく黍もわずかな山畑に作られていたのでしょう。

また、佐久に帰住した頃、人々は遷子をあくまで「お医者様」として見ているのです。そこに遷子が違和感を持つのも当然のことだったのでしょう。しかしそうした感覚も10年以上経ったこの時期はかなり変わって来ていたと思います。百姓の実体も解りそれに対する目もある意味肯定的になったのではないでしょうか。原さんが言われるように、掲句がある客観性を持って詠まれたことも了解できます。

筑紫:窪田さんの説得力ある解説に感心しました。土を上に上げる工作法は頭の知識では分からないもので、一応実地に足をつけてと策を尋ねてみましたが、やはり通りすがりの旅人の目であったかもしれません。ただ、遷子が地元の人から、「お医者様」として見られていたかもしれないというのはなんとなく実感されます。「百姓」という言い方は差別と別に、疎外感を背後に持っているゆえの表現であることは感じられました。感謝します。


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遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

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遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

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遷子を読む〔20〕空澄みてまんさく咲くや雪の上・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔22〕山の虫なべて出て舞ふ秋日和・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

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■関連書籍を以下より購入できます。




俳句九十九折(47) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅨ 折笠美秋・・・冨田拓也

俳句九十九折(47)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅨ 折笠美秋

                       ・・・冨田拓也

折笠美秋 15句


青桃や夜は海からかえつてくる

去りゆけり白鳥の白 金輪際

山彦は半身傷ついてもどる

緑の蝶なれば今日ではないかもしれぬ

いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく

溺れつつ水を盻(み)たりとおもいけり

杉林あるきはじめた杉から死ぬ

筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に

夢夢(ぼうぼう)と湯舟も北へ行く舟か

月光写真まずたましいの感光せり

志と詞と死と日向ぼこりの中なるや

海嘯(かいしょう)も激雨もおとこの遺書ならん

秋霖(しゅうりん)の濡れて文字なき手紙かな

ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう

見えざれば霧の中では霧を見る



略年譜

折笠美秋(おりがさ びしゅう)


昭和9年(1934)  横須賀市に生まれる

昭和28年(1953) 早稲田大学国文科に入学

昭和33年(1958) 東京新聞社に入社 高柳重信「俳句評論」創刊、編集同人

昭和42年(1967) 第3回俳句評論賞(評論の部)

昭和48年(1973) 「晴の会」を阿部完市、飯島晴子、原裕らと結成

昭和57年(1982) 筋委縮性側索硬化症(ALS)発症

昭和58年(1983) 北里大学病院に入院 高柳重信死去

昭和59年(1984) 第1句集『虎嘯記』(俳句評論社)

昭和60年(1985) 第32回現代俳句協会賞

昭和61年(1986) 第2句集『君なら蝶に』(立風書房)

平成元年(1989)  第3句集『火傳書』(騎の会) 『死出の衣は』(富士見書房)

平成2年(1990)  3月17日逝去(55歳)

平成3年(1991)  『俳句研究』6月号で追悼特集

平成10年(1998)  評論集『否とよ、陛下』(騎の会)


A 今回は折笠美秋を取り上げます。

B 現在となっては、折笠美秋とその作品については、あまり語られる機会はさほど多くはないというべきでしょうか。

A 私の知る限りでは、せいぜい、最近総合誌の『俳句界』2008年5月号での「魅惑の俳人たち 5」において特集が組まれた程度だと思います。

B では、まず、折笠美秋の略歴について見てゆきましょう。折笠美秋は、昭和9年に横須賀市で誕生、昭和28年に早稲田大学国文科に入学し、俳句、短歌、現代詩、そして小説などを同人誌に発表、卒業後の昭和33年には東京新聞社に入社し、ジャーナリストとなります。同じ年に高柳重信が「俳句評論」を創刊し、その同人に加わるとともにやがて編集にも携わるようになります。

A 昭和33年の「俳句評論」に加わった時点では、まだ20代前半ということになりますね。

B その後、新聞記者として活躍する傍ら、俳句における作品や評論についても精力的に発表し、俳人として20年ほどの間にわたって活動を続けてきたわけですが、40代後半の昭和57年に「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症し、その後、北里大学病院に入院することになります。

A この「筋委縮性側索硬化症(ALS)」という病は、全身の筋肉が徐々に委縮し、歩行などの運動が困難となり、最終的には、全身の筋肉が自らの意志では動かすことができなくなり、寝たきりの状態となってしまうという原因不明の病であるそうです。

B 昭和58年には、呼吸困難の状態に陥り、仮死状態となり入院。その後、気管を切開することによって人工呼吸器を取りつけることとなりましたが、この時点で自ら声を発することも不可能となってしまいます。

A そして、自ら動かせる身体の部位は目と口のみとなり、これ以降は奥さんが、その眼と口の動きのみを頼りにその意思を読み取り、それを文字にうつし換えるという非常に困難な作業を介すことによって、折笠美秋は、自らの俳句と文章をどうにか書き継いでゆくことになります。

B そして、入院の翌年である昭和59年に、まず第1句集である『虎嘯記』が出版されるわけですね。

A この句集は、折笠美秋の病状を憂慮した高柳重信と中村苑子が、なんとか病床の折笠美秋を勇気付けようと考えたことから、句集出版の案が持ち上がったそうです。

B しかしながら、この昭和58年の時点で、句集の企画を考案した高柳重信が逝去してしまいます。

A それでも、その高柳重信の遺志ということもあり、昭和59年には『虎嘯記』は早くも出版される運びとなりました。

B この句集には、折笠美秋が「俳句評論」に俳句作品の発表をはじめた昭和30年代から、昭和58年に至るまでの、年齢にするとおよそ30歳頃から50歳ころまでの約20年に及ぶ句作期間の中から選ばれた作品368句が収録されています。

A こうみると、折笠美秋はそれこそ俳句をはじめてから、おおよそ30年近くもの長い歳月において、1冊の句集も刊行していなかった、ということになるわけですね。

B 俳句作品に対して未だしの思いが強かったためであるのか、句集の刊行については本人は、あまり積極的ではなかったようです。

A では、句集に収録された作品について見てゆくことにしましょう。まず、句集のはじめの「初期句篇」には〈青桃や夜は海からかえつてくる〉〈氷河期の銀河めぐらす挽き臼よ〉〈海深く夕日だきゆく水脈(みお)ありけり〉〈満月のうらへまわつて消えしかな〉〈白昼の大劇場に釘を打つ〉〈染附皿のさびしい象が歩きたがる〉〈海二月ついにきらめくなにもなし〉といった作品が見られます。

B これらの作品は、おおよそ昭和30年代における作品ということになるようです。

A これらを見ると、どちらかというと全体的に口語的な表現で、無季による作品が目立ちますね。

B 「青桃」「挽き臼」「満月」「象」などの句における表現は、ややシュールというか、それこそ、どちらかというと現代詩に近いような趣きがあります。

A これらの句を見ると、あまり富澤赤黄男や高柳重信の作品に見られる強靭な詩性やそれに伴うインパクトの強さといったものは、さほど感じられないところがあるようですね。

B それは、これらの折笠美秋の作品が、どちらかというと散文的な表現に近い傾向を持っているためであると思われます。

A それゆえに、やや言葉の緊密性に欠けるところがあるような印象を受けることになるわけですね。

B 第2句集である『君なら蝶に』に所載の「追辞」という文章において折笠美秋は〈高柳さんは、師父であり、兄であるとともに、それ以上に、ぼく自身であった。不遜な事ながら、出会いの時から、この思いは否定し難いものであった。それ故に、作品も論評も、高柳さんに似通わない、なぞりにならないことが、第一の必須要件であった。〉と記している文章がありますから、これらの作品に見られるどちらかというと散文的ともいうべき作品の傾向は、高柳重信の作風を避けるために選ばれたものであった、という風にも考えられそうです。

A ただ、高柳重信の作品についてはその通りであるのかもしれませんが、富澤赤黄男の作品については、それこそ詩性の強さそのものを誇るような〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉〈寒雷や一匹の魚天を搏ち〉といった高い完成度とインパクトを感じさせる作品が存在する一方で〈夕焼の金をまつげにつけてゆく〉〈黄昏れてゆくあぢさゐの花にげてゆく〉〈蛇となり水滴となる散歩かな〉といった口語的で散文的な作品の存在も見られます。ですので、折笠美秋の作品には、これらの赤黄男のやや散文的ともいえる作品からの影響というものも小さくはなかったのではないかという気もします。

B このすこし後の時期の作品を見ると〈射程とする 二十代(はたち)の不眠の青き花〉〈連打いま 弾痕……となり 星座……となり〉〈マンモスの臓腑に醒めて 仮眠 の 仮面〉〈満月の鬱血 すでに 縊死の鴉ら〉〈青蛙のうちに灯ともし母系は睲め〉〈木の二月 おのが倒死の谺を待ち〉〈去りゆけり白鳥の白 金輪際〉といった作品が見られます。

A これらの作品を見ると、1字空けの手法が、やはり富澤赤黄男、高柳重信の手法そのもの思わせるものがありますね。

B 「不眠の青き花」「弾痕」「仮面」「縊死の鴉ら」といった詩的な用語についても、赤黄男、重信の作品世界との強い類縁性を感じさせるものがあります。

A 〈木の二月 おのが倒死の谺を待ち〉については、赤黄男の〈切株はじいんじいんと ひびくなり〉からの影響が見られるといっていいはずです。

B しかしながら、このようなややロマネスクな用語を使用した作品というものも、この時期の折笠美秋の作品には存在していたというわけですね。

A その中でも〈去りゆけり白鳥の白 金輪際〉の句などは、なかなか手の込んだ作品ではないかと思われます。

B そうですね。まず「白鳥」についてですが、当然ながら「白鳥」の色彩というものはいうまでもなく白です。それをこの作品では「白鳥」の語のあとにわざわざ「白」と表記しています。それゆえに、「白」の色彩が強調されることとなり、さらに1字分の空白によって時間性が生じ消え去ってゆく「白」の印象が強められ、最後は「金輪際」という言葉によって1句の世界が締め括られるという構成になっています。

A 一応、内容的には、「白鳥」が飛び去りつつあるという事象のみが描かれているということになりますね。

B ただ、これらの演出によって、白鳥の飛び去ったあとに感じられるであろう白鳥の不在感と、それに伴う永遠性とその寂寥感とでもいったようなものが、「金輪際」という仏教的な言葉と相俟って強く感じられ、深く印象付けられるところがあります。

A また、「白」と「金」という字の表記による色彩の対比と響き合いの効果についても、おそらく周到に計算された上でのものであるのでしょう。この表記の効果によって鮮烈な色彩感覚による残像の印象が、強く読後に残ることとなります。

B さて、その後の作品について見てみると〈水に泛(う)きちいさき水もゆきにけり〉〈ひと漕ぎの白骨となり空の途中〉〈流木のついに見えない下の手よ〉〈水色の六月の木が立つている〉〈水落ちて水の音する もう帰る〉〈雪虫の千の絶後のこだまかな〉〈山彦は半身傷ついてもどる〉〈水のめど水のめど魚 さようなら〉〈星の出は谷を出てゆく谷自身〉〈耳おそろし眠りのそとで立つている〉〈馬の腹では涙が水車を回わしている〉〈めつぶれば軍馬が一匹逃げてくる〉といった作品が見られます。

A このあたりの作品となると、あまり先程の作品に見られた詩的でロマネスクな雰囲気といったものは、さほど濃密には感じられなくなってくるようですね。

B それこそ「ライトヴァース」とでもいうのでしょうか。こういった作品からは、赤黄男の口語的な作品のみならず、阿部青鞋の作風にもやや共通するものが感じられるところがあるように思われます。

A そういえば、先程に見た初期の作品にも、どちらかというとそのような阿部青鞋的な印象を持った作品もありましたね。

B 確か、折笠美秋には、3編ほど阿部青鞋を論じた文章が存在したはずです。

A これらの作品では〈山彦は半身傷ついてもどる〉〈馬の腹では涙が水車を回わしている〉〈めつぶれば軍馬が一匹逃げてくる〉あたりの作品に、やや青鞋的な雰囲気を読み取ることが可能でしょうか。

B このように見ると、折笠美秋のやや散文的ともいうべき作品については、赤黄男と青鞋からの影響が考えられる、ということになるようですね。

A では、続いて、これ以降の時期にあたる昭和44年頃における作品について見てゆきましょう。この時期には〈緑の蝶なれば今日ではないかもしれぬ〉〈はなびらや 石が旅ゆく石の刻〉〈鬼無里という半鐘の鳴る村があつた〉〈中指のまんなかにあるかなしさよ〉〈焼けおちるいま天と地のつまようじ〉〈杉内部滝秘めおれば直立す〉〈くらげ浮き水にもあらず母にもあらず〉〈割れやすきものの音充ち銀河系〉〈いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく〉〈半月や ひとり帰つたものがいる〉といった作品が見られます。

B 〈中指のまんなかにあるかなしさよ〉〈いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく〉あたりはやはり青鞋の表現に近いものがあるといえそうです。

A 「中指」の作品については青鞋からの影響による句であることは間違いのないところでしょうね。「指」に材を摂った作品は、阿部青鞋の得意とするモチーフのひとつでした。

B 他の作品を見てみても、折笠美秋の作品には、割合先行作品からの影響というものが見られる作品がいくつかあるようですね。

A そうですね。〈はなびらや 石が旅ゆく石の刻〉については、使用されている「はな」や「石」「旅」といった語彙と、「石」によるリフレインの手法が、高屋窓秋の作品を連想させますし、〈杉内部滝秘めおれば直立す〉については三橋敏雄の〈世界中一本杉の中は夜〉を髣髴とさせるところがあります。

B 〈鬼無里という半鐘の鳴る村があつた〉については、「鬼無里」という長野県のやや特異な地名の使用が、高柳重信の歌枕を使った手法による作品と近接するものを感じさせます。

A やはり、折笠美秋の作品には、随分と、様々な作者の作品からの影響といったものが混在しているといっていいようですね。

B 折笠美秋の作品に強く影響を与えたと思われる作者について思いつくまま挙げてみると、永田耕衣、高屋窓秋、富澤赤黄男、阿部青鞋、三橋鷹女、三橋敏雄、高柳重信、加藤郁乎、安井浩司あたりということになると思います。

A これらの作者からの影響というものを、自らのものにして作品へと応用していたというわけですね。

B 他には、やや微妙ですが、飯島晴子、阿部完市あたりの作品からの影響といったものも若干考えられるのではないかと思われます。

A さて、この後の昭和46年から昭和49年の期間の句について見てゆきたいのですが、この時期には〈渺々と化佛の左手は隕(お)ちる〉〈桃兆す天の一枚扉かな〉〈細腰の田螺ただよう青大和〉〈もののはじめに二山一谷麦烟(けむ)るを〉〈溺れつつ水を盻(み)たりとおもいけり〉〈水舟は舟よりもやや水である〉〈死んだら来ようと思う北の樹見上げている〉〈青蜜柑あすあさつてが見えてくる〉〈杉林あるきはじめた杉から死ぬ〉〈川幅は川に溺れてかがやけり〉〈飛ぶ鳥の明日香や やさしく鳥を焼く〉〈はるばるときてほのぼのとかまぼこ板〉〈天體やゆうべ毛深きももすもも〉〈車座は回転しつつ消えゆく秋〉〈骨ひとりぶんの菜の花盛りが見ゆ〉〈筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に〉〈逝くことの巨きな鳥の陸奥山河〉といった作品が見られます。

B このあたりの作品を見ると、なんというかこれまでと同じような傾向の作品といったものの存在とともに、やや宗教的もしくは神話的とでもいうのでしょうか、日本の古層といったものを掘り起こしたというか、遠い古代の時代を髣髴とさせるような世界が展開されている作品もいくつか見られるようになってくるようですね。

A これらの作品に使用されている言葉というものが「化佛」「桃」「青大和」「もののはじめ」「北の樹」「杉林」「明日香」「陸奥山河」ですから、確かにやや宗教的、神話的な趣きがありますね。

B 〈逝くことの巨きな鳥の陸奥山河〉の「巨きな鳥」については、おそらく「白鳥」ということになるのでしょう。

A 東北の人々は古代に、「白鳥」を神の使いであるとして崇めていた、という話があります。

B そういえば『古事記』と『日本書紀』には、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」がその死の直後、白鳥と化して飛び去ったという記述があり、それらの物語の存在も、この作品の裏側には含まれていると思われます。

A 「逝くことの」ですから、やはり「白鳥」ということになるのでしょうね。こういった「文化人類学」的とでもいうのでしょうか、これらのやや神話がかっているともいうべき作品の背景には、当時の高柳重信の作品からの影響といったものが小さくはなかったのではないかと思われます。

B 高柳重信は、昭和47年の『遠耳父母』、そして昭和51年の『山海集』において、これまでのモダニズム的または文学的な要素の強い作風から、日本の古層の部分を髣髴とさせる神話の世界へと一気に作品展開を行います。

A こういった重信の作品指向というものが、この時期の折笠美秋の作品へ影響を与えていたということになるわけですね。また、折笠美秋の周辺には、重信だけでなく、永田耕衣や三橋鷹女、加藤郁乎、安井浩司といったやや神話的、もしくは神秘的な世界に近接するような作品を書く作者が多数存在していたという事実もありました。

B その後の昭和50年以降の折笠美秋の作品を見ると〈晩年は鯨を愛す日の帝(みかど)〉〈繰り返し繰り返し夜の手毬唄〉〈杳(よう)として左手は在り春の暮〉〈夢夢(ぼうぼう)と湯舟も北へ行く舟か〉〈わが美林あり檜葉杉葉言葉千葉〉〈雪融け原のおおきなおおきすぎる神〉〈或る日老いたり遠見の鱶に陽は游び〉〈青森で会いしひとりは春を渡りけり〉〈菜の花継げば彼岸にとどく物干竿〉〈晴(めのたま)や陸稲涅槃の雨上り〉〈棺のうち吹雪いているのかもしれぬ〉〈波に名を与えておれば海鏡(つきひがい)といった作品が確認できます。

A これらの作品は昭和51年頃のものということになります。「日の帝」「おおきなおおきすぎる神」「遠見の鱶」「青森」「彼岸」「陸稲涅槃」「海鏡」といった言葉が見られますから、やはりどちらかというと神話的な世界に近接する表現が展開されていますね。

B さらにその後の主要な作品を見ると〈稲妻や地に欷(な)き孕むあかきもの〉〈ざりがにを無上の愛として茹でる〉〈月雪花板の厠に老いゆくや〉〈水の多摩土の相模と淡雪せり〉〈汝と呼んでみる吾があり水の暮〉〈りぐゔえーだ藤色絞りに春は来にけり〉〈かたつむり日々<複雑>を去りつつあり〉〈暁闇や怒濤のごときかたつむり〉〈軍書とり落としつつゆく昼の雁〉〈あじさいの宇宙模型の吐息かな〉〈極楽の裏手で葱をつくりおる〉〈月光写真まずたましいの感光せり〉ということになります。

A 古典的世界やインドのヴェーダ思想、そして実験的な作風など、様々な要素が混在して展開されているようですね。

B 他には、「地に欷(な)き孕むあかきもの」は赤黄男、「ざりがにを無上の愛」は青鞋、そして「極楽の裏手で葱」には耕衣からの影響が、それぞれ見て取ることができます。

A さて、この後における折笠美秋の作品について見てゆきたいのですが、このあたりからが「筋委縮性側索硬化症(ALS)」の発症してくる時期にあたる作品ということになるようです。

B この昭和58年頃の作品を見ると〈餅焼くや行方不明の夢ひとつ〉〈杉たり 一本杉たり 倒れて銀河と称ぶ〉〈ああ大和にし白きさくらの寝屋に咲きちる〉〈志と詞と死と日向ぼこりの中なるや〉〈俳句おもう以外は死者か われすでに〉〈春暁や足で涙のぬぐえざる〉といった作品が確認できます。

A その後には<わが「山月記」>と題された〈空谷や 詩いまだ成らず 虎とも化さず〉〈皓々と わが胸谷の わが山月記〉〈人語行き 虎老いて 虎の斑もなし〉といった作品を含む連作が、この『虎嘯記』の最後に収められています。

B 「山月記」は中島敦の小説ということになりますね。

A この小説を折笠美秋は10代のころに読み、強く感銘を受けたそうです。この句集のタイトルである『虎嘯記』についても、この「山月記」からそのタイトルは名付けられたものであるということになるのでしょう。

B また、富澤赤黄男に〈日に吼ゆる鮮烈の口あけて虎〉〈爛々と虎の眼に降る落葉〉〈冬日呆 虎陽炎の虎となる〉といった虎をテーマにした句が、いくつか存在していたことも想起されます。

A では、続いて、第2句集である『君なら蝶に』の作品について見てゆきたいと思います。

B この句集は、昭和61年に立風書房より刊行されたもので、昭和58年から昭和61年までの約4年間における436句が収録され、6つの章により構成されています。

A 昭和58年からということで、入院後における作品ということになりますね。

B 収録された作品について見てみると、まず第1章である「智津子」には〈死と宣さる ただ見つめ合いぬながくながく〉〈雪うさぎ溶ける 生きねば生きねばならぬ〉〈舞う雪も君も触れれば消える旅か〉〈次の世は茄子でもよし君と逢わん〉〈わがための喪服の妻を思えば雪〉〈星流る美しき距離父母と子の〉〈蘂より小さく童話の街に眠れる母子〉〈なお生きる決意の鮭を噛みいたり〉といった作品が見られます。

A この章の作品は、入院直後における作品ということで、先程の『虎嘯記』の昭和58年頃の作品と同様、どの作品も非常に境涯性の強い内容のものとなっています。

B 病室における出来事や、妻や子供など家族をテーマにした作品が多く見られ、正直なところ、病気による深刻さといったものが、そのままありありと伝わってくるところがあり読んでいて大変辛いものがありました。

A 第2章は、第1句集『虎嘯記』からの抄出作品となっており、第3章は「花の絵本」というタイトルで〈菜の花の一本でいる明るさよ〉〈水に棲み飽きたる水か紫陽花は〉〈七変化(あじさい)は半ばこの世で濡れるなり〉〈咲き満ちて桜の幹の冷めたかりき〉〈桜散るそのとき渾身そりかえる〉〈思えばかなし桜の国の俳句かな〉〈萩の葉は心の小舟か揺れやまず〉〈七草のまず散りそめし萩小花〉〈しみじみと野菊見る ただの野菊にすぎず〉〈まだ誰も知らない死後へ野菊道〉といった作品が収録されています。

B タイトルの「花の絵本」が示す通り、「百合」「菜の花」「紫陽花」「桜」「萩」「桔梗」「野菊」などといった花に関するテーマによる作品が多く見られますね。

A この「花の絵本」に見られる作品は、『虎嘯記』におけるどちらかというと作品主義的な雰囲気の作品とはやや趣きを異にし、自然の景物に対してそのまま目を向けたとでもいったような穏やかさの感じられる作品世界が展開されています。

B 〈菜の花の一本でいる明るさよ〉〈しみじみと野菊見る ただの野菊にすぎず〉あたりの作品などには、それこそほぼ無心ともいうべき精神状態から生みだされた作といった趣きがありますね。

A 〈思えばかなし桜の国の俳句かな〉という句については、俳句という文芸そのものに対する、なんとも複雑な感情が詠み込まれている作品であるように思われます。

B そうですね。改めて考えてみると、世界中のどこの国においても、俳句という文芸は存在しなかったわけです。それが、どういうわけか、日本という島国においてのみ、詩が発生してから様々な変遷と試行錯誤を経て、ほとんど奇跡的といっていいような偶然性によって俳句という定型詩が誕生することとなったわけです。その俳句という文芸の来し方の特殊性と、その詩形に携わることになった自らの運命、そしてその自らの存在そのものにおける不可思議さといったものに対する感情の戦きなどが、この作品からは読み取ることが可能であると思います。

A おそらく、「かなし」という言葉は、「悲」や「哀」による「かなし」であり、またそれだけでなく「愛(かな)し」という意味合いをも含んでいるものであるのでしょう。

B 富澤赤黄男の〈めつむれば祖国は蒼き海の上〉、高柳重信の〈目醒め/がちなる/わが盡忠は/俳句かな〉、赤尾兜子の〈俳句思へば泪わき出づ朝の李花〉といった句の存在が思い浮かんでくるところがありますね。

A では、続いて第4章「俗名消息」の作品を見てゆきましょう。〈大満月つぎが最後の呼吸(いき)かもしれぬ〉〈雲雀聴かむ幽明ふたつの顔あげて〉〈一夜かかりて「露」一文字を分解せり〉〈剣(つるぎ)も杖か 野火 野水 野苺(いちご) 野晒(ざら)し〉〈つらら滴(したた)り書くべきことのあればこそ無し〉〈開聞(かいもん)を下る こころの鷹(たか)の 蒼(あお)きを飼い〉〈仮(かり)の世に師あり友あり露けしや〉〈人間なくば神また不在寒牡丹〉〈金色になるまで親指を見つめている〉〈星へ書く手紙は消えやすいインクで〉〈麦笛を吹こうと夢みる麦自身〉〈囁(ささや)き峠いま振り向けば石と化す〉〈雨だれは目を閉じてから落ちるなり〉〈まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)〉〈ふたつ寄り添えば雨だれ落つるなり〉といった句が見られます。

B このあたりの作品となると、非常に表現そのものによる迫力といったものが作品の内部に備わってきているような印象がありますね。

A 境涯性によるもののみではなく、作品の表現そのものになにかしら尋常でない雰囲気が加わってきているような趣きがあります。

B 確かに〈剣(つるぎ)も杖か 野火 野水 野苺(いちご) 野晒(ざら)し〉〈開聞(かいもん)を下る こころの鷹(たか)の 蒼(あお)きを飼い〉〈囁(ささや)き峠いま振り向けば石と化す〉〈まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)〉あたりの作品となると最早単なる境涯性というものを超越した地点での言葉の強さというものをその内側に獲得した、とでもいうような雰囲気が感じられます。

A 続いて、第5章「北里0発信」の作を見てゆきましょう。

B この章の作品を見ると〈雪達磨 我を旅行く我れ居りて〉〈逢わざれば逢いおるごとし冬の雨〉〈傘ひらくときふと赤黄男(かきお)こぼれけり〉〈別の世とは水であること桃にも吸われ〉〈鬼哭(きこく)この夜の桃の木揺すぶる風は〉〈海嘯(かいしょう)も激雨もおとこの遺書ならん〉〈幼な雪自分を夢と思い消ゆ〉〈桃咲くと一つこの世の闇消ゆる〉〈秋霖(しゆうりん)の濡れて文字なき手紙かな〉〈渡り鳥数えてみれば数え切れ〉〈仰向けや天上ぎつしり流氷ゆく〉〈ととのえよ死出の衣は雪紡ぎたる〉〈すでに方舟発てり吹いて見えざれど〉〈ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう〉〈人ひとり死ぬたび一つ茱萸(ぐみ)灯る〉〈水風船(しやぼんだま)行きつくところが死に処(どころ)〉〈我が抱く手負いの我れや紅葉闇〉〈秋風の風船売りもう風ばかり〉〈幼な雪自分を夢とまだ知らず〉といった句が見られます。

A 本当に、このあたりとなってくると、まさに生と死のぎりぎりの地点において発せられた作品といった趣きがあります。

B 確かに、色々な意味で非常に重たい「何か」がこれらの作品の内部に込められて宿っているのが、ひしひしと伝わってくるところがありますね。

A それこそ、先程の句と併せて、ここまで切迫した表現が俳句で可能であるのかと、改めて目を瞠る思いがするところがあります。

B 〈ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう〉については、高屋窓秋が昭和45年に発表した「ひかりの地」という作品の中の〈ひかり野の日にも月にも枯れしかな〉といった作品の存在が関係しているのではないかと思われます。

A そして、おそらくこの「ひかり野」は、同じく窓秋の代表作である〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉の「白い夏野」を意味するものでもあるのでしょう。

B そういえば、折笠美秋の「美秋」という名前自体が、そもそも高屋窓秋の「窓秋」という名前となんらかの関連性を思わせるところがありますね。

A 折笠美秋における「美秋」については俳号であり、本名は「美昭」であるとのことです。

B 名前の由縁については、果たしてどこまで関連性があるのかどうかわかりませんが、この「ひかり野」の作品を見ると、折笠美秋にとって、高屋窓秋という存在は非常に大きなものであったのではないかという風に感じられるところがありますね。

A では、続いて、第6章「影笛之符」の作品について見てゆきましょう。この章には〈見えざれば霧の中では霧を見る〉〈霧世界戻る舟なき渡し舟〉〈彼処此処(そこここ)に君が泪羅(べきら)や桜闇〉〈双蝶や何処(いずこ)も生きやすからざるに〉〈雪解川一度かぎりの岸を視つ〉〈死に飽きし者ら群れ起(た)つ雪の奥〉〈動けぬにあらず動かぬ千年杉〉〈乳母車ノアの大雨なのではないか〉〈狼煙(のろし)あり夕立駆けるその行く手〉〈胸中に海鳴りあれど海見たし〉〈雷浴びて我が荒魂は渚に一つ〉〈海嘯(かいしょう)と死んじゃいやよという声と〉〈眸(め)も凍てつ風切羽も凍てつなお〉〈空を知悉(ちしつ)しもう翔ばぬ孤影の鷹よ〉〈まなざしや烟雨(えんう)の彼方その彼方〉〈最後に焼けるは目の玉ならん大西日〉〈行き果ての夢山脈よ行き果てず〉といった作品が見られます。

B まさしく「生死一如」の中における作品そのものといった趣きがあります。

A どの句も、尋常の雰囲気ではない、なにものかが宿っているのが感じられるところがありますね。

B 「霧の中」、「戻る舟なき渡し舟」「一度かぎりの岸」「動かぬ千年杉」「眸(め)も凍てつ風切羽も凍てつ」「もう翔ばぬ孤影の鷹」「最後に焼けるは目の玉」といった表現からは、その根底に、なにかしらある種の「覚悟」とでもいっていいような強い感情が内在しているのが窺われるようです。

A 確かに、なにかしら切迫した感情とでもいったものがたちこめているような雰囲気がありますね。

B さて、ここまで『君なら蝶に』の作品を見てきましたが、この他にも作品がいくつか存在します。

A 平成元年に第3句集として刊行された『火傳書』という句集があるのですが、ここには、昭和59年から昭和62年までの多行形式での作品が60句収められているそうです。

B 折笠美秋は、この『火傳書』において、遂に多行形式による句作を試みたということになるわけですね。

A 師高柳重信への弔いという側面も含めての多行形式での句作、ということであったのかもしれません。

B 私はこの句集については未見であるのですが、『俳句研究』1991年6月号などに抄出された作品を見ると〈鬼の片腕/祭る祀りを/振り返る〉〈句病みとや/雪病み/花病み/月病みして〉〈白き降り/淡き降り/ひと歩む/大和言葉へ〉〈髪なびき/霜夜/夜ごとの/夢枕〉〈君の冷蔵庫に/鱏(えい)は眠れり/   開けば/   海〉〈暮れがての/旅衣/行き行きて/雪衣〉〈誰か知らん/北に/乱待つ/凍れる火〉〈森羅/しみじみ/萬象/一個の桃にあり〉〈死の淵に/現れ!/凄絶の/月雪花〉〈わが死後も/夜来の雨を/人のきく〉といった句の存在が見られます。

A これらの作品を見ると、やはり語彙が、高柳重信の多行俳句の世界を髣髴とさせるところがありますね。

B そして、それこそ「孤絶」といった言葉が相応しいような、まさに凄絶ともいうべき雰囲気が漂っています。

A この他に存在する作品としては、病床での日録である『死出の衣は』に収録された昭和62年から平成元年の〈生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き〉〈生者死者ある夜乗り合う月光舟〉〈銀河系大洪水のあとに百合〉〈麺麭(パン)屋まで二百歩 銀河へは七歩〉〈寝入るらんと渉る銀河の水嵩や〉〈雨止まず詩篇第二十二に雨止まず〉〈相模野の時雨は死後へ降り続く〉〈海の蝶最後は波に止まりけり〉〈冬の蝶その眼の炎えていたりけり〉などの作品と、『俳句研究』の平成元年4月号から12月号まで連載された「北里仰臥滴々」における〈木枯しの尾に摑まって幼な木枯し〉〈胸中に同じ雪降る妻と我れと〉〈鳥一つ空広きかな土用西風〉といった作品が存在します。

B あと、これも未見なのですが「騎」という同人誌に、昭和63年から平成元年まで「呼辞記」という題での多行形式による俳句があり、〈冴えわたる/満月を見き/虎と化さん〉など35句の作品が存在するそうです。

A そして、これらの作品を発表した後の平成2年の3月17日に、折笠美秋は55歳で亡くなるということになります。

B さて、折笠美秋の作品について見てきました。

A 今回、久々にその作品を読み直したのですが、その作品表現というものの根底には、想像以上に強靭な表現意識が内在していたことがわかりました。

B そうですね。第1句集の『虎嘯記』における作品世界もさることながら、第2句集である『君なら蝶に』からは病気による境涯性のみならず、その境涯性すら超越するかのような作品表現による勁さそのものが、そのままひしひしと伝わってくるところがありました。

A 『君なら蝶に』については、当時、かなり話題を呼び、テレビでドラマ化までされ、句集自体も増刷されて相当読まれていたそうです

B 当時としては、「筋委縮性側索硬化症(ALS)」という病による境涯性への同情から大きな反響を呼んだという側面もあったのでしょうが、現在となっては、そういった境涯性のみにとらわれるだけでなく、作品そのものが持つ真価についても、もっと注目されていいという気がしました。

A 確かに、折笠美秋の到達した作品のレベルについては、現在においても、その魅力及び価値は些かも損なわれていないのではないかといった思いを抱きました。

B 特に作品としての真価が感じられるのは『君なら蝶に』の後半部における作品ということになると思います。

A これらの作品を読むと『君なら蝶に』は、それこそ昭和という時代の終りの時期における非常に重要な句集のひとつであるという思いがしますね。

B このような作品の「勁さ」そのもの、または真剣さといったものをここまで直載に感じさせられる俳句表現というものは、現在においては、滅多に目にすることができないものでしょう。それこそ自らの生命と引き換えにして、ようやく得ることができた高次の俳句表現といていいのではないかと思われます。

A また、俳句作品だけでなく、闘病の記録である『死出の衣は』にしても、現在読んでも、人間の存在やこの世における様々な事象に対して、根底の部分からひとつひとつ問い直し深い位相において思索した非常に優れた書であると思います。

B 折笠美秋の作品や文章が発し続けてくる「俳句とは何か」などといった様々な問いかけは、現在においてもなお重要な意味を持っているものが少なくないという思いがしました。



選句余滴


折笠美秋


氷河期の銀河めぐらす挽き臼よ

海深く夕日だきゆく水脈(みお)ありけり

満月のうらへまわつて消えしかな

染附皿のさびしい象が歩きたがる

海二月ついにきらめくなにもなし

連打いま 弾痕……となり 星座……となり

マンモスの臓腑に醒めて 仮眠 の 仮面

青蛙のうちに灯ともし母系は睲め

木の二月 おのが倒死の谺を待ち

水に泛(う)きちいさき水もゆきにけり

ひと漕ぎの白骨となり空の途中

流木のついに見えない下の手よ

水落ちて水の音する もう帰る

雪虫の千の絶後のこだまかな

水のめど水のめど魚 さようなら

星の出は谷を出てゆく谷自身

馬の腹では涙が水車を回わしている

めつぶれば軍馬が一匹逃げてくる

耳おそろし眠りのそとで立つてい

鬼無里という半鐘の鳴る村があつた

うつくしき挙手の木立よ 人消し峠

焼けおちるいま天と地のつまうじ

杉内部滝秘めおれば直立す

くらげ浮き水にもあらず母にもあらず

割れやすきものの音充ち銀河系

半月や ひとり帰つたものがいる

渺々と化佛の左手は隕(お)ちる

桃兆す天の一枚扉かな

細腰の田螺ただよう青大和

もののはじめに二山一谷麦烟(けむ)るを

溺れつつ水を盻(み)たりとおもいけり

水舟は舟よりもやや水である

死んだら来ようと思う北の樹見上げている

青蜜柑あすあさつてが見えてくる

五月なむ花を撒きゆ空中溺死

あはれとは蝶貝二枚を重ねけり

川幅は川に溺れてかがやけり

飛ぶ鳥の明日香や やさしく鳥を焼く

はるばるときてほのぼのとかまぼこ板

みつめる滝に水みえはじめみえなくなる

天體やゆうべ毛深きももすもも

旅の旅人よ内感覚に烏賊するめ

車座は回転しつつ消えゆく秋

野に降れば野にも舟ある月光父母

月(しまぼし)よ 白粥谷のふりむきに

骨ひとりぶんの菜の花盛りが見ゆ

筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に

山頂の晴れのち晴れや彼岸花

満月や海燕貝(たこのまくら)の真暗がり

逝くことの巨きな鳥の陸奥山河

晩年は鯨を愛す日の帝(みかど)

繰り返し繰り返し夜の手毬唄

杳(よう)として左手は在り春の暮

天界やさらに幻(く)らきが雪乳房

わが美林あり檜葉杉葉言葉千葉

夕径かの栗の花散るしえらざあどよ

長葱の日本海学箸の先

雪融け原のおおきなおおきすぎる神

惹句!この阿武隈川を花牌(かあど)に零す

或る日老いたり遠見の鱶に陽は游び

青森で会いしひとりは春を渡りけり

赫き寝衣こそ幻世(このよ)なれ雪の音

菜の花継げば彼岸にとどく物干竿

晴(めのたま)や陸稲涅槃の雨上り

棺のうち吹雪いているのかもしれぬ

波に名を与えておれば海鏡(つきひがい)

まだ動く探海燈はさびしけれ

飛鳥より京へ甍(いらか)の濡れわたる

稲妻や地に欷(な)き孕むあかきもの

ざりがにを無上の愛として茹でる

水飯やかの練習機(あかとんぼ)永遠に

六月のまなざし深き椎の木よ

月雪花板の厠に老いゆくや

黄揚羽や等身大に春は荒れつつ

水の多摩土の相模と淡雪せり

汝と呼んでみる吾があり水の暮

かたつむり日々<複雑>を去りつつあり

暁闇や怒濤のごときかたつむり

あじさいの宇宙模型の吐息かな

極楽の裏手で葱をつくりおる

耀(かがや)きてよこたえられていたりけり

餅焼くや行方不明の夢ひとつ

杉たり 一本杉たり 倒れて銀河と称ぶ

ああ大和にし白きさくらの寝屋に咲きちる

俳句おもう以外は死者か われすでに

春暁や足で涙のぬぐえざる

空谷や 詩いまだ成らず 虎とも化さず

人語行き 虎老いて 虎の斑もなし

雪うさぎ溶ける 生きねば生きねばならぬ

舞う雪も君も触れれば消える旅か

次の世は茄子でもよし君と逢わん

なお生きる決意の鮭を噛みいたり

菜の花の一本でいる明るさよ

水に棲み飽きたる水か紫陽花は

七変化(あじさい)は半ばこの世で濡れるなり

思えばかなし桜の国の俳句かな

まだ誰も知らない死後へ野菊道

大満月つぎが最後の呼吸(いき)かもしれぬ

雲雀聴かむ幽明ふたつの顔あげて

一夜かかりて「露」一文字を分解せり

剣(つるぎ)も杖か 野火 野水 野苺(いちご) 野晒(ざら)し

つらら滴(したた)り書くべきことのあればこそ無し

金色になるまで親指を見つめている

星へ書く手紙は消えやすいインクで

麦笛を吹こうと夢みる麦自身

囁(ささや)き峠いま振り向けば石と化す

雨だれは目を閉じてから落ちるなり

まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)

晩節や塩で漬け込む八重桜

明日は吹雪かんと天上蒼ざめたり

雪達磨 我を旅行く我れ居りて

逢わざれば逢いおるごとし冬の雨

傘ひらくときふと赤黄男(かきお)こぼれけり

幼な雪自分を夢と思い消ゆ

武蔵より甲斐かけて野火向かい風

菜種雨ナザレの人も濡れけるや

桃咲くと一つこの世の闇消ゆる

渡り鳥数えてみれば数え切れ

仰向けや天上ぎつしり流氷ゆく

ととのえよ死出の衣は雪紡ぎたる

すでに方舟発てり吹いて見えざれど

人ひとり死ぬたび一つ茱萸(ぐみ)灯る

我が抱く手負いの我れや紅葉闇

秋風の風船売りもう風ばかり

幼な雪自分を夢とまだ知らず

彼処此処(そこここ)に君が泪羅(べきら)や桜闇

双蝶や何処(いずこ)も生きやすからざるに

雪解川一度かぎりの岸を視つ

死に飽きし者ら群れ起(た)つ雪の奥

動けぬにあらず動かぬ千年杉

乳母車ノアの大雨なのではないか

狼煙(のろし)あり夕立駆けるその行く手

胸中に海鳴りあれど海見たし

雷浴びて我が荒魂は渚に一つ

海嘯(かいしょう)と死んじゃいやよという声と

眸(め)も凍てつ風切羽も凍てつなお

空を知悉(ちしつ)しもう翔ばぬ孤影の鷹よ

まなざしや烟雨(えんう)の彼方その彼方

影踏みの影を奈落と思いけり

最後に焼けるは目の玉ならん大西日

行き果ての夢山脈よ行き果てず

 *

鬼の片腕
祭る祀りを
振り返る

 *

句病みとや
雪病み
花病み
月病みして

 *

白き降り
淡き降り
ひと歩む
大和言葉へ

 *

髪なびき
霜夜
夜ごとの
夢枕

 *


君の冷蔵庫に
    ⇒「鱏」に「えい」とルビ
鱏は眠れり
   開けば
   海

 *

暮れがての
旅衣
行き行きて
雪衣

 *

誰か知らん
北に
乱待つ
凍れる火

 *

森羅
しみじみ
萬象
一個の桃にあり

 *

死の淵に
現れ!
凄絶の
月雪花

 *

わが死後も
夜来の雨を
人のきく

 *

生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き

生者死者ある夜乗り合う月光舟

麺麭(パン)屋まで二百歩 銀河へは七歩

寝入るらんと渉る銀河の水嵩や

雨止まず詩篇第二十二に雨止まず

相模野の時雨は死後へ降り続く

海の蝶最後は波に止まりけり

冬の蝶その眼の炎えていたりけり

木枯しの尾に摑まって幼な木枯し

胸中に同じ雪降る妻と我れと

鳥一つ空広きかな土用西風


  *

冴えわたる
満月を見き
虎と化さん

  *



俳人の言葉


「俳句がまた判らなくなりました」。そう便りに書いたら、「一度は判っていたわけですか」と足元を掬われた事がある。手紙などに書くべき事ではなかった。「また」と書いたが、私は俳句を「判って」いた事など一度もない。(…)私はずっと俳句が判らないのに、何度も俳句が判らないという思いに打ちのめされる。(…)「判らない」お前が、では何故俳句らしきものを書いて来たのか。そう問われよう。確かに厚顔の所為と言わねばなるまい。己れを騙し騙し、俳句を宥め宥めして、書き欺いて来たのだと思わねばならないだろう。ただ……。 ただ、「判らない」想いに呻吟したのは、無論私一人ではない。むしろ意識的に俳句に志した人の悉くが衝き当たった想いであろう。 その人も決して「判った」わけではない。俳句形式の知恵と伝統の躾(しつ)けの中で、私同様、書き泳がされて来たにすぎない。 「判った」者など一人も居ない。だが、極く僅かな人が、「私が俳句だ」と想い定める事によって「判らない」壁を突き抜ける事を知り、しかも「私が俳句だ」と想い定め得るだけの秀れた才能と強靭な意志とを持ち合わせる事が出来た。 言い方を替えるならば、「私が俳句だ」と、その想いを抱き得た者だけが、一廉(ひとかど)の俳句書きであるのかもしれない。


折笠美秋 『死出の衣は』(富士見書房 平成元年)より

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2009年8月23日日曜日

第53号

第53号

2009年8月23日発行

夢の光

佐藤清美句集『月磨きの少年』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

遷子を読む

〔22〕山の虫なべて出て舞ふ秋日和

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

あとがき           →読む

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あとがき(第53号)

あとがき(第53号)



■高山れおな

今週は、「鬣TATEGAMI」同人の佐藤清美さんの新刊句集を読んでみました。かれこれ十五、六年の昔、大井恒行さんの編集で、『燿―「俳句空間」新鋭作家集Ⅱ』というアンソロジーが弘栄堂書店から刊行されました。書名にある通り、「俳句空間」誌の新鋭投稿欄の作者十六名の作品、各百句を収載したもので、佐藤さんも小生もそのメンバーでした。あまつさえ同じ一九六八年生まれの北関東人同士とあっては、同窓意識を持つなと言っても無理というものです。ちなみに十六人のうちでは他に、五島高資さんと岡田秀則さんが同年生まれで、前島篤志さんが翌一九六九年の生まれ。

と、かような感傷に耽っておりましたら、その前島氏から句集が届いたのには驚きました。句集といってもPCの出力を綴じただけの手製の冊子です。手紙がついていて、「四十にもなってコピー本をつくるところがエラい」と岡田氏から言われた、と記されていました(前島・岡田は俳句秘密結社「俳句魂」の盟友)。そうそう、句集のタイトルは『食傷』で、いかにもこの人らしい。ところどころに、短い日記風のエッセイが挿入されていて、これがまた滅法面白い。もそっと熱心にやってくれていたら、俳句界もホムホム級のエッセイストを持てたのではないか、と愚痴のひとつも出ます。作品はこんな感じ。

蚊柱のなかに刺青の男あり
いどばたの朴の木からは近きねはん
古池の無敵艦隊雪積もる
目隠しの両の指から天花粉
花柄が夜毎に育つ南風
灰色の靴下を手に熊のふり
水晶の木々狼の影が散る
湯のたまる間ガンマン二人死す
ああ言えばこう言うイエス初日の出
春暮れてジャングルジムの奥の子供
透明の男爵立てり雨の土間
蝉時雨蟻俺猿の順に死す


徹頭徹尾、お上品ぶりやセンチメンタリズムとは無縁の、逞しき俳諧でございましょう。



■中村安伸

今週は帰省中で、祖父の初盆のお供え物をバラして袋に詰め、近所や親戚に配り歩いたりしておりました。多忙というより気のゆるみでしょう、まったく記事執筆をすすめることが出来ませんでした。そのようなわけで今週はお休みいたします。


佐藤清美句集

夢の光
佐藤清美句集『月磨きの少年』を読む

                       ・・・高山れおな


誰にも好きな季語、嫌いな季語があるのは当然だが、好き嫌い以前にそのような季語が存在すること自体に疑問を覚える場合もある。筆者には原爆忌がその最たるもので、いかなる意味でもこの言葉を風雅の文脈に回収することはできまい。それでもまだ、原爆忌そのものを詠むのであればやむをえないとしても、単なる取り合わせの季語にして済ませているに至っては、ほとんどその作者の正体の程を見届けた気分になる。同様の批判をしている例は管見に入っただけでも二、三にとどまらないから、これは別に筆者ひとりの偏見ではないはずで、現に原爆忌の句など詠まない人は詠まないのである。それらの俳句作者たちは、原爆忌という言葉に季語の機能が欠けているから句にしないわけではあるまい。機能の点ではこの言葉はむしろ雪月花にも匹敵する、強力なコノテーションの磁力を帯びていると言うべきで(つまりわりあい佳句が得やすいということだ)、なればこそその使用に慎重になるのは当たり前の節度だと思う。ところで、佐藤清美の第二句集『月磨きの少年』(*1)には、

降るは光八月六日九日と

の句があってとても感心した。何にと言えば、その距離感に、である。上五を字余りにし、と止めで余韻をもって終わる韻律ひとつとっても、原爆忌を平然と取り合わせの季語扱いする類の鈍感さとは無縁の濃やかさ繊細さを感じさせるが、なまなかな作品化が不遜であるような対象を、しかも詠まずにはいられない作者の慄きがそこにはあるだろう。あきらかに原爆を主題にしていながら、それがそのまま晩夏初秋の太陽の光を詠んだものとも受け取れる両義的な表現になっているのは、他者の悲劇との安易な一体化を避けるためであり、これはもちろん冷淡さゆえではなくて、尊重のゆえなのに違いない。そしてまた、公的歴史的な事件を、私的に受け止めようとする態度、個人の思いを個人の思いのうちにとどまらせようとする抑制をも、そこに見て取ってよいのかもしれない。いずれにせよこの場合、距離を見失わないことが思いの深さなのである。ところで、この句は「時をこぼれ落ちるもの」と題された十三句からなる章の冒頭に置かれており、二句目には、

空耳であるかな祖父の風車

三句目には、

詠むは光遠い東の茶房にて

が続いている。一句目の公的な過去はここではっきりと血族の私的な過去へと受け渡され、心理的経験的な距離は、広島・長崎に対する「遠い東」(作者は群馬の在)という物理的な距離へと置き換えられている。そして、「降るは光」が「詠むは光」に変じることで、自句の中に座を占めていた作者はそこから静かに身をひいてゆくらしい。

この句集は、発行日が八月十五日になっている。わざわざこの日付を選んでいるところにも佐藤の意識のありようはうかがえるが、実際は戦争に直接絡む句は幾らもあるわけではない。むしろ巻末に付せられた林桂による解説に、

佐藤清美の俳句世界を形作る基本語が、光、月、星、虹、海、風、匂い、夢、水、闇、夜などであることは、一読すぐに判る。

と指摘されている通りである。しかし、逆に言えば、あえて八月十五日を句集刊行日とするような意識と、どうかすると星菫派的に見えかねないこれらの語彙の偏愛との間を繋ぐファクターにこの作者を読み解く鍵があるのではないか、という漠たる予感もする。そんな思いつきを念頭にこれらの“基本語”を見直す時、筆者が最も気になったのは「夢」という言葉の頻出ぶりであった。なにしろ三百五十句が収められているうち、じつに一割近く、三十二句にこの単語が現われるのである。

海に墜ちる虹なら夢の中で見た
夢の中へ白く冷たい花を見に
雪中の夢先案内美術館
人の形に水が見る夢ありにけり
鳴石に夢の源教わりぬ
長安的電飾夢で明滅す
げんげ摘み死は夢を見る形して
夢は時に植物園に棲んでいる
れんげ編む夢に帰ってくる人に
海へ海へ盥の夢に運ばれる
夏過ぎる夢の別れの明るくて

集中の夢の句のおよそ三分の一を引いた。ごく普通に人が眠っている際に見る夢もあれば、水や鳴石、盥など、人間以外の存在が見る(?)夢もある。また夢そのものが、まるで生き物のように実体化しているケースもあるし、世界観の比喩としての夢もある。おなじく夢と言っても、さまざまな詠み方がなされていることがわかるが、しかしもちろんそこには共通性もあって、それはこれらの夢の語が、うつつを拒むものとして、あるいはうつつ以上のうつつとして呼び出されることで、どこか失意の気配を帯びたひんやりとした否定性を一句に導き入れている点である。評者は三橋鷹女の有名な

みんな夢雪割草が咲いたのね

を思い出さないではなかったが、佐藤には鷹女のようなナルシシズムが稀薄な分、否定性についても一見すると鷹女ほどの加虐的な現われをしていないようである。そのかわり佐藤は、いわば淡々とした執拗さによって、背日性を帯びた夢の布地を織り上げ、句集全体を覆ってしまった。佐藤にそうさせたものが、どこかしらこの世界はほんとうではない、夢にすぎないとする意識だったとして、それが〈降るは光八月六日九日と〉のような作品に通底してゆくのであり、さらにこの句に感じられるつつましく距離を保とうとする節度を導いてもいるのだろう。

さて、この句集は、ⅠとⅡの二部構成を取っていて、Ⅱの方はそれぞれ章題を持つ、五、六句から十数句の連作二十四篇を集積したもの。一方、Ⅱの「旅する光」の章に含まれる、

梯子には月を磨きに行く少年

の句に詠まれた〈月磨きの少年を主人公にし、彼の住む小さな町の四季を創作〉したのがⅠで、従ってⅠは四季別に編まれている。この二部構成自体、独特で面白いが、句集の半ば(句数では三分の一弱だが)の主人公となりおおせた“月磨きの少年”がやはり気になるではないか。林桂は解説で、

月磨きの少年は、暗い内的世界を照らす言葉の少年である。少年が童話的な像を纏って見えるのは、内的な世界を照らす少年性のためである。

と述べているが、「内的な世界」を照らす存在が「少年性」として顕現するところがつまり佐藤の個性なのだろう。句集の中には恋愛を詠んだ句もそれなりにはあるのであるが、総じてそれらの句に現実感が稀薄なのも、佐藤のこの「少年性」の希求と裏腹なものと見えてくる。

夏の風少年一人図書館に  Ⅰ
少年の遥かなものに霧の村  Ⅰ
少年の海どの抜け道でもよくて  
羽化しつつ涯を見ており少年は  Ⅱ
少年期木犀眠りに紛れこむ  
少年の背骨を磨きからっ風  Ⅱ

「羽化しつつ涯を見」るとは、佐藤の自己像、少なくとも無意識に願われた自己像なのであろうが、それがあくまで少年に仮託されているところにナルシシズムからの距離が見切られているとしてよいか。そういえば、佐藤の第一句集『空の海』(*2)を代表する一句に、

何を見たって鳥の瞳は毀れない

があった。羽化する少年の瞳もやはり「何を見たって……毀れない」のだろう。しかし、この「鳥の瞳」がすなわち“作者の瞳”と了解されるのに対して、「羽化しつつ」の句における少年をイコール作者とするわけにはゆかないし、やはりこの三人称化には佐藤の成熟が賭けられてもいるはずだ。そのことは、第一句集から第二句集へと、「童話的な像」への傾きが強まりこそすれ弱まってはいないことと、別に矛盾はしないだろう。最後に好みのままに十句を引く。

人恋えば風は光って見えるのか
鱗雲空には空の漕ぎ手いて
春昼は犬の眠りの中にある
冬空の吸い込むものを数えている
丘を越え磨かれし朝の席に着く
返らずの声待ち千年杉育つ
カインらが空に書き継ぐ国家論
罪ありて翼のなきを種の起源
行く夏や列車の揺れを身に残し
幻想の奈良町界隈定休日

あらかじめの喪失感に深くひたされたこの短調の句集にあって、〈幻想の奈良町界隈定休日〉は珍しい諧謔の句ででもあろうか。「幻想の奈良町」といういささかナマに過ぎる危ういフレーズに対して、「定休日」がみごとな受けになっている。彼女の幻想にも定休日があるのだとしたら、もちろんそれは良いことに違いない。

佐藤清美句集『月磨きの少年』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)佐藤清美句集『月磨きの少年』 風の花冠文庫7 発行所=鬣の会 二〇〇九年八月十五日刊

(*2)佐藤清美句集『空の庭』 邑〈新世代句集叢書〉2 邑書林 一九九八年



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2009年8月22日土曜日

遷子を読む(22)

遷子を読む(22)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


山の虫なべて出て舞ふ秋日和
      『雪嶺』所収

原:昭和32年の作。佐久に帰郷して10年あまり経っていますから、郷里の生活にもすっかり馴れ、医師として周囲の信頼を得ていた頃でしょう。それだけに地方医療の苦労はもちろんのこと。患者たちの豊かとはいえぬ生活への見聞も深まっていたことが句集『雪嶺』から伺われます。前に取り上げられた、

汗の往診幾千なさば業果てむ

も同じ年の作品です。それらの作品の中に掲出のような句を見出すと、ほっと救われる気がします。遷子は佐久の自然に慰められていたのでしょうね。

この句の「山」は峻険な山岳のそれではなく、いわゆる里山と呼べるような処を思います。人の暮らしに近く、親しく眼に触れることもある虫たち。穏やかな秋の日差しに、それら小さな生き物の命の喜びが舞っているかのようです。

そういえば小諸生れの臼田亜浪に、

垂れ毛虫皆木にもどり秋の風

がありますが、まるで遷子の句の虫たちが、不意の冷たい風に思わず首を縮めてしまった、という風情に見えませんか。この2句、虫に対する視線がどこか似ているような気がして、片方の句を思うとき必ずもう一方も思い出してしまいます。

中西:山の虫とは、蜻蛉、蛾、蝶、蚊、甲虫、、ユスリカなどの小虫などが考えられます。原さんがおっしゃるとおり、これは里山なのでしょう。天気の良いおだやかな日の山道を思います。休日の散歩でしょうか。仕事上では厳しい句をいくつも作っている年ですが、それだけにこの句はオアシスのように感じられます。

「なべて出て舞ふ」といったところ、暢気な気分が漂っているようです。日和という言葉が季語につくと句の緊張感が解けて、気分の勝った句になり易いものです。しかし、この句はそこを逆手にとっているようです。沢山の虫を舞っている、ふんわりと穏やかな日差の中に、心あそばせているのです。自然の中でのくつろぎを「日和」という言葉に見ることができるようです。

yama no musi nabete dete mau aki biyoriのA音の繰り返しも明るさを引き出しています。弾んだ調べを持つ句です。

産室の牛がものいふ秋の暮

こんな句もこの年作られています。遷子は生き物をモデルにして作ると、途端に長閑な気持ちになるのです。仕事を離れた開放感を思わずにはいられません。

佐久にある遷子の句碑に掘られた、実直そうな文字を見ますと、こんな暢気な句を真面目そうな顔のまま作っていたのではないかと思われて、ほのぼのとした気持になります。

深谷:確かに、遷子の生涯のなかで比較的平穏かつ充実していた時期の作品と言えます。

「山の虫」には様々な種類の虫が含まれ、中にはグロテスクな虫や(刺されたりすると)害毒のあるものもいます。それら全てをひっくるめると言う意味で、「なべて」という措辞を用いているのでしょう。遷子には、メインストリームを歩んでいるものあるいはスポットライトを浴びているものよりも、むしろそういったものの陰に隠れた存在に想いを寄せ、句の対象とした作品が多く見受けられます。弱いもの、陽を浴びることのないもの、いわばそうした「例外的存在」に親近感を示していた筈です。ところがこの句は、珍しく「全員参加」型で、屈託なく、穏やかな秋の風景を詠んでいます。

加えて、「舞ふ」という措辞が明るい、ポジティブな雰囲気を物語っていて、いつもの「深刻さ」や「生真面目さ」が影を潜めています。

そして、下五の「秋日和」がそうした明るい秋景色を演出しているのですが、一方では(深読みの部類に入ってしまいますが)こののちに遷子が送る壮絶な療養生活を暗喩しているような気にもさせられます。

窪田:好きな句です。厳しい佐久の冬が確実に近づいて来ます。そんな晩秋のまさに玉のような秋晴れの1日。虫たちも貴重な日の光をいとおしむように、あちこちから出てきて舞っているのです。翅をきらきらと輝かせながら。

私も昨年の秋、別所温泉の奥、野倉という所にある喫茶店のテラスから、こんな景を楽しみました。日没寸前の茜色の光を小さな翅が纏います。そして、没り日を送る儀式のように舞うのです。私と虫達の思いが一つになった気がしました。遷子も私と似たような感慨に耽ったのではないでしょうか。

この句の前後には、

豆引くや空しく青き峽の空
産室の牛がものいふ秋の暮
曇り空かりがね過ぎし跡ひかる

と、周囲を見つめる遷子の穏やかな目を感じます。比較的平和な時を送っていたように思えます。

筑紫:貞祥寺の秋桜子・遷子の師弟句碑に彫られている

雪嶺の光や風をつらぬきて 遷子

の句(昭和32年)と同年の句です。今回遷子のミステリーツアーに行ってきましたが、今まで「遷子を読む」で発言してきたときの印象とずいぶん違うものを感じました。

「ミステリーツアー」のほうでも書きましたが、佐久市野沢は「山国」の真っ只中でもなく、遷子の医院の周囲は相馬一族が占めており、菩提寺の格から行っても相馬家は立派な一族であったようです。確かに自然は今もって豊かでしたが、孤独という環境であったかどうかはよく分かりません。もしここが孤独であるならば、隣の小諸に住んでいた藤村も、同じ佐久に住んでいる邑書林の島田牙城氏も悲惨なはずですが、ちょっとそれとは違うようです。

こんなことを言うのも、淡々と周囲の自然を詠むとき、こうした環境ではどこか気分のたるみが出てきてしまうのではないかという気がしたからです。これが掲出の句に私が抱いた印象でした。こうした、作句環境を改めるためにも、遷子は露骨な表現も交えて社会的関心をかきたて、独自な句を詠んだのではないかという気がしてきました。遷子は、函館では周囲の俳人たちと頻繁に句会を開きましたが、佐久では、遠く訪れる堀口星眠氏と吟行に行く以外は地域での俳句活動は薄いようです。地元では俳人としての遷子より、将棋の好きな相馬院長として有名であったという話を聞いたことがあります。(俳人遷子をたずねていった)私たちが訪問した相馬北医院のかたがたの、多少とまどった表情にそんなものを感じたのでした。地元俳人との関係がこのように変わってくることと、俳句の詠み方が変わってくること―――あまり今まで論じられてこなかった点ですが気になり始めました。地元俳人たちと楽しげに句会を開いたとしたら、農民の悲惨さを読んだあのような句は生まれなかったかもしれません。孤独に徹するところで出てきた俳句ではないか、そうした俳句環境の息抜きとして掲出の句があるような気もします。
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遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔4〕 春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔5〕 くろぐろと雪片ひと日空埋む・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔6〕 筒鳥に涙あふれて失語症・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔7〕 昼の虫しづかに雲の動きをり/晩霜におびえて星の瞬けり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔9〕 戻り来しわが家も黴のにほふなり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔10〕 農婦病むまはり夏蠶が桑はむも・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔11〕 汗の往診幾千なさば業果てむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔12〕 雛の眼のいづこを見つつ流さるる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔18〕老い父に日は長からむ日短か・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔19〕田植見てまた田植見て一人旅・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔20〕空澄みてまんさく咲くや雪の上・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む


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2009年8月16日日曜日

第52号

第52号

2009年8月16日発行

「―俳句空間―豈」関西読書会

安井浩司の近作を読む   →読む

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(12)

佐藤鬼房「実体のわれは花食い鳥仲間」

          ・・・大井恒行   →読む

他界のない供犠

三橋鷹女的迷宮について

          ・・・関 悦史   →読む

俳句九十九折(46)

俳人ファイル ⅩⅩⅩⅧ 林田紀音夫

          ・・・冨田拓也   →読む

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(2)

まつしろに花のごとく

          ・・・中村安伸   →読む

遷子を読む

〔21〕薫風に人死す忘れらるるため

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

遷子ミステリーツアー

(「遷子を読む」番外)

          ・・・筑紫磐井   →読む

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あとがき(第52号)

あとがき(第52号)



■高山れおな

私用で旅行に出ていたりしたため、高山は今週、執筆をお休みさせていただきましたが、お蔭様で力稿が揃っております。

関悦史さんの三橋鷹女論はいつもながら精緻にして大胆な議論が展開されています。大変面白く、興奮させられました。惜しむらくは、関さんの鷹女に対する愛の在り処が見えにくいところでしょうか。

冨田拓也さん「俳人ファイル」は、林田紀音夫。大部の全句集の読み込みが必要だったゆえ前号はお休みだったわけですが、さすがそれだけのことはあります。紀音夫の韻律と槐太のそれとの関係など、鋭い指摘が随所にみられます。

「遷子を読む」は、議論そのものはやや夏痩せの気味ながら、話題となっている遷子の句がいつにもまして深読みを誘う魅力を湛えています。磐井師匠による「遷子ミステリーツアー」も好読み物です。西村和子女史との偽善的な会話も良い感じ。

大井恒行さんは新しい職場で忙しくなさっていたようで、連載がしばらく中断しておりましたが、執筆再開です。攝津さんの会での鬼房のことは、小生もよく覚えております。

岡村知昭さんからは「安井浩司の近作を読む」読書会のレポートが届きました。俎上にのぼっているのは「蛇結茨抄」「天類抄」ですが、選句ひとつをとってもまことにいろいろで興味深いです。しかし、豈本誌四十八号に書いた拙稿はどうでも、当ブログに発表された関さんの安井浩司論さえ碌に参照された様子がない(約一名を除き)のはちと淋しくはあります。東は東、西は西ということでしょうか。となればしかし、安井浩司は東のビートそのものじゃないかと思いますけどね。もう単純に、神社仏閣の密度とかからして、くだんの読書会の方々がお住まいのあたりと東北地方では雲泥の差があります。ずっと関西だと案外そういうこともわかりにくいでしょうが、耕衣的禅機とも異なる独自の神話を安井が紡ぎ出そうとしている(紡ぎ出さねばならない)条件のひとつには、そんな場のあり方もかかわっていようかと思っております。

こしのゆみこ氏から、話題の句集『コイツァンの猫』を御恵贈いただきました。アマゾンで買った同句集が届いた直後のことでした。時々起こる悲劇ですな。



■中村安伸

冨田拓也さんからメールでご指摘いただいたのですが「―俳句空間―豈weekly」の創刊準備号(0号)を発刊したのが昨年の8月15日、第1号が8月17日ですから、今号でほぼ一周年ということになります。

第49号ばかり意識して忘れておりましたが、ともかく次号からは二年目の「豈weekly」ということになります。

ご閲読の皆々様におかれましては、今後ともなおいっそうのご贔屓、お引き立てを賜りますようお願い申し上げます。


髙柳克弘句集『未踏』をよむ(2) まっしろに花のごとく・・・中村安伸

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(2)
まつしろに花のごとく

                       ・・・中村安伸

髙柳克弘句集『未踏』を評するのあたり、多くの評者が文脈はともかく「青春性」という語を用いているようである。句集前半に散見される恋愛感情をテーマにしたと思しき作品に、なかなか魅力的なものがあるということがその一因であろう。

まずは、そうした作品の例をあげてみる。(番号は評者が便宜上付したもの、括弧内は制作年。)

1.ゆふざくら膝をくずしてくれぬひと (2003)
2.夜の新樹どの曲かけて待つべきや (2003)
3.わが部屋の晩夏の空気君を欲る (2003)
4.木犀や同棲二年目の畳 (2003)
5.雛飾るくるぶしわれのおもひびと (2005)
6.蕪煮てあした逢ふひといまはるか (2006)
7.日暮より早き別れや冬の川 (2006)

1.2.6.7などは、必ずしも恋愛を詠んだものとは断定できないが、恋愛感情を想定して読んでみたほうが魅力を増すようである。

1.は恋慕する対象が気を許してくれない状況。2.3.6.は恋の対象が不在であり、7.は「別れ」ののち、一人になって相手を思っているという状況を描いているのだろう。5.では、そこに「おもひびと」が存在しているが、作中主体に対して背を向けている。このような片方向の思慕の情、その一途さを描くのがこれらの作品の特徴である。同時に1.の「膝」、5.の「くるぶし」などの肉体描写もまた、清潔さを損なわない範囲でのエロチシズムを醸し出している。

4.はすこし異質であるが、「二年目」という時の経過からも「木犀」という季語の選択からも、この同棲がまだまだぎこちなさを残している、新鮮なものであるということが伝わってくる。また、句の景は「畳」へと絞られてゆき、同棲の相手は描かれていない。思慕の情はここにおいても一方的なのである。

髙柳氏はとくに女性俳人から絶大な人気を得ているということをよく聞くのだが、これらの作品がその人気の鍵を握っているのかもしれない、とふと思った。

これは想像だが、そのような女性読者たちの中にはこれらの作品を読みながら、恋慕の対象である女性になんとなく自らを重ね合わせる人もいるかもしれない。もちろん思いを寄せる側の作中主体には、作者である髙柳が想定されるのである。このような擬似恋愛的な構造は、J-POPなどにおいてアイドル的な魅力をもつアーティストに対してファンとが抱く感情に類似しているかもしれない。

もちろん髙柳自身が意図して読者に媚びているのではなく、真摯な表現の結果として読者を楽しませているだけのことであり、彼自身の名誉はいささかも傷つくものではない。

 *

さて、先週号の拙文において、私は以下のように述べた。〈髙柳はこの句集を「二十代の墓碑」として編んだという。いささか気負いとロマンティシズム過剰な言葉ではあるが、このような表現にもあらわれている「死」を身近に感じる意識こそが、髙柳の作品を特別なものにしているという面はあると思う。〉

早速、この句集にあらわれている「死」というテーマについて検討してみたい。まずは句集中、死に関連すると思われるものを挙げてみる。

1.どの星の死や枯蘆の告げゐるは (2003)
2.蝶ふれしところよりわれくづるるか (2004)
3.蝶の昼読み了へし本死にゐたり (2004)
4.在ることのあやふさ蝶の生まれけり (2005)
5.潮満ちていそぎんちやくは死者の花 (2005)
6.泉飲む馬や塚本邦雄死す (2005)
7.新生も死もなき雪の1DK (2005)
8.死に至るやまひの蝶の乱舞かな (2006)
9.根の国の闇を恋しと亀鳴けり (2007)
10.春昼の卵の中に死せるもの (2007)
11.虹消えて小鳥の屍ながれゆく (2007)
12.祖の骨出るわ出るわと野老掘 (2008)
13.絵の中のひとはみな死者夏館 (2008)
14.死ねとすぐいふ子に秋の金魚かな (2008)

ここに取り上げたのは、直接死や死体を扱ったもの、死を暗示しているもの、あるいは、比喩や人物の台詞といったかたちで「死」という語を用いているものなどである。死の影を感じさせる程度の作品なら、まだまだたくさん挙げることもできるだろう。

7.にあらわれているように、髙柳にとって現実の死は決して身近なものではなく、むしろ縁遠いものとして感じられているようだ。

一方で彼は、死という語、概念に対する関心そのものは強く持っており、死に対する文学的なアプローチを積極的に行っているように見える。もちろん誰にとっても死は重大な関心事であるが、一方でそれについて考えることを忌避するという傾向もまた強い。「文学的なアプローチ」とは、こうした本能的な回避行動を理性によって抑え、対象を見据える姿勢のことを言うのである。

真摯に表現を志す者なら誰もが、死に対して上記のようなアプローチをとろうとするだろう、ただ、髙柳の場合は「死」と言う語を直接表面に出してくる傾向が強いようである。14.などはそうした自分自身に対する皮肉のように受け取れなくもない。

初期の作品には、もっぱら抽象的、概念的なものとして死があつかわれているようだが、後半となるにしたがって、だんだんとより具体的、肉体的な死があらわれてくる。

概念としての死を扱ったものとしてすぐれているのは3.の句であろうか。この句では「死」は衝撃的な比喩として、効果的に用いられている。

比喩は的確であればよいというわけではなく、意外性によってはじめてすぐれたものとなる。拙文で私は比喩について以下のように述べた。〈比喩によって、二つの語がそれぞれに持っている立体的なイメージの共通部分が提示される。言葉を重ねることによってイメージは広がるのではなく、より限定されるのである。〉「放物線の途中 こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上)」―俳句空間―豈Weekly 49号より)Aという語のさししめす立体的イメージのなかで、読者が一般的に注目している領域は一部である。そして、Bという語を比喩として用いたときに、普段注目されていない領域が前面に立ち上がってくることがある。そのような意外性が読者に衝撃をもたらすのである。

より具体的な死を扱ったものとしては、10.がすぐれているだろう。これは誕生ととなりあわせの死を具体物によって表現しているのだが、4.において抽象的なかたちで表現されたテーマが、肉体化されたものといえる。また、同様のテーマを否定的なかたちで述べているのが7.であろう。

さて、上記の例句にはあげなかったが、

まつしろに花のごとくに蛆湧ける (2007)

という句も興味深い。この句を、死を扱ったものであると断じることはできない。蛆はもちろん死体にばかり湧くものではない。腐敗した汚物のなかで生まれ、成長して蠅となる蛆は、一般に忌み嫌われる存在である。そのような対象の姿を虚心坦懐にとらえて「まっしろに花のごとくに」と表現した、その予断を捨てた視線がこの句の手柄であり、それで十分であろう。

したがって、以下はあくまでも個人的な思い入れに基づく深読みである。

私は直感的に、この蛆は屍に湧いたものであるというイメージをもった。そのように読むことで「まつしろに花のごとくに」という措辞が、より輝きを帯びてくるように感じる。死者の身体がグロテスクに腐敗してゆくという現象のあらわれとしての蛆。その蛆をきよらかな、聖なるものとして描く。それは、死という汚穢を、美化したり消臭したりするのではなく、グロテスクな姿と腐臭をそのままに荘厳しようとする表現であり、以下のような文章に述べられているもののあとに続くものなのである。

〈彼女の死体はシーツの中に捕らえられている。相変わらずそれは、頭から足まで、流氷の瓦解のなかにあって、じっと動かず硬直した、無限に向かって航行する一艘の船なのだ。〉ジャン・ジュネ、鈴木創士訳『花のノートルダム』(河出文庫)

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■関連記事

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(1)イカロスの羽根・・・中村安伸   →読む

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俳句九十九折(46)俳人ファイル ⅩⅩⅩⅧ 林田紀音夫・・・冨田拓也

俳句九十九折(46)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅧ 林田紀音夫

                       ・・・冨田拓也

林田紀音夫 15句


月光のをはるところに女の手

歳月や傘の雫にとりまかる

雲雀より高きものなく訣れけり

木琴に日が射しをりて敲くなり

棚へ置く鋏あまりに見えすぎる

息白く打臥すや死ぬことも罪

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

煙突にのぞかれて日々死にきれず

受けとめし汝と死期を異にする

黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

洗つた手から軍艦の錆よみがえる

さくらの下を過ぎて深夜に齢(よわい)足す

いつか星ぞら屈葬の他は許されず

滞る血のかなしみを硝子に頒つ

幽界へ氷片のこすウイスキー



略年譜

林田紀音夫(はやしだ きねお)

大正13年(1924)京城に生まれる

昭和12年(1937)俳句をはじめる

昭和16年(1941)「山茶花」に投句

昭和17年(1942)金子明彦を識る 「琥珀」「火星」などに投句

昭和22年(1947)下村槐太に師事

昭和23年(1948)肺結核で入院

昭和25年(1950)日野草城の「青玄」に投句

昭和28年(1953)堀葦男、金子明彦と「十七音詩」創刊

昭和33年(1958)「風」同人

昭和36年(1961)第1句集『風蝕』 福田基を識る

昭和37年(1962)第1回現代俳句協会賞 「海程」創刊同人

昭和40年(1965)「十七音詩」終刊

昭和45年(1970)戦後俳句作家シリーズ『林田紀音夫句集』

昭和49年(1974)「花曜」客員同人

昭和50年(1975)第2句集『幻燈』

昭和53年(1978)『現代俳句全集 6巻』

平成8年(1996)句作中止

平成10年(1998)逝去(74歳)

平成18年(2006)『林田紀音夫全句集』(福田基編)



A 今回は林田紀音夫を取り上げます。

B これまでに下村槐太、火渡周平、金子明彦といった作者経てきて、ここで林田紀音夫の登場ということになるわけですね。

A 林田紀音夫については、まだその作品については、現在において割合読まれているところがあるといっていいかもしれません。

B 2006年に、林田紀音夫の唯一の弟子である福田基さんが、宇多喜代子さんによる全句集の刊行の奨めと協力により『林田紀音夫全句集』が纏められ、出版される運びとなりました。また「俳句研究」2006年11月号と、「俳句界」2008年6月号の誌上において作家特集が組まれています。

A では、まず、林田紀音夫の略歴から見て行きたいのですが、林田紀音夫は大正13年(1924)に京城で生まれ、昭和12年のころにはすでに俳句をはじめていたそうです。

B 年齢としては大体13歳ごろということになるのでしょうか。父親が月並の宗匠俳句に親しんでいたそうで、その影響があったとのことです。

A その後、昭和14年には、通学していた学校の俳句部に入会、昭和16年には「山茶花」に投句をはじめ、当時の昭和16年における作品としては〈短夜のあさきねむりに雨となる〉〈稲架の村潮騒とほくねむるなり〉〈父の忌をひとり歩めり星月夜〉〈新刊書手にある朝のつばくらめ〉〈春灯下新しき線を地図に書く〉などといった句が見られます。

B これらの句は、17歳頃の作品ということになるはずです。

A どちらかというと、幼い印象があるというか、まだ、普通の俳句といった感じですね。

B 『現代俳句全集 六』(立風書房)の「自作ノート」によると、その後〈日野草城・水原秋桜子・山口誓子・中村草田男・高屋窓秋その他、諸先輩の作品に触れるようになるのだが、この段階では素逝の甘美な抒情のリズムがもっとも身近であった〉とのことです。

A 「素逝」は長谷川素逝のことですね。また、草城、秋桜子、誓子、窓秋の名が登場しますから、こうみると、新興俳句に強い興味を抱いていたということが察せられますね。

B しかしながら、この時点で新興俳句運動は弾圧された後で、すでに運動としては終息しており、〈私が参加したのは新興俳句弾圧後の形骸でしかなく、その失われた過去の幻影を追うばかりであった。〉とのことです。

A そして、昭和17年には「琥珀」などに投句を始めます。同じく「自作ノート」を見ると〈私が今日まで俳句に執するに到った縁は、この新興俳句の存在を現実とし得たところにある。〉との記述があります。

B この当時の林田紀音夫の作としては、昭和17年に〈病葉や尿する馬のさびしい貌〉〈ひとの死のその葉書なりふたつに折る〉〈郷愁の夜の雲しろく疾く流れ〉〈たんぽぽが吹かれ茜に湖昏れぬ〉〈花圃の午後風あたたかに曇り来ぬ〉〈カンナ炎え風のひとひら消えゆけり〉〈水中花家郷にとほく咲かしむる〉〈月のもとおのが煙草にむせてひとり〉〈鶴を折りさむければ指の骨鳴らせり〉といった句が見られ、昭和18年には〈散るさくらほろほろ鳩は地に啼けり〉〈天あおき日のひぐらしの鳴きをはる〉〈憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな〉、昭和19年には〈晩涼や壁に影して独り言〉〈夜勤工のひとりや月の踏切に〉〈火蛾狂ふ夜ごと疲れて詩もなし〉〈蟇あるく捨てし燐寸は地に燃えて〉〈夜も暑し何ゆえ笑ふ人の貌〉といった句がみられます。

A これらの作品を見ると、すでに後年の林田紀音夫の作風を予感させる要素が、いくつか確認できますね。

B 「馬のさびしい貌」「ひとの死のその葉書」「脆さ」「独り言」「夜ごと疲れて」「蟇」などといった表現ですから、やや暗鬱な印象を受けるところが、やはり紀音夫的といえると思います。特に〈憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな〉から感じられる危うい印象というものは、紛れもなく林田紀音夫の俳句といった感があります。

A 「散るさくら」の句などは、「さくら」と「鳩」ですから、高屋窓秋の〈ちるさくら海あをければ海へちる〉〈山鳩よみればまわりに雪がふる〉からのあからさまな影響といったものが見られます。

B 高屋窓秋の存在というものは林田紀音夫にとって小さなものではなかったようで、窓秋には『河』という句集があるのですが、〈河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ〉〈河終る工場都市に光りなく〉〈日空しくながれ流れて河死ねり〉〈葬送の河べり何もない風景〉〈赤い雲赤い雲消え死ぬ都会〉などといった作品に感じられる荒涼としたどちらかというと殺風景な雰囲気などは、後年の林田紀音夫の作に、少なからぬ影響を与えているのではないかと思われます。

A 林田紀音夫本人にも、昭和39年の「俳句」の「〈時〉の作業 ニヒリズムについて」という文章において、これらの窓秋の作品についてふれている箇所があり〈それはモダニズムの青春性の次にきた時代であり、現実をてのひらにのせられたような重量感を伴つていた。〉という風に述懐しています。

B さて、この昭和17年の当時の林田紀音夫についてですが、林田紀音夫の盟友であった金子明彦は「『風蝕』までの道」(「俳句研究」1968年6月号)という文章において林田紀音夫と軍事工場で出会った当時を述懐し〈彼と私の川西航空機での工場生活は、わずかに二年半ほどのあいだであった〉〈神経が繊細で、都会的なひよわさを持っていた林田は、この工場生活を苦にしてるように見えた。〉〈そして、新興俳句までが弾圧に遭って、悲劇的な最後をとげねばならなかった、時流の絶望的な空気、それらがみんな結びついて、弱いモダン・ボーイだった彼の精神を、むしばんだ。〉〈後年の林田紀音夫作品の基調となった「どうしようもないペシミズム」は、この時から芽生え始めた。〉と書いています。

A また、この時期の作品を見ると、まだ「季語」の存在が多くみられますね。

B 林田紀音夫というと無季俳句の印象が強いですが、この時点においてはまだ季語の使用頻度が高かったということになるようですね。

A 「ひとの死のその葉書」「郷愁の夜の雲」の句が、無季の作品ということになります。

B この後、林田紀音夫は、戦後の混乱期における窮乏の中、職を求めて転々とし、昭和22年に下村槐太に師事し、それと同時に槐太の謄写版の印刷の仕事を手伝うことになります。

A この昭和22年からによる作品が、第1句集『風蝕』における初期の作品ということになります。

B 『風蝕』の時代は、この昭和22年からはじまるわけですね。では、その『風蝕』時代の作品について見てゆくことにしましょう。

A 『風蝕』の昭和22年から24年までの作品には〈人待てる椅子やはらかに暮春かな〉〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のふたたびおのが手に復る〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈風の中唾ためて貨車見すごせる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈雲雀より高きものなく訣れけり〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈七輪に紙燃やすけふありしかな〉〈滴りの明日を思へば遣瀬なし〉〈月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈目刺焼いて私するに火がのこる〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉といった作が見られます。

B これらを見ると、作品が最早ほとんど完成の域に達してしまっているというか、林田紀音夫の代表句の半分は、この時点ですでに詠まれてしまっているといった印象すら感じられます。

A この時期における作者の年齢は、およそ23歳から26歳ごろの作品ということになるようです。

B 現在と比べると、時代が異なるとはいえ、20代半ばの青年の作にしてはまったく未熟な部分が見られないというか、言葉が緊密に構成されていて、非常に高い精度を示している、という他はありませんね。

A この当時、時期的には、下村槐太と「金剛」のメンバー(金子明彦、火渡周平など)ともに、最もその実力を発揮した時期にあたると思います。

B 下村槐太といえば、〈雨の薊女の素足いつか見し〉〈蛇の衣水美しく流れよと〉〈死にたれば人来て大根煮きはじむ〉〈跣にて梢わたらば死ぬもよし〉〈わが死後に無花果を食ふ男ゐて〉などといった作品をよく読むとわかるように、虚と実がコインの表と裏が反転するように入れ代わる、といったやや特異な詠風を自らのものにした作者でしたね。

A また、槐太は「雨の薊」や「死にたれば」の句を見ればわかるように、過去や現在さらには未来といった時間性をコントロールすることによって、虚と実の双方の要素を作品内部に現出させる手法を有した作者でもありました。

B そういった槐太の虚と実による手法というものは、紀音夫の〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のふたたびおのが手に復る〉〈月光のをはるところに女の手〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈七輪に紙燃やすけふありしかな〉〈滴りの明日を思へば遣瀬なし〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈目刺焼いて私するに火がのこる〉あたりの作品にその影響を及ぼしているところがあるように思われます。

A そうですね。〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉あたりを例にとると、わかりやすいでしょうか。

B 「木琴」に日が射している「現在」の「実」の時間と、「木琴」に日が射していない「虚」の時間、そして、「青空」の「けふ」という「実」の時間と、菊を捨てた「昨日」という「虚」の時間、ということになりますね。

A 後年の〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉にしても、こういった虚と実の手法によって生み出される結果とになった、という可能性が考えられると思います。

B こういった作品を見ると、現実というものが、そもそも、虚と実といった要素を多分に孕懐している面があるという事実そのものについて、改めて気付かされるようなところがありますね。

A あと、〈目刺焼いて私するに火がのこる〉という句がありますが、槐太の〈目刺やいてそのあとの火気絶えてある〉が本歌であることが明白ですから、やはりここにも槐太からの影響の強さというものが窺うことができます。

B 他に槐太からの影響として考えられるのは、韻律でしょうか。

A そうですね。〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉といった作品に見られる、中七の途中での分断やそれに伴う句跨りの手法といったものは、やはり槐太譲りの手法であるといえるでしょう。

B また、林田紀音夫といえば無季俳句の作者として有名ですが、これらの時期の作品を見ると、意外にも有季の作品も少なくありませんね。

A これらの作品の中で有季であるのは〈人待てる椅子やはらかに暮春かな〉〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のふたたびおのが手に復る〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈雲雀より高きものなく訣れけり〉〈滴りの明日を思へば遣瀬なし〉〈月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈目刺焼いて私するに火がのこる〉ということになります。

B 無季の句は〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈風の中唾ためて貨車見すごせる〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈七輪に紙燃やすけふありしかな〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉ということになりますね。

A 林田紀音夫が、このように無季の句を詠むことになった要因としては、日野草城や高屋窓秋などの新興俳句からの影響といったものも作用したのでしょうが、それだけではなく、火渡周平という作者の存在というものも小さくなかったのではないかと思われます。

B 火渡周平については、林田紀音夫と同じく槐太門で、昭和22年に「花鳥昇天」のタイトルで「現代俳句」「俳句界」「俳句研究」「金剛」などに次々と無季俳句を発表し、石田波郷、西東三鬼から評価され、当時、非常に注目を集めた作者であったそうです。

A その火渡周平の当時の作品は〈セレベスに女捨てきし畳かな〉〈東西に南北に人歩きをり〉〈雨となり水の執念終りたる〉〈水泡より美しき旅了りしや〉〈傘干すや雨も未来のものの一つ〉〈猫走り瓦礫ばかりを残しけり〉〈石の上又石の上歩きをり〉〈飛行機が扉をとざし飛行せり〉といったものでした。

B 林田紀音夫の〈歳月や傘の雫にとりまかる〉という句については、これは、おそらく火渡周平の〈傘干すや雨も未来のものの一つ〉からのものであるのでしょうね。

A こういった例ひとつとってみても、当時20代の青年であった林田紀音夫が、この火渡周平という作者の存在を眼前にしていて、どのような思いを抱くことになったかということは想像に難くないようなところがありますね。

B 当時の「金剛」の昭和22年3月号において、林田紀音夫は、この火渡周辺の作品について〈花鳥昇天――火渡周平氏は潔く季の殻を脱いでそれを灰とした。併しその後に残されたものは”俳句”に外ならなかつた。花鳥昇天なるタイトルは甚だロマンチックであるが、その実体はむしろレアルに徹せんとする意欲である。〉〈僕はこの一聯に脱皮し成長した新興俳句の姿を見る。あまりにも青年的な若さに終始したのが過去であるとすれば、これを壮年の情熱と呼ぶ言葉は当嵌らないであらうか。〉〈花鳥昇天――地に残されたものは裸の人間である。裸の人間の作る詩こそ、これからの世界には尊い〉と書いています。

A こういった文章を見ても、火渡周平の作品というものが、林田紀音夫に大きな影響を及ぼすことになったのは明白でしょうね。そして、この文章は、先の窓秋についての文章と併せて、当時の林田紀音夫が志向しようとしていた方向性を、そのまま語っているようにも思われます。

B 確かに、林田紀音夫の〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉などといった作品からは、まさしく〈レアルに徹せんとする意欲〉といった言葉そのものによる作品志向を強く感じさせるところがあります。

A 林田紀音夫の作品が強い現実性を帯びているのは、その逼迫した現実の生活状況というものが大きく作用していたであろうということも当然ながら考えられるところであるのですが、この火渡周平の作品からの影響というものも、やはり小さなものではなかったと思われます。

B では、続いて『風蝕』の昭和24年から26年における作品を見てみましょう。

A この時期には〈竟にひとり月光胸を刺し通す〉〈葡萄くふ壁の影肺蝕まれ〉〈声の雲雀天に怺へてゐるを知る〉〈猫の仔を愛し屍室に隣りせり〉〈月明に遊びし迹もいまは消ゆ〉〈恋さへ憂しさくら花びら創りだす〉〈雨の絲買ひに行かねばアドルムなし〉〈雷鳴が渡りさびしき肋せり〉〈らんぷ吹き消す月光に溺れむと〉といった作品が見られます。

A やはりどの作品にも、重たいまでの現実感といったものが強く漂っているのが感じられますね。

B この時期は、昭和24年に肺結核となり6月に入院、そして、9月に退院し、昭和25年には日野草城の「青玄」に参加。昭和26年には、病気の予後のため大正区に移り住み、謄写版のガリ版にて生活の資を得ていたようです。

A 作品を見ると、まさしく窮乏生活のさ中にあり、生と死の境を彷徨しているといった雰囲気がありますね。生れたばかりの子猫を相手にしていても傍らに死の影を予感し、睡眠薬である「アドルム」の服用、そして肋骨があらわになるほどの痩躯というものがまざまざと現前するかのように思われるところがあります。

B では、続いて、昭和27年から31年の作品を見てみましょう。〈月になまめき自殺可能のレール走る〉〈金減りてしぐれに開く傘黒し〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈描かれし当の林檎は遺り得ず〉〈鏡裡の顔以上たり得ず木の葉髪〉〈いづれは死の枕妻寝し月明に〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈天の雪冥し何物にも触れず〉〈硝子にも映るおのれが不快なり〉〈溶接の地にこぼす火は忘れらる〉〈触れずとも硬し地上に錨錆び〉〈隅占めてうどんの箸を割損ず〉〈葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ〉〈死顔のなほ人に逢ひ葬られず〉〈寿司もくひ妻の得し金減り易し〉〈逃げ場なければ寝顔まで月がさす〉〈仏壇の金色ひらき寿司もてなす〉〈受身で生きて葡萄酒の底を干す〉〈珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉といった作品が見られます。

A この昭和27年には、下村槐太の「金剛」が廃刊となり、昭和28年には堀葦男、金子明彦とともに3人で「十七音詩」を創刊。また同じ年に「青玄」の第4回青玄賞を受賞することになりますが、やはり生活は貧窮を極めていたそうです。

B この時代に〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈隅占めてうどんの箸を割損ず〉〈葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ〉〈死顔のなほ人に逢ひ葬られず〉〈寿司もくひ妻の得し金減り易し〉〈逃げ場なければ寝顔まで月がさす〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉といった林田紀音夫の代表作といっていい句が生み出されたわけですね。

A 盟友であった金子明彦については、この昭和27年に作者としては、師に殉じるかたちとなり、作品からは生彩が消え失せてしまう結果となるわけですが、林田紀音夫の場合は、この時期にさらに代表作を生み出すこととなったわけですね。

B やはり、それには非常に切迫した状況といったものによる作用が大きく関与していたのかもしれませんね。明日をも知れない退っ引きならない状況に追い詰められ、そういったぎりぎりの状況から振り絞られた生身の肉声というものが、これらの作品であるのでしょう。

A これらの句を見ると、現実の絶対性とでもいうのでしょうか。そういったものが作品の内部に強く刻印されているのが、まざまざと感じられるところがありますね。

B 結局、究極のところ、林田紀音夫が表現しようしたもの、というよりも、表現せざるを得なかったであろうところのものは、いってみれば、無というものに取り巻かれた生命の絶望的なまでの儚さや危うさ、即ち、現実における生と死といった問題そのものに他ならないということになると思います。

A 確かに、これまでの〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈雲雀より高きものなく訣れけり〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈猫の仔を愛し屍室に隣りせり〉〈月明に遊びし迹もいまは消ゆ〉〈雨の絲買ひに行かねばアドルムなし〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈描かれし当の林檎は遺り得ず〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈天の雪冥し何物にも触れず〉〈溶接の地にこぼす火は忘れらる〉〈葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ〉〈死顔のなほ人に逢ひ葬られず〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉といった作品を見ると、そのようにしか思えないところがありますね。

B また、無から生じた生命という有限の存在、それらの一切が最後には無へ呑み込まれていくという動かし難い絶対的な事実というものは、やはり〈レアルに徹せんとする意欲〉というものを徹底的に追究してゆくならば、最終的に到達せざるを得ないテーマでもあると思います。

A それは、虚と実の両面により、この世界の実相へ深く肉迫しようとした下村槐太の姿勢にも共通するものがありそうですね。

B 林田紀音夫の〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉にしても、結局のところ、「鉛筆の遺書」であれ「鉛筆以外のもので書かれた遺書」であれ、「遺書を書く人物」であれ、「遺書を読む人物」であれ、すべては最終的には跡形もなく消失していってしまうということになります。

A 最後には、紛れもない現実として、一切が「虚無」へと収斂されていってしまうということでしょうか。

B 福田基さんは『大阪俳句史研究』2004年12号の「林田紀音夫 人と作品」において〈蠟燭の火は消えるまで熱い。雪は雪のままで熱くなることはない。雨は水であるが降っている間は雨である。座棺は屈葬しない限り棺桶に入らない。死が人間にやってくるとき、人間の可死的な部分は死ぬだろう。ではなぜ死者のために念佛があるのか。彼はそれらの正反に対する相剋に悩んでいたのは確かであった。〉と書いています。

A 現実そのものが持つ謎というか不可解さ、もしくは不条理さとでも言うのでしょうか、そういった正反の要素をも包含する現実の世界というものの実態そのものを強く意識せざるを得ない状況にあり、そして、そういった現実そのものの実相を手づかみで俳句形式に捉えることによって成立することとなったのが、この時代の林田紀音夫の作品ということになるのでしょう。

B まさしく〈裸の人間の作る詩〉そのものの姿形が、そのままリアルに封刻されているといっていいでしょうね。そして、そういったリアリズムの志向ゆえであるのか、おそらく生活の苦しさというものも強く関与しているのでしょうが、この時期以降から、林田紀音夫の作風は、だんだんと社会性俳句へと向かっていくようになってきます。

A 社会性俳句への傾斜については、時代の影響というものも小さくないと思われます。そして、それに伴い、このあたりの時期となると、ほとんど季語の使用が見られなくなってゆきます。

B そして、それに代わって増えて来るのは、無機質な「ドラム缶」や「錨」といった鋼鉄の素材ということになりますね。

A その昭和31年から32年の作品を見ると、「吹田操車場」と題された〈歩く他なし鉄路無限の操車場〉〈扁平な家も銹色吹操出て〉〈傍観者に貨車の重量次々消ゆ〉〈貨車も仲間暗き風雨を敵として〉といった作品や、〈銃口の深い暗さが僕らの夜空〉〈死の手のひらひらと河口の波重たし〉〈黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ〉〈画廊まで持込む傘の先鋭し〉〈下流まで家並うらぶれ其処へ帰る〉〈珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る〉といった句が見られるようになります。

B 社会性に加えて、やや口語的というか、定型からも逸脱するような句もあり、全体的に散文化の傾向が加わってくるようですね。

A 「吹田操車場」という作品は鈴木六林男の連作が有名ですが、林田紀音夫も同じテーマで句作を行っていたようです。

B 鈴木六林男も社会性俳句の担い手の1人でした。

A 昭和32年から昭和35年になると、そういった社会性や散文的な傾向というものは、ますます顕著になってきて〈ラーメン舌に熱し僕がこんなところに〉〈舌いちまいを大切に群衆のひとり〉〈特急に膝まげて風化の時間〉〈愛し傷つき風葬の手足をのばす〉〈寿司くう老婆に隣し妻に先立つか〉〈引廻されて草食獣の眼と似通う〉〈流失死体のひとつに僕をかぞえようか〉〈洗つた手から軍艦の錆よみがえる〉〈雲の近い日何もつかめぬ手をよごす〉〈渦のひとり汽車からの手が消えて〉〈肋を彫つて火の玉の硝子吹く〉〈音速飛行の朱を背景に長い裁判〉〈シグナル赤ばかり鉄の軍靴が通る〉〈鋼塊クレーン錆びた胃の腑を抽出する〉〈鳥葬にかなう寝ざまの夜をもつ〉〈狙撃兵という死語の下から巨大な爆発〉〈死のスピードが描く赤い風紋〉〈乱反射するビラ頭の中の爆心〉といった作品が見られます。

B これらの作品を見ると、随分と作風も変化したようですね。「渦のひとり」や「音速飛行」「鋼塊クレーン」「狙撃兵」「乱反射するビラ」などの句については、それこそ、もはや「前衛俳句」といっても差し支えないでしょう。

A さて、ここまで『風蝕』の作品について見てきました。

B とりあえずこの句集で林田紀音夫という作者における主要な部分については、そのおおよその部分を概観することができるのではないかという気がします。

A そうですね。戦後の槐太門の時代と無季俳句の実践、そして、そこから社会性俳句、前衛俳句へと変遷に至る、その昭和22年から昭和35年までの約13年の歳月における作品展開が、この句集には収められています。

B そして、この『風蝕』1巻を貫いているのは、やはり〈レアルに徹せん〉とする志向そのものである、ということになると思います。

A その〈レアル〉についてですが、人が現実というものを認識するのは、単純に考えて、五感によって認識するものである、ということになるはずです。

B 当然、そういうことになるでしょうね。そして、五感というと、具体的には、視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚ということになります。

A この『風蝕』では、その五感のうちの、どちらかというと、目による視覚、そして手による触覚、このふたつの要素が強く働いているのではないか、という気がしました。

B 目である視覚の比重の高い作品というと〈月光のをはるところに女の手〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈葡萄くふ壁の影肺蝕まれ〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈硝子にも映るおのれが不快なり〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉〈触れずとも硬し地上に錨錆び〉〈逃げ場なければ寝顔まで月がさす〉〈仏壇の金色ひらき寿司もてなす〉〈銃口の深い暗さが僕らの夜空〉〈夜の運河覗けば明日のごと暗し〉〈黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ〉あたりということになるでしょうか。

A また、手による触覚に関係のある作品としては、〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈竹伐りしあと一切がわれに帰す〉〈月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ〉〈竟にひとり月光胸を刺し通す〉〈猫の仔を愛し屍室に隣りせり〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈隅占めてうどんの箸を割損ず〉〈寿司もくひ妻の得し金減り易し〉〈珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈ラーメン舌に熱し僕がこんなところに〉〈舌いちまいを大切に群衆のひとり〉〈洗つた手から軍艦の錆よみがえる〉といっていいでしょうか。

B これらの触覚による句については「寿司」「ラーメン」「珈琲」といった「舌」の感覚による句も取り上げておきましたが、触覚において大きな役割を果たすのは、やはり「手」の存在ということになると思います。

A 林田紀音夫の作品を注意深く読むと、驚くほど「手」の存在が登場する作品が多いことに驚くはずです。

B 代表作である〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ〉〈洗つた手から軍艦の錆よみがえる〉〈幽界へ氷片のこすウイスキー〉といった作品にも「手」の存在というものを窺うことができますね。

A そういえば、林田紀音夫の生涯というものは、それこそずっと「手」の要素が関与していたようなところがあります。

B 10代のころに、官吏であった父親から「これからは技術の時代だ」といわれ、職工学校に入学することになり、戦後は孔版印刷、そして、職を得た昭和32年からは、塵芥焼却炉の設計を行っていたとのことです。

A やはり、ずっと「手」の影がまつわりついているような印象がありますね。ともあれ、この、眼による視覚と、手による触覚の双方が、『風蝕』の時代における林田紀音夫の作品において、大きく関与していたと見ることが可能であると思われます。

B さて、続いて第2句集である『幻燈』の時代の作品について見てゆきたいと思います。

A この『幻燈』は昭和50年に刊行されたもので、昭和36年から昭和47年までの作品が収録されています。

B まず、昭和36年から39年までの句を見ると〈風の荒れる方向へ歩き出す弔意〉〈少女が黒いオルガンであつた日の声を探す〉〈さくらの下を過ぎて深夜に齢(よわい)足す〉〈この身よりひろがつて海となる流失〉〈電話がつなぐ青い五月の気化する妻〉〈青い蟹となるぼくら爪がないために〉〈映画の死者にまた葬送の楽おなじ〉〈星はなくパン買つて妻現われる〉〈騎馬の青年帯電して夕空を負う〉〈五月なかばの鉛の空母しんと浮く〉〈夕月細るその極限の罪を負う〉〈いつか星ぞら屈葬の他は許されず〉〈滞る血のかなしみを硝子に頒つ〉〈足音の昼夜ひびいて男死ぬ〉〈傘を支えて黄にも赤にもはばたく児童〉といった作品の存在が確認できます。

A なんというか、以前の作品と比べると、全体的にどこかしら「現代詩」的な雰囲気がありますね。もっといえば、やや「観念的」であるというか。

B そうですね。一応、先程に見た「前衛俳句」の流れにある作品ということになると思いますが、「少女が黒いオルガン」「青い五月の気化する妻」「青い蟹」「葬送の楽」「星はなくパン」「騎馬の青年」「鉛の空母」「極限の罪」「いつか星ぞら」ですから、暗鬱な中にも一種の華やかな印象といったものが感じられるところがあります。

A それゆえに、重い内容を持つ作品であっても、さほど陰鬱さばかりが感じられるというわけではないようなところがありますね。全体的に、なにかしら作品主義的な雰囲気が漂っているというか。

B 昭和36年から39年ですから、この時点で、既に林田紀音夫は昭和32年に職を得、貧窮からは脱け出しており、また、日本社会全体が豊かになりつつある時代です。

A そういった時代状況が、作品の上にも反映していると見ていいのかもしれませんね。

B では、続いて、昭和39年から42年の作品を見てゆきましょう。〈レールをわたる女たちそのひとりの生誕〉〈月夜経て鉄の匂いの乳母車〉〈父の梢に涙のみどりごがそよぐ〉〈プールサイドを日暮れのひとり濡らして去る〉〈乳房をつつむ薄絹夢の軍楽隊〉〈ねむる子の手に暗涙の鈴冷える〉〈風のみどりがしんと弔うおくれた走者〉〈夕べこどもの声むらさきに走り抜ける〉〈死者の匂いのくらがり水を飲みに立つ〉〈人混みにまぎれ時計の内部見る〉〈屍蛹に近い身を月光に横たえる〉といった作品が確認できます。

A この昭和39年に、林田紀音夫には長女が生まれます。

B 林田紀音夫が40歳あたりの頃に生まれた、最初の子供ということになりますね。

A その事実による影響が、作品の上にそのまま反映しています。

B 「レールをわたる女たち」「乳母車」「涙のみどりご」「乳房をつつむ薄絹」「ねむる子の手に暗涙の鈴」などといった作品ということになりますね。

A 昭和42年から45年の作品を見てみても〈月夜疲れて石鹸の泡生む手〉〈ポプラから暮れ父へ来る火の幼女〉などといった長女を主題とした句が見られます。

B 昭和45年から47年には〈生きのびて海洋の青荒れる視界〉〈死者もまじえて雨傘の溢れる都市〉〈傘の下から象につながる鎖見る〉〈幽界へ氷片のこすウイスキー〉〈髪に白加わる天のさくらに触れ〉〈羽化の幼女へ新月鉄の塔に出る〉〈風の中から水子の声そのすべて泣く〉〈鳥居幾重にもマラソンのよろめく走者〉〈梢の幼女が風となる吹矢溜めながら〉〈副葬の赤鉛筆を遺し寝る〉〈夕空のポプラが騒ぐ神隠し〉といった作品があります。

A このあたりとなると長女の俳句のみならず、徐々に「異界」ともいうべき要素が作品に混入してくるようです。

B 「死者もまじえて雨傘」「幽界へ氷片のこす」「風の中から水子の声」「鳥居幾重にも」「副葬の赤鉛筆」「ポプラが騒ぐ神隠し」ですから、確かに「現実」のみならず「虚」の要素が強くなってくる傾向にあることが確認できるようですね。

A これまでの〈レアルに徹せんとする意欲〉というものが、社会の変動や職を得たことにより衣食住などの生活における不自由が軽減し、以前のようにそれほど真剣に現実そのものを直視しなくても済むようになり、現実の持つ脅威そのものが後方へと退いてゆくことによって作品そのものが変化するようになった、ということになるようですね。

B 切迫した現実というものは、この時点ではすでに過去のものとなったということであるのでしょう。そして、やはり長女の誕生ということの影響も少なくないと思われます。

A また、それだけでなく〈髪に白加わる天のさくらに触れ〉の句に見られる「老い」の意識というものも関与している可能性が考えられそうです。

B ともあれ、もはや、ここにいたって若い頃の作品に見られた、それこそ身を切られるような強烈なまでのリアリズムの存在といったものは、ほぼその影をひそめることになったといっていいようですね。

A 坪内稔典さんが、この時期の俳句の状況について『渦』昭和56年6・7月号の「若い俳句 赤尾兜子」という文章において〈当時、〈前衛俳句〉が盛行したというような時代的興奮があり、それがなによりも大きな連帯意識になりえていた。ところが、そういう時代の興奮は去り、そして、日本人の生活が表面的に安定し現状への不満が小さくなるという時代を迎える。このとき、俳句を支える赤尾の連帯意識は、俳句の死へ向かって求められるのではなく、まったくその逆に、俳句の存続のために求められるようになった。もちろん、こうした事情は赤尾一人に生じたのではない。戦後の俳句を担ったほとんどの俳人に同様のことが生じ、その結果、俳壇はものの見事に結社化した。〉と書いています。

B この時期というのは、俳壇全体が伝統回帰の方向へとだんだんとその流れが強くなる時代であったということになるようですね。

A では、続いて『幻燈』以後の作品について見てゆきましょう。

B 昭和48年には〈薄眼に見え幽界の松少しばかり〉〈竹林の夕べさざめく死霊たち〉〈葱畠過ぎる軍旗のまぼろし追い〉、昭和49年には〈よみがえるガラスの牢の雨の糸〉〈雑木林を過ぎる死人の数に入り〉〈幾人か過ぎ傘の骨手に残る〉〈形代の白にひとしく波がしら〉〈火葬の形に寝て風の声すぎる〉〈風の声してまなうらを死者過ぎる〉〈鍵盤に濃く月明の手がかかる〉〈白髪を加え月夜の坂降りる〉〈足音の夜の何処か水子の声〉〈風葬の鍵穴をいつ通り抜ける〉といった作品が見られます。

A 作風としては全体的にペシミスティックな印象がありますが、どちらかというと「虚」ともいうべき「異界」を髣髴とさせる要素が、さらに強まってきているところがあるようですね。

B そして、この頃から、だんだんと作品の表現が平明になっていく傾向が見られるようになります。

A 確かに前衛俳句時代における晦渋な表現と比べると、全体的に理解しやすい内容になってきているようですね。

B 昭和50年には〈青空を或るとき汚し万国旗〉〈戦死者も玉砂利を踏む音の中〉〈雪中の声を追つての巡礼か〉〈天辺に雪のさざめき樒立つ〉〈尾燈はるか氷のようにレールのび〉〈てのひらに天道虫の昼ひとり〉〈死者のため夕日の裾に椅子のこる〉、昭和51年には〈胸に手を組む先立つ者の昔から〉〈おくれてくる死者にひとつの椅子残す〉〈死者のため夕日の裾に椅子のこる〉〈まつすぐに火種の少女雨をくる〉〈踝を水に浸して怖い空〉〈戦死者のひとり訪れ竹騒ぐ〉〈鬼灯に十二神将暗く佇つ〉、昭和52年には〈戦争へ揺れる西空のアドバルン〉〈椅子ひとつ空いて身近な死者ひとり〉〈鉄階にマリオネットの雨の糸〉といった句が見られます。

A やはり、どの句も、割合理解しやすい内容になっているように思われます。

B 林田紀音夫は、この時期に、第3句集の草稿を用意していたそうで、福田基さんの「林田紀音夫の俤」(「俳句界」2008年6月号)によると、林田紀音夫自身が〈「この句集がぼくの無季作家の墓碑銘となるだろう。赤尾兜子や橋間石のように変身はうまくないけれど、当第3句集によって、今までの無季にこだわることもなく、思いつくままに句作をしていきたい。」〉と語っていたそうです。

A やはり、先程にも見た通り、時代は変わり、多くの俳人のスタンスというものも変化する結果となったようですね。結局、この句集については、出版元の湯川書房が倒産し、その後も出版されることはなかったそうです。

B 昭和53年の作品をみると〈新聞に顔埋めて死ぬ男たち〉〈手がのびて幼児を攫う地の薄暮〉〈死の際の眼鏡ひらたくたたまれる〉〈石神の崩えて見おろす死びと花〉〈合羽着て黒くかなしく男立つ〉〈萩に触れ身の歳月を風とする〉〈胸の手の未明の鷲か影過ぎる〉、昭和54年には〈紫陽花の毬ほどに死の色を刷く〉〈行く水に加わる傘の幾雫〉〈星醒めて葬戻りの松騒ぐ〉〈河べりの影絵のひとも風の二月〉〈暫くは草木に声の雨の粒〉〈月光に苦界の傘を持ち歩く〉〈星の夜の蓬髪の影見失う〉といった作品が見られます。

A やはり、少し季語の使用の頻度が増えてきているように思われますね。

B また、このあたりからしばしば仏教的な用語が見られる傾向が強くなってきます。

A 昭和55年には〈幾人か風の回向の野のひかり〉〈蟻地獄俄かに人の影を呼び〉〈日は西に念珠いつしか手より消え〉、昭和56年には〈海からの位牌に風の声まじる〉〈針山に針の無慙な夜の刻〉〈えんどうを剝く指遠く青空より〉〈誰彼の歿後を急ぐ青あらし〉、昭和57年には〈濃い夜空仰臥を終の形とし〉〈月光を追う身となつて羽づくろい〉〈月青く昨日につづく糸車〉といった句が見られます。

B 「回向」「念珠」といった言葉、また、ここに取り上げた作品以外の作品を見ても「和讃」など、あきらかに仏教的な言葉が多用されるようになります。

A この時点での林田紀音夫の年齢というものは、ほぼ還暦になっていますから、やはり、これには加齢による晩年意識というものが大きく作用しているということになるのでしょうね。

B 昭和60年には〈ぶらんこの天へ出て行く音しきり〉〈胸の手のいつにはじまる明るい午睡〉〈風に向つてあるくいつかは消えるため〉、昭和61年には〈夕空の濃い邂逅を待つばかり〉〈粉雪降る地のたそがれを濃く溜めて〉、昭和62年には〈鍵穴のひとつ月夜に遺し寝る〉〈あたたかな冬木と思う歩み寄り〉〈海が見えいる八月の風のひとり〉〈茫として松風やがて秋の風〉、昭和63年には〈雨の糸見えていつまで女坂〉〈鍵かけて雲の流れる方へ行く〉〈いつぞやの錻力を叩く冬の景〉〈珈琲を卓に日永の匙沈む〉といった句が見られます。

A 昭和62年には、住居を芦屋に定めたそうです。これらの作品を読むと、そういった生活の在り方に伴う余裕というか、安定したゆとりのある生活の様子そのものが、よく伝わってくるようなところがありますね。

B 「あたたかな冬木」「海が見えいる」「珈琲を卓に」ですから、大変落ち着いた雰囲気といったものが感じられますね。まるで若い頃の作品とは、別人の作のようです。

A 平成元年には〈たそがれの手にまざまざと凧の糸〉、平成2年には〈手袋の片手落とした夜ひろがる〉〈顔消して来る幾人か秋の暮〉〈夕月の野へ頭から家を出る〉〈夕月に木槿の騒ぐひとところ〉、平成3年には〈三日月に何時の嘆きかよみがえる〉〈樹々はみどり風にふくらむシャツを着て〉〈仏壇を閉じて来る夜は雨の中〉〈風過ぎてゆく月明の三輪車〉〈いつまでも見えて枯野を急ぐ犬〉、平成4年には〈晩節の行くさきざきの夕三日月〉〈テトラポッド尽きて無惨に凧あがる〉〈菜の花の道の途中の岐れ道〉〈突然のトンネル月の出を消して〉〈薔薇を描く絵具の色をふんだんに〉〈欄干に氷菓を舐めて異邦人〉といった句が見られます。

B どの句も、割合普通の句というか、さほど瑕瑾も認められない作品といった感じです。可もなく不可もない出来であるというか。

A こういった晩年における作品には、どちらかというと「風」にまつわるモチーフの句が多く見られるように思われます。

B 先程の作品を見ても「風の回向」「海からの位牌に風の声」「青あらし」「風に向つてあるく」「八月の風のひとり」「松風やがて秋の風」といった表現があり、今回の作にも「凧の糸」「風にふくらむシャツ」「風過ぎてゆく」「無惨に凧あがる」といった表現が見られますね。

A これまでの作品を見てみると、この「風」のモチーフによる作品は、昭和39年の長女が生まれた時期あたりから、その数が増えてくる傾向にあるようです。

B 平成5年には〈眼帯の中の寂しい鳥を飼う〉〈裸木となり雨空へ手をあげる〉〈生傷の手をひらひらと風の中〉〈走り出す少年もいて酸性雨〉〈茫々と夜の雨いつか死後の雨〉〈鶏頭の日に日に燃えてたちあがる〉〈いずれ鬼籍の名をかりそめの紙へ書く〉、平成6年には〈小鳥来るその空の藍雫して〉〈テロの暗さの濃密な夜へ足運ぶ〉〈機首あげて飛ぶ絶望の夕日の国〉といった句が見られます。

A これらの句を見ると、普通の暮らしの作品のみでなく、やや重い内容の作も存在していたということが分かりますね。晩年の林田紀音夫の作品世界には、現実そのものの作品やフィクションともいうべき作品が入り混じって展開されているようなところがあるようです。

B 平成7年には、阪神淡路大震災に被災し、当時の作として〈朝からの雨の遥かを給水車〉〈雨の木が立ち廃屋のまざまざと〉〈泥土を着て佛壇も瓦礫の中〉〈声落とす鴉に瓦礫泥まみれ〉〈仏壇も瓦礫の類い激震後〉〈倒壊の家屋生木を裂く部分〉〈遊弋の艦船錆びて都市の沖〉〈残骸としてクレーンの爪傷む〉〈激震の家屋生木を裂くに似て〉といった作品が見られます。

A なかなか迫力のある作品が並んでいますね。震災ゆえか、現実の相というものが剥き出しのまま表現されているといった趣きで、凄みが感じられるところがあります。

B また、これらの作品の多くが無季俳句で、まるで、かつての作風が一時的に甦ったかのような印象があります。

A 翌年の平成9年になると〈巡礼の鈴の幾夜か夢寐に聞く〉〈順番が来ている念珠幾重にも〉〈何となく老い先見えて数珠一重〉といった句を最後に、自ら句作を中止してしまいます。

B そして、平成10年に74歳で亡くなるわけですね。

A さて、林田紀音夫の作品について見てきました。

B 林田紀音夫という作者は、思っていた以上に多作であったようで、今回『林田紀音夫全句集』を通読したのですが、ここに収録されている総句数はおよそ1万句といったところになります。

A 正直、その作品数の多さゆえに、全ての作品を読み通すのは、なかなか骨が折れる作業でしたが、それよりも、こういった資料を徴収し、編集、出版する方の苦労というものは、もっと大変なものがあったであろうということは容易に想像がつきますね。

B この全句集のために宇多喜代子さんと福田基さんが払われた尽力の膨大さといったものについて思いを巡らせると、正直頭の下がる思いがします。

A また、作品数だけでなく、もうひとつ意外に思ったことは、林田紀音夫という作者は、時代の変化による影響というものを割合強く受けやすい傾向にあった作者なのではないかという気がしたことです。

B そうですね。戦中は新興俳句、戦後直ぐには無季俳句に影響を受け、その後の昭和20年代の終りから昭和30年代にかけては、社会性俳句からの影響、そして、その後の前衛俳句へと向かい、さらに、その前衛俳句の流れが伝統的な有季定型へと回帰してゆく過程においてまで、その軌を一にしています。

A こうみると、戦後の俳句の歴史をそのまま生きた俳人というのが林田紀音夫であるということができそうですね。

B そして、それは、やはりリアリズムの志向により、時代の流れや風潮というものを常に見定め、意識をせざるを得なかったがゆえの当然の帰結でもあった、という風に考えることも可能ではないかと思われます。

A ともあれ、その作品のいくつかは、戦後という時代に、まるで楔のように打ち込まれ、現在においても、なお、生々しいまでの痕跡を深く刻みつけたまま、その姿形を以って屹立し続けているように思えました。


選句余滴

林田紀音夫


憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな

人待てる椅子やはらかに暮春かな

人妻の乳房のむかし天の川

風の中唾ためて貨車見すごせる

洟拭きしあと天国を希ひけり

青空のけふあり昨日菊棄てし

竹伐りしあと一切がわれに帰す

月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ

血を吐くにいたらむ麺麭を焦しける

声の雲雀天に怺へてゐるを知る

猫の仔を愛し屍室に隣りせり

月明に遊びし迹もいまは消ゆ

恋さへ憂しさくら花びら創りだす

雨の絲買ひに行かねばアドルムなし

雷鳴が渡りさびしき肋せり

らんぷ吹き消す月光に溺れむと

月になまめき自殺可能のレール走る

柿の色悪しき位牌に見下され

天の雪冥し何物にも触れず

隅占めてうどんの箸を割損ず

寿司もくひ妻の得し金減り易し

逃げ場なければ寝顔まで月がさす

仏壇の金色ひらき寿司もてなす

受身で生きて葡萄酒の底を干す

珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る

銃口の深い暗さが僕らの夜空

舌いちまいを大切に群衆のひとり

愛し傷つき風葬の手足をのばす

寿司くう老婆に隣し妻に先立つか

引廻されて草食獣の眼と似通う

流失死体のひとつに僕をかぞえようか

馬の肢(あし)人の足ゆき河を見る

玉虫を見てよろこびとするに足る

久しきに亘り野分の中歩む

女と生れざりし月下の歩みかな

道ばたの何する火かと訊ね得ず

身辺の夜も紙風船ころがり

汽車に乗り女の許へゆくごとし

降る雪の徐々に地上の形なす

氷片がコップに残り西日の卓

死は易くして水満たす洗面器

月になまめき自殺可能のレール走る

金減りてしぐれに開く傘黒し

月に染むさむかぜに頬殺がれけり

煙突にのぞかれて日々死にきれず

ドラム罐叩きて悪き音愉しむ

葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ

死顔のなほ人に逢ひ葬られず

画廊まで持込む傘の先鋭し

下流まで家並うらぶれ其処へ帰る

硝子に透くわれを僅かに捉へたり

雲の近い日何もつかめぬ手をよごす

肋を彫つて火の玉の硝子吹く

シグナル赤ばかり鉄の軍靴が通る

鳥葬にかなう寝ざまの夜をもつ

狙撃兵という死語の下から巨大な爆発

死のスピードが描く赤い風紋

都市の沈降ライトの金に打抜かれ

乱反射するビラ頭の中の爆心

風の荒れる方向へ歩き出す弔意

少女が黒いオルガンであつた日の声を探す

この身よりひろがつて海となる流失

電話がつなぐ青い五月の気化する妻

青い蟹となるぼくら爪がないために

映画の死者にまた葬送の楽おなじ

星はなくパン買つて妻現われる

騎馬の青年帯電して夕空を負う

五月なかばの鉛の空母しんと浮く

夕月細るその極限の罪を負う

足音の昼夜ひびいて男死ぬ

レールをわたる女たちそのひとりの生誕

月夜経て鉄の匂いの乳母車

父の梢に涙のみどりごがそよぐ

プールサイドを日暮れのひとり濡らして去る

乳房をつつむ薄絹夢の軍楽隊

ねむる子の手に暗涙の鈴冷える

火のガラス吹く瞳孔にけものを飼い

風のみどりがしんと弔うおくれた走者

月光に髪膚の痛み槐太死す

夕べこどもの声むらさきに走り抜ける

死者の匂いのくらがり水を飲みに立つ

底のウイスキー鳥類は黒くはばたき

月夜疲れて石鹸の泡生む手

ポプラから暮れ父へ来る火の幼女

遠くから来る鋼鉄のひびきの死者

鳥居幾重にもマラソンのよろめく走者

生きのびて海洋の青荒れる視界

死者もまじえて雨傘の溢れる都市

いつか消されるぶらんこの揺れ止まり

傘の下から象につながる鎖見る

消えた映画の無名の死体椅子を立つ

むこうから来る埋葬の鉛の手

残像の少女の原色いつ失う

緻密な暗緑山村を発つ青年に

砲口は眼窩の暗部またもパレード

階段に死体の通る幅を許す

掌中にブランデー溜めいずこも檻

鉄橋に鉄の機関車全力ひびき

秋風の畳の声よ亡父が歩き

風が地の声となる霊柩車現われ

脱ぎすてたシャツの形の生かなしむ

傘を支えて黄にも赤にもはばたく児童

川波に夕日ちりばめ弔う都市

人混みにまぎれ時計の内部見る

屍蛹に近い身を月光に横たえる

時計の中に棲み珈琲の壁に凭る

新聞の乾いた羽音河を越す

液化の日暮れ死後も吊皮の手があり

くらがりの戦火に遠い男立つ

丘に人現れ空のむらさきに死ぬ

月光の跡形もない髪憐む

三日月を眼に彫り暗い身を支える

薄氷の遠くを影の砲車曳く

火のガラス吹きくらがりの眼を燃やす

眼底に暗黒の杉猟銃照り

遠のく日傘山肌赤く削られて

月明り障子の影に軍馬を呼ぶ

月明の手がはかなくてうしろに組む

薄くひらたく寝につくテロの暗さの夜

水銀の都市暮れ白い手が游ぐ

髪に白加わる天のさくらに触れ

羽化の幼女へ新月鉄の塔に出る

風の巷の義足はるかな海から還り

切株に遠い昔の日暮れ見る

影なした人立ちあがり鉄のこだま

三角の次の三角折り鶴生む

副葬の赤鉛筆を遺し寝る

月光を身に投錨のねむり誘う

池に濃い夕ぐれ少女たち翔び去り

どんぐりの宙の青摘む風の中

薄眼に見え幽界の松少しばかり

野の男たち火を焚いて滅びゆく

竹林の夕べさざめく死霊たち

葱畠過ぎる軍旗のまぼろし追い

雑木林を過ぎる死人の数に入り

幾人か過ぎ傘の骨手に残る

形代の白にひとしく波がしら

火葬の形に寝て風の声すぎる

風の声してまなうらを死者過ぎる

白髪を加え月夜の坂降りる

シグナルの青の七月夜に極まる

風葬の鍵穴をいつ通り抜ける

青空を或るとき汚し万国旗

天辺に雪のさざめき樒立つ

尾燈はるか氷のようにレールのび

てのひらに天道虫の昼ひとり

母の手が出て線香に火を移す

死者のため夕日の裾に椅子のこる

胸に手を組む先立つ者の昔から

おくれてくる死者にひとつの椅子残す

まつすぐに火種の少女雨をくる

踝を水に浸して怖い空

雨傘の巷に溢れ霊柩車

戦死者のひとり訪れ竹騒ぐ

鬼灯に十二神将暗く佇つ

雨流す仏は石に刻まれて

戦争へ揺れる西空のアドバルン

鉄階にマリオネットの雨の糸

新聞に顔埋めて死ぬ男たち

手がのびて幼児を攫う地の薄暮

死の際の眼鏡ひらたくたたまれる

石神の崩えて見おろす死びと花

合羽着て黒くかなしく男立つ

残された時間金魚の水替える

萩に触れ身の歳月を風とする

胸の手の未明の鷲か影過ぎる

紫陽花の毬ほどに死の色を刷く

河べりの影絵のひとも風の二月

月光に苦界の傘を持ち歩く

星の夜の蓬髪の影見失う

幾人か風の回向の野のひかり

針山に針の無慙な夜の刻

えんどうを剝く指遠く青空より

誰彼の歿後を急ぐ青あらし

月光を追う身となつて羽づくろい

月青く昨日につづく糸車

天上へ靴音のこす男たち

コスモスの揺れ誰の手かまた風か

椅子ひとつ夕日の中に取り残す

ぶらんこの天へ出て行く音しきり

月明についのひとりの風の声

胸の手のいつにはじまる明るい午睡

風に向つてあるくいつかは消えるため

風の巷を行き一片の雲に似る

夕空の濃い邂逅を待つばかり

鍵穴のひとつ月夜に遺し寝る

木の葉降る音のいつよりいつまでか

あたたかな冬木と思う歩み寄り

海が見えいる八月の風のひとり

茫として松風やがて秋の風

雨の糸見えていつまで女坂

鍵かけて雲の流れる方へ行く

いつぞやの錻力を叩く冬の景

珈琲を卓に日永の匙沈む

手袋の片手落とした夜ひろがる

顔消して来る幾人か秋の暮

夕月の野へ頭から家を出る

三日月に何時の嘆きかよみがえる

樹々はみどり風にふくらむシャツを着て

風過ぎてゆく月明の三輪車

いつまでも見えて枯野を急ぐ犬

晩節の行くさきざきの夕三日月

テトラポッド尽きて無惨に凧あがる

菜の花の道の途中の岐れ道

突然のトンネル月の出を消して

薔薇を描く絵具の色をふんだんに

欄干に氷菓を舐めて異邦人

眼帯の中の寂しい鳥を飼う

裸木となり雨空へ手をあげる

走り出す少年もいて酸性雨

茫々と夜の雨いつか死後の雨

鶏頭の日に日に燃えてたちあがる

いずれ鬼籍の名をかりそめの紙へ書く

小鳥来るその空の藍雫して

テロの暗さの濃密な夜へ足運ぶ

機首あげて飛ぶ絶望の夕日の国

夕虹を刷く酸性雨通り過ぎ

風鈴に風のこる夜の亡き友よ

形代の流れに沿つて家並あり

春そこに丸に四角に水溜り

発光のさくら青空限りなく

氷片のコップに誰の声か待つ

泥土を着て佛壇も瓦礫の中

声落とす鴉に瓦礫泥まみれ

仏壇も瓦礫の類い激震後

倒壊の家屋生木を裂く部分

遊弋の艦船錆びて都市の沖

巡礼の鈴の幾夜か夢寐に聞く

順番が来ている念珠幾重にも

何となく老い先見えて数珠一重



俳人の言葉

ぼくは『林田紀音夫全句集』を編纂しつつ彼の無季作家として名をほしいままにして来たその実績を毀すのではないかと思ったことはしばしばであった。けれども、親族や弟妹のために、彼の句作の真実を網羅したつもりである。彼のイメージを毀したとする批判は、ぼくが一身に受けとめよう。と同時に思うことは、戦争とか地震とか、何か歴史的なナンセンスの時代に無季や反抗や抵抗がはびこり、歴史の流れが、それらを稀釈しているということである。彼の初期のペシミスティックな作品も真実なら、彼にゆとりのできたころの作品も、これまた真実である。

福田基 「林田紀音夫の俤 雑感風に」より 「俳句界」(文学の森 2008年6月号)

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